天井

 何があったのか、角に座ったお武家が天井をにらみつけてかれこれ小半時になる。さすがに店の主人 も気になって、
「何か、ございましたかな。」
と手を拭きふき奥から出てきた。
「おお、この屋の主人か。ちと尋ねるがな。」
「へぇ。」
「あの天井からぶら下がっているお面のような物はなんだ。」
「なんでございます。」
 主人は天井を眺めて、
「何も、見当たりませんがなぁ。」
「そのようなことは在るまい。もそっとよく見てみよ。」
「然様ですかい。」
と、いぶかしげにまた天井を見た。
「やはり何もございません。お面など、天井には掛けますまい。失礼ながら御酒の加減でございましょ う。」
とやんわりと諭した。
「然様か。」
 お武家はしばらく目を瞬かせてはじっと一点を眺めていたが、銭を懐から出すと「ご造作。」と帰ってい った。
 翌晩も来てしきりと天井を見つめていた。
「はっきりと見えるのだがなぁ。」
 その次の夜も、店に来てはじっと天井を眺めて納得いかぬ顔をして帰る。こんなことがしばらく続いた。
 その日も店開きから顔を出して、じっと天井ばかりを気にしていた。
「ちょいとよろしゅうございますか。」
 主人が渋い顔をして向かいの席に腰を下ろした。まだ早いので、店には二三の客しか居らず、ましてお 武家と席を並べようとする者もいないから、あたりに気遣いもなかった。
「先夜、天井には何も見当たらぬと申しましたが、実は…居るんでございます。」
「やはりそうか。」
「へぇ。実はお面などではございませんで、アレは私の女房の顔なんでございます。」
「お主のお内儀と申すか。」
 お武家は首ばかりを伸ばして主人のほうに顔を寄せた。
「へぇ。女房は一昨年の暮に体を悪くしまして、一度は直りかけたのでございますが、夏の走りに風邪を こじらせてそれっきり、死んじまいました。四十九日も終え、お寺様のことも済ませて。いつまでもぼんや りとはしては居られませんから、店を開けたんでございます。二三日は休んだことはございましたが、こん なに長く休んだことはございませんから、お客様も気にしてくださいまして、この日は大層入りました。マァ お武家様では分かりますまいが、こんな混み合う日でも客足が途絶える刻限というものがございまして な。ひとまず片付けをして、さて、次の支度をと板場へ戻ろうとしたときでございます。何やら二階から見 られている気がしたんでございます。振り返り様天井を見て驚きましたよ。死んだはずの女房が覗いてい るじゃありませんか。それも顔ばかりがじっとこっちを見つめている。驚きゃしましたが、こっちには、幽霊 になって出てこられるような後ろめたいことなんざありゃしません。恨み事言いたいのはこっちのほうで。 で、こっちがじっと見つめ返していりゃ消えるだろうと見ておりましたが、これが消えない。よくよく見るう ち、ずいぶんと穏やかな顔しているのが分かりました。きっと私のことを心配して出てきたんだろうって ね。そう思ったら薄ッ気味悪さも無くなりました。根が世話焼きというか、悋気持ちというか、以来刻限に なるとあすこに出るんで。」
「なるほど。そのようなことが在ったか。私も国許に家内を置いてきているが、何かと寂しいものよ。あれ がお内儀の幽霊のう。」
 頻りと感心されて、
「主人、お内儀は御酒を召し上がったか。」
「こんな商売でございますから、多少は。」
「ならば一献差し上げよう。」
と言って酒を二合注文した。
「それとこれは少ないが。」
 南遼銀二粒を懐紙に包んで主人に渡した。
「このように沢山に、よろしいんで。」
 主人は礼を云うと奥に下がって酒の用意をした。
 二階が住まいとなっているものか、階段を蹴たって降りてくると改めて頭を下げた。
「有難うございます。何よりの供養になります。お武家様。戴いたから言うわけではございませんが、貴方 様が初めてではないんで。」
「他にも見た者が居ったか。」
「はい。こんなことを申しますと、大抵の方は気味悪がられて二度といらっしゃらなくなります。マァ剛毅な 方でも二三度はいらっしゃいますが、だんだんと足が遠のくようで。お武家様のように御酒まで下さった 方はございません。これも何かのご縁とお思いくだされば、どうかまたお越しくださいますよう。」
「あい分かった。今後贔屓にさせてもらおう。」
「有難う存じます。」
と、また翌晩、お武家はふらりとやってきた。
「主人、酒を。」
「へぇ。」
 座るなり天井を見上げ、
「まだ、お内儀は出てないようだな。」
「そのようで。」
 店の中が込み合い出したころ、丑三つにはまだ早い亥の刻の鐘とともにぼんやりと顔が浮かび上がっ てきた。
「確かに、主人のいうとおりだ。柔らかい顔をしている。悋気とは往々にして造作の悪さからくるものかと 思っていたが、こうしげしげと見てみると綺麗な顔をしたお内儀だったのだなぁ。ここの主人にはもったい ないほどだ。」
 天井と主人を四三に見比べて、薄ら笑いを浮かべた。主人のほうもこれに目が合ってしまい、間の悪 い笑顔を見せた。
「おい、長松。」
「へーい。」
「あっこのお武家さんにこれを。」
「へーい。」
 甲走った声が店に響く。
「おまちどおさま。」
「小僧さん、私はこれは頼んでいない。何か間違えていないかい。」
「イエ、これは主人からこちらへとの事で。」
「遠慮なさらずにどうぞ。」
「悪いねぇ。それじゃ、いつものように御酒を上げてくださいよ。」
と言って小僧の腹掛けにこづかいを突っ込んだ。
「へーい。」
「馬鹿、そういうときの返事てぇのはもちっと短くするもんだ。」
「へい。」
 ガリを食った小僧の弱弱しい声に店が笑いに包まれた。
 それからもこのお武家は一人で、あるいは仲間を連れ三日に空けず飲みにきた。そんなことが三月も 続いたある夕刻のこと。
「ご主人は居られるか。」
「おや、これは。まだ始まっておりませんが、どうぞ、お座りになって。」
「いやいや、今日はちと暇乞いに参った。」
 確かに形を見れば旅支度。この刻限にどこに行くのであろうか。
「私は去る藩の家中の者でな、久しく江戸勤番であったが、このたび藩侯の帰国にあわせ国許での勤め に役替えとなった。今度訪ねるのはいつのことになるか分からぬゆえ、挨拶に参った。」
「然様でございましたか。それはそれは。ウチのも、寂しがります。」
「お内儀にも挨拶をと思うたが、この刻限では出てはこられまい。よろしく伝えてくれ。」
「そちらの奥様にもよろしくお伝えを。道中お気をつけて。」
「むう。今朝出立した藩侯が今宵藤沢どまりと聞いた。何とか急げば明日までに追いつける。主人、達者 でな。」
 そう言い残すとお武家は一目散に駆け出した。
「ただいま。」
 入れ違いに入ってきたのは通い箱を下げた徒(あだ)なおかみで。
「オウ、お帰り。今日は遅かったが、よかった。」
「何かあったのかい。」
「ああ、めぇに話したあのお武家が、今しがたまでいたのさ。」
「そりゃ、あっちがいたら拙かろうねぇ。」
「国許に帰るそうだ。それにしたって待っている人もねぇのに気の毒なもんだ。」
 主人は襷を掛け直して中へと入っていった。
「でもさぁ。死んだ女房の面影が酒飲むと浮かんでくるなんざぁ、泣かせるじゃないか。」
「おうよ、こりゃあ又聞きなんだがな、本人はお内儀が死んだことなんぞすっかり忘れてしまってるんだっ てよ。ちょいとココが逝かれているらしいや。」
と、鉢巻頭を指差した。
「だからよ、ウチの天井に幽霊が見えるなんて言い出すんだ。」
「おかげであたしゃ身代わりになってあの世行き、ってかい。」
「なんだか、情が移っちまったのかな。今となっちゃ、あんな作り話しなきゃよかったと思えてならねぇ。」
 
「今、帰った。」
「お帰りなさいまし。」
 受け取った刀に柄袋が被っているのを見て、改めて主の姿を見なおした。
「マァ、これからお出かけで。」
「よせやい、こんな田舎侍の形で出かけられるか。」
「でもそれで帰ってらっしゃったんでしょ。」
「笠目深に被って顔を見られないようにしてきた。」
 どかっと腰を下ろして、頑丈にした足作りを解いた。
「今日から居酒屋には居かねぇよ。」
「お辞めになったんですか。」
「いいかげん書き物の取材は出来たし、芝居にも飽きてきた。いい頃合と思って国許に帰ると言って暇乞 いしてきた。」
「あまり変なことなさらないでくださいよ。物書きの方っていうのは皆さんそうなんですかねぇ。」
「いや、俺ばかりだろう。俵蔵も倉蔵もやってるてぇのは聞かねぇからな。」
「仮にも御上の禄を食んでいるんですよ。息子も…。」
「分かってるよ。『すべては大田の家名』だろ。だから辞めにしたじゃねぇか。こんどはすっぱり頭ァ剃って 坊主にでも化けてみるか。」
「あなた、そればかりは。」
「冗談だ。二度とこんなマネはしねぇよ。だが、たまにゃぁ狂人になってみるのも面白いもんだぜ。」
 奥方は急に笑いがこみ上げてきた。
「どうした。」
「いえね、あなたの狂人の芝居、さぞかしドウに入っていただろうなぁって。」
「そりゃそうさ、何をやらせても小器用にこなすのがこの直次郎だ。」
 さて、と立ち上がり、不意に玄関先の天井を見上げた。
「おい、幽霊ってぇのは、本当に居るもんかね。」
「知りません。あったこともないし、成った事もございませんもの。」
 奥方の顔をまじまじと見つめ、
「違いねぇや。」
と大笑いをした。

ちょっと込み入った話。美味くまとまりませんでしたが、夏の怪談シーズンということで、ご愛嬌。