茨の海<一>

 私は今、この世で一番大切で愛している彼を傷つけようとしている。一番大切だから、いつま
でも好きでいたいから…。彼に忘れられるのが怖いから…。

「私、あなたが好きなの…」
 そう言って、あかねは少し背のびをし、男に自分の顔を近づける。
男は、そんなあかねに合わせるように少し身を屈める。
「好きよ、あなたが…。本当は、ずっとあなただけが好きだったの…」
「あかね…」
 その呼びかけに誘われるかのように、あかねは彼に顔を寄せていく。彼もまた、引力に従う
かのように、あかねの頬に触れ、顔を近づけていく。
 そうして二人の唇は、それが至極自然なことであるかのように、重ねられていた。

 神様、私は重大な罪を犯しているのでしょうか? 私は、罰せられるのでしょうか? 
 それでも、良い…。私は彼の中で生き続ける事が出来るのなら、地獄に行こうと神様を信じ、
歩いていくことが出来るから…。

 永泉は、その姿を見た瞬間、自分の体からゆっくりと、しかし、確実に何かが壊れていく音を
聞いた気がした。
 自分の信じていたものが全て自分を傷つけ、自分の中のあらゆる感情が、悲鳴を上げてい
る。悲しみ、怒り、憎しみ、絶望、喪失…。
 今、口を開いたらどんな言葉を発するのか、自分でも想像がつかない。
 いや、全ての醜い感情が次から次へと口から溢れ、自分はもう自分に戻れないかもしれな
い。
 永泉の目の前で繰り広げられている光景は、それぐらい、永泉の感情を揺さぶる出来事だっ
た。
 聞こう、二人に…。そう思う。だが、何を聞くというのだろう? 目の前で起きていることが真実
で、あかねが口にした言葉が真実なのだろう。そう、これは彼女が自分を裏切ったということ。
わかっている。わかりきっている。彼女の自分への愛は偽りだったのだ。
 それなのに、一体今更、何を聞くというのだろう?
 永泉は、自分でもわからないうちに一歩一歩後ずさる。二人に気付かれることのないように
と。今見たことは、自分が黙っていれば、良いのだからと…。そうして、何も変わらず、今までど
おり二人に接すれば良いのだからと…。
 二人の姿がだいぶ小さくなった頃、永泉は走り出した。ああ、いっそ、このまま消えることが
出来れば良いのに…。そう、思いながら走り続けた。

                                 続く
 誕生日祝いの創作だというのに、やっちまいました。お前は、本当に祝う木があるのかと聞かれたら、首が千切れ
んばかりに縦に振りたい私ですが、なぜか心は裏腹、こんなの書いちゃいました。最終的にはハッピーエンドになる
んで、優しく恋模様を見守ってください。