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「自意識過剰。」 アーヴィンが俺の額を突付く。俺の顔がどんどん赤くなっていく。 「だって・・お前・・お、俺のこと・・」 「ん?悪いのはどっち?肩ごしに本を取ろうとしただけなのに、突然僕を廻し蹴りしたのは誰?」 思い切り胸を逸らして俺を見下ろす。俺はしゅんと肩を落とした。 「・・・・俺。」 「よく出来ました。」 大きな手が俺の両肩をポンポンと叩く。小さい子供にするみたいに。 なんでぇ、と俺は小さく口の中で呟いた。お前が間際らしいことするからじゃねえか。 いや、そもそもお前が変なこと言い出したからじゃんか。 俺のこと、好きだなんて。 俺はアーヴィンにこの間告白された。 最初はからかわれてるのかと思ったが、色々あって、そうじゃない事が分かった。 だけど、分かったからと言ってどうなるもんでもない。 俺はやっぱり男のアーヴィンが男の俺を好きだって言うのがピンとこない。 はっきり言って俺は奴を友達としか見れない。第一、男同士でそんな気持ちになるってのが信じられ ない。男どころか女とも付き合ったことの無い俺にはアーヴィンの告白はヘビー過ぎた。 思い切って奴にそう言うと、君は今のままでいいんだよ、と言われたので何となくその言葉に 甘えてフツーの友達付き合いをしてる。 でも、やっぱり時々ひょいと「こいつは俺とやりたいんだ」という言葉が浮かんできて、 焦ってしまう。 だから、本を取ろうとしたアーヴィンの胸が、俺を本棚に押し付けるような格好になった時、 つい警戒してしまったんだ。まあ、廻し蹴りまですることは確かに無かったが。 アーヴィンが、じゃコーヒーでも入れよっか、と鼻歌交じりにサイフォンを手にとる。 慎重にコーヒーを注ぐ整った横顔をつくづくと眺めた。 背が高くって、ハンサムで、優しくて。女にもてるはずだぜ。 なのに、どうして俺なんだろう。 「はい。」 つらつら考えてると、何時の間にかアーヴィンが温かな湯気の立つカップを持って立っていた。 「あ、サンキュ。」 手を伸ばすと一瞬手と手が触れ合った。アーヴィンの大きな手の中で、俺の指は奇妙に白くて 細く見えた。俺はハッと手を引っ込めた。 「・・・大丈夫。何もしないから。」 アーヴィンが苦笑して俺を見る。俺はまた赤くなった。どうして俺はもっとスマートに物事を 運べないんだろう。 「ね、美味しい?」 「うん。お前コーヒー淹れるの上手いよなあ。」 「君に入れてあげたいのは、コーヒーだけじゃないんだよね。あっちの方はミルクも自動的に ついてくるんだけど。」 「・・・・・」 「あれ?うけなかった?」 だからお前は俺に殴られるんだよ。 顎を押さえてうずくまるアーヴィンを見下ろしながら、俺は大きなため息をついた。 翌日、授業を終えて教室から出ようとすると、急に腕が引っ張られた。 「ゼル、お前まだあの横取り野郎と付き合ってるのか?」 「・・・アーヴィンのことか?」 俺はうんざりして目の前の男を見た。 こいつは彼女をアーヴィンに取られた事をいまだに激しく根に持っている。 まあ、確かにアーヴィンも悪い。が、何でいつも俺にまで絡んでくるんだろう。 「何であんな奴とつるんでるんだよ。俺はあいつがへらへらガーデンの女をコマしてるのを見ると 殺したくなってくるぜ。」 「・・・でもさ、今はそうでもないだろ。それに女絡みじゃなければ、結構いい奴なんだ。」 「お前は騙されてるんだよ!」 怒涛の勢いで反論される。またその結論か。俺は眼を逸らした。 「・・・今俺のこと馬鹿にしただろ。」 「してねーよ。」 「した。俺の事うざったいと思ってるんだろ!」 図星だったので一瞬ぐっと詰まった。すぐ後悔した。相手の顔からどんどん血の気が引いてくる。 「覚えてろよ・・・!俺は絶対あいつの人生を目茶目茶にしてやる・・!」 「おい・・・!」 声をかけたが無駄だった。制止を振り切って奴は走り去っていった。 俺は本当に、恋愛沙汰に向いてないらしい。 少し気になったが、その後三日間何も起こらなかった。きっと口先だけだったんだろう。 心配して損したぜ。そう考えていた時、当の振られ男がやってきた。 「よお、ゼル。」 痩せこけた青白い顔に、眼だけが真っ赤に充血してる。その上ニヤニヤ薄笑いを浮かべてやがる。 何だか気味が悪い。なんだこいつ。 「あのさ・・俺、新しい彼女が出来そうなんだ。」 「え!?ホントか!?」 俺はびっくりして叫んだ。 「まあな。それでお前に相談に乗って欲しくて・・」 「相談?」 「そう、でもここじゃ人目が・・・。ちょっとついてきてくれない?」 不安気に周りを見回す。俺はドンと胸を叩いた。 「いいぜ!何でも相談に乗るぜ!」 俺はウキウキと後ろを付いて行った。 「そっかあ。良かったなあ。俺も嬉しいぜ。」 「・・・・そう?」 口の端だけを奇妙に吊り上げて笑う。不思議な笑い方をする奴だ。 ぼんやり考えてると、奴が唐突に立ち止まった。眼を上げると、目の前に大きな鉄の扉がある。 「ここだ。」 「昔の訓練場じゃねーか。ここ鍵がなきゃ入れないぞ。」 「あるんだ。」 落ち着いた声でポケットから鍵を取り出す。あまりにも自然なその仕草に、急に心臓がドキドキ しだした。 どうして鍵を持ってるんだ。教師しか持ってないはずの鍵を。 「お前・・・もしかして鍵盗んだんじゃ・・・」 「ゼル。俺、色々考えたんだ。」 さび付いた鍵穴にガチャガチャと鍵を差し込む音がする。 「あいつ・・・アーヴィン・キニアスにとって何が一番大事かってさ。」 不自然に落ち着いた声。 「それで、気付いたんだ。あいつ女はコロコロ変えるし、沢山いるけど、男友達はお前だけだ。」 「・・・べ、別にそんな事無いだろ。ほら、スコールとかさ。」 「うん。でも、お前らいつも楽しそうだぜ。よくゲラゲラ笑いあってるじゃん。」 カチリと音を立てて鍵が開く。 「俺にはさ、そんな相手いないんだ。・・・いや、いなくなったんだ。あいつのせいで。」 「お前・・・」 「不公平だよな。あいつも、分かればいいんだよ。大事なものが取られるってどうゆう事か。」 錆びた扉か開いていく。 「・・・・こんな風に!!」 背中に激しい衝撃が走った。蹴られた、と分かった時は俺は部屋の中に転げこんでいた。 間髪入れず扉が閉まる。 「おい!何のつもりだよ!開けろよ!!」 ドンドンと扉を叩いた。厚い壁の向こうから天井越しに勝ち誇った声が聞こえてきた。 「ざまあみろ。お前もあいつも苦しめばいいんだ!ゼル、聞こえるか?こんなとこ、誰も来ないぜ。 いつまで持つかな。その中にはアルケオダイノスがうじゃうじゃしてる。俺がおびき寄せておいたん だ。メスのフェロモンでな。メスの匂いにつられた哀れな奴等だよ。俺みたいじゃないか。 そう、俺みたいな・・!」 しばらくの沈黙の後急に平静な声がした。 「じゃあな、ゼル。さようなら、アーヴィン・キニアスの大事なお友達。」 「待て!おい!」 呼びかける声が鉄の扉に空しく響く。突然背後から恐竜の咆哮が聞こえてきた。 来た。 俺はグローブをぎゅっと嵌め直した。 もう限界かも。 俺は力無く扉に寄りかかった。魔法もアイテムも持ってないのに、これ以上は無理だ。 何時間こうしてるんだろう。体中が痛い。アルケオダイノスだけじゃなくて結構雑魚も沢山いて、 そいつらが意外と体力を消耗させる。 足に力が入らない。もう感覚が麻痺してるんだ。 俺、このまま死んじゃうのかな。 気弱な台詞が脳裏をよぎった。まだ色んな事したかったのに。こんなところで一人で・・・。 一人。 その言葉がずしりと疲れた体にのしかかった。そう、一人なんだ。 思えば俺は一人でいることがあんまり無かった。ずっと賑やかなところで育ってきたし、ガーデンに 入っても直ぐ友達が沢山出来た。そして今はアーヴィンがいつも一緒で・・・。 アーヴィン。 その名前は思いがけない程、鋭い痛みとなって心臓を刺した。 「・・・・ふ」 みるみる涙腺が緩んでくる。やばい。泣いてる場合じゃないのに。 なのに、涙の奴は一向言う事を聞いてくれない。ついに俺は膝を抱えて泣き出してしまった。 もう会えないかもしれない。 あの優しい大男に。俺をからかってばかりいるあの陽気な男に。 どんなモンスターの牙よりも、その考えは俺を傷つけた。 腕や肢や脇腹の傷よりも、その痛みは強かった。どうしてこんな事になったんだろう。 ふと、生臭い風が吹いてきた。もう何度も嗅いだ匂いだ。 アルケオダイノス。 俺は眼を閉じた。きっとこれが、俺の最後のバトルだ。 その時、かすかな呼び声が聞こえた気がした。 「・・・・ル、いる〜?ゼルー。」 信じられない程呑気なその声。 「アーヴィン!」 思い切り叫んだ。鋼鉄の天井に声がわんわんと反響する。 俺にはもう、この力しか残っていない。 お前を呼ぶ声しか。 「ゼル・・・!?」 ドアの向こうから声がする。 「どうしたんだよ〜。そんなトコで何してるんだ?」 「閉じ込められたんだ!アルケオダイノスが側まで来てる。早く・・!」 出してくれ、と言うつもりだった。なのに唇から零れ出た言葉は違った。 「お前に会いたい・・・!」 自分の言った言葉が自分の胸を激しく打った。 「会いたい!会いたいんだ!おまえに・・・あいたいんだ・・・っ!」 狂ったように泣きながら扉を叩いた。 「アーヴィン!」 「ゼル、そこをどけ!扉から離れろ!」 はっきりした大声が扉の向こうからした。最後の力を振り絞って壁に飛んだ。 殆ど同時に、銃弾が扉に何発も打ち込まれる音がした。 俺は夢見るようにその光景を見ていた。 長い肢が錆びた扉を蹴破り、鉄の塊がどうと地面に倒れる。 逞しい体が流れる水のように滑らかな動きで銃を構える。 アルケオダイオスの巨大な頭がよだれを振りまきながら迫ってくる。 アーヴィンは微動だにしない。全ての要素を計算する、超一流のスナイパー。 眼の光で分かった。今、標準が合った。指が引鉄を弾く 腹が震えるような重い銃声の後、轟音と共に恐竜が地面に崩れ落ちていった。 アーヴィンが振り返って俺を見た。 「正義の味方登場、ってやつ?我ながら惚れ惚れするね。かっこよかった?」 ニコニコと笑顔で近づく。 「中々帰ってこないからさあ、良かったよ。ここに向かってるのを見た人がいて。探したよ〜。」 突然その足がぴたりと止まった。 「どうして泣いてるの?」 古い映画の騎士みたいに俺の前に跪く。 「それに、僕に会いたいって叫んでなかった?どうしたの?」 「アーヴィン・・・・」 優しい青い瞳が、広い肩が、柔らかな曲線を描く口元がすぐ側にある。 手を伸ばせば、それに触れられる。 「ねえ、ゼル?」 アーヴィンがもどかしげに腕を伸ばしてきた。 俺はその腕の中に飛び込んだ。 「うっ・・・く・・・ひっく・・」 どうしたんだよ、と困った声が頭上からする。 「・・・こ、こわかっ・・こわくてっ・・」 「ああ、怖かったのか。」 よしよし、とあやすように言って背中を大きな手が擦った。押し付けた胸元から甘いコロンの香りと 暖かく脈打つ心臓の鼓動が聞こえる。 「大丈夫だよ。怖い恐竜はもういないから。僕が退治したからね。このナイスガイが。」 君が言わないから自分で言ってみました、あはははは、とアーヴィンが笑う。 「ばかっ・・!恐竜なんか怖くない!」 「じゃあ何が怖いの?」 「し、死んだらっ・・・おまえっ・・お前に会えないって、お、思っ・・・」 最後まで言えなかった。 アーヴィンがきつく俺を抱きしめたから。 「さ、もう帰ろう。よく見たら君、傷だらけじゃないか。早く手当てしないと。」 アーヴィンが俺を引き離した。体が急に涼しくなる。何だか寂しい。寂しい?おい待て。 何言ってんだ俺。何でアーヴィンが抱きしめてくれないのが寂しいんだ。 「どうしたの?歩くの、辛い?」 「い、いや!へーきだ!」 俺はヨロヨロと立ち上がると、差し伸べられたアーヴィンの手を払ってずんずんと歩いて行った。 外に出ると、もう夜中になっていた。 熱いシャワーを浴びると一日の疲れがどっと出てきた。あちこちに出来た傷が水に染みて痛い。 でも、それよりも俺はさっきの自分に衝撃を受けていた。 アーヴィンが俺から離れた時、俺は確かに思った。 もっと抱きしめて欲しい。 ぶんぶんと頭を振った。水滴が回り中に飛ぶ。 男なのに。俺、男なのに。アーヴィンも男なのに。 アーヴィンの弾力のある胸の感触がいまだに頬に残っている。頬だけじゃない。額にも。 僅かにかすめた唇にも。 頭がくらくらしてきた。石鹸もシャンプーも、あのコロンの香りを俺の脳から消してくれない。 「ゼル〜。どうしたの?まだ終わらないの?」 突然アーヴィンが声をかけてきた。俺は飛び上がった。 「い、いま!今出る!」 「あんまり遅いから、中で倒れてるかと・・・」 救急箱を手にしたアーヴィンの言葉が途中で止まった。 「そんなに怪我してたのか。」 声が真剣になった。俺は改めて自分の体を見回した。タンクトップと短パンから剥き出しになった 腕と肢に幾つも深い切傷が走り、ふちが紫色になっている。 「早くおいで、手当てするから。」 「い、いいよ。自分でする。」 「ゼル。」 その声は有無を言わせぬ響きがあった。俺はしおしおとベットに腰掛けた。 ポーションをたっぷり含ませた脱脂綿が傷口に当てられ、俺は痛みに顔を顰めた。 「結構深いね。これじゃ直ぐ回復しないかもしれないなあ・・」 傷だらけの腕を掴んで、しげしげと眺めながらアーヴィンがため息をついた。 「で、一体何があったわけ?僕、聞きたいことが色々あるんだけど。」 「・・・・・。」 「どうして黙っちゃうの?」 「・・・・・・。」 「話したくない事なの?・・・それとも僕と話したくないの?」 「ちが・・・!」 俺は慌てて顔を上げた。アーヴィンとばっちり眼が合う。逞しい肩、長い腕。 この長い腕はさっき俺を抱きしめて・・・。 頭に血が登ってくる。顔が火照ってくるのが自分でも分かった。 居たたまれなくなって俺はまた顔を伏せた。 「手、放せ・・」 やっとのことで声を出した。 「駄目。」 アーヴィンの声が頭上からする。 「僕、ホントに色々聞きたいんだよね。何であんなとこに閉じ込められてたのか、とか。 何でアルケオダイノスがあんなトコにいたのか、とか。」 声の調子がふいに変った。 「・・・どうして僕に会いたいって叫んだのか、とか。」 俺の手首を掴む大きな手の平が、何時の間にか俺に負けない程熱くなっている。 「今も疑問が増え続けてる。どうしてそんなに赤くなってるんだろうって。」 答える事が出来ない。考えるのが怖い。 「君が話したくないなら、それでもいいよ。傷の手当もまだ終わってないしね。・・ただ、 話してくれなければ、手当ての仕方を変える。」 ぐいと腕が引き寄せられ、手首の傷がゆっくりと舐められた。 「僕が一晩中君の体を舐めて上げる。傷口も、傷口じゃない所も。」 背中がゾクリとした。皮膚がチリチリと粟立つ。 「へ、変な事言うなよ。ぶ、ぶっ飛ばすぞ!」 「今の君じゃ無理だね。」 あっさりと返される。 「こんなに傷だらけなくせに。足元だってふらついてたじゃないか。・・・はっきり言って僕、 これは千載一遇のチャンスかなって思えてきたよ。」 何時の間にか、大きな体がすぐ側まで迫ってる。俺は狼狽してシーツの上を後ずさりした。 「ちゃ、チャンス・・・?」 アーヴィンの大きな瞳に異様な光が宿る。 「気付いて無かった?僕、本当はいつも本気なんだよ。あわよくばこのまま、って思ってたんだよ。」 さっきまで俺を守るように抱きしめてくれた腕が、今は俺を追い詰めようとしている。 「どうする?話す?それとも・・・」 あの優しさと、今手首を強烈に握る力が俺を混乱させる。どうしよう。こんなアーヴィンは見たこと がない。 「話したら・・変なことしない・・・か?」 混乱しながら出す声は、自分でも信じられないくらい弱々しい。 「それは分からないな。」 アーヴィンが耳元で返事する。暖かい息が首筋にかかり、俺は思わず首をすくめた。 「だって君、今すっごくやらしい顔してるもん。」 「な・・・!」 「煽情的って言うの?眼潤ませちゃってさ、このままその唇にキスしちゃいたいよ。」 「てめえ、何言って・・・」 「でも、君が話してる間は我慢する。」 アーヴィンがきっぱりと宣言した。 「すごく、いい予感がするんだ。君の話を聞き続けたら、すごくいい事が聞けそうな。僕がずうっと 待ち続けてた一言を君が言ってくれそうな。そんな気がするんだ。」 がっちりした両手が俺の手を包む。 「ね、話してよ。じゃなきゃ、今すぐ押し倒すよ。僕本当に限界なんだから。」 俺は観念して眼を閉じた。 「お、お前に女取られた奴が・・そいつお前のことすごく恨んでて・・・」 子供の様にたどたどしい口調で俺は話しだした。 「お前の大事なもの、取ってやるって・・お前の友達、俺だけ・・だから」 「・・・なるほどね。そーゆーこと考える奴もいるってことだ。」 苦々しい口調で吐き捨てる。それから俺の頬を撫でてため息をついた。 「何で言わなかったんだ。僕のせいでこんな事になったんだって。」 辛そうな響きに俺は慌てて言葉を続けた。 「違う。俺のせいだ。奴の言動を、軽く見るべきじゃなった。閉じ込められてる時、それが分かった。」 「?」 「一番大切な人を失う気持ち・・・。好きな人に、もう会えないって思う気持ち・・あの痛みに耐え られる奴はいない。奴の痛みをもっと真剣に考えるべきだった。・・俺は分かってなかった。」 騙されてるんだ、と必死に俺を説得しながら、あいつはきっと去っていった彼女を俺に重ね合わせて いたんだ。戻らない彼女、眼を逸らす俺。多分最後の糸を切ったのは俺だ。 「今は分かるの?」 「今は、だって・・・」 「だって?」 静かな声の中に僅かに興奮が混じってる。俺はハッと眼を上げた。 「続けてよ。今はどうして分かるんだ?」 アーヴィンの顔が驚くほど近くに迫ってる。眼が濡れたように光り、舌が厚い唇をぺろりと舐める。 獲物を捕らえようとする肉食獣みたいだ。 俺は吸い寄せられるようにその顔に釘付けになった。 「今は・・」 後退ろうと肘を動かすと、すかさずその肘を掴まれた。 「今は?」 無慈悲なくらい優しい声を奴が出す。 「俺・・お前が・・・」 催眠術にかけられたように言葉が唇から漏れていく。 駄目だ。止すんだ。 ぎりぎり最後に残った理性が脳のどこかで叫ぶ。この先を言ったら、駄目だ。 「俺・・・言えな・・」 燃えるように熱い指が俺の唇をゆっくり撫ぜる。閉ざそうとする唇を溶かしてしまいたいみたいに。 「言って。お願いだ。」 熱に浮かされたような掠れ声が囁く。体中に痺れが走った。 触れられてる唇も、伏せた睫も、全てが頼りなく震えて、止まらない。 掴まれた肘をゆっくり押される。体がじわじわと倒されていく。 「ねえ、続けて。お前が・・何?」 蕩けるようなねだり声が俺を誘う。漂うコロンの香りが、最後の理性をかき消す。 「お前が・・・・」 この先を続ければ、もう戻ることは出来ない。俺はきっと変ってしまう。 わかってる。わかってるんだ。 だけど。 だけどもう、唇が勝手に開いていくんだ。 誰か俺を止めてくれ。 でなければ、俺はこの男に望みの言葉を与えてしまう。 唇に触れる吐息のこの熱に、俺は陥落してしまう。 (END) |
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