桜の舞うとき

 ポツリポツリと降り出した秋雨が、一気にザァーッという音を立てて夕立へと変わる。 室内
の静けさのせいか、雨音はひどく大きく感じた。
 晴明は、盃の酒を静かに口に含み、酒を味わうと盃を音も立てずに床に置く。
 泰明は、ただその後ろ姿を黙ってじっと見ていた。
「行くのだな」
「はい」
 晴明の言葉に、泰明は躊躇いなく答えた。
「そうか……」
 晴明は盃に酒を注ぐと再びそれを手に取り、口に含む。それは、いつもの光景だった。違う
のは、泰明が見ているのが晴明の後ろ姿であるということだけ。
「明日、神子と共に行こうと思います」
 泰明は、晴明の背中に言うが、晴明は泰明の言葉に言葉を返すでもなく酒を飲む。
「お世話になりました……」
 泰明は、深々と晴明に向かって頭を下げた。
「明日は、お前を見送ってやれぬ……」
 それは泰明も重々承知していたことだった。京に平和が訪れたといっても、晴明はその後の
対応に追われている。休む間などない。
「はい……」
 この部屋に入るのもこれが最後なのだと思うと、寂しいような哀しいような気がしてくる。それ
は、私には無いと思っていた感情。いや、感情自体、つい最近まで自分の中には無いと思って
いた。
 しかし、それは違った。神子に出会ってこの感情が姿を現し始めたが、晴明様は私を作った
ときから、感情を与えていた。ただ、私がそのことに気づかなかっただけ。
 もし、もっと早くこの感情の存在に気づいていたのなら、晴明様と自分の関係も違ったものに
なっただろうか? 親子のような関係を築いたのだろうか?
 そんなことが頭をよぎる。しかし、明日から二度と会えなくなってしまうのだと考えると、そのよ
うな関係を築けなくて良かったのだと思う。
 泰明が立ち上がり、部屋を後にしようとしたとき、
「京の桜ももう見れぬな……」
と、晴明が呟くのが泰明の耳に届いた。
 泰明が初めてこの世界に生を受けたとき、京の桜は見事なほどに咲き誇り、それを見た時、
美しいと思ったものだった。美しいと感じるのも、今思えば、あれが初めて抱いた感情だった。
京の桜を連れて行くことは出来ぬが、その時の感情を連れて行こうと泰明は思う。 
 泰明は、部屋を出るときにもう一度深々と晴明に向けて頭を下げる。晴明は、ただ黙って雨
音に耳を傾けながら酒を味わっていた。


 八葉の仲間たちはどうにか都合を付けて見送りに来たようだった。見送りなど必要ないと思
っていたが、もう二度と会えないのですから……という永泉の言葉を聞くと、見送りに来てくれ
た仲間の気持ちが嬉しい。
「泰明さん、お師匠さんはいらっしゃらないんですか?」
「ああ。お師匠には、昨日、挨拶を済ませてきた」
「そうですか……」
 あかねが残念そうに言い、泰明を見上げる。
「忙しい方だからな……」
 泰明の言葉に、そうですね、とあかねが頷いた。
「では、そろそろ行くか……」
 泰明がそう言ってあかねの手を取った瞬間だった。
 京中の桜の木が一斉に花をつけ、あっと言う間に京が薄桃色に染まる。
「すごい……」
「ああ……」
 泰明は、あかねの言葉にただ頷くことしか出来なかった。
 それは、自分がこの世界に生を受けた日、初めて見た光景。
 美しいと言う感情を抱いた光景。 
 それを今日この日に見ることが出来るとは思わなかった。
 すると、突風が吹き、季節外れの桜が一斉に散り、泰明とあかねを包むように舞う。
 季節外れの桜からは、晴明の術の香りが感じられる。優しい温もりが感じられた。
「お師匠だ……」
 口にすれば、涙が溢れてくる。それは、止めようもなく……。
 泰明は静かに宙に手を伸ばす。花びらが一枚、手に触れた。

                        終

 一日遅れてしまいましたが、泰明さん、お誕生日おめでとうございます。前々から書きたいなぁと思っていた話を、
この際だから書いてしまいました。フリー創作なんで、良かったらお持ち帰り下さい。