通夜から葬儀

通夜

2001年5月2日

私たち親族は、泣く暇もなく朝から葬儀屋さんとの打ち合わせに追われた。 
通夜・葬儀は斎場で行なう事にし、通夜ぎりぎりまで父を家に居られる様にしてもらった。 
花の大好きな父の為に「遺影」は黒リボンをかけないで写真のまわりを花で囲んで欲しい・・・
3日から一緒に旅行に行く為に買った洋服を棺に入れて着ているようにして欲しい・・・
霊柩車は皆が乗れるリムジンにして欲しい・・・などなど、私たち姉妹の希望を全て受け入れてもらった。 
通夜は午後7時からなので、夕方には父を乗せる車が来た。斎場に着くまで棺に入れないで欲しいという要望も叶った。 
斎場で棺に父を移し、思いつく限りの物を一緒に入れた。 
私の長女の成人式の写真・家族揃っての写真・千羽鶴などなど。。

通夜には多くの方にお参りを頂き、途中で印刷物・菓子などを追加するほどだった。 
家族からは知らせてないが、皆が手分けして知らせてくれたようだった。 
たくさんの思いがけない方にもお参り頂いたが、後で香典帳を見るまで気付かない程、私は現実離れした時間を過ごしていた様に思う。 
通夜の弔辞は夫が読んだが、最初から最後まで私と妹は人目もはばからず号泣しっぱなしだった。 
父の事を、こよなく慕ってくれていた兵庫の従妹たちも・・その晩は斎場に泊まった。 
もちろん、父も同じ部屋に。 父は死後硬直が遅く、ずーっと柔らかく、特に鎖骨あたりは最後の最後まで柔らかかった。 
まだまだ、そこに寝ているかの様な穏やかな顔をしていた。 
皆で線香の番を交代し、葬儀の弔辞を読んでくれる兵庫のおーちゃん(叔父)は私たち姉妹の言いたい事を何度も聞いて下書きしていた。 
父の顔は夜中から浮腫みだして、鼻・口・耳から体液が出始め、一晩中綿を詰め替えていた。 
朝方、私は妹の泣きじゃくる声で目が覚めた。 
「お父さんの顔がーー!」と言っているのを聞き私はすぐに父の顔を見に行ったが、まるで別人のような顔に変わっていた。 
「これじゃ皆に最期のお別れをしてもらえない、皆に見せられない」と泣く私に夫は
「あまり、キレイな顔してたら、このままにしておいてって思うから、お父さんが諦めさせるようにしてくれたんじゃない?」と言った。



葬儀

2001年5月3日

午前11時から、父の葬儀は始まった。 
入り口には、家族(父・母・妹・私)が揃って写っている写真と父と母2人揃った写真をパネルにして飾ってもらった。

父の友人のお上人に「お父さんの顔が・・見せられない・・」と泣いて訴えると
「○○ちゃん、あれはお父さんの抜け殻だから。 お父さんは上から見てるから。」と諭された。

父の最期を一緒に過ごしてくださった仲間が、亡くなった日の父の写真を大きくして持って来て下さったので、お焼香台に飾ってもらった。 
私の友人たちもたくさん来てくれていた。 あまりの人の多さに席を追加してドアも開けたままでの葬儀となった。 
私は最前列にいたが隣の妹と2人して通夜以上に号泣を通り越して、わめいている状態だったらしい。
お経を聞きながら「このまま永遠にお経が続けばいいのに」と思っていた。このまま時が止まればいいのにと思っていた。
おーちゃんの弔辞はありきたりではなく、父のガンと分かってからの生き様を語ってくれた。
それを聞いて私たち姉妹の声は一段と大きくなった。
最期のお別れで棺に花を入れる場面は、父がガンと分かった日から想像はしていたが
私は思いもかけない言葉を吐いた「私もお棺の中に入れて!!」

そして、お棺を閉めた時に今まで取り乱さなかった母が握り拳でお棺を「ゴン」と強く叩いた。
悔しくてたまらなかったのだろう。私はのけぞって泣いていたらしいが覚えていない。
出棺をさせまいとお棺に覆いかぶさり「だめー」を繰り返し言っていた時、友人が
「お父さん、送ってあげようね」と私を抱きかかえてくれた。
そして棺は霊柩車に乗せられ私たち親族は霊柩車の前にたったが、
私をいつも支えてくれている友人が目に入った瞬間に私は何を思ったか彼女のところに走って行き抱きついて泣いた。
皆が待っている事など考えもしなかった。 ひとしきり泣いて霊柩車に乗り込んだ。
本来ならこの日は皆で兵庫へ旅立つ日だったのに、父ひとりで行ってしまった。
前日まで降っていた雨は止み、よく晴れた日だった。
霊柩車が私の家の横を通りかかった時「お父さん、○○の家よ」と母が言った。
霊柩車の中ではずいぶんと落ち着き、火葬場に着いてからは涙も出なかった。
いよいよ荼毘に付される時、 妹と私は「あれはお父さんの抜け殻よね」と繰り返し言っていた。
母が鍵を回すと同時に点火された。
父がお骨になるのを待っている間は、スッキリとまではいかないが、笑顔さえこぼれるようになっていたのは
いまだに不思議である。

お骨を拾う時も「わぁ、骨太だったんだねぇ」と言ったりして涙も出なかった。

葬儀で思い切り泣いて、自分なりにケジメがついたのかもしれない。
葬儀の前に叔母から「我慢しないで思い切り泣きなさい」と言われていた。
思い切り泣いたお陰で父の死後あれほど泣いた事はいまだにない。
父の葬儀は私たち姉妹の思い通りにしてもらって、闘病同様まったく後悔がないからだろう。

 

後日、皆から「ドラマかと思うほどすごかったよ」と言われるが私自身は正直言って記憶が途切れ途切れである。、
このHPの為にこうして書いている最中は何度も何度も泣いてしまった。


弔辞

遺族、親族を代表し、一言お礼を申し上げます。 本日は公私ともご多忙のところ遠路はるばる故人の為にご会葬頂きまして
誠にありがとうございます。 また、故人生前中は、皆様方より格別なご厚情を賜り厚く御礼申し上げます。
この様に大勢の方々に愛され、お見送り頂く故人は本当に幸せ者だと思います。
昨夜も一部病状経過は申し上げましたが、故人は一昨年、年始めから微熱が続きまして
本当に風邪くらいの軽い気持ちで診察を受けたのですが、病気との闘いが始まったのです。
診察結果は「食道ガン」という事でした。 生来、病気とは無縁の健康な人であったので、
本人は元より、周囲は筆舌では言い尽くせない強い衝撃を受けました。
病気知らずの身体だけに病状の進行は以外に早く、1年後の昨年5月には、
生きる事への選択肢を求められるまで病状が進み手術を余儀なくされました。
その後、病状は一進一退するものの、回復に決め手のないまま、
昨年暮れには、ついにはもうこれ以上の病状回復は望めないとの診断を受けました。
でも、本当の意味でのガンとの闘いが始まったのは、この時からと言っていいのかも知れません。
奈落のそこに突き落とされような失意の中で、手を尽くさなかった後悔より、万策を尽くしての満足感を選びました。 
一縷の望みを託して、代替医療・投薬を試みました。 
一時は本人も「もう、このままでいい」とかたくなになり、周囲の気持ちを拒絶し続ける時期もありました。 
どの薬がどの様に効いたのか解りません。 
今年の4月の検査では、あれほど顕著だったガンが、ほとんど消滅していました。 
主治医もこれほどの回復にただびっくりされるだけでした。 信じられない事が実際に起きました。 
奇跡という言葉をこれほど実感した事はありません。 この時を境に、本人、私たちは峠を越したと確信していました。 
お蔭様で本人も精神的に落ち着きを取り戻し、体力も目に見えて回復し始めていたからです。 
この様な状況の中で強い願望でありながら、病状の回復が思わしくなくて一時は諦めかけていた
島根県の大根島にある「ボタン園」をこの5月1日に再び見る事の幸せに恵まれたのです。 
もとより、本人が一番喜んだ訳ですが、この日は聞きますと当の本人は事の外おしゃべりで賑やかだったそうです。 
ひとつの願いが叶えられた安堵感が、あるいは災いしたのかもしれません。 
再び信じられない事態が別の形で起きてしまいました。
「ボタン園」を見ての帰り、食事に立ち寄った店で食べ物が喉につかえ、急性心不全を起こし、
その日の午後7時40分、手当ての甲斐もなくあっけなく逝ってしまいました。 
満72歳でした。 まして、まだしもガンの悪化で逝ってしまったのなら心の準備は出来ていたかも知れません。 
しかしこの様な形で唐突に逝くなんて納得する事が出来ないのですが、
それでも、故人は祭壇の遺影のように「あまり悲しんでくれるなと笑っているのでしょうか。 
本日このように盛大にお見送りして頂いて大満足しているのでしょうか。 
せっかくガンを克服した矢先にこの様な形で逝ってしまいましたが、
やはりガンを克服した義兄に「お兄さんの頑張りに敬服、お疲れさん、安らかにね。」
と言って讃えてあげるのが最善の供養になると思うべきなのでしょう。
最後になりましたが、残された遺族もこれから力を合わせ助け合いながら頑張って行きたいと思います。 
どうか、故人同様のご厚情を賜りますようお願い申し上げ、粗辞ではございますがご挨拶とさせて頂きます。 
本日は誠にありがとうございました。

 

     この弔辞を読んだ「おーちゃん」も途中で何度も涙し、詰まった場面もありました。