東西歴史散歩―近代化について―

                       2014、2、16   木下秀人 

 2013年、南信州新聞への寄稿を求められ、日本、西欧、イスラム、中国の近代化について考えることにし、日本については島崎藤村の「夜明け前」にからんで、中国については科挙という世界初めての公務員試験で西欧に優位した中国について、西欧とイスラムについては近世までは軍事・文化で圧倒したイスラムが優位を失った問題を略説することにした。以下の3篇は、字数の関係で意を尽くせなかった部分を修正・加筆したもの。

 

(1)  日本の近代化について―島崎藤村の「夜明け前」を読んで

 この大作は20代に読んだ記憶がある。今回改めて読み直し、維新前後の複雑な歴史を、木曽馬籠の藤村の生家に関わる物語を通じて、「夜明け前」として描いた藤村の意図を押えながら考察することにした。論点は二つ、木曽山林利用にからむ入会権と平田派の国学の問題は、社会の転換期における政治の在り方であり、天皇制の問題として、藤村執筆時の政治課題であったが、戦後数十年を経て未だに解決されていない問題でもある。私見を略述する。

 「木曽路はすべて山の中である」で始まるこの物語は、藤村の実父を主人公とし、中山道馬篭の宿の庄屋・本陣・問屋の三役を務める旧家の主が、明治維新という社会の転換を村民を守る立場から叙述したもの。筆者は信州飯田の生まれで東京在住、20年ばかり前に中央道バスで馬籠にたどり着き、民宿まで暗い山道を藤村の言葉を実感しながら登った記憶がある。戦中名古屋の学校に行く姉は、大平峠をバスで越えて三留野経由だった。父に連れられてこの峠でカスミ網で捕ったツグミの焼き鳥を食べた思い出もある。

1 維新の経緯

 徳川政権は、その発足にあたって邪魔となる天皇と公家、外様大名、外国の三つを排除して成立した。ところが時代の推移に伴い勤王思想・王政復古思想がうまれ、それを外様諸藩が討幕のイデオロギーに利用し、外国との交易は長崎に留めたのに広く開国通商を求める強国が現れた。米国ペリーの来航から王政復古までの15年を略述する。

1853年ペリーの来航、翌年日米和親条約、将軍家慶死去・家定就任、老中阿部正弘、開国の可否を諸藩・幕吏に問い、攘夷は無理、開国も抵抗ありで通商要求を和親だけでまとめた。彼の早すぎる死1957が安政の大獄、桜田門の変を招く

55年安政大地震、藤田東湖死去、

56年ハリス下田着任、58年日米通商条約締結に際し、旧例を破り朝廷の意向をうかがった。ところ孝明天皇は攘夷派で拒否、井伊大老は押し切って調印。これを違勅とする批判者を弾圧したのが次の安政の大獄。阿部流の時間をかけて納得させる策に対し井伊大老は強硬に過ぎた。

59年安政の大獄。水戸斉昭も罪せられたから、翌年水戸藩士が桜田門で井伊大老を暗殺。公武和親のため天皇の妹和宮が将軍家茂の妃となる。

62年薩摩藩。内部抗争の寺田屋騒動、攘夷思想が起こした外人殺傷=生麦事件。

63年攘夷実行で長州米仏艦・薩摩英艦亘攻撃砲撃し反撃され大敗、攘夷熱冷める。

64年長州禁門の変で幕府長州征伐、

66年将軍家茂死去・孝明天皇も死去で、折角の公武和親は夢と消えた。公武和親か王政復古か、そのシンボルとしての天皇、幕府か討幕派かどちらが掌握するか。

6716歳で判断力のあるはずがない明治天皇は、逆に下級公家岩倉と薩摩討幕派の擁するところとなり、幕府の大政奉還に対抗し討幕派は、薩摩軍が固める慶喜将軍欠席の小御所会議で慶喜の征夷大将軍など官位と領地の剥奪を決め、政局逆転に成功、討幕の密勅(偽勅という見方もある)を下す。幕府に先に手を出させるために西郷のたくらんだ江戸市中かく乱、耐えられずの佐幕派の薩摩屋敷攻撃は西郷の思う壺で、鳥羽伏見戦における幕府軍は、岩倉が作った錦旗により朝敵にされてしまった。気押された将軍慶喜は暗夜大阪を船で脱出,都での幕府軍の抵抗は終わった。

2 将軍と天皇とコメ経済

 徳川政権は豊臣政権を巧妙に分断して倒し、公家勢力をも抑えて成立したが、天皇により征夷大将軍に任じられて将軍職にあるという弱点は逃れられなかった。家康が尊重した儒学は、大義名分を尊重する朱子学で、御三家の水戸藩がそれに基づいて大日本史を編纂し、南朝礼賛の尊王思想を鼓舞したのは皮肉だった。

 既に貨幣経済となっていたが、武家・農民は禄高という米本位制、商人は金銀本位制で、幕府・藩・武士の収入は支配する農民が生産するコメの石高が基本。税率改定に相当する検地は行われにくかったから,生産性向上や農地開発による増収分は農民の収入となり、米価収入に依存する武家の財政は米価下落による収入減と物価上昇という二重の負担増に苦しむこととなった。幕府は財政立て直しに貨幣改鋳を繰り返した。今風に言えば税収の裏付けのない日銀券増発で、副作用のインフレが生活を直撃する。ペリー以来の外圧もあり、改革運動は尊王・攘夷・討幕に直結した。各藩に蓄積された巨額の負債が政府に付け替えられることにより、版籍奉還は抵抗なく実現できた。新政府は徳川時代の法制を改め近代システムを導入しなければならなかった。当然そこに摩擦・問題が生じた。夜明け前では山林の利用を巡る入会権という問題だった。

3 入会権

 入会権は広辞苑によると、一定の人の間で入会の権利が設定されている「入会地」=山野・漁場などを利用する権利。権利意識のない村落共同体社会で昔からやってきたからといって、その利用権を法的権利として確定するのは簡単ではない。それは尾張藩から国に引き継がれた木曽の山林の利用にからんで、慣習として存在した利用権を、所有権を絶対とする近代法がいかに受け入れるかという問題だった。

尾張藩は山林保護で入山禁止の山と、入山し利用できる山を分け、さらに米を安く支給するなど村民救済策を怠らなかった。半蔵は明治412月、名古屋縣福島出張所に木曾谷33ケ村総代15人連署の嘆願書を提出したが、その中身は「海の漁民に殺生禁断がないのに、山には入れない留山があり伐採ができない御停止木=ヒノキ、アスナロ、コウヤマキ、ネズコ、サワラがある。この改革を機に享保以前の古に復し御停止木を解き、山林なしでは生きられないこの地方の人民を救ってほしい」。しかし親藩の尾張藩の行政が簡単に受け入れられるはずがない。御停止木の解禁は不可、五木のあるところは官有地と心得よという予想外のきびしい回答で、「官有林」とされた山に入って捕えられる村民が続出した。半蔵は古い文献を調べ、人民の入れない巣山・留山はあるが、明山は自由に入って五木以外は伐採できた実情の理解を求めて、再陳情を筑摩縣にしようとする矢先に福島支庁から呼び出され、戸長=旧庄屋免職となった。半蔵は嘆く、御一新がこんなことでいいのか。

この木曽山林事件は、版籍奉還のすぐ後で時期が悪かった。憲法も民法も制定されていないし、裁判制度も確立されていない。政府の財政も定かでない。尾張藩の山林が官有林とされたばかりで、皇室の御料林となるのはずっと後。尾張時代の訳の分かった役人はいなくなり、替わった薩摩の役人に複雑な問題処理ができるはずがない。村落の共有地への入会権が権利として認められるのは大正時代で、法律でなく大審院の判例によってであった。

版籍奉還に伴う財産権移転の悲劇では,尾去沢鉱山を経営していた村井家の南部藩への貸金が、帳簿上貸金では恐れ多いと借金と記載されていたため、裁判でも負け、多額の金を逆に国に納めねばならなくなった話がある。半蔵は、参勤交代もなくなり、街道通行・輸送に絡む仕事が激減し耕作地もない中で、国有林不法伐採で捕らえられる村民続出の窮状打開のため立ち上がったが、そもそも受け入れる法制度がなかった。やがて輸送には牛車や馬車を使う会社ができ、木曽の山林は皇室の御料林となり、山林管理の仕事が生まれることになる。半蔵の行動を支える倫理には敬服するが戦うには時期がわるかったというべきだろう。

4 平田派の国学の問題

荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と受け継がれた国学は、宣長によって外来思想を排除する国粋的な偏狭な神道思想となり、宣長の門人すらすべては受け入れなかったが、没後の門人と称する平田篤胤によって草莽の国学として尊王運動に転化し、伊那地区で多数の篤胤没後の門人が活動し半蔵の学問の中心をなし、維新直後はその復古神道が廃仏毀釈など過激な社会運動をもたらした。

そもそも日本の神道は素朴な自然と祖先の崇拝で日本人の心性を豊かにしたが、素朴だから教義というものがなく、仏教伝来で神仏習合となった時、教義面のリードを哲学的基礎の固い仏教に許したのは当然だった。外来思想を排する宣長・平田の国学は、維新政府成立、国学者の役人登用で、神道側に永年仏教に抑えられてきた鬱積した感情を行動に移す機会を提供した。それが廃仏毀釈だった。

しかし王政復古が実現すると神道側には、次になすべき政策・思想の持ち合わせがなく、開国欧化の時代に転換を迫られ地位を失うるのは当然であった。半蔵は苗字帯刀を許された旧家没落の責めを負わされ、次の世代への教育に道を見出しつつ精神のバランスをこわし、失意のうちに死ぬ。

しかも明治憲法の規定する天皇には国学の偏った影響が顕著で、天壌無窮にして万世一系の神聖な天皇が元首であり、統治権をもち、陸海軍を統帥するという天皇像は、歴史的基礎を欠いた偏ったもので、国家神道とともに、敗戦にいたるまでの日本社会の中心に位置し、国の運命を狂わせた。「夜明け前」を書いた藤村も、1943年、敗戦による祖国の第2の夜明けを知ることなく亡くなった。

敗戦翌年の天皇の人間宣言は、信仰の自由との関連で微妙だった国家神道の下での神格化された天皇を明確に否定し、新憲法は国家の信教への関与を明確に禁じた。しかし日本人は、明治以後の国学の歴史的に引き起こした問題を真に理解しているのだろうか。国際的批判を招いた昨年末の安倍首相の靖国神社参拝は、問題がまだ克服されていないことを示している。

5 青山半蔵の晩年

43歳となった半蔵は、仏葬を神葬に替え、旅に出る。松本で村に建設中の小学校の教師を見つけ、東京へ出て平田鉄胤を訪ねか。旧尾張藩士で文部大丞の平田派の知人の世話で神祇局の後身である教部省に御雇として勤務した半蔵は、平田派の勢力の失われているのを知る。神祇官時代に最も重要とされた祭儀は式部寮の所管に移され、仕事は出発当時の意気込みを失っていた。これでも復古といえるのか。教部省のことは最早いうに足りない。平田国学を、復古を、5か条のご誓文を、信じる純粋な半蔵は辞職する。そこえ先輩が,飛騨の国幣小社水無神社の宮司の話を持ち込み、有り難くその気になる。しかし天皇の行幸を聞き、扇子に「蟹の穴防ぎとめずば高堤 やがてくゆべき時なからめや」という自作の歌を書き、それを持って行列を待ち、止むに止まれぬ強い衝動に駆られて馬車に扇子を投じひざまづいた。献扇事件である。5日間調べられたが思うことの十分の一も話せなかったという。

彼には旧庄屋として、旧本陣問屋として、郷里の街道で働いた人達とともに永い武家の奉公を忍耐してきた過去の背景があった。あるものをめがけて駆け出そうとする熱い思いはありながら、家を捨て妻子を省みるいとまもなしに東奔西走する国学の同志たちをじっと眺めたまま、交通要路の激しい務めに一切を我慢してきた。その彼の耐えに耐えた激情が一時に堰を切って日頃慕い奉る帝の行幸の御道路に溢れてしまった。考えてしたことではなく、ほとばしる自分がそこにあるのみだった。

判決は8年1月、衝突儀仗の罪で懲役50日のところ過誤につき贖罪金3円15銭。半蔵は馬籠に戻り、家督を18歳の長男に譲り、水無神社に赴任した。

「今度の宮司さまのなさるものは,広大なお説教で、この国の歴史や神さまのことを村のものに説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。祝詞をあげる時にも、泣いておいでなさることがある。村の若い衆なぞは、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のように噴出したくなるそうだ。でも、敬神の念の強い人だとは思うらしいね。そういう熱心で4年も神主を勤めた,とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい。平田門人はこれまで為すべきことを為したのさ。この維新がくるまでに心配したり奔走したりしたことだけでも沢山だ。」

1210月、半蔵は4年間の宮司から馬籠に戻った。東京行きから数えると足掛け6年ぶり、戸主の長男22歳、311歳,43歳(これが藤村)となっていた。復古の道は絶えて、平田一門は既に破滅した。西南戦争で、功労少なくなかった人物=西郷隆盛が亡くなった。半蔵は子弟の教育に余生を送ろうと決心した。そこえ山林事件の再調査を請願すると資料を借りたいものが現れ、提出したが結果はおぼつかなかった。天皇が巡幸の途中青山家で昼食、しかし半蔵の出番はなかった。

14年半蔵51歳、3男と4男を東京へ送り出した。長女の京橋の家が寄宿先となった。今や国学にとどまる平田門人などは、見向きもされなくなったが、いつか再び国学の役に立つ時が来ると信じない限り、彼には立つ瀬がなかった。先師篤胤も西洋の学問が物の理を窮めるに賢いことは認めていた。しかし博学の師が受け入れられなかったことを、没後門人4千人の中に乗り越える者は出ないのか。嘆息するばかりだった。

青山の屋台骨が揺るぎかけてきた。今や、庄屋の仕事は戸長に移り、問屋の運送の仕事は中牛馬会社(馬車・牛車で運送する)に変わり、収入の絶えた大きな屋敷は修繕に苦しむことになった。士族には秩禄公債(禄高に応じて給付された国債、外債で負担された)の恩典があったが、庄屋本陣問屋は維新により何の得るところもなかった。それなのに山林事件で奔走したのが半蔵だった。

半蔵は生母を幼少に失い継母への遠慮から飲酒を抑えてきたが、継母が亡くなると飲むようになった。鬱屈した隠居生活はやがておかしな行動をもたらす。長男が家の負債の整理を言いだしたのは、戸主となって10年、借金が3600円、それを土地・山林・家財処分で弁済し、父子別居についての誓約書を持ち出した。先祖に対し何の面目があるか。それを言おうとしていえないで、半蔵は腰にした扇子で長男を打とうとした。かつて責めたことのない半蔵もかんしゃくを破裂させた。

17年思い立って上京し子供たちに会った。

56歳、夢を見て飲酒の戒を捨てたくなったと妻に言う、妻は弟子が持ってきた酒を出す。この頃幻聴など精神に乱れが見えるようになり、寺の月見の会で酔い、幻想を語るので妻は医師がくれた睡眠薬を飲ませる。翌日から一層不思議な心持をたどるようになり、夢に夢見る心地、妻さえ遠くの人の心地。俺には敵がある。攻めるなら攻めて来い。夕方、俺はこれから寺を焼き捨てる。あんな寺なぞ無用の長物だと障子に火をつける半蔵は座敷牢に閉じ込められ、憂愁と激発のうちに死を迎える。今なら認知症であろうが、当時は発狂だった。半蔵は明治1911月わびしい木小屋でなくなった。享年56歳。藤村は15歳で東京の三田英学校の生徒だった。

 

おわりに

戦後日本は極東軍事裁判こそあったが、みずから戦争責任をただすことはなく、極東軍事裁判でA級戦犯とされ処刑されたた人々を靖国神社に合祀した。それまで参拝されていた昭和天皇は以後参拝されなくなった。にもかかわらず安倍首相は、昨年末に米国の警告を無視して参拝を強行した。小生はかつてこの神社に併設されている遊就館を見てその展示のあまりの配慮のなさに驚いた記憶がある。安倍首相は今回、敵だった国の人びとをも祀った社を参拝したそうだが、遊就館を見ているのだろうか。国学の偏向から、信教の自由を認めた明治憲法にもかかわらず国家神道が生まれ、日清・日露の戦勝で舞い上がり、近隣諸国との友好関係を築くのに失敗した日本近代の悲劇をきちんと理解しているのだろうか。

さらに戦後日本は、経済面では高度成長で欧米に並ぶことができたが、その発展パターンが行き詰ると、新しい仕組みを生み出すことができず、バブル崩壊後長い停滞を余儀なくされた。維新・王政復古で日清・日露の戦いに勝ち、欧州大戦中の貿易黒字で日露戦争の負債を完済し「一流国」になった。しかしその後欧米流の対外武力進出でなく、共存共栄の外交関係を創出することができず、敗戦国となった。司法権も、明治ロシア皇太子刃傷の大津事件では政治の圧力に屈しなかったが、戦後の一票の格差事件では、明快な判決は最近まで出せなかった。今、日本の政治に求められているのは共存共栄の外交姿勢、国内は格差の少ない穏やかな福祉社会の建設であろう。安倍内閣はたまたま経済のデフレからの脱出期に政権を担う幸運に恵まれた。野田内閣が自民党の谷垣総裁と決めた消費増税を実行し、さらに社会保障改革から財政赤字削減問題という新しい政治問題に手を付け、日本に真の夜明けをもたらしてくれるのであろうか。

                      おわり

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