あとがき

観覧車日和って
どんな日のことをいうのだろう?
僕たち観覧車に乗る側にとってのじゃなくて
<観覧車> 自身にとっての観覧車日和って?

大阪キタの繁華街。真っ赤な大観覧車が、商業ビルの上から街を見下ろしている。
直径七五メートル、最上部の高さ一〇六メートルの観覧車は、
街のさまざまな場所から見ることができる。梅田へ向かう私鉄電車の車両からも。
設置されてから四年が経過し、その姿は見慣れた街の一風景になり果てている。
夜、ライトアップされた姿でさえ、美しいどころか、なんだか哀れじゃないか。
さながら、ケバケバしい羽根を一日じゅう広げている雄のクジャクのようだ。
<彼> は待ち続けているのかもしれない。やって来るはずのない雌のクジャクを。
傷口から滴る血で、決して閉じられることのない羽根は真っ赤に染まっている。

いつか <彼> の悲痛な叫び声を聞くことができはしないかと僕は夢想する。
そして、ふと思う。僕も待ち続けているのかもしれないと。
僕も叫び続けているのかもしれない…。
あなたに、僕の声は聞こえるだろうか。届いているだろうか。

僕は、まだ <彼> に乗ったことがない。       
観覧車日和を待っているのだ。

             ☆

 僕が短歌をつくるようになって、もうすぐ四年になろうとしています。
 歌集『観覧車日和』は、これまでの作品の中から一九三首を選び出しまとめたものです。
連作としてまとめられた作品を一旦ばらし、制作順も関係なく、また一部には修正を加えて
再構成しました。ですから、作品はTから[までに分かれタイトルも付いていますが、
それぞれが厳密な意味での連作というわけではありません。いわば、この『観覧車日和』
という歌集は、<群作> 作品集と呼ぶべき歌集です。
 こういう形でまとめることが果たしてよかったのか、また歌の取捨はこれでよかったのか
(他に収録するべき歌があったのでは、いや、もっと捨てるべき歌があったのでは?)、
等々の迷いも今ではすっかり消え失せ、一区切りつけることができたという満足感でいっ
ぱいです。何度も自己嫌悪に陥り、投げ出したい気持ちになりつつも自作とじっくり対峙
した結果、これからまた新たに前進して行こうという気持ちにもなれました。
 もともとはこうした自己満足を目的に制作した私家版ではありますが、もちろん読者と
しての視点も持ちながら制作しました。『観覧車日和』を読んでくださった方が、一首でも
気に入ってくださる歌があればなによりです。
 現在、こうして僕が生き生きと歌を詠むことができているのは、「原人の海図」「梨の実
歌会」をはじめとするさまざまなネット歌会や、メール短歌同人誌「ちゃばしら」といった
<場> のおかげです。また、ネットの世界で知り合うことができた多くのみなさんと素敵な
作品の数々から受けた刺激のおかげです。深く感謝します。

       二〇〇二年と二〇〇三年のはざま、静かな闇の中にて

                                                                                          神崎ハルミ