一口法話

 




私は数年前まで、あるお年寄りの福祉施設に通い、入居者の傾聴ボランティア、平たく言いますと愚痴聴き係のようなことをさせていただいておりました。その施設にはたくさんの入居者がいて、その半数位の方が車イスに乗っていました。

最初にその施設に訪れた時の話です。ある男性の乗った車イスのタイヤが自動ドアのレールのところで引っかかってしまい、身動きが取れなくなっていたのです。私はなんとかしなきゃと思い後ろから車イスを押してあげました。すると思ってもみない言葉が返ってきたのです。「何すんだい。やめてくれないか。せっかく自分で車イスを漕ぐ訓練をしてんのに・・・」私は恥ずかしいやら、くやしいやらでその場を逃げるように離れてしまいました。

私には知らず知らずに自分の行為に対して感謝してもらえるだろう、とまさしく見返りを期待するような気持ちがそこにあったのです。だから、その方の言葉にくやしさまで覚えてしまったのです。その時の行為は相手の為ではなく、自分の為の行いであったと言えます。

のちに、その方はもともと警察官でかなり上の役職まで務められたことを知りました。しかし脳梗塞で倒れ、不本意ながらも車イスに乗る生活を送らなければいけなくなり、練習を始めたばかりだったのです。

人はそれぞれ何かを抱えながら日々を生きています。それぞれの事情はほかの人には簡単にはわかりません。だから本当にその人が望むような言葉をかけることや手助けをすることは容易なことではないのかもしれません。でも、だからといってそこであきらめてしまうことは悲しいことです。

宮澤 章二さんという詩人が「行為の意味」という詩を詠まれています。

心は見えないけれど 心づかいは見える

思いは見えないけれど 思いやりは見える

やさしい思いが

やさしい行為になったとき

心ははじめて生きる

心が生きることは

人間が生きることだ



元警察官のその方からは、その後、様々な話をしていただけるようになりました。