Kanon ( Chapter 1)
全てを、俺のものにしてやる。

あの日の事を思い出すだけで、カノンの身の内に青白い炎が噴き上がる。
捨てられた。何一つ持たぬ俺を、あの男は、あの兄は襤褸布のように捨てたのだ。
振り返りもせず去って行く後姿を思い返せば、憎しみの業火は身を焼き尽くすようだった。
捨てたのだ。信じていた俺を。あいつの「兄」としての情だけを、信じて生きていた俺を。
その俺を、冷ややかな軽侮と共に、赤の他人を投げ捨てるように捨てたのだ。

青く切れ上がった眼を爛々と滾らせて天上を睨み上げる。
分っていたはずだ。俺が聖域から弾かれていた事を。
聖域は俺に見向きもしなかった。
どれほど力を持とうとも、既に継ぐ者がいる双子座に、俺の存在はただ厄介なだけだった。
不吉の象徴、と徹底的にその名を秘され、いつ死んでも構わぬ扱いを受けた。
何かを得ようとすれば盗むしかなく、盗めばお前に悪と殴られ、少しでも秘めた力を
見せつければ、聖域からは命を盾に警告された。


耐えられぬ、とは思わなかった。
窮屈だとも理不尽だとも思ったが、耐えられぬとは思わなかった。
お笑い草だ。知っているか。それは、お前がいたからだ。
お前だけは、俺を見捨てぬと信じていたからだ。


「私に何かあれば、お前はこのサガの代わりとして双子座を継ぐのだぞ!」


苛立ちと怒りに満ちながら、それでも事あるごとに繰り返された言葉。
どんなに聖域が俺を厄介者と疎もうと、この兄が、聖域の光を具現化するようなこの兄が、
俺を「弟」と認めている。黄金最強と謳われる自分の、唯一の代わりと思ってくれている。
それだけが、俺の支えだったのだ。
悪の心しか持たぬのか、とお前に殴り飛ばされながら、その悪の心以外、何一つ持たず
聖域の闇に潜んでいたのは、お前のその言葉をひたすらに信じたからだ。
お前は決して俺を捨てぬと、疑う事無く信じていたからだ。


けれど、お前は俺を捨てた。


お前のような悪魔を生かしておけぬと、スニオン岬の岩牢に投げ捨てた。
生きてそこを出たければ、改心して女神の許しを求めろと、振り向きもせず去って行った。
そんな事は、起こりえぬと知っていながら。
最初から聖域に拒まれていた俺に、女神の許しなどあるはずがないと分っていながら。
兄たるお前の情なくば、一日たりとも聖域で生き延びる事は出来ぬと知っていながら。
誰が俺を助けに来る。あの岩牢に。俺の存在はお前しか知らぬのに。お前しか、俺を
庇う者はいないのに。
お前まで、俺を死んでも構わぬ者として扱った。お前までもが、俺を憎み、疎んじた。
お前と聖域が、俺を誰も知らぬ闇に押し込めた。それなのに、その闇に染まった俺を
お前達は汚らわしいと嫌悪も露わに投げ捨てた。


こんな仕打ちが許されるものか。
何一つ与えられぬならば、こちらから奪い取ってみせる。悪の心しか持たぬと断じられた
この俺が、地上の全てを手に入れてみせる。俺を捨てたお前と聖域に、目に物見せてくれる。
あるべき影の存在を認めず、光のみを謳って止まぬお前達の喉元に、悪の刃を突き立てて
くれる。
その為なら、どんな試練も耐えよう。
三叉の鉾は既に引き抜かれた。賽は振られた。このカノンの手で。
後は眼の前の道を切り開いて行くのみ。
ポセイドンが再び覚醒する迄に、海界の力を存分に蓄えるのだ。聖域に、あの兄に対抗
できる程に。
最初の試練は、待つ事だ。
海将軍を待つ。海界七つの柱を支える海将軍が揃うのを。
そして、ポセイドンを欺いたように奴等を欺く。海将軍共を俺の手駒にするのだ。
地上の粛清の為と信じ込ませ、聖闘士達とぶつけ合わせる。こちらの犠牲は多かろうが、
あちらの犠牲も多かろう。そうなれば、俺の出番だ。弱体化した聖域に乗り込み、一気に
地上を我が物と成す。その日まで、海の底で息を潜め、偽りの名を身に纏い、荒れ狂う波を
御しながら待ち続けよう。
「力」が揃う日を。
海将軍が、この海界に戻る日を。


そうして2年もの間待ち続けた日が、ようやく訪れようとしている。
冷徹な蒼い瞳に僅かな歓喜が混じる。
先程感じたある柱の共鳴。海一杯に弧を描いて凛々と主を呼ぶ声。暫く前からポツポツと
集まり始めた海闘士共の訪れなどとは全く違う。
これはきっと、海将軍の復活に違いない。
急ぎ柱の下に向かえば、既に海は主への期待に揺れていた。
南氷洋の柱。
遥か遠く、主の復活を寿ぐ音がする。互いに打ちつけ合い、反響し合う流氷の音。氷の海に
広がる喜びの歌声。
突如頭上に光が走った。揺れ立つ波に揉まれながら、遥か頭上から人影がゆっくりと
沈んでくる。湧き立つような思いでその影を見詰めた。視界を遮るヘッドパーツが
もどかしく、両手で乱雑に取り外した。途端零れ落ちる豊かな蒼金の髪を海に広げ、
食い入るように頭上を見上げる。近付いてくる黒い人影。捧げ物のように、自分の足元に
静かに落ちていく身体。
カノンの眼が大きく開く。
二年間。二年間も待ち続けた。それが。それがこの。
彫像のように滑らかな頬が固く強張る。肺一杯に空気を吸った。形の良い唇を戦慄かせ、
周囲に響きわたる声で絶叫した。



「子供ではないか―――――――――――――――――――!!!!!」



カノン、悪の海界子育ての始まりであった。

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