父と家族で話し合った結果「放射線治療」「抗がん剤治療」に決定。

殆どの治療・検査結果を聞くための医師との面談は必ず、妹・夫・私の3人が時間をやり繰りして付き添った。もちろん母も。

1999年4月19日から

合計34回の放射線照射

1999年5月10日〜5月15日  抗がん剤:放射線治療

1999年5月17日〜5月21日  抗がん剤:放射線治療

1999年5月24日〜5月28日  抗がん剤:放射線治療  

この間、毎月曜日に入院、金曜日に退院というパターン

1999年5月26日「ガン縮小」

1999年8月3日 「ガン縮小しているが、細胞が残っている」

1999年9月6日 「ガン細胞発見されず」

父の治療休止中のアクシデント

母が「卵巣脳腫」の為、手術。(1999年9月27日)
その為の検査等は、全て父が車で連れて行く程、父は普通の生活を送る毎日。
母の手術中、父は待合室で見ていて痛々しい程、祈るようにして待っていた。
昭和初期生まれで思っていても、優しい言葉をかけることのできない父が「可哀想に・・」と
言いながら。手術は順調に終わったが、手術前に母は「お父さんを一人にすると弱気になるから、
アンタのとこに泊まらせて」と頼まれていたので誘ったが、自分の家がいいらしく来なかった。
その夜、私は父に電話し「お父さん、お母さんの事すごく心配だったんでしょ。
私たちはお父さんの事を、いつもいつも心配してる。その気持ちわかってくれた?
お父さんだけが辛いんじゃないよ。みんな辛いんだから。
それをお母さんは、身を持って教えてくれたんじゃない?
だからお父さん、精神的に負けたらガンに負けるよ。とにかく闘う気力だけは忘れないで。」
と私のありったけのパワーを贈った。
実際、この日まで父は「なんで、わしだけが??何も悪い事をしたわけじゃないのに」
などと、愚痴る事が多かった。
父は翌日「たくさんのパワーをありがとう。頑張るよ。」
そして「2人の病人を抱えたアンタ達が不憫だ」と言った。
私は何か辛い事が起きると「これは私に何を気付かせようとしておこってるんだろう?」と
考えるようにしている。
その事を父にも伝えた。
母の手術は、父に廻りの辛さもある事を気付かせる為だったような気がする。


1999年10月5日 「3箇所にガン細胞がある」
     これをなくすには、手術しかないかも・・との事
1999年11月1日:11月12日  抗がん剤 (うち3日間外泊)


1999年11月24日 「ガンが潰瘍に変化」

1999年12月13日〜12月18日 抗がん剤
2000年2月8日 「食道に新たな隆起?元のが大きくなったか?」

2000年3月1日〜3月10日   抗がん剤 (うち2日間外泊)

2000年3月28日 「あと2,3ヶ月で食事が喉を通らなくなるとの事で、人口食道
(ステントを入れるか?との事)

  この時点で「横浜サトウクリニック」へ行く。

2000年4月24日

  主治医に「手術」の事を切り出したところ、先輩に「食道ガンの権威」がいるとの事

  で異例の紹介をして頂き、さっそくそちらの病院にて説明を受け、今の体力や状態か

  ら考えると手術をする価値があると言われ、父は即答で手術を決めた。

2000年5月8日〜6月12日手術のため、入院

  
2000年10月16日 「食道中間あたりのリンパの腫れが発覚」
2000年11月13日 「食道中間あたりのリンパの腫れ少し大きくなり、腫瘍マーカー数値上昇」

2000年12月20日〜12月28日 抗がん剤  (うち3日間外泊)

2001年1月22日〜2月5日   抗がん剤 : 3回(外来にて)

2001年4月26日  「リンパの腫れ縮小:白血球すべて異常なし」

                      
普通の人と同じと言われ、父は大変な喜びよう。

                    「好きなことしていいですよ」とまで言われた。

                     この時点で私たちは
「奇跡が起きた!」と思っていたのに・・


                         この5日後に逝ってしまうなどとは、想像もしなかった。

辛かった父の言葉


ガンが発覚して、治療等が進んでいく中で一番辛かったのは「検査結果」を
聞きに行かなければならない日だった。
結果が出る前になると決まって父の精神状態は不安定になり表情も暗くなっていた。
毎回の検査結果に「一喜一憂」するという繰り返し。
なかでも一番辛かったのは母の手術の翌日でもある1999年9月28日の検査の日だった。
結果はまだ出ていないというのに、
父は主治医に「先生、最期はどうか穏やかに逝かせてください」と
泣きながら言った。妹は涙ぐみ、私はその場で泣くわけにいかなくなった。
なぜか、「私がしっかりしてないと・・」と思った。
父と私は別の車で帰ったが、私は自分の車に乗るなり号泣。
父がどんな思いで、主治医に自分の最期の事をお願いしたのだろうと思うと
やりきれなかった。どの道を通って帰ったか覚えてない程、そして前が見えない程
泣きながら運転した。
この日の父の日記に「一人で考え込み、涙する」と書いてあった。






病院での治療