スパイダー 4




イルカの家の呼び鈴を押した。
僅かに開いた扉が、自分の顔を確認した途端、堅く閉ざされる。
「イルカ先生・・・開けて・・・開けて下さい・・・・」
繰り返し、扉に向かって訴えた。イルカが開けてくれるまで、何時間でも居続けるつもりだった。
銀髪の美人が縋るように扉を叩く姿に、通りかかった酔っ払いの中年男がだみ声で叫んだ。
「おいおい、入れてやれよ!こんな美人さん追い出すなんて、ひでー男だな、おい!!」
響き渡る大声に、近所のあちこちで窓が開く。好奇の視線が全身に突き刺さった。
酔っ払いが、気を大きくして近寄ってくる。
「ねーちゃん、追い出されたのか?可哀想になあ!何て男だ?どれどれ・・・うーみーのーいー」

その瞬間、バタンと扉が開いた。
「入って下さい。」
苦りきった様子でカカシの腕を取って中に入れる。
「良かったなーねーちゃん!こら!うみのなんとか!美人のねーちゃん苛めんじゃねーぞ!」
酔っ払いの陽気な声が、扉の向こうから聞こえた。そのまま扉を一蹴りして去っていく。
イルカが大きな溜息を吐いた。

「何の用です。まだそんな格好してるんですか。」
冷静な響きに、一気に幻想が醒めた。夢を見ていたのは、自分だけだったと知った。
冷たい声が、淡々と言葉を紡ぐ。
「浮かれる俺は、面白かったですか。楽しめましたか?」
吐き出すように言って、顔を背ける。自分の愚かさに、笑いたくなった。俺は何を、期待して。
イルカはすっかり現実を受け入れている。何の未練も残していない。
もう、この姿では、駄目なのだ。
この姿でも、駄目なのだ。

のろのろと印を結んだ。薄い煙と共に、元の男の姿に戻る。
その瞬間、黒い瞳に嫌悪の色が走ったのが解った。それがたちまち、伏せた睫に捻じ伏せられるのも。
「申し訳ありません。どうかもう・・・今日はお帰り願えませんか。」
低く頭を下げて、イルカが抑揚の無い声で懇願をする。諦め切ったその響きに、思わず眼を瞑った。
絶望に胸が潰れそうになった。

また、切り捨てられた。

イルカはまた、俺を締め出した。
心にあるだろう激しい怒りを、ぶつけようともしない。眼を合わせようともしない。
そんな価値は、俺には無いからだ。
俺はまた、「人」から「物」に成り下がったのだ。


突然、足元にボタリと水滴が落ちた。
どうしたんだろう、と思った。
雨漏りだろうか。さっきまで雨なんか、降ってなかったようだが。
そう思ってる間も、ボタボタと水は土間を濡らしていく。自分の頬をも、しとどに濡らしていく。
それでやっと、気が付いた。
自分が泣いている事に

余りの惨めさに、目眩がした。
何が「写輪眼のカカシ」だ。里の宝だ。
いい年をして、突然玄関で泣き出す男。何てみっともない。これが俺か。俺の姿か。
無理に迫って、上忍の威光を振りかざして嫌われて。今度は女の格好で、言い寄って。
それがバレて、それでも諦め切れずに押しかけて。それで最後は泣き出すのか。
吐き気がする。何て惨めな男だろう。

虚脱感で全身から力が抜けた。
これで全てを失った。
イルカの中に僅かに残されていただろう、自分への敬意。二つ名で呼ばれる凄腕の上忍への畏敬。
それすら今、俺は失ってしまったのだ。


突然、慌てた声で腕を掴まれた。
「どっ、どうしたんですか!?」
「・・・え?」
ぼんやりと顔を上げた。そして驚いた。
イルカが真剣な顔で覗き込んでいる。たった今、カカシが泣いているのに気付いたらしい。
さっきまで、激しい拒絶と共に伏せられていた黒い瞳。それが、驚きに大きく開いて自分を見詰めている。
「どっか痛いんですか!?何で泣いてんです!?」
腕を揺さぶられた衝撃に、涙がまた転がり落ちた。イルカが益々動揺する。
「ちょっ!?け、怪我してるんですか!?おいってば!泣いてないで教えて下さい!」


ああ。

なぁんだ。そうだったの。


安堵のあまり、ボロボロと涙が溢れ出した。イルカが驚愕のあまり、口をパクパクと震わせる。
その襟首をぐいと掴んで引き寄せた。そのままがばりと抱きついた。
「イルカせんせえ・・・イルカせんせぇ・・・・!」
泣きながら首に噛り付く。がっちりと、腕の中にイルカを抱きしめた。
「どっ、どうし!?え!?だ、だから、泣いてるわけを・・・!!」
イルカがパニックを起こしてじたばたと暴れる。それでも自分を突き飛ばそうとはしない。
突然与えられた起死回生の解答に、胸の中で大快哉を叫んだ。

ああ、そうだよね。
あんたはそういう人だったよね。
頑固で融通が利かなくて。怒りっぽくて、強情で。
そして何より、馬鹿がつくほど優しくて。
里中から爪弾きだった子供を、自分の両親を殺した獣を抱える子供を、後先考えずに抱きしめて。
愛情に飢えまくりだった忌まれ子を、これでもかって勢いで可愛がって。背中に傷まで拵えて。
あんたはそういう人なんだ。
泣きながら縋り付く手を、払いのけたり出来ないんだ。
その涙を見た途端、何もかもを忘れてしまうんだ。

「・・・・もしかして、眼が痛いんですか?昔サスケが一度、アカデミーでそんな風にだらだら泣いた時が
あったんですよ。眼力を制御できなくて。痛い痛いって。ねえ、そうなんですか?」
困り果てた様子でイルカが尋ねる。
「もしそうなら、すぐ医療班を・・・」
「違う。」
ぶんぶんと首を振って答えた。
「イルカ先生、あのね、俺はね、」
まだ涙に濡れた眼で、顔を近づける。自分の目線の、ほんの少し下で訝しげに見上げる生真面目な瞳。
うっとりと思った。何て素敵な眺めだろう。やっぱりこの姿勢が一番だ。
誘われるように、鼻の傷にキスをした。
「あんたが好きなの。俺、あんたの恋人になりたいの。ね、して?」


「はああああああ!!!!????」


イルカがすっとんきょうな声で叫んだ。
噴出しそうになった。ああほんと、何て俺は馬鹿だったんだろう。
最初から、こうすれば良かったんじゃないか。この人こんなに、直球に弱いんだから。
この非常時に、こんな間抜けな声出して。逃げれっこないよ。こんなんじゃ。
「何言ってるんですか!?ふざけないで下さいよ!何で俺が!」
殴りかからんばかりの勢いで叫ぶ。その腕をぐいと押さえ込んで、切なげに囁いた。
「だって、本気で好きだし。ごめんなさい。お願いだから、今までの事は許して?」

イルカが絶句してカカシを見上げる。
「・・・許してって・・・そ、そんな都合のいい・・・」
「じゃ、殴ってよ。気が済むまで。その代わり、その後絶対俺を捨てないで。」
「す、捨て・・・」
「もう、俺のこと切り捨てないで。俺のこと、物みたいに扱わないで。」
縋るように見詰めると、自分でも思い当たる節があるのだろう、イルカが困ったように眉を寄せた。
その馬鹿正直な困り方に、また胸がときめいた。
「大好き。先生に捨てられたら、俺悲しくて死んじゃう。さっきまでだって、悲しくて死にそう
だったんだから。」
ぎゅうぎゅう抱きしめて掻き口説いた。今突き放されたら、また本気で泣いてやろうと思った。

だってもう、恥も外聞もプライドも無い。恥ずかしい事なんて、やりつくした。
意地悪したし、乱暴したし、冷たくされたし、振られたし。みっともないとこ、全部見せたし。
この俺がだよ?この俺がここまで曝け出したんだよ?
後はもう、好きになってもらうしかないでしょ?

「かっ・・・勝手過ぎますよ!何言ってんだ今更!この強姦魔!変態!」
理性の箍が外れたイルカが叫びだす。大笑いしたくなった。
ほら。正面きって攻撃すれば、こんなにもこの人はガードが脆い。
お人よしのこの人が立てめぐらせた壁なんて、簡単にボロボロと崩れてく。
「俺の一世一代の告白まで踏みにじりやがって!俺の楓さんを返せ馬鹿野郎!!」
悔し涙を浮かべてわーわー騒ぐイルカを、可愛いなぁと一層強く抱き締めた。
「楓だって、俺の一部じゃない。楓も俺も、イルカ先生が大好き。それでいいデショ?」
「いいわけあるか!変態上忍!悪魔!!」
「・・・うわー悪魔だって。傷つくなー。でもいいや。愛しいイルカせんせの言葉だから。」
「だからそれ止めろ!寒気がする!!て言うか離れろ!」
「嫌。あんたを離すと、俺が寒気がするから。大好き。離れろなんて言わないで。」
殴ろうとする手を難なく抑えて、喚く唇をペロリと舐める。
「ずっと好きだったよ。多分最初から。自分じゃ気付かなかったけど。わかんなくって、ごめんなさい。」

ほんと、わかんなくってごめんなさい。
あんたがナルトを可愛がるのは、あいつが巨大な運命を背負ってるからじゃない。
その過酷さに、同情したからじゃない。
あいつがただ、ひたすらに愛情を求めたからだ。あんたに必死で、手を伸ばしたからだ。
あんたはどうしたって、その手を無視できなかったんだ。
あいつが運命の子供でも、何も抱えていない平凡な子供でも、あんたは同じように慈しんだに違いない。
俺だって、そうすりゃ良かったんだね。
まっすぐに手を伸ばせば、良かったんだね。

宝物みたいに、この人を見上げていたナルト。
あれを見て、俺も欲しくなったんだって思ってた。
でも、違った。
俺自身が、宝物みたいだって思ってたんだ。俺自身が、この人を欲しかった。
欲しくて欲しくて堪らなくて。なのに、全然気づいて貰えなくて。
ここにもあんたを、宝物みたいに思ってる奴がいるよって。少しも気付いて貰えなくて。
ナルトに笑いかけるその笑顔を、指をくわえて見てる事しか出来なくて。
それがすごく悔しくて。
その気持ちを認める事が出来ない位、俺を通り過ぎる視線が悔しくて。

だからどうしても、断られたくなくて。
逃げ道を全部塞いで、強引に自分のものにして。俺は凄いでしょ、って見せびらかして。
だけどちっとも、見てくれないから。怒ってすら、くれなかったから。
もうどうしたらいいか、わかんなくって。
八つ当たりしてごめんなさい。やり方間違えてごめんなさい。無茶しちゃってごめんなさい。
何度でも謝るから。もう、間違えないから。
薄く整った唇でにっこり笑う。
あんたを絡め取る方法が、分かったから。




「イルカ先生!どうしたんだってば!?そんなトコで蹲って。具合でも悪いのか?」
ナルトの驚いた声が受付所の角から聞こえた。受付にいないと思ってたら、こんな所にいたのか。
そっと気配を消して近寄った。
「ああ・・・ナルトか・・・・何でもない。逃げ・・いや、休んでただけだ。」
イルカのどこか憔悴した声が答える。
「どうしたんだ?イルカ先生、疲れてるのか?」
気遣わしげにナルトが擦り寄る。
「・・・・・うん。まぁ・・そうだな、疲れてるな・・・・」
「何で?何でそんな、疲れてるんだ?」
イルカが力なくハハハと笑う。
「先生なぁ・・・・今ちょっと宇宙人に振り回されてるんだよ・・・」

「うちゅうじん!?」
ナルトがびっくりした声を上げた。
「すっげー!なに!?なにそれ!?まじ!?先生宇宙人と接触してんのか!?」
イルカの言うことなら、何でも丸呑みで受け入れるナルトが素直に興奮する。
「うん・・・ま、それで色々大変なんだ・・・・。何しろ宇宙人だからな。地球の常識が通用しないんだ。
・・・何考えてるのか全然分からん。行動がとっぴ過ぎて・・・・」
イルカが遠い目で呟く。
「いいなー!俺も会ってみたいってば!!」
「はは・・・・。案外いつも会ってるかもしんないぞ・・・・。一応人間体型してるし。先生も最初それで
騙されたからな・・。」
「えー!!まじ!?サクラちゃん達にも教えてやんなきゃ!」

「どーも。」

ふわりと二人の前に降り立った。
「カ、カカシ先生・・・・!」
イルカがあからさまにギクリと腰を浮かす。その腕をすかさず掴んでぐいと顔を近づけた。
「今日は。」
「こ、こ、今日は・・!」
いかなる時も挨拶を無視できないイルカが、吃りながら返事を返す。
「カカシ先生。まだ残ってたのか?」
ナルトが意外そうに眼を瞬かせる。その青い瞳にチッチッと人差し指を振った。
「ちがうぞーナルト。俺は「カカシ先生」じゃなーいヨ。」
「え?じゃ、何だってば?」
カカシがにっこり笑って親指を自分に向ける。
「宇宙からの使者。」

「ばっかでー。」
普段の言動に信用の置けない上官に、ナルトがべーっと舌を出す。
「はいはい。もーおまえ、帰って寝なさい。明日また、チャクラ搾り取ってやるから。」
ゲッと蛙のような声を上げて、ナルトが逃げていく。ニコニコとそれを見送った。
そうそう。良い子は早寝早起き。大人の時間を、邪魔しない。

「・・・さて!イルカ先生、今日こそOKして下さいよー?」
くるりと振り返って、イルカの耳元に囁く。
「ばっ・・・・!嫌です!もうあんな事、二度とごめんだ!」
「なんでー?今度はまじで、天国にいかせてみせますってばー。前だって、時々はイッてたじゃない。」
「ぎゃ―――――――!!止めろ―――――!!」
イルカが真っ赤になってカカシの口布を掌で塞ぐ。周囲がギョッと引く気配がした。
それをイルカに気付かれないように、さりげなく身体の向きを変えた。
折角、この人から触れてくれてるんだから。もっと堪能しなきゃ、勿体無いよね。

「あんたって、ほんと頑固だよねえ・・・・」
呆れた口調で呟いた。イルカがキッと顔を上げる。
「頑固って問題じゃない!あ、あ、あんなこと・・・もう、お、俺は・・・!」
言いながら、何かを思い出したように一層顔を赤らめる。ああ。何て真面目で可愛いんだろう。
絶対、気持ち良くさせてあげるのに。
お互いイキまくり、イカせまくりにしちゃうのに。
あんな一方的な、自覚のない関係の時すら、先生の反応に起ちっ放しだったんだよ?
今させて貰えたら、それこそ舐めまくって突きまくって、全身トロトロに溶かしちゃうのになあ。
もう許して、って泣きが入るまで先生のいいとこ、弄っちゃうのに。

「あーもー、そんな顔するから、起ってきちゃったじゃない。」
「はぁ!?」
イルカが心底驚いたように口をあんぐりと開けた。
その額にみるみる青筋が立ってくる。憤然と身体を翻して、何処かに行こうとする。
慌ててイルカの手を掴んだ。
「ごめんなさい。調子に乗りすぎました。」
それでも消えない青筋に、しゅんとなって項垂れた。
「ほんとに、もう言いません。だから、行かないで?お願い。俺を置いてかないで。」

イルカがガクリと首を落とした。
「もう・・・・もう貴方は・・・・何で、いっつもそう・・・いきなり捨てられた子犬状態に・・・・」
「だって、本当に捨てられたら嫌だもん。」
「もん、じゃないですよ。いい年して・・・・」
「じゃ、許してくれる?今日もあんたん家、行っていい?いいよね?ね?」
ウキウキとイルカの腕を引き寄せると、イルカが大きな溜息を吐いた。一応チャレンジ、といった風情で
力無く尋ねる。
「・・・・嫌だって言ったら、どうしますか?」
カカシがにっこりと笑う。
「悲しみのあまり、ここで泣き出す。」

イルカが一層悄然と肩を落とした。
この間、この脅しを冗談だと思って、そのまま置き去りにした。
その三分後、同僚が興奮して事務室に飛び込んできた。
「写輪眼のカカシが廊下で泣いてる」と叫びながら。
その場で卒倒しそうになった。慌てて飛び出してカカシの腕を掴んだ。
その時のカカシの、ニコーっと幸せそうに笑った笑顔が忘れられない。早く忘れ去りたい、忌まわしい
思い出が瞬時に蘇った。
「楓」の笑顔。
あんなにも自分の心を捕らえた、あの嬉しげな笑顔。ずっと見守っていたいと思わせた、あの儚い程
無邪気な笑顔。その笑顔が、何故この性悪上忍の顔に。
畜生。この男が傲慢に振舞ってた時の方が、ずっと気楽だった。
何で俺がこんなに振り回されなきゃいけないんだ。強姦されて、騙されて、そして今度は泣き落とし。
「・・・・どこまで人を振り回すつもりですか・・・俺、もうへとへとです・・・」
弱った声で、訴えた。もう嫌だ。この人本当に、宇宙人なんじゃないだろうか。


カカシが僅かに眼を開く。
今のイルカの言葉が、胸に妖しく広がっていく。
蜘蛛の巣のように。
危険な成分を秘めた、白く輝くあの糸のように。
夢見るようにうっとりと、色違いの瞳を閉じた。


ああ。
もっともっと、へとへとになって。
俺にもっと、振り回されて。
そして、疲れて。
一歩も動けないほど、指一本も動かせないほど、疲れ果てて。
そうして、この糸の中に落ちてきて。



そうしたら、貴方を俺の中に閉じ込めるから。
貴方を抱いて永遠に、醒めない夢を見続けるから。






END
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