恋ひ恋ひて<一>


 昨夜から降り続けている雨が、庭の草木に優しく降りかかる。この家の家人である泰明は、そ
の様をただぼんやりと眺めている。
「父上、おはようございます」
 まだ、十三、四ぐらいの可愛らしく美しい娘が微笑む。
「お前か・・・。どうした?今日はずいぶんと早いじゃないか?」
 泰明はそう言って、不思議そうに娘を見た。
「ええ・・・。何だかあまり眠れなくて・・・」
 そう言って、娘は恥ずかしそうに俯いた。
「ああ、そうだったな。今日はお前の輿入れの日だったな・・・。眠れないのも仕方あるまい。退
屈しのぎといっては何だが、いつかお前に話そうと思っていた話をしよう」
「それは一体どんな話ですの?」
「私とお前の母が出逢った頃の話だ。お前がいつか嫁ぐ日が来たならば、その時話そうと心に
決めていた」
 泰明はそう言うと、何かを決意したように、真っ直ぐ前を見据える。
「母上は、どんな人だったのですか?」
 娘は泰明の隣に腰掛ける。
「お前の母は、とても優しく暖かい・・・ひなたの香りのする人だった。私には無い物を持ってい
る人だった」
 そう言うと、泰明は庭の山吹に目を遣り、遠い昔に思いを馳せた。

十五年前

「やはり、人から 生まれぬものは違うようだ。我々は、普通の人間から生まれた普通の身ゆ
え、お前のような化け物にはかなわぬ。」
  兄弟子たちの中傷にも、泰明の心はすっかり傷つかなくなってしまっていた。いや、本当は
彼らの心無い言葉は鋭利な刃物のように泰明の心を酷く傷つけている。ただ、泰明は自分の
心が上げる悲鳴にただじっと耳を塞ぎ、止めどなく流れる涙に、見て見ぬふりをし続けた。い
や、彼はそれを見ることさえ禁じてしまっていたのかもしれない。
「くだらぬ」
 泰明はそれだけ口にすると、兄弟子たちを軽く一瞥してその場を立ち去った。
「泰明、晴明様がお前をお呼びだ。早く行け」
向こうからやってくる兄弟子の言葉に泰明はただ軽く頷き、、晴明のいる部屋へと向かった。
「お呼びですか、お師匠」
「ああ、泰明。まあ、そこに座れ」
 そう言われた泰明は、晴明の前にゆっくりと腰を下ろした。
「今、この京が大変なことになっているのは、お前も分かっているな」
「はい」
「そこでだ、泰明。お前、龍神の神子の話を覚えているか?」
 晴明はそう言って、泰明を見た。
「龍神の神子がこの地に現れ、それに伴い宝玉が八葉を選ぶ。選ばれた八葉は、神子を守
り、神子と共に京を守る・・・」
 泰明は、以前、晴明から聞かされていた話を思い出す。
「そうだ。そしてその八葉の一人に、お前が選ばれた」
「私が・・・」
 泰明は表情一つ変えずにそう呟いた。
「そうだ。京のために龍神の神子を守り、京を救ってくれ」
「わかりました」
 そう答えると、泰明は部屋を出て行こうとした。
「泰明。あの者達とは仲良くやっておるか」
 晴明は心配そうに泰明の背に問いかける。
「あの者たち・・・」
 泰明は振り返り、晴明を見る。
「兄弟子たちのことだ。あの者たちのお前に対する態度は、見ていて目に余るものがある」
「平気です。私はあのような言葉でどうにかなるようなものではありませんから・・・。それに、慣
れていますし・・・」
 泰明は大した事ではないと言った感じで答える。
「しかし、泰明・・・」
「私が人では無い事は事実。それで何か困ると言うようなことは全くありません。あのように言
われてしまうことは、仕方のない事」
「すまぬ、泰明・・・。私のせいだな」
 晴明はそう言うと悲しみに表情を曇らせた。
「お師匠のせいではありません」
 泰明は、晴明の言葉を遮るようにそう言った。
「泰明。お前には人として足りないものがある。しかし、残念ながら、それは私では、お前に与
えてやることが出来ぬものだ」 
 晴明は、そう言って泰明を見た。
「しかし、いつかお前もそれを手にする日が来るだろう。それは、今日かもしれぬし、十年後、
二十年後かもしれぬ。しかし、お前がそれを手にしたとき、お前は本当の人間になれるのだ。
私では、与えてやれぬもの・・・。もしかすると、龍神の神子ならば、お前に与えてやることが出
来るのかもしれぬ」
「お師匠・・・」
 泰明は、ただそう言うことしか出来なかった。

「龍神の神子か・・・」
 まだ見ぬ龍神の神子とは一体どんな娘なのだろうか・・・。お師匠ですら、与えることの出来
ぬものを私に与えることが出来るかもしれない娘・・・。
 そして、泰明のその疑問に答えるべく、龍神の神子である元宮あかねが京に舞い降りたの
は、その日の夜だった。
 泰明の目に映ったその龍神の神子は、とてもじゃ無いが京など守れそうにない少女であっ
た。
「この娘に、本当に京が守れるのか・・・?」
 疑ってはならないと分かっていながら、疑わずにはいられないほど頼りない娘だった。
「お師匠に出来ないことが、あんな娘に本当に出来るのだろうか・・・」
 しかし、泰明のこの疑いは、徐々に晴れていくのだった。


「神子。今日はどこへ行くのだ?」
「うーん・・・。そうですね、一条戻り橋に行きましょうか」
「わかった」
 泰明はそう云うと、あかねの前を歩き出した。
「泰明さんは、一条戻り橋が好きなんですよね」
「好き・・・? そのような言葉で表現するようなものかは分からぬが。気に入っては、いる。それ
が何か?」
「もしかしたら、泰明さんの心のかけらがあるかもしれないと思って・・・」
 あかねはそう言うとにっこり微笑み、泰明を見る。
「心のかけら・・・? 神子。そのよう物は、多分私には無い。だから、気にすることは無い。」
「どうしてですか?」
「いや・・・」
 不思議そうに首を傾げ、じっとこちらを見つめるあかねから視線を逸らす様に、泰明は俯く。
「着きましたね。どうですか、泰明さん」
「・・・気が・・・集まる」
「泰明さん?」
「心のかけらか・・・。このようなもの、私には無いものと思っていたが・・・」
 そう言って泰明は不思議そうに胸元を掴んだ。
「心のかけらが戻ったんですね」
 あかねは嬉しそうに微笑む。
「何か変わりました?」
「いや。このようなもの、あっても無くても変わらぬものだ」
「そうですか・・・」
 あかねは少し悲しそうにそう呟くとゆっくりと歩き始めた。
 泰明は、とても不思議な気持ちだった。この娘はなぜこのように悲しげな顔をしているのだろ
うか? 他人のことでなぜ、このよう落ち込むのか。泰明には無いことだったので不思議でならな
かった。
「神子。何をそんなに落ち込んでいる?」
「落ち込んでなんていませんよ」
「嘘をついても無駄だ。お前の気が乱れている。私にはわかる」
 あかねは、泰明のその言葉に少し驚きながらも、口を開いた。
「心のかけらが一つでも手に入ったら、何か変わるかなって思っていたから・・・。結局私、何に
も出来ないんだな・・・と思って」
「何をそんなに考える? 龍神の神子無くしては、京は守れぬ。お前は龍神の神子だ。それで十
分ではないか」
「でも・・・」
「下らぬ・・・。行くぞ、神子」
「あっ、待ってください、泰明さん」
 あかねはそう言って泰明の後姿を追った。
 下らぬとは言ったものの、泰明の中にはそれ以外の感情が生まれていた。しかし、泰明に
は、その感情を何と表現すべきなのか皆目見当がつかなかった。
 唯一言える事は、その感情は、どうにも泰明を落ち着かせてはくれないということ であっ
た。 続く