音無の里<前編>
          
 相模嶺の 小峰見隠し
 忘れ来る 妹が名呼びて吾を哭し泣くな    (万葉集)


 神が与える運命の出会いは、常に突然現れ、また、別離は足音も立てずに突然襲い掛かっ
てくる。それは、準備のなされていない出会いであり、別れである。
 私たちは、その運命の前にただ立ち尽くすことしか出来ないのだろうか…。抗うことは、愚か
な事なのだろうか? しかし、本当の人に出会ってしまったとき、私たちは、神に抗うだろう。たと
え、自分の命を引き換えにしたとしても…。

 平和な日々だった。こんなに平和な日々と言うものを自分が味わっても良いのだろうかと思う
ほど…。幸福すぎて怖いとはよく言ったものだ。
 人間は、慣れない幸福の前に恐怖を覚える。なぜなら、この幸福が一生、未来永劫続いてほ
しいと望んでしまうから。
 しかし、悲しいかな。人は思っている。そんな幸福が決して未来永劫続くはずは無いと言うこ
とを…。
 だから、いつか来るこの幸福との別れに怯えながら、この幸福の中で生きている。
 しかし、人は本当に幸福だと、そんなことさえ忘れてしまう。この幸福が永遠に続くのでは…と
錯覚してしまう。
 そして、あかねと泰明もまた、そう錯覚してしまっていた。
 いつまでもこの幸福が自分たちの手から離れていく日は来ないと…。

 いつもと変わらぬ朝だった。
 変わらぬ朝のはずだった。
 しかし、違った。いつもなら、あかねよりも早く起きているはずの泰明が、その日は目覚めな
かった。
 どんなにあかねが声をかけても、言葉を返してくれることは無かった。
 笑顔を返してくれることは無かった。
 何故なのだろう? 昨日と様子は全く変わらないのに、彼の心臓は動いていない。彼の身体は
冷たくなってしまっていた。

「京の穢れが完全に祓われたわけではなかった…」
 それが、泰明の突然の死に対し、晴明が出した答えだった。
「京の穢れが…?」
 あかねは、今はもう冷たくなってしまっている泰明の手を握り締め、涙を堪え、晴明に問う。 
「私が、龍神を呼ばなかったから…」
 その問いに晴明は何も答えなかった。
 人となった泰明は、完全な人間になれたわけではなかった。そして、京にまだ残っていた穢
れから、あかねに気付かれぬようあかねの身を守り続け…。その代償に、泰明の身体は、少
しずつ少しずつ京の穢れに蝕まれて行った。
「私のせいで…。泰明さんの命を…、泰明さんを元に戻すことは出来ないんですか…?」
 あかねの問いに、晴明は暫しの沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「無いことは無い。ただ、それが必ずしも良いことなのか、私には判断がつかぬのです」「泰明
さんを救う方法があるんですね? 教えてください。どうすれば良いんですか? 泰明さんを助け
たいんです!!」
 あかねは、縋るように晴明の袖を掴んだ。
「たとえ、あかね殿の命と引き換えででもですか?」
 晴明は、言いにくそうに、しかし、はっきりとそう尋ねる。
「はい」
 あかねは、迷いのない眼差しで、晴明を見た。
「そうですか…。決意は固いようですね…」
「泰明さんに、守ってもらった命だから、泰明さんのために使いたいんです」
「泰明の魂をアレの身体に戻すには、膨大な力が必要となります。泰明の庇護のない今の貴
方は、こうしている間も、穢れに侵食されている。泰明を完全な状態に戻した場合、あなたの魂
は終わりを迎えるだろう。それでも構いませぬか?」
 晴明のその問いに、静かにあかねは頷いた。

  続く