『尊卑分脉』
敏達天皇━春日皇子━妹子王━毛人━毛野━永見┳瀧雄━恒柯
                      ┃     ┏後生━美材
                      ┗峰守━ 篁 ╋良真┳女子
                            ┃  ┗女子(小町)
                            ┣葛繪━好古
                            ┗忠範
・『尊卑分脉』の問題点
@春日皇子が妹子の父であること。
A毛野と永見の活躍時期が4〜50年隔たっているのに親子としていること。
B葛絵を篁の子としたため、篁と好古との年齢にかなりのずれを生じていること。
C忠範の記入は明らかな誤写であること。

尊卑分脉はこういうポカが結構あるらしい。また、「清原氏系図」に「吉柯」という人物が出てくる。吉柯は瀧雄の次男
で、清原朝臣業恒(『弘仁式』にある右大臣清原朝臣夏野のひ孫)の子、廣澄を養子としたことが書かれている。(ただ
し清原氏系図にもかなりの混乱が見られる。)

『諸家系図』
敏達天皇━春日皇子━妹子王━毛人━毛野━永見┳瀧雄━恒柯
                      ┃
                      ┗峰守┳葛絃━道風
                         ┃
                         ┃  ┏俊生━義材━利春
                         ┗ 篁 ╋良真━小町
                            ┗葛繪┳保衡
                               ┗好古
・『諸家系図』の問題点
@『尊卑分脉』の@ABに同じ。
A「葛絃」と「葛繪」を別人として道風と好古を兄弟としていないこと。

峰守以前は『尊卑分脉』を鵜呑みにして書かれているし、新鮮味がない。
葛絃を峰守の子として書き込むことにより、篁と同時期に活躍するという矛盾(篁の子ではありえないから)を解消した
のはいいが、道風の生まれが早すぎてしまい(『葛繪子』の記事に固執したため)時代が合わなくなっている。この系図
のためなのか、歌舞伎の中で柳に蛙が飛びつくのを見て承和の変(842)を未然に察知したという役どころを与えられて
いる。ところが道風の生まれは寛平六(894)年とされ、実に五十年のひらきがある。これには少々無理があるのではな
いか。『群書類従』に採られた古写本がこれにほぼ等しい。

諸本系図よりの統合した系図
大樹…妹子毛人毛野┬ 老 ┰小贄
     │  └文人│  ┃
     │     └田守┃
     └広人┬牛養   ┠竹良┬滋野
        └馬養   ┃  └永見瀧雄┯恒柯
              ┗石根   ┃  ├吉柯
                    ┃  └当柯─良真─女(小町)
                    ┣峰守┳ 篁 ━俊生┬美材
                    │  ┠葛絃   └葛繪┳道風
                    │  ┠千株      ┗好古
                    │  ┗女(藤原敏行室)
                    ├石雄┳春枝
                    │  ┣春風           
                    │  └春泉
                    └野主
 異本においても血縁の認められるのは太線のみである。『新撰姓氏録』にそって春日小野臣の「大樹」をおき、敏達
天皇からの皇別は避けている。尊卑分脉におけるAの問題を多くの系図は「毛野━老━竹良━永見」として解決しよう
と試みているが確証は得られない。そのうえ永見は活躍期に当たる正史『日本後記』が散逸しているためと、從五位下
までしか進まなかったことにより正史に名前が現れないという不運が重なって、誕生はおろか卒時期さえ知れない。永
見は坂上田村麻呂の東征に副将軍として従軍したとされるが、『日本後記 延暦十五年十月甲申条』には田村麻呂を
鎭守將軍に任じたとはあるが、永見に対する記述はない。(ただし、ここ記述は『・・・田村麻呂爲鎭守將軍。□□□□
□□爲軍監。』と六字欠落している。「田村麻呂」以下六字も舊脱していたものを『公卿補任』から補ったものである。し
かし、欠部に『小野朝臣永見』と入っていたとは思えない。)
 『公卿補任』に拠れば、三男の峰守は天長七(830)年53歳で薨したとなっている。よって生まれは寶龜八(777)年、
永見の父とされる竹良は~護景雲三(769)年に亡くなっている。さらに老は天平九(737)年死亡であるが、竹良は從五
位下になったのがその十七年後の天平勝寶六(754)年、亡くなる十五年前のこと。人にもよるし政治状況も影響する
が、仮に從五位下に30代半ばに任じられるとしよう。すると竹良は50歳で死亡。これは老と親子であるためには上る
ことこそあれ、若くなることはないだろう。永見が竹良二十代の子供なら、竹良の卒時はまもなく從五位下になる30歳
手前。東征の頃まで五位でいたとしたら、実に二十年間出世なしとなる。ありえないことではないが、不自然さは残る。
 小町の問題であるが、多くは瀧雄のひ孫とし、篁とのつながりを避けている。しかしそれでは時代的に遅すぎるので、
少なくとも瀧雄か峰守あたりの孫がいいところだと思われる。
どうしてこの人物を組み入れたのだろうというものはなるべくはずしたが、これが理想系とは云えない。