
<お正月>
明けましておめでとうございます。
新しい年を迎え、心も新たに日々を過ごしたいものです。
とどまらぬ時の流れのひとくぎり
去年は去年とし今年を生きぬ 筏井嘉一
時の流れはとどまることを知らず移り去っていきます。まさしく「諸行無常」です。去年一年を振り返ってみましても、あっという間に時は流れたと感じる方が大半ではないでしょうか。
昨年はどんな年でしたか?
「ああしとけばよかったなー」「あんなことするんじゃなかったなー」そんな後悔の念を持たれたまま年を越された方も少なくないでしょう。しかし、物事はなかなか思うようには進みません。そんなつもりではなかった自分の言葉が誤解を生んでしまったり、誰かを傷つけたり・・・。
真摯に反省することは大事ですが、そのことに思い煩ってばかりいるのではなく、この歌にあるように去年の事は去年の事として、この一年の初めお正月に一度心をリセットして、新たに進んでいきましょう。
<不殺生戒>
当院では、毎年6月15日に『青葉まつり』の法要を行っています。青葉まつりとは真言宗の宗祖、弘法大師、空海さん(我々はお大師さんとお呼びしますが)のお誕生日であり、そのお祝いをする法要です。この法要に合わせて当院では『生前戒名授与式』を執り行います。生前に戒名?と思われる方もいらっしゃると思いますが、本来は戒名は生前に授かるものなのです。戒名のことにつきましては、又の機会にお話ししたいと思いますが、この儀式を受けられる方に仏教徒として生きるための戒(いましめ)をお授けします。仏教徒としてどう生きていくべきか、その生活指針となるのが、この時お授けする『十善戒』です。十からなる戒です。
その一番最初『不殺生戒』についてお話します。不殺生戒とは読んで字のごとく命あるものを殺してはいけない、という戒めです。限りある命を粗末にしてはいけない。小さいころから親や学校の先生に教わってきた、当たり前といえば当たり前のことです。
しかし、実際の我々はどうでしょう?家の中に入ってきた虫を害虫だと言ってティッシュでひねりつぶしたりしてしまいます。いやいや、私はちゃんと外に逃がしてあげるよ。こうおっしゃる方もいらっしゃるでしょう。しかし外を歩いたならば、無意識にありなどのたくさんの命を踏みつぶしていることでしょう。しかし我々はそんなこと普段意識していない。毎日いただく食事を考えてみてもそうです。ほとんど意識することなく、様々な命をいただいている。つまりたくさんの命の犠牲のもとに我々は日暮しさせていただいていると言えるでしょう。
ある小学生のこんな詩を読んだことがあります。
ぼくはカニを食べました。
ぼくはカニの一生を食べました。
わずか二行の詩ですが、この詩は我々に大事なことを教えてくれます。一つは命の尊さ、そしてその命をいただけるもったいなさ。もう一つはその尊い命をいただいて生きることへの責任。
限りある命を粗末にしてはいけないとの思いを新たにすると同時に、たくさんの命を犠牲にしなければ生きていけない存在が自分であり、だからこそ自らの命に責任を持って大事に生きなければ、と自らに言い聞かせたいものです。
<我々の見方2>
突然ですが、皆さんに質問です。日本にはたくさんの上っている坂、下っている坂がありますが、はたして上り坂、下り坂どちらが多いと思いますか。おわかりですね。答えはどちらも同じ数です。それはそうですよね。一つの坂(傾いた道)を下から見上げて上り坂、上から見下ろして下り坂と人間が勝手に便宜上呼んでいるだけなのですから、坂は上り坂と見る事も出来るし、下り坂と見る事も出来るわけです。
ところがある坂、小樽で一番有名な坂(当日光院のすぐ近くの坂)船見坂での出来事だと致しましょう。この坂のてっぺんに住む坂上さんと坂の一番下に住む坂下さんがこの船見坂をめぐって言い争いになりました。坂上さんはいつもこの坂を見下ろしていますから、この坂は下り坂だと主張します。しかし坂下さんはいつもこの坂を見上げていますからこの坂は上り坂だと言って聞きません。二人とも自分の見方だけが正しいのだと思い込み、結局相容れることはなかったと言います。
もちろんこれは例え話しです。こんな極端なことがあるものかとお思いでしょうが、はたしてそうでしょうか。私たちの見方は実は坂上さん、坂下さんの見方とあまり違いはないのではないでしょうか。私たちは本当かどうかもわからない持論にこだわりをもち、それに縛られ他と争ってしまう。表面上争わなくても他の意見を受け入れる事を拒んでしまう。これでは正しくものを見ることなど到底出来ません。正しくものを見るということは実はすごく難しい事のようです。自分だけは正しくものを見ていると錯覚してしまう我々はこのことをよくよく肝に銘じなくてはいけません。
<我々の見方>
初期仏教経典ウダーナ(自説経)にこのような話があります。
昔、お釈迦様が、祇園精舎という所に居られる頃、托鉢から帰った弟子の一人がお釈迦様に、こう告げました。 「私は、町で多くの異教徒の人たちが口論する姿を見てきました。ある者は世界は常にそのままであると言い、又ある者は世界は変化すると言い、あるいは、世界は有限であるとか無限であるとか、命と体は一つである。いや、別である。死後はある。いやないなど。いづれも自説に固執して、鋭い言葉で相手を負かそうと争う日々を送っているのを見てきました。」それを聞いたお釈迦様は、弟子たちに向かって、こんなお話をされました。 《昔、ある国に一人の王があった。ある時、この王は家臣に、遠い国より、未だ象というものを見たことのない者たちを集めるよう命令をした。そして彼らに目隠しをし、その前に大きな象を引き出した。そして彼らに向かって、『ここに象がいる。この象を調べて、象とはどのようなものか言ってみよ』と言った。目隠しをされた者たちは、象を取り巻き、手で象を探った。頭に触れる者、耳を触る者、牙を掴む者、鼻に触る者、腹を撫でる者、足に抱きつく者、背に上る者、尾を握る者など様々であった。調べ終わった時、王は彼らに聞いた。『お前たちは象をいかなるものと見たか?』象の頭に触れた者は「甕(かめ)のようなもの」と答え、耳を触った者は「箕(みの)のようなもの」、牙を掴んだ者は「鋤(すき)の先のようなもの」、鼻に触った者は「棒のようなもの」、腹を撫でた者は「壁のようなもの」、足に抱きついた者は「大きな木のようなもの」、背中に上った者は「小山のようなもの」尾を握ったものは「箒(ほうき)のようなもの」とそれぞれ答えた。そして彼らは、自分の見方が正しく他は間違っていると言って口論し、果ては殴り合いにまでなったと言う。》
このお話をされた後、お釈迦さまは弟子にこう申されました。 『お前が町で見てきた人々は、この目隠しされた人々と同じである。本当の正しさや道理を知らず、それ故に、彼らは互いに自説に固執し譲らず、争いをするのである。― 自らの見解に執着し争いをなすは、ものの一面を見て、全体を知らざる故なり― 』と。こうしてお釈迦様は、執着する心によって、正しきもの、本当のものを見失う事のないようを諭されたのでした。
偏った持論による様々な情報が飛び交う世の中で、そのことに右往左往されながら、なおかつ、自らの見解に執着してしまう我々のものの見方では残念ながら、正しくものを見る事など出来ないとお釈迦様は諭されるのです。
<諦(あきら)めるということ>
ある大学の講師を務める仏教学者が大学の学生たちにこのような体験談を述べています。
私は昔、隣の家の火事のもらい火により、倉庫を全焼してしまった。
集めていた蔵書、資料、書き記した研究ノートなど全てを失くしてしまった。そのことにより、心は燃えたぎった。大事にしていたそれらをもらい火によって「焼かれた」と思い、怒りと恨み、憎しみの毎日を送った。
これではいけないと「焼かれた」のではなく、自分で「焼いた」のだと思い込もうとした。しかし、それでも、心は苦しくやりきれない。何もする気の起こらない日々を過ごした。
しばらくたったある日、こう考えてみようと思い立った。あの蔵書達は誰かの意図によって「焼かれた」のではない。もちろん自分の意図によって「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」のだ。そうありのままにこの状況を見つめることができた時、初めて心に安らぎが生まれた。
私たちは我が身に不幸が訪れた時、心乱し、そして苦しみを膨らませます。起こってしまったことを戻すことはできないことはわかっていても、もがき苦しみます。
その状況をなかなか受け入れることができないので、他へ怒り、憎しみを向けることで、あるいは自らを責めることで、なんとか自分自身を納得させようとしますが、かえって苦しみを助長させてしまいます。
仏教ではそんな苦しみから逃れる方法として「諦める」ことを説いています。「諦める」という言葉は今、あまりいい意味では使われませんが、もともと仏教用語で「明らかに見る」ということです。どうしようもないことを何かのせいにするのではなく、逃れようもない事として、その状況だけを受け入れることができれば苦しみはいつの間にか離れていきます。
<反省する心>
お経の中に懺悔文(さんげもん)という御文があります。
『我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身語意之所生 一切我今皆懺悔』
知らず知らずに犯してしまっている日頃の悪しき行いを悔い改め、反省する御文です。
ある新聞の作文コンクールに「うちには悪人ばかりです」という不思議なタイトルの作文がありました。
僕が学校から家に帰り、部屋に入ると何かにつまずいた。見るとそれは墨汁の入れ物で墨がこぼれている。シマッタ、悪い事しちゃったと、急いで雑巾を取ってきてあわてて拭いていると、そこへ姉さんが帰ってきた。「ごめんね。うっかりそこへ置いた私が悪かったの。」と言ってバケツに水を汲んで、雑巾をゆすぎながら拭いてくれました。そこへお母さんが帰ってきて、二人で拭いてるのを見て「ごめんごめん。今朝、廊下を掃除していた時気がついたのにうっかり片づけなかった母さんが悪いのよ。」と言ってお湯と洗剤を持ってきてきれいに拭き取ってくれました。だからうちには悪人ばかりです。私たちはなかなかこのようにはいきません。誰かの失敗を自らのせいとして受け止めることは簡単なことではありません。それどころか自分の犯した罪さえ誰かのせい、何かのせいにしてごまかしてしまうことの方が多いとさえ言えるのではないでしょうか。
この世に失敗をしない人など、どこにもいません。であるならば私たちに問われるのはしてしまった失敗をどう反省することができるかということではないでしょうか。
自らを猛省することにより、素直に自身の至らなさに気付いた時、他の人の過ちを責める事などできない慈悲の心の芽生えというものがあるのではないかと思うのです。
<お布施について>
お寺でお経を上げてもらうと「お布施」という形でお礼をするのが一般的かと思います。「お布施」ですから本来金額が決まっているものではありませんし各個人の分に応じて、というのが本当なのだろうと思います。しかしお布施を出す方にすれば一体いくら包めばよいのか迷ってしまうという話しもよく聞きますし、年忌のときなど「おいくらぐらい包めば」と聞かれる事もよくあります。
私の考えとしていままでは「お布施で