東西歴史散歩―近代化について

 (2)西欧とイスラムの近代           2014,2,16 木下秀人         

 かつて西欧に対し圧倒的に優位だったイスラムは、なぜ近代化で西欧に遅れてしまったのか。その原因はどこにあったのか。小生の結論をいうと、国民のどれだけが読み書きができるか=識字率が低くて知識人の層が薄かったこと、その知識人が物事の真偽を実証によって確かめる=アリストテレスの合理主義哲学を受容できなかったことである。

識字率は書物にかかわり、紙と印刷に依存する。紙も印刷も中国で発明され、イスラム経由で西欧に伝えられた。広大な地域で多民族多言語国家の中国は、まず漢字という表意文字で文字を統一し、発音は地方に任せることにより政治的・文化的統一が可能となった。現在北京官話の標準語に対し、地方に異なる発音があるゆえんである。

そして北宋・南宋時代に書物が普及し識字率が向上したのを契機に、随代に始まった科挙という上級公務員試験が制度化された。世界で初めての公務員試験で、合格者は皇帝により地方長官に任命され任地に赴いた。

 

製紙技術は、8世紀イスラムのアッバス朝が唐の軍隊を破ったとき捕虜の中にいた製紙技術者によりイスラムに伝わり、12−13世紀スペインを通じてイタリアに伝わり、グーテンベルクの活版印刷、ルターの口語訳聖書を通じて一般の識字率向上に資するようになり、ルネサンスの原動力となった。アリストテレスに代表されるギリシャの科学・合理主義哲学の書物も、アッバス朝イスラムが集め、アラビア語に翻訳し、イスラム支配のスペインのトレドでラテン訳され、西欧世界に伝えられた。12世紀ルネサンスという。

当時イスラム世界で、アリストテレスの全著作を翻訳注解し西欧で有名な学者がいたが、民衆に受け入れられやすい神秘主義神学者との論争に破れ、アリストテレス哲学は後継者を見出すことなく、イスラム世界では消えた。

さらにイスラムでは、コーランの印刷は実に1924年まで許されず、翻訳は未だに注解という扱いに過ぎない。コーランは、ムハンマドが受け取ったアラビア語のままが聖典で、翻訳することは永く認められなかった。イスラム諸国はアラビア語圏に限らないにもかかわらず、聖典を理解するためには古典アラビア語を学ばねばならず、それは少数の学者・宗教指導者に限られた。民衆はウラマーという宗教指導者に従うばかり。結果として識字率は向上せず、リベラルな知識人層はごく少数派のままに留まり、社会的勢力となりえなかった。近代西欧の軍事・経済に圧倒されて目覚めたのは日本より早かったが、推進力が反発を抑えるには足らなかった。

 

イスラム世界は、西欧のように自然科学や近代産業・啓蒙思想を生み出すことはできなかった。本来イスラムは、征服民族の統治システムや人材を活用しつつ発展した多民族国家で、征服地の人心掌握に巧みだったし、イェニチェリという常備軍の効果もあり、あっという間に地中海を支配し、シルクロード貿易さえ支配できた。東ローマ帝国を圧迫し、悪名高い十字軍とのエルサレム支配を巡る戦いは2百年続いたが、エルサレムは結局イスラム=エジプトの手に帰した。東ローマ帝国は、オスマントルコに1453年滅ぼされ、その首都イスタンブールを首都としたオスマン帝国がイスラム世界の覇者となった。東欧から中欧ハンガリーまで勢力を広げたオスマン帝国は、西欧諸国の対立に乗じて1529年にウィーンを陥落寸前まで追いつめた。しかしこの包囲はなぜか突然解かれてオスマン軍は整然と撤退した。ウィーンには、外壁強化・軍備拡充、体制強化の余裕が与えられた。そして、ここまでが西欧に対するイスラム優位の時代だった。

1683年の第二次ウィーン包囲は前回と全く異なり、キリスト教国の神聖同盟の援軍に加え、装備や士気の差があって、オスマン軍は大敗した。西欧同盟軍は東欧のオスマン領に侵攻し、オスマン帝国はカルロヴィッツで屈辱的な和平条約を強いられた。江戸幕府は、オランダを通じてこの次第を認識していた。

 

17−8世紀は啓蒙思想の時代だが、イスラムに対しキリスト教世界が優位に転じた時代でもあった。西欧の艦船はアメリカやアフリカからアジアに達してイスラムの貿易支配を奪った。シルクロードの隊商に比べて、船ははるかに効率な輸送手段だった。科学技術と軍事革命を経た西欧に敗北して、オスマン帝国は軍事力刷新の必要を認め、西欧から新知識と科学技術の導入を決意した。選ばれたのはフランスだった。ウィーンのハプスブルクとは国境を接して永年の確執があり、ハプスブルクに敵対するフランスはオスマンとは友好関係にあった。しかし最初の友好通商条約1838年の相手は英国で、それは、日本と同じ領事裁判権を含み関税自主権を排除した不平等条約だった。おまけに片務的最恵国待遇さえ与えられた。

 

明治日本が条約改正で苦労した以上の重荷を、識字率が低く近代産業未発達のイスラム諸国が負わされた。まさに経済的植民地化であった。同様な状況の明治日本では、富岡製糸工場などのフランスからの技術導入は、読み書きできる選ばれた工女によりたちまち消化され、高価な輸入機械は木と竹の国産機械となって普及し、敗戦までの貿易黒字の主流だった生糸輸出に貢献できた。しかし日本より早く始まったエジプトの近代工業導入の試みは、外国人労働者なしでは運営できず定着できなかった。だから植民地化されたのか、植民地化が自立を阻んだのか。中國に中華主義という大国主義があり外来文明の受け入れを妨げたように、イスラムにも同じようなイスラム文明の大国主義があって、西欧文化を受け入れられなかったのではないか。

エジプトが今日も観光以外にさしたる外貨獲得産業がなく、アラブの春はあったが、その後経済を発展させることができず、若者の失業率は高止まり。選挙で選ばれたモルシ政権が、軍が握る経済利権圧縮に動いたとて軍が反動的クーデターを起こし、春を支えた若者がこれを支持したという。モルシ氏は捕えられ、ムスリム同胞団は非合法化されてしまった。若者たちはどうするのか。軍は利権を手放すだろうか。トルコではアタチュルク率いる軍が、西欧の圧迫を押し戻し立国に成功した。これに対し軍が利権を握るという特殊な構造をエジプトは改革できるだろうか。国連は識字率の向上が社会開発に必要としたが、西欧諸国の植民地支配による搾取や、国連決議を無視して占領地から撤退しないイスラエル問題も忘れてはならない。

 

中東イスラム圏の民主国で唯一経済的に発展しているトルコは、ドイツに加担したオスマン帝国の欧州大戦の敗戦で存亡の危機にある時、独立戦争を勝ち抜いたアタチュルクにより、イスラム色を排除する世俗国家として建国された。そのトルコでは、政権がイスラム色に傾き過ぎると軍がクーデターで介入し、世俗主義政権に戻した。しかし世俗派の統治は結局民衆の心をとらえられず、ここ10年、エルドアンのイスラム色の強い政権となって漸く活性化した。しかしトルコでもイスタンブールに反政府デモが起こり、政権は強硬な姿勢を崩さずにいるうちに政権内部で汚職事件が発生した。十年という長期政権にありがちな話、どうなるか。米国の金融緩和縮小で売られた通貨にトルコのリラもあった。トルコ経済は西欧への輸出で賑っているが、自動車・電機の部品輸入が慢性的な経常赤字の原因。半導体で日本技術を吸収した韓国に及ばず、経常収支の赤字続きが投機家に付け込まれている。戦後トルコ人はドイツに出稼ぎに行き、各地に定着して宗教・文化摩擦を引き起こした。歴史的に多民族・多宗教のイスラムの国が、西欧的な世俗主義の国民国家となり、十字軍以来イスラムに違和感を持つ欧米諸国が支配する世界に存在し続けねばならない。

 

2次大戦後英国に代わって中東にかかわりだした米国には、強力なイスラエルロビーがあって政治を動かす。イラン、イラク、アフガニスタンと続いた中東への軍事介入はことごとく失敗に終わり、それなりに存在していた治安と秩序を破壊した。シリアにはロシアの助けでかろうじて軍事介入を免れた。

石油利権が米国の関心といわれたがシェールガスの開発で事情は変わった。共和党に下院を支配されて身動きできないオバマ政権だが、せめてイスラエル、パレスチナを含む中東和平、せめてシリア和平、イランとの和解に一石くらいは投じてほしい。

中東のイスラム世界は、欧州大戦後のオスマン帝国の西欧による分割で植民地化されたが、トルコは果敢に独立を果たした。しかしイスラエルというユダヤ人国家のパレスチナへの割り込みとアラブ諸国との軋轢、石油支配に絡んでの米国の軍事介入は、米国内の産軍連合体の利権を太らせ、テロリズムを世界中にまき散らすだけの効果しかもたらさなかった。アラブ・イスラム地域にはまだ課題が山積している。

なお、世界10億ドル以上の長者番付2013年で、トルコ7位で43人はイスラムで最高、香港、英国、カナダ、台湾、インドネシア、韓国、フランス、イタリア、オーストラリアの後に日本22人が続く。一人当りトルコ=10526ドル63位、日本は46706ドル12位、日本の所得分布の穏やかさは、今後も維持したいものだ。

エジプトの選挙で成立したイスラム同胞団政権を、デモとクーデターで政権から引きずりおろし非合法化した軍には、民衆の支持があるらしい。トルコでも世俗国家体制維持を名目に軍のクーデターが繰り返され、民衆は支持したという。エジプトには米国の支持も加わったらしい。他方、チュニジアでは制憲議会が圧倒的多数で新憲法を承認し、超党派の議員が涙を流しながら国歌を唱和したという。古代カルタゴの地を継ぎ、近代では1861年イスラムとアフリカで初めての立憲君主国だから、日本より早い。保守派の抵抗で挫折し財政破たん、フランスの支配下に入り、1956年独立、ブルギバ政権が1987無血クーデターでベンアリ政権となり2010年ジャスミン革命で穏健派政権成立、今年1月の制憲議会となった。08年EUとの自由貿易圏に入った。若者の失業率は高いが、経済状態は悪くないらしい。

欧州大戦後の混乱からトルコが独立した時、近代西欧の国民国家主義の流れの中で、国名をトルコとしたが、西欧カトリックに対するビザンチンを継承したオスマン帝国が敗れ、多民族・多宗教という遺産を批判的に継承した国だから、そしてトルコ人は歴史的に混交されているのだから、建国時の事情は分かるが民族名を国名にしないほうが実情にあうという意見(野中恵子、ビザンツ、オスマン、そしてトルコへ2010)がある。宗教・民族をめぐって争いが絶えないとき、オスマン時代の多宗教・多民族主義が輝くのではないか。

アジアのイスラム国=インドネシア、マレーシアの発展も今後のイスラムの在り方として注目されよう。インド独立のときパキスタンと別れずに、ヒンズーとムスリムと共存の国になっていたなら、多言語、多民族、多宗教の歴史ある大国となったはず。パキスタンやバングラデシュとの関係はどうなっただろうか。

キリスト教、ユダヤ教と異なり、教会組織を持たず、ウラマーという宗教指導者が生活指導をし、各人はそれぞれ絶対なる神に対するという独自のシステムは、社会変化にイスラム法を適応させる機能がうまくいけば、他のイスラム国家の手本になるかもしれない。「中華と対話するイスラーム」中西竜也、京都大学学術出版会2013という本に、中国のムスリムが圧倒的な儒教・道教・仏教文化の中で文書の翻訳や解釈を通じて共生を続けている実態が語られている。華僑を通じてアジアのイスラムに影響しているのであろうか。

                               おわり

表紙に戻る