An Affair Markovic


 あまり触れたくないことだが、ドロンを語るとき、あまりにも有名なこの事件に触れぬわけにはいかない。以下に列挙する内容は事件当時の内外のジャーナリスト諸氏の情報の単なる羅列にすぎず、ドロン氏やその関係者に対する中傷でもなければ誹謗でもなく、ましてや悪意などあるはずもないことだけは断っておきたい。

事は1968年10月1日、ステェファン.マルコビッチ ( 31歳 ) というユーゴスラビア人の射殺死体が、ヴェルサイユ近くのエランクールの公衆ゴミ捨て場で念入りに縛った大きな麻袋の中から発見されたことから始まる。彼 ( ステェファン ) は1964年から1968年まで、ドロンとナタリーの第一ボディーガード兼召使兼ドロンのスタンド.インで、68年1月までパリ8区メッシーヌ通りのドロン邸に二部屋をあてがわれ、月2千フランの小遣いをもらっていた。(ここで注意すべき点はステェファンがドロンとナタリーが結婚した年に召使になっていることである。一説にはこの男はナタリーがドロンと結婚する前から彼女と愛人関係にあったといわれ、ナタリーをドロンに紹介したのも彼だという)彼は死体で発見される以前の9月22日から蒸発していたらしい。何者かに消されたマルコビッチは生前、ユーゴに住む彼の兄 ( 海軍士官のアレクサンダー.マルコビッチ ) に次の内容の手紙 ( 9月17日付け ) を送っていることが兄の証言で判明した。 「 もし自分の身に異変が起こったら、ドロンとナタリー、そしてドロンの親しい友人フランソワ.マルカントニーに事情を聞いてくれ 」。( マルカントニーは暗黒街の顔役で、マルセイユなどでは名の通ったヤクザだった。) この手紙は警察の手に入り、事件は当然、警察の注目をあびるようになった。

ところで、このマルコビッチ殺害事件に先立つ二年前の1966年1月31日 ( ドロンが 「 テキサス 」 の撮影中 )、ドロンの元ボディーガードだったユーゴ人、ミロス.ミロシェヴィッチがハリウッドで、俳優のミッキー.ルーニーの五番目の妻バーバラ ( 彼女はミロシェヴィッチの情婦だったという ) とともに変死している。当初この事件は情死事件として処理されたが後の調査によって痴情問題とは関係なく麻薬密売の犠牲となり消されたことが分かった。ところが、ドロンは殺されたミロスは友人である故、彼の遺体をユーゴへ送還する費用 ( 100万フラン ) を支払った。ミロシェヴィッチの実妹ゾリカ ( 当時ローマでカバーガールをしていた ) は、兄は 「 マルコビッチに殺された 」 と主張した。マルコビッチは兄を殺して、ドロンの第一ボディーガードの地位に就こうとしたというのが彼女の説であるが、事実、マルコビッチは、この後、ドロンの第一ボディーガードの地位を獲得した。

さて、マルコビッチ事件に話を戻すが、警察の捜査が進むにつれて、マルコビッチという男がエトワールに近いポール.ヴァレリー街 ( パリ16区 ) にある高級売春宿 ( マダム.クロードの店、一説にはゲイバーともいわれる ) を経営し、そこでしばしば、政界の要人や芸能界の有名人を集めて、秘密の乱交パーティーを催し、その現場を写真に撮るなどして、それをネタ ( レラック警視率いる犯罪捜査課は、マルコビッチが生前大事に持ち歩いていたといわれる一冊の住所録を入手した。その住所録には、フランスやユーゴの政界の要人や芸能界の有名人の名前が記入されていた。) に客をゆすっていたことが判明した。ところが顧客の中に元首相で次期大統領候補のポンピドー氏とその夫人の名前が浮かんできた時、政界の圧力だろうが、捜査はいったん打ち切りのかたちとなった。

一方、事件直後の10月9日、サン.トロペで 「 太陽が知っている 」 のロケ中だったドロンは地元警察の刑事たちの尋問を受け、メッシーヌ街のドロン邸では家宅捜査が行われた。翌1969年1月16日、マルカントニーが殺人の共犯で逮捕され告訴された。 ( 69年12月3日に証拠不十分で保釈された。) 1月23日、ドロン夫妻とその他14名が重要参考人として召喚された。そのうち4人がドロンの仲間すなわち、マネージャーのボーム、運転手のマルセル.ガスパリー二、カメラマンのジャン.ピエール.ボノット、プロデューサーのラフィーニであった。ドロンは風邪で39度の高熱を訴えながらも召喚に応じ、35時間も拘置された。ナタリーはローマで ”姉妹” の撮影中であった為、召喚に応じなかった。 ( ドロンはその後3月12日にも召喚されている ) この事件を担当したルネ.パタール予審判事によれば、マルカントニーの逮捕とアラン.ドロン召喚の理由は、特捜班が調べた結果判明した次の三つの事実を明らかにするためであった。すなわち (1) マルコビッチが生前にベオグラードの兄に送った手紙の内容を明らかにする事。ドロンの付き人をしていたウロシュ.ミリチェヴィッチとリウボミール.ミロシェヴィッチの証言 ( マルコビッチが兄宛てに書いた9月22日の手紙の内容は、68年8月にドロンに解雇されたマルコビッチは復讐のためにドロンの秘蔵の武器のコレクションを盗みだし、それをカタに大金をせびり取る計画を企てたが、相棒のマルカントニーに裏切られて失敗した。) を再確認すること。 (2) ウロシュ.ミリチェヴィッチの証言によれば、ウロシュは、1968年9月22日 ( 日 ) の夕方、マルカントニーがマルコビッチとともに、ドロン邸を出て、一緒に車に乗るところを目撃しているという。これはマルコビッチが少なくとも生きていた最後の日であり、その後、死体が発見される10月1日までのマルカントニーの足取りとアリバイの有無の確認。 (3) マルカントニーは9月25日、すなわちマルコビッチが蒸発した日から三日目に、南仏のツーロンへ旅立っているが、その旅行の目的の確認。  訊問の結果、(1)の点につては、マルカントニーもドロンも全く心当たりがないことを再度明言。 (2) の点については、マルカントニーは、9月21日の夕方から23日までの足取りを明快に説明し、アリバイを成立させた。すなわち、マルカントニーは、21日、友人から車を借りて、週末をグザンヴィル ( パリ郊外 ) の別荘で過ごすために出発した。そして、23日までそこを動かなかった。その間の証人として、彼は、パンを買いに行った時のパン屋の主人と、ツーロン及びパリから受けた二本の長距離電話の相手の名前を挙げた。 ( しかし、この同時刻に、ミリチェヴィッチは、パリのメッシーヌ通り22番地で、マルカントニーがマルコビッチを連れて車に乗る姿を目撃したというのである。) (3) の点については、マルカントニーは、ただ、バカンスのためだという以外には、南仏旅行の目的を明らかにしてはいない。しかるに、サン.トロペのドロンの別荘の番人を依頼された隣のホテルの主人の証言によれば、9月末 ( 何日かは不明 ) 、ちょうどマルカントニーが南仏に滞在している期間に、一人の男がドロンの別荘 「 ラ.カピラ 」 を訪ねてきた。しかも、その男は、たしかに、マルカントニーと名のった。そして、その時ドロンが不在だと分かると、再びそそくさと帰っていった、という。この点については、マルカントニーは否認した。そこで、この証言者であるホテルの主人を呼んで、ドロンの別荘を訪ねてきた男の顔の確認のために、写真を見せたところ、なんと、マルカントニーの写真ではなく、ウロシュ.ミリチェヴィッチの顔写真を指さしたのであった。このため、ミリチェヴィッチが、マルカントニーをおとしいれるために偽装したのではないかとの疑いが濃厚になり、(1) 及び (2) の点に関するミリチェヴィッチの証言についても、偽証の可能性が考えられる。このミリチェヴィッチは68年10月25日、ベオグラードに帰ったきり、二度と召喚に応じていない。理由はパリに戻れば、 『 殺される 』 というのだった。そして、フランス.ソワール紙の特派員に、 「 ハリウッドでミロス.ミロシェヴィッチとバーバラ.ルーニーを殺したのも、フランスでマルコビッチを殺したのも、同一犯人だ。おれだっていつ殺されるか分かったものじゃない。おれはいろいろなことを知りすぎているからな。マルコビッチだって、ハリウッドの殺害事件について知りすぎていたため、消されたんだ。マルコビッチはしゃべりすぎた。特に、ナタリー.ドロンを信頼しすぎて、彼女に全てを打ち明けていた。 」 ルネ.パタール予審判事は、1969年2月初め現在、「 ミリシェヴィッチの証言の再確認が事件解決の大きな糸口になる。” 旨を発表している。1969年1月25日のフランス.ソワール紙の伝えるところによれば、殺されたマルコビッチの父ヴォイテッチ.マルコビッチは次のように語ったという 「 息子はナタリーにひと目惚れしてしまった。ただ彼女への一途な愛故に、悪党のドロンの手下になって甘んじていたのだ..... 」 と。ドロン邸の同じ屋根の下で共同生活をしていたこの三人の奇妙な関係については、様々な憶測が入り乱れている。パリ.プレス紙によれば、ドロンは嫉妬のあまり、一時は、ナタリーを車でひき殺そうと試みた事実さえあると報じている。そして更に奇妙なことは、ナタリーがマルコビッチに書いたといわれる24ページのラブレターが、重要証拠物件として特捜班の手に渡る寸前に、忽然としてマルコビッチの部屋から消えてしまったらしい。

( Probably Delon at the police )

ドロンはテレビを通じて身の潔白を訴えたりもした。警察は彼がヤクザの世界と親交を結び、スクリーン上で魅力的なギャング役を演じて警察を愚弄したとして、その報復を狙っていたのかもしれない。社会の反響は激しかった。特に 「 ドロニスト 」 と 「 アンチドロニスト 」 の対立は激しく、嫌疑のかかった 「 二枚目の成功者 」 に非難があびせられた ( 嫉妬である )。奇妙なことにブルジョワたちがドロンを非難すると、左翼、自由主義者たち、それにヒッピー族までが加わってドロンの味方にまわったのである。

その後、事件は何の進展もないまま時を重ね、ドロンはついに1970年4月26日に新聞フランス.ソワール紙に、共和国大統領ジョルジュ.ポンピドー氏宛ての公開状を発表し、彼を何とかして逮捕しようとする当局の陰謀を告発した。そこにドロンは次のように書いている。 「 共和国大統領閣下。私が仕事のためにフランスを去り、まずイタリアへ、次いでコロンビアへ行っている時、重要な危険が私の名誉と個人の安全と国に残してきた財産とをおびやかしているということを知りました。私は深く尊敬の念を抱いているあなたに対してではなくて、誰に訴えかけることができるでしょうか。この18ヶ月間、私は辛い時を送りました。中傷、嫉妬、凡俗の徒の頑迷さ。それら全てが私にまといつきました。私はこの試練を一人で耐え抜きました。欺きもせず、支援お請うこともなく、自分自身の他は誰も頼りにせず、人をうるさがらせたりすることもせずに。私はこの国の法的正義というものに決して絶望しなかったことに誇りを抱いています。私の唯一の武器は自分の良心に従って行動することと、世論が私を護ってくれるにちがいないと感ずることでした。何も私を容赦してはくれませんでした。挑戦的な尋問、偽造された写真、名誉を傷つける証言、すべては私の名誉を台無しにしようとする試みばかりでした。そして時がながれるにつれ、捜査員の尋問は、少しずつ私に対する憎しみへと変わって行ったのです。私を何とかして罰しなければ気がすまないといった感じでした。要するに、どんな罪状でもいいから私を有罪にしてやろうと捜査員たちはいきり立っているのでした。そのころの、さまざまの脅迫は、私を笑わせました。でも今では、それがあまりにも露骨なのに驚いています。私も最も信頼する男ーその男の名前を決して明かしませんがーが私に、次の次の外国旅行の際に、私に対してなされようとしている陰謀について話してくれました。司法の権威筋で地位があり、公的な職種を持ったある組織の責任者である3人の男が、私に、不意の激しい攻撃を与える為に結託していたのでした。その計画というのは、外国にいる私を麻薬所持の名目で外国の警察に逮捕させようというもので、偶然私の持っている鞄のなかから麻薬が発見されるように仕組もうというのでした。こんなことをあなたに書くのは、恐れからではありません。でも国の司法界でも最も高い地位にいる人たちのこのような陰謀を、私が事前に言っておかなかったら、誰が気がつくというのでしょう?一体、彼らは誰について何を怒ってこのようなことをやらかそうというのでしょうか?ましてそれがこの国最高の司法官だというのに。大統領閣下、私があなたに申しあげなければならなかったのは以上のことです。この世に私が何よりも優先する2つのことがあります。私の息子の将来と私の仕事です。そしてそれはもちろん公衆の評価を得てはじめて成り立ちうるものです。そのほかのすべてのことー金、名誉などはすべて空しいことにすぎません。私を攻撃し、私を中傷しようとする人たちは、いつかそれがあばかれるであろうことを、思い知らなければならないでしょう。調査、尋問がいかに汚れた軽蔑すべきものであったかを私は近いうちにすべてを言ってやるつもりです。この書簡の公共性によって、フランス国民は私があなたがたの保護下にあることを知っていただきたいと思います。大統領閣下、どうか私の深い尊敬をお受け下さい。アラン.ドロン 」 かくしてこの事件はポンピドー大統領就任とともにうやむやとなり、人々はこの事件を忘れた。


( Nathalie with Markovic )


Although it is what don't touch too much, when talk about Alain Delon, this too famous incident have to be touched.

The contents enumerated below are mere enumeration of the information of the internal and external journalists at the time of an incident and I want to tell in advance that they are not either slander or smear for Mr. Delon and the person concerned, moreover, I would never have maliciousness.

The incident begins from a man who called Stephane Marckovic ( 31 years old ) with shooting-to-death body and who was from Yugoslavia, was discovered in the big hemp sack which bound carefully at the public garbage at Erancourt near Versailles on October 1th 1968. Stephane who is the first bodyguard and domestic of Delon and Nathalie, and also Delon's stand-in to 1968 from 1964. And he was assigned two rooms of Delon's residence in Av. de Messine in the 8th division of Paris still January 1968. And he had got 2,000 francs as the pocket money every month. ( the point which it should be careful in here, is Stephane became Delon's domestic on the year which Delon and Nathalie married. There is another report which says that Stephane has been sweetheart relation with Nathalie before Nathalie married Delon. It seems that Stephane also introduced Nathalie to Delon. ) It seems that Stephane has been disappeared since September 22nd before he was discovered with dead body. It was turned out by Stephane's elder brother's testimony that Markovic who was killed by someone, has been sent a letter ( the letter dated Sep 17th ) of following contents to his elder brother ( naval officer's Alexander Markovic ) who lives in Yugoslavia. "If it would happen an accident to me, please ask the situation to Delon, Nathalie and Delon's close friend Francois Marcantoni ". ( Marcantoni is scare-face of the underworld and well-known gangster in Marseilles. ) This letter goes into the hand of police, and the incident came to capture naturally the spotlight of the police.

 By the way, January 31st 1966 ,namely, two years before this Markovic killing incident ( Delon is under photography "TEXAS" ),  Milos Milosevic who is Delon's former bodyguard and Yugoslavian met with an unnatural death with barbara ( it seems that she was mistress of Milosevic ) who is the fifth wife of Mickey Rooney in Hollywood. At the beginning, this incident was dealt with as a death of love affair but it was turned out that they were killed by drug illegal sale without love affair issue by next investigation. However, Delon paid for the expense ( 1 million francs ) which sends back his dead body to Yugoslavia because Milos who was killed is Delon's friend. Zorika ( she was acting as the cover girl in Rome. ) who is Milosevic's real younger sister claimed the elder brother "was killed by Markovic". Her opinion is Markovic was going to take the post of the first bodyguard of Delon killed her elder brother. But in fact, after that, Markovic acquired the status of the first bodyguard of Delon.

Now,  to return to former talk's Markovic incident , as criminal investigation of the police progresses, it was turned out that Markovic runs the high-class brothel ( told to madam Claude's shop or gay bar in another report ) in Av. de Paul Val'ery ( the 16th division of Paris ) near Etoiles. He often held a secret sex orgy, important person of the political world and famous man of entertainment world are assembled. And he took a picture the spot and so on and he had extorted the visitor by these evidences. ( The criminal investigation division led by police superintendent Lelac got an address book which Markovic had been had carefully before his death. It was written the name of the important person of the political world of France or Yugoslavia, or the name of the famous person of the entertainment world in the address book. However, when the name of the next presidentical candidate Mr. Pompidou who was former prime minister and his wife, appeared into the customers, the criminal investigation became the form of the close once, it would be the pressure of the political world.

On the other hand,  immediately after an incident, namely, on October 9th, Delon who was among the location "La Piscine" in St. Tropez, received the interrogation of the detectives of the local police. And house criminal investigation was performed in the Delon's residence in Av. de Messine. Marcantoni was arrested and accused as accomplice of murder on January 16th in the next year, namely, 1969. ( He was released on bail because the insufficiency of evidence on December 3th 1969. )  Mr. and Mrs. Delon and the other 14 persons were summoned as an important witness on January 23rd 1969. 4 persons among those 14 person who were Delon's friends, namely, Delon's manager Beaum, Delon's car driver Marcel Gasparini, cameraman Jean-Pierre Bonotto, and producer Raffini. Delon responded summons in spite of having cold with the high fever 39 degrees and he was detained for 35 hours. Nathalie didn't respond the summons because she was filming "Sister" in Rome. ( After that, Delon was summoned again on March 12th. ) According to magistrate Rene Patthar who took charge of this incident, the reson of arresting Marcantoni and summons of Delon were for clarifying the following three facts made clear as a result of a special investigation unit's investigating, namely, ( 1) The contents of the letter which Markovic sent to his elder brother in Belgrade before his death, clarify. The testimony of Uros Milicevic and Riuovomir Milosevic who were Delon's attendant reconfirm. ( The contents of the letter dated Sep 22nd are Markovic who was discharged by Delon on August 1968, stole Delon's treasured arms collection for revenge and planned to wring a lot of money on the security of these, but the plan failed because his partner's Marcantoni betrayed him. ) ( 2 ) According to testimony of Uros Milicevic, Uros witnessed Marcantoni and Markovic come out Delon's residence and then they are going to get on a car together on evening of September 22nd 1968. The day, namely, September 22nd is the last day which Markovic has been lived at least. After that, Marcantoni's whereabouts and the existence of his alibi still October 1st which was discovered Markovic's dead body, confirm. ( 3 ) Marcantoni left to Toulon of South France on September 25th, namely, the third day since Markovic has been missing. Therefore, the purpose of the travel confirms.

A result of an interrogation, Marcantoni and Delon decared neither Marcantoni nor Delon have an idea at the point of ( 1 ) again. About the point of ( 2 ), Marcantoni explained the whereabouts to 23rd from the evening of 21st lucidly. And also he was formed alibi. That is to say, Marcantoni left to guzanville ( Paris suburbs ) to stay a weekend at the cottage by borrowed a car from friend on 21st. And he has never moved there still 23rd. He told a master whom he met when he went to buy bread, and the name of the partner of two long distance calls which he received from Toulon and Paris as the witness in the meantime. However, at this time of that, Milicevic says "I witnessed a figure which Marcantoni is going to get on a car with Markovic at 22 Av. de Messine". About the point of ( 3 ), Marcantoni doesn't explain the purpose of the travel to South France without for a vacation simply. However, according to testimony of the next hotel's master who was requested the keeper of the Delon's cottage in St. Tropez, a man has visited Delon's cottage La Capila in the period when Marcantoni is staying at South France exactly, namely, the end of September ( the date is unknown ). And also, the man declared himself Marcantoni surely. And the man knew Delon is absent, then the man went back immediately again. Marcantoni denied about this point. Then the master of the hotel which is this witness was called, then police showed a photograph to him for to check the face of the man who visited to the cottage, then what ! , the master pointed at Uros Milicevic's photo not a Marcantoni's photo. Therefore, a doubt that Milicevic disguised to trap Marcantoni became thick and Milicevic's testimony about the point of ( 1 ) and ( 2 ) was thought as being possibility false testimony. Milicevic has never responded summons again since he has left to Belgrade on October 25th 1968. He says about the reason, I would be killed, If I would return to Paris. And he also said to the special correspondent of France-soir the criminals who killed Milos Milosevic and Barbara Rooney in Hollywood, killed Markovic in France, are the same criminals. I don't know when I will be killed. I have known too much a lot of things. Markovic was killed because of he had known too much about the murder case of Hollywood. Markovich talked too much. Especially, he trusted Nathalie too much and he had revealed all the things to her. The magistrate Rene Patthar has announced "The reconfirmation of Milicevic's testimony will become a big clues for incident solution on present The first ten days of February 1969. According to France-soir dated January 25th 1969, Voitech Markovic who is Stephane Markovic told the following "My son loved Nathalie at first sight. But he has been contented henchman of villain's Delon because of earnest love to her". Various guesses are jumbled up about the strange relation of these three person who had been had communal life at under the same roof of Delon's residence. According to Paris-Press, there is the fact that Delon was going to try to kill Nathalie by car because of temporary out of jealousy. And also a strange thing is that it seems that a Nathalie's love letter which has 24 pages to Markovic has disappeared suddenly from the Markovic's room just before it passed into the hands of the special investigation unit as an important material evidence.

Delon also appealed innocence of himself via TV.

Possibly the police was aiming the retaliation that as Delon connected the worthless world with worthless friendship and he played an attractive role of a gang on the screen and ridiculed the police. The social echo was intense. Especially, the confrontation with Delonist and anti Delonist was intense. And the handsome success whom suspicion required was blamed. ( It is jealousy. ) Strange enough, when bourgeois blamed Delon, the left wings, liberalists, and even the hippies joined them, turned to the ally of Delon.

After that, while the incident had not had any progress, the time was passed. Delon finally announced the open letter which addressed to Mr. Georges Pompidou who is republic president to the newspaper France-soir on April 26th 1970. Delon charged the intrigue of the authorities who are going to arrest him somehow.

Delon writes there as following, "Your excellency Republic President, when I am leaving from France, then going to Italy and subsequently Colombia, I knew that important danger is threatening my honor, individual safety, and my property which I have left to the country. Whom I will be able to appeal except you whom I hold respect deeply ? I spent the hot time for these 18 months. Slander, jealousy, and ordinary person's bigotry, these of all got coiled me. I kept bearing this trial alone. I did that without cheating, to require support, to reliance in anybody except myself, to be bothered person. I cherish pride which I have never despaired the legal justice of this country. My only arms were acting according to myself's conscience, and feeling that public opinion will surely protect me. Anything didn't permit me. Aggressive interrogation, forged photograph, testimony to damage my honor, these of all was trial which is going to spoil my honor. As the time passed, interrogation of investigator was changing to the hate to me little by little. I thought that it seems that they want to punish me somehow. In short, it seems for me that detectives were furious because of they want to convict me in what crime. Various threats made me laugh at the time. But now, I am surprising it is indecent too much. My most trustworthy's man - I have never disclosed the man's name. - He told me that about the intrigue which is going to be done to me at the time of my following next traveling abroad. The three men who have a status by the authoritative sources of administration of justice, are the person in charge, with the public occupation of a certain organization, were conspiring to give me a sudden intense attack. The plan is it makes the foreign police arrest me on the pretext of drug possession. It was that they are going to plot drug would be discovered from the bag which I have by chance. It is not from fear to write such a thing to you. However, who notice it ? If I don't say in advance such an intrigue of those who are in the highest status in the judicial community of country. Why will they do such a thing, about whom and got angry to what ? Furthermore, they are real judicial officers. Your excellency President, what I had to say you is the above thing. There are two things which I give priority over what in this world. They are my son's future and my work. And it may realize after it obtains evaluation of the public, of course. All other things - money, honor, etc. are empty. Probably, those who are going to attack me and are going to slander me, have to realize it will be revealed someday. I am going to say all that how the investigation and interrogation had been the thing which is dirty and which should be despised in the near future. By the public responsibility of this letter, I would like French people to know that I am in under your protection. Your excellency President, please accept my deep respect. - Alain Delon - " 

In this way, this incident become unsettled with President Pompidou inauguration, and people have forgotten this incident.

 

RETURN

RETURN TO THE INFORMATION MAP

Copyright (C) 2000~2014 Tomo All Right Reserved