がん発覚 1999年4月12日
この年の1月に父はインフルエンザにかかり、長い間微熱が続いた。
「虫の知らせ」なのか
脳のCT・胸部レントゲン&CTなど・・しかし、どこの病院でも「異常なし」との事。
そうこうしているうちに薬疹が出た。
父には15歳離れた姉(私からすると伯母)の所へ退屈しのぎに「麻雀」をしに行くのを楽しみにしていた。
その伯母の家までの道中に「皮膚科」があるので薬疹を見てもらう為に受診し
「先生、微熱があって検査しても異常ないと言われるけど、どうも気味が悪い」と世間話のように気軽に話したらしい。
医師は「併設の内科で受診してみる?」と言われ、それこそ軽い気持ちで受診したところ
「うーん、胸部のレントゲンもCTも撮ってるし、あと調べるとしたら、胃カメラかなぁ・・」という事で胃カメラを飲んだ。
数日後「この写真を持って○○病院に行きなさい」と言われ、この時点で父はすでに「ガンに間違いない」と言っていた。
父は2人の兄をガンで亡くしている為、ガンについては詳しかったし家族の中で
「ガンになったら隠さない事」という暗黙の了解ができていた。
いよいよ、○○病院での診断が下った。 やはり思っていた通りガンだった。
しかも飛び火ガンといわれる「食道ガン」・・
私はその日、電話で父と泣きながら話をし「お父さん、私の寿命を分けてあげるから死なないで、生きて」と叫んだ。
電話の向こうで父も「わしだって死にたくない」と泣いた。
自他ともに認めるファザコンの私はこの時の絶望感を忘れる事はできない。
この日から私たちの闘いは始まった。
まずは、治療法の選択から。
@ 手術(消化器外科の医師から話を聞いたが、手術のリスクが高いとの事)
A 放射線治療(放射線科の医師から、照射できる位置なので効果が期待できるとの事、
そして場合によっては、抗がん剤を組み合わせ るとの説明)
結局、私たちはリスクの高い手術を選ばず、放射線科医に委ねる事にした。
この放射線科の医師が父の主治医となった。
その後、メンタルな部分においてもこの放射線科医は父の支えとなった。
★ 父のガン発覚後すぐに私の次女は「千羽鶴」を折り始め、私に絶対手伝わせてくれなかった。
この千羽鶴は常に父の闘病のお供になり、最後はお棺に入れた。
長女は手術の時に折り、これもまたお棺に入れた。