切支丹のころ
 岐阜はその昔「井ノロ」の里と称せられ、濃尾平野の北部に位し、遠く伊吹、越美の連峰を望み、近く緑したたる金華山と清流長良川を擁し、この自然美を背景に土岐、斎藤、織田の諸将の築城により出来た城下町で、天然の要害をも形成した。

 永禄10年(16世紀半ば)信長が斎藤氏を滅して井ノロ城に入り、これを岐阜城と改めた。カトリックの教宣も実にこの岐阜城において始まる。

 当時宣教師として渡来していたポルトガル人フロイス神父(1532〜1597)は邦人伝道士ロレンソを伴いこの城内で信長に謁見して当地に布教の許可を得、現在の岐阜公園近くに、教会堂を建立した。

 多くの信徒を得たものの天正10年6月信長の死後斎藤鉄尭により教会堂や聖具を焼き払われてしまった。

明治のころ
 明治のはじめ(1873)信仰の自由が認められる迄には、多くの信徒が、迫害された。

 明治10年(1877)北方町の井上秀斎氏が、東京のカトリック神学校に人学し、翌年夏帰省の折ヴェグルー師、13年にはテストビッド師、14年にはエヴェラール師等を案内して自宅に泊め、岐阜や名古屋に伝道した。(パリ外国宣教会員)

 秀斎氏は長男故に、聖職者となるを得ず、厳父ゆずりの医師を開業し、その傍ら篤志伝道士となり、岐阜をはじめ各地の講義所を巡り、活発な伝道をした。

 明治20年、当時名古屋に赴任していた、テュルパン神父(ツルペン神父)は、岐阜の秋津町に、仮教会を設立した。
 オズーフ司教巡視の折には、岐阜の信者だけでも14名許りが堅信の秘跡を授かり、4名が洗礼を授かっている。

 しかしこの教会も、半年と続かず、濃尾震災後、現在の美江寺観音近くに、仮教会をもうけたものの、1年程で廃止されてしまった。明治27年(1894)春、テュルパン神父は、柳沢町に巡回教会を設立し、長谷川伝道士を住まわせたが、この教会も永つづきしなかった。神言会の司祭が、名占屋教区を受持つようになると、同会のプリカ師は、今の徹明町近くの宿屋を借りて教会にした。

(井上梅さん談)

1926.7.16(大15年) プリカ師、民家による教会設立
初代主任司祭プリカ神父  フランス人司祭プリカ師は、長住町(現在の十六銀行本店の裏付近)に民家を借りて教会を設立し、伝道士坂井滋次郎氏をともない主任司祭として着任し、時の名古屋教区長ライネル師により祝別され、岐阜における本格的な布教が始まった。

(写真右)初代主任司祭 神言会プリカ神父

1929.2.28(昭4年) 現在の青柳町にバジリカ式新聖堂建立
教会玄関(1929)  1928年に現在地青柳町に土地500坪を購入し、翌1929年2月28日、立派なバブリカ式新聖堂が建立され、当時の県知事、市長、信徒等300余名が列席し、広島教区長ロス司教によって祝別された。

 この教会は、ドイツ人ヒンデル氏の設計になるもので、氏は他に名古屋の熱川教会、新潟教会、南山中学校等も手がけた人である。

 また、工事は岩永伊勢松氏のひきいる長崎の浦上信徒らによって請負われ、間口1Om、奥行18m、鐘楼は四層からなり、上端の十字架は、地上21mにあった。

教会地内には、他に聖霊会の修道院と幼稚園が設けられ、修道女が1941年(昭16年)修道院閉鎖まで園児の世話をした。

聖堂内部(1929)
1930.10.28 ジャルディーニ教皇使節来岐
 聖堂の大祭壇は、ウィーンのフレーベル博士の手でこの秋完成、祭壇後上の壁には、黒沢武之輔画伯によって立派な壁画か描かれた。

1930年10月28日にはジャルディーニ教皇使節が来岐され、鐘の祝別が行なわれた。

1942.3.18(昭17年) 岐阜教会の育ての親プリカ師中国へ渡る
 岐阜教会育ての親であるプリカ師は、16年間の長い期間にわたり岐阜での活発な布教活動をされるかたわら、有名な「リタヘの手紙」を翻訳出版され、その他数多くの著書がある。

 プリカ師は、中国の神言会に招かれ、代わってグドルフ師が主任となった。グドルフ師は戦時中のことて非常に苦労された。

 この年、井上秀斎氏死去。

1945.7.9(昭20年) 空襲により聖堂焼失
 大平洋戦争終わり近く、米軍B29が大挙岐阜を襲い岐阜市内の大半の建物が焼失、岐阜教会も聖堂をはじめ、敷地内のすべての建物を焼失した。あとに残ったのは司祭館の煙突のみとなった。

 このためグドルフ師は多治見の修院へ帰った。

1945.8.(昭20年) バイエル師着任、仮聖堂と幼稚園復興
 終戦直ちにバイエル師が着任し、聖堂建設に努められた。バイエル師は、終戦直後のことで資金に困り、進駐軍の教会へ行ってごミサを行い、そのお礼としてもらった物品を売って作った資金と、米軍放出の木材を使い仮聖堂と幼稚園を復興された。

 聖堂は、祭壇とその廻りだけが作られ、日曜日は信者が外でごミサに与るほどであった。同時にその教会は、幼稚園にも使われたが、今から考えると不便きわまりないものであった。

 なお、聖霊会の修道院はついに復興されなかったが徐々に聖堂を増築された。

 バイエル師は、典型的ドイツ人気質の厳格な神父さまで、その風格は大僧正のおもむきを備えていた。  また、ピアノの力量は音楽家はだしであった。当時の助任は、ワグナー師であった。

焼跡にて(1945)

1953.3.30(昭28年) ローマ法王ピオ12世、聖母像祝福
 ローマ法王ピオ12世は、司祭館前に立つ故大平茂樹氏の労作による聖母像を祝福された。

1953.6.(昭28年) 神言会の布教から聖心布教会の布教ヘ
 バイエル師は、ブラジルに派遣され岐阜教会もバイエル師を最後に神言会から聖心布教会の管轄に移り、聖心会初代主任司祭として、マレイン師が着任した。


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