<後片付け>
お盆の行事は準備もそうですが何より大変なのが後片付けです
特にうちの場合は納骨堂がありますのでお盆には納骨仏壇にお骨をおさめていらっしゃる檀家さん、そしてそのご親戚の方がお参りになります。
お花、お供物、その量は大変なのもです。
それを檀家さんの有志の方と我々寺のもので全て下ろし、掃除をして片づける訳です。
片付けが終わったら皆でお昼を頂いて解散となりますが今年は15名の方がお手伝い下さいました。
お盆期間中の受付から片付けまで本当に多くの方にご協力をいただいてようやく今年もお盆を終える事ができた訳で、心から感謝です。
大寺院ですと多くの職員がいて全て寺側で準備、片付けも出来ますが当院のような小さな寺院では何と言っても檀家さんにお手伝い頂かなくてはどんな行事も成り立ちません。
寺ボランティアのスカウト部長である私としては一人でも多くの方に1年に1回のお手伝いをお願いして歩いています。
こんな風に寺の裏方に参加することで深ーい仏縁を結んで欲しいと思っています。
〈短気〉
北海道というのは日本の中でも気候的にある意味特殊な地域でもあるのでしょう。
冬の寒さと雪の多さからかと思いますが、お寺に納骨堂が付随してあるのが多く見られます。
日光院も本堂の脇に納骨堂がありますので、お盆やお彼岸の時期は沢山の方がお参りになります。
勿論、納骨堂はお墓と同じですので365日いつでもお参りできる訳ですが、人の配置の関係もあっていつでも開けっ放しにしておくこともできないので鍵をする時は「庫裡におまわり下さい」と張り紙をしておきます。ところがまずこの貼り紙を読まない人が沢山いるのです。
扉をガンガンーーー押したり引っ張ったり。。。。
そのうちよほど頭に来たのでしょう「お盆の間ぐらい開けておけ!」と書き置きを残して行った方もいました。
「庫裡」という言葉を理解してもらえないかなあと思い今は「本堂の右手の建物」と注を入れていますが、短気な人の多い事にびっくりですね。少し冷静に考えるとわかると思うのですが、そう思うのは私だけでしょうか?
<日本人のDNA>
16日は送り火。ようやくお盆も終わりましたね。
お寺にとってお盆はなんといっても最大の行事です。それも7日盆から20日盆までという具合に長い〜〜〜そこまで考えなくても最低でも13、14、15日と3日間は続くわけですからナカナカ大変なものです。今年も8月に入ると普段はお寺に見えない方が結構お参りにみえます。
もう何十年ぶり、という方もいたりして8月のお盆というのは日本人のDNAに深くインプットされているのだなあと実感!13日の朝ともなると6時前からお参りの方が見えます。これでも以前より遅くはなったのですが、こちらもとても寝ているわけにもいかない訳で、暑さとあいまってお盆はヘトヘトになるという具合です。
「精霊棚」「迎え火」「棚経」等々、改めて説明しないとわかって頂けない言葉やしきたりが増えてきて来たなあ、と思うお盆でもあるのですが。
兎にも角にも墓地や納骨堂にお参りに行かなければ、という思いはまだまだ我々日本人の心の深いところに残っているようですね。
<2005-7>
皆さんは「回向」という言葉をご存知ですか?
辞書的に書くと「自分の修めた善行の結果が、他にめぐらされて及ぶ事を期すること」となります。
なんだかよく判らないと言われそうですね。
皆さんはお仏壇におまいりする時、お寺におまいりする時、どんな風な感じでお参りされるでしょうか?
何となく亡くなった方に手を合わせてお参りしていませんか?
勿論、亡くなった方を偲び、「心安らかに彼岸へお渡り下さい。」と手を合わせるのですが。
それを誰に頼むのかと言うと、それはご本尊さまにお願いをするわけです。
お仏壇の中には宗派によって異なりますが大日如来やお釈迦さん、阿弥陀さんなどがおまつりされていますね。
私たちはそれらの仏さんにお花を供え、香をたき、御法楽をささげ(これを善行として)。
「なんとか亡くなった方を正しく導いて下さい。宜しくお願いいたします。」とお願いをするのです。
そこのところを、どうも忘れている方がこの頃、結構いらっしゃるような気がするのです。
確かにお仏壇に向かって手を合わせるときには大抵は亡くなった方を偲んで、というのが一般的な日本人の感情かなと思うのですが、本尊さんを拝むと言う事を忘れないで欲しいと思うのです。
手を合わす姿は美しい。
しかし正しい回向が行われてこそ亡くなった方は救われていくのです。
信仰の原点は「回向」の心ではないでしょうか。
先日テレビを見ていたら仏壇の中にお位牌がお祭りしてありました。しかしご本尊さまが無いのです。
うーん、現実はこういうこともあるのだと、つくづく考えてしまいました。
<2005-5>
昨年は2年越しの本堂改修事業がようやく終わり、どうにか皆様にお参りいただけるようになったのですが、境内整備がまだまだ続行中。気は揉めるのですがホームページの更新がすっかり出来ない状況となっていまい本当に申し訳ありませんでした。
ん、誰にあやまっているの?
こんな状況では読んでくれる人もいないだろうなあ・・・(トホホであります)
さあ、雪も解けた事だし今年こそは頑張るぞー!
当院の本堂は大正の末に建てられたもので建立からざっと80年。
石狩湾を望む小樽の地に建つ木造の本堂は北国の厳しい風土に耐え満身創痍の状態でしたがどうにか往時の姿を取り戻す事ができました。 この計画が持ち上がった時には木造の本堂の効率の悪さを考え(何といっても一番の問題は雪のことなのですが)鉄筋の本堂に建て替えようと、ほぼ決まりかけていたのですが、縁とは不思議なもので北陸の宮大工さんとのご縁で現存の本堂を活かすということになりました。いま、こうして出来上がった本堂に身を置くとき、先人の残してくれた本堂を新しい形で後世に残す事が出来た幸せをつくづくと感じます。
黒ずんだ古い木と新しい木のモザイクのような本堂ですが、木の優しさ、柔らかさにホットさせられます。うーん、こんな感じをもつとは年のせいでしょうか?
何かの折に木造と鉄筋の本堂の比較の話しが出て、鉄筋に建て替えたらお参りの方が減ったという統計があるという事を聞きました。
何か不思議な話しですが、人間には木の温もりが合うのかもしれませんね。
<2004-11>
バンザイ! バンザイ!
やっと本堂修復も終わり、11月3日には記念法要も済んでほっとしているところです。
修復工事・・・長かった〜。 去年の4月頃からかかって今年の9月末近くまで(1・2・3月は冬休み) その間に地震がきたり・台風がきたり。でも何とか無事に終わりほっとしたのもつかの間、次は記念法要の準備に追われ
今度は工事と違い自分が動かなければならずてんてこ舞い。
体調がすっかりおかしくなり、医者に。
自律神経が失調気味(動悸・息切れ・不眠・突然の汗)
この歳になって自分が「蚤の心臓」だと言う事をいやっと言うほど実感させられました。
でも、なにはともあれホント綺麗になった〜。
見違えるようなりました。 皆さんも小樽に来ることがあれば、小樽駅の裏山を見てください燦然と輝くりっぱな寺が見えます。
そうそれが日光院です!!・・・・自慢・・・・・ 自慢(冷や汗;)
「檀家の皆様、本当に有難うございました!!」
いろいろな御事情の中、ご協力を心から感謝いたします。
感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝感謝
<2004-4>
前回の「独り言」で離檀者が若干出たと書きましたが、最近近くのお寺で工事の噂話が耳に入りました。
しばらくして檀家が2軒増えちゃった。
檀家さんにも色々事情があるしこれも致し方のない面もあるのでしょうが、根っこは寺と檀家さんとの関係性に問題が出てきてるのではないかな〜。
又、お寺を取り巻く環境はと言うと「あと30年後に檀家は今の半分」という新聞記事がありました。
まさに同感!
日本はますます過疎化・少子化・社会は簡素化(地味婚、地味葬)
お寺にとってはあまり明るいニュースは無いと思うのですが。
でもわりと内地の坊主仲間はノンビリしている様で歴史が有ると言うのはこういう事かな〜。 (ただ鈍いだけ?)
ここ北海道は、檀家と寺の関係が浅いのでわりと簡単に寺を変えます。
その意味では北海道は最先端をいってます。
今のご時世何商売も努力のないとこは消えていく、努力しても消えることもある。
寺も例外ではない。
外の環境を心配してもどうにもなんないし、檀家さんとの関係でも考えよ。
で何するの・・・・・・「う〜わからん」
でもアレから始めようかなー。
ご同輩ご油断めさるな!
<2004-1>
長らく冬眠をしていました。
すいません!
去年の4月から当院の本堂の大改修工事が始まり、何だかんだと忙しくつい更新するのをサボってしまいました。(言い訳・言い訳)
工事の御寄付を集めるのにも準備と根回しに時間をかけたつもりでしたが、若干の離檀者(檀家をやめた方)が出てしまいました。
ご寄付の依頼文も総代と何度も読み直しこれで良し、と送付したのですが。
寄付の依頼文と言うことも有るのでしょう。
同じ文章を呼んでいるのにイロイロな解釈が出来るのだとビックリしてしまいました。
人は自分が興味の有るところ・気になるところをしか読まないものだと実感しました。
まあ、自分もそういうところがあり、間違った情報を長らく信じていたことも間々ありますが・・・・
ましてや会話で人に伝えることの難しさ、日々体験。
檀家参りに行って佛具の置き方が違うので「これはこう置くんですよ。」「そうですかわかりました。」と話し帰ります。
翌月行くとまた同じように間違って置いている、この繰り返し。
本当に他人に自分の言いたいことを伝えるのは難しいものだな〜と実感。
あ〜我が言葉に力を! 心に力を!
<3月>
数年前までは、まさか銀行が倒産するなんて思ってもいなかった人が大部分だったのではないでしょうか。
釈尊は2000年も前に「諸行は無常である」とお説きになりました。
まさに常日頃、皆さんに向かってそう説いていた私も「銀行がなくなるなんて・・・」思いもよらなかった一人なのですから皮肉なものです。
まさか寺の窓から朝な夕なに眺めていた銀行の看板が無くなるなんて・・しかし「諸行無常」とはこういう事なんですね。
それどころか私の周囲では猛スピードで世界が変容していくのを感じるこの頃なのです。
例えば、寺との付き合い方一つにしてもチョット前までは、寺と檀家というのは切っても切れないような関係があったように思っていたのですが、何十年とお付き合いしてきた檀家さんが、代が変わったとたんにお止めになる。
という事があります。
葬儀を済ませてしまって墓地に納骨すればもう寺とお付き合いはしなくていい、と考えるようです。
まあ、こういう方は一握りの方ですが以前には無かった現象と思います。
「価値観の多様化」と言われて久しいものがありますが、寺というかなり保守的と思える領域にもそれが及んできたと言えるのでしょう。
まさに寺院も選ばれる立場となったと言う事でもあります。
これはある意味では既成宗教に厳しく自己反省を迫るものであり、真に存在価値を問われている訳ですから私も真剣勝負の時が来たなとエリを正すこの頃です。
<9月>
先日、宗門の集まりで本山の教学部長さんがこんな言葉をおしゃっていました。テーマは変身です。
「心が変れば態度が変る。態度が変れば行動が変る。行動が変れば人格が変る。人格が変れば運勢が変る」どうです。
ナカナカ面白いとは思いませんか。私は最後の運勢が変る、というのが面白いと思うのですよ。
我々は、何とかよい運を掴みたいと誰もが思っていますよね。
最近の新聞の折り込みチラシにも、よくありますよね。
これを持つとお金がどんどん入ってくる財布とか、飾るだけで幸運が舞い込む絵とか。
私などはひねくれ者ですから、そんなにお金が入ってくるなら自分一人で持っていればイイのに、なんて考えるんですが、しょつちゅうチラシが入ってくるところをみると、結構いい商売なのでしょう。
しかしですよ、持つだけ、飾るだけで幸運が舞い込むとは、恐らくその財布を買った人でさえ「そうであればイイノニナ」という気分なのではないでしょうか。
それは願望でしょう。
しかし、それを確実に呼び込む、幸運を確実につかみとる方法はあるんですよ。
それが「心が変れば・・・」という事ではないでしょうか。
「じゃあ、心を変えるにはどうすればいいのさ」と言う声が聞こえてきそうですが、ここで一番簡単な方法を伝授致しましょう。
まずは、毎朝お経をあげましょう。
大きな声で「般若心経」。
これは効果絶大。
だまされたと思って1ヶ月、頑張ってみる。
財布を買うのと違って一銭もかかりません。
<8月−A>
今年のお盆もようやく終わりました。毎年の事ながら寺にとっては大きな行事ですからこの時期になりますとヤレヤレという気分になります。 正直、くたびれたーの一言ですね(なにせ長丁場ですから) うちの場合は棚経といいまして7日から全檀家さんを回り始め(つまりお盆のお参りですね) 13日はお寺での読経、18日の施餓鬼法要というスケジュールです。
何十年とこの形できていますが今年のお盆はチョット、皆さんの心が変わってきているんじゃないかと感じました。
一昔前はお盆のお参りは兎に角、絶対にという感じがあったのですが今年は、休んで下さいというお宅が結構な件数でありました。
寺としては大問題ですが、なにより「お盆」という独特な感覚が薄れてきているような感じがします。
仕事の都合で休みが取れない等、イロイロな事情があるとは思うのですが何より思うのは我々の生活の中に死者という存在の居場所が無くなってしまってきているのではないかという事です。
週末の今夜は開け放たれた窓からブルン、ブルンと若者の運転するバイクの音がうるさく響いてきますが、我々の生活は余りにも元気に(今や高齢の方でさえ、いつまでもパワフルで若々しさが求められているようですが)明るくということが求められているのではないでしょうか。
死者の居場所は何処にあるのやら。
生の裏返しは死だと思うのですが、現代は余りに生のみに意識がいっているようですね。
みんないずれ死者となるんですけどね。
死を孕んでいるからこそ生は輝いているとは思いませんか?
お盆こそ、死を見つめる良い時のように思うのですが。
<8月−@>
早いもので、もうお盆をお迎えする季節となりました。
現代の我々の生活は、私の子供時代と比較してもドンドンと、季節感が薄れ年中行事も色あせてしまっている様に思います。
あの、子供時代のお祭りのウキウキとした感じ、つきたての御餅をまえにした年改まる感じ、そして色とりどりの盆提灯を飾り付けたお盆。
今の子供達は、同じように巡ってくるお盆をどの様な感じで迎えているのでしょうね。
生は死と隣り合わせのものです。死があるから生があるのではないでしょうか。
いま、私達はあまりにも生のみに目を向けて死を見つめていないような気がしてなりません。
私の子供のころはまだ、家での看取りがありました。
しかし今ではそれは望むべくも無い状況です。
日常において死に触れる事は、ほどんど無くなりました。
死の無い生はありえません死をその中に孕んでいるからこそ生は輝いているのです。
お盆をお迎えするこの時、亡くなられた方の事を、語ってください。
死とは何かを、ぜひお子さんに、お孫さんに語って頂きたいと思っています。
<2002年 7月>
世の中には占いの好きな方が結構いますね。
私もその中の一人なのですが、私の場合は「算命学」に凝っています。
私の友人がその道のプロということもあって膨大な本や資料を送ってくれたのが、そもそもの始まりです。
しばらく前に「天中殺」という言葉が流行りましたね。
あれは「算命学」からきているのです。
最初は自分の事や家族の事を調べて「当ってる」とか「全然、違うな」とか言いながら見ていたのですが、暫く自分なりに勉強していくと全く違っていると思えた事が、自分の中に内在しているのに気ずいてきました。
自分が認識している自分って、案外、思い込みと誤解があったりしているような気がします。
そんな意味で「算命学」が教えてくれるものは自分の無自覚な部分をも含んでいる様で、このところ非常に面白いと思っています。
占いというより中国の長い歴史の中で培われた科学と言うほうが的を得ているかもしれませんね。非常に高い確率で暗示がなされている様におもいます。
先程の「天中殺」に戻りますが、算命学では12年を一つの循環パターンと考えます。その内の二年間が「天中殺」と呼ばれ色々な意味で注意が必要な年、トラブルの起きやすい年となっています。
10年間という間に我々は、結構イロイロな矛盾や、顕在化しない不満、その他モロモロの問題を、例え平穏な生活の中であっても抱えてしまいませんか?
どんなに上手く繕った傷も本当に癒えていなければ、いずれ顕在化します。
それが現れる時期が10年ごとに訪れる「天中殺」ではないでしょうか。ね、結構、理にかなっているでしょう。
<2002年 6月>
今回はお線香についてのお話。
皆さんはお線香と言うと、どんな印象をお持ちでしょうか。
ご仏壇で手を合わせようとする時、まずお灯明をつけ、お線香をたてるのがまあ、普通ですよね。寺だとて同じ事。
お花、果物やお菓子などのお供え、お水に佛飯まあイロイロありますが、何が無くても欠かせないのが蝋燭とお線香でしょう。
ところが、このところホテルを会場とした年忌でたて続 |