東西歴史散歩―近代化について

                     2013.3.22  木下秀人

(3)中国の近代と現代

 中国の高度成長は遂にGDPで日本を抜いた。やがて米国も抜くだろう。しかし一人当たり所得にはまだ大差があるし、沿岸都市と内陸農村とに大きな所得格差があり、都市戸籍と農村戸籍という理不尽な制度から脱却できず、軍と共産党支配階層に汚職が著しい、司法権の独立がなく言論の自由がないなど、米国流の民主化にはまだ遠いというべきだろう。

古代中国は漢字を作り、度量衡をまとめ、素朴な法治主義で天下を統一した。漢字は表意文字で、日本で訓という大和言葉の発音が使われたように、地域によって異なる発音を許容したから、異なる文化、広範な地域を含む大帝国の建設が可能となった。漢代に統治原理として採用され、隋代に役人採用の基準となった儒教は、宋代に朱子による革新を経て、科挙という官僚選抜システムをまだ貴族独占だった西欧近代に先駆けて実現させた。キリスト教でこそなかったが、圧倒的な先進国であった。その後停滞し混乱した中国は、共産党支配で体制を建て直しつつあるようだ。ここでは科挙とそれに付随する地方政治の独特の在り方、それを引き継いだ共産党政権と現代について考える。岡本隆司編、中国経済史2013名古屋大学出版会は、科挙制度の裏にあった、士=支配者と庶=被支配者という中国社会の断層について教えてくれた。

科挙は誰でも合格すれば士になれる制度。士は貴族に代わって皇帝に仕え政治を任され、やがて腐敗して財を積むことができた。その腐敗の側面が中国の長い停滞をもたらした。地方には、合格しても役人にならず地方に在住した郷紳といわれる人々、役人の下で行政を担当する胥吏、地主や資本家の下にも庶民との間に立つ人々がいた。しかし制度化されなかったから実態はよくわからない。それらの人びとには日本の武士のような禄高の保証はなく、行政サービスに対しては謝礼がなされ、それは賄賂ではない。その習慣がずっと続いて現代に及び、政権担当者が短期間に多額の財を積むことが可能となっているのではないかと疑っている。

中国についてはなおわからないことが多い。同じ時期に西欧近代と接触したのに、日本はそれを受け入れ、中国は無視した。その違いは何か。ロシア社会主義は崩壊しなお経済不振に悩んでいるのに、中国は共産党支配下で強国になれたのはなぜか。遊牧民族と農耕民族の文明の違い説もある。学者の報告と歴史に学びつつ閑談を続けよう。

 

1 科挙制度―史上初めての上級公務員試験

 科挙制度は世襲貴族の支配打破のため隋代に始まったが、唐末までは貴族の官職独占が続き、家柄でなく純粋に実力試験で官僚を採用する科挙となったのは北宋9601126からで、唐滅亡後の五代十国907960の戦乱による貴族層の没落と、印刷技術の発達による書物の普及が成立の社会的条件となった。皇帝が臨席する最終試験があり、科挙の合格が中央官僚の条件で、合格者は地方長官として任地に赴いた。皇帝独裁の下での中央官僚制度、それが科挙で、その普及により四書五経などの古典読解力をベースとする開放的な知識階級社会=士大夫社会が成立した。任命獲得された地位にはそれ以下の官僚制度を支配する権力が随伴する。中央官僚=官には所定の給与があったが、地方官僚=吏は上官が維持しなければならない。仕事には利権が伴いうるから、腐敗が生れ派閥争いが生ずる。合格すれば誰でも出世できるから教育は科挙中心となり、中華思想もあり、それ以外の学問への関心を薄れさせた。

中国近世の波乱の政治の中で、大筋で継続された科挙制度は次第に形骸化され、官僚問題を生み出すことになる。それは北宋の王安石も、清朝4代雍正帝も、さらに毛沢東も、汚職、浪費、官僚主義を三反として取り上げざるを得ず、今日の共産党政権も頭を悩ます問題だった。宮崎市定、科挙史1987、同、中国政治論集1996。清代科挙と官僚の腐敗堕落について儒林外史という小説があり,近現代の吉野作造、馮友蘭の証言は後述する。

そのころ日本は平安中期、村上天皇、土佐日記・伊勢物語の時代、しかし日本は儒教も律令制も導入したが科挙は定着せず、藤原一族の支配が続き、文章博士菅原道真は左遷され、摂関政治から武士の台頭を招き、武家による幕府政治が明治まで続く。しかし仏教・儒教・蘭学など外来思想を独自の日本的柔軟な受け入れ方で消化し、西欧化近代化に先んじることができた。高度文明国の中国では、中華思想が外来思想の受け入れを阻害した。

西欧は東フランクのオットーの初代神聖ローマ帝国皇帝への戴冠が962年。西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族がキリスト教を受け入れて今日の西欧諸国を作った。その後11世紀にイスラムのスペインからギリシャの科学・哲学を受け入れ、それがルネッサンスと科学技術の振興につながった。西欧が科挙制度や儒教について詳しく知ったのは1618世紀=明・清時代、イエズス会士の報告によるから大分遅い。キリスト教以外に高度の文明があることを初めて知り、啓蒙主義哲学に寄与した。(宋学の西遷―近代啓蒙への道、井川義次2009)。ザビエルなどによる日本報告もそのうちに入るだろう。

イスラム世界はアッバス朝中期、バグダッドの知恵の館(830年設立)でギリシャ・ペルシャの学術研究が始まっていた。中世・近世に西欧世界を圧迫したイスラム世界は、ギリシャ哲学の西欧への伝達に重要な働きをしたにもかかわらず、自らは事実認識に基づいて知識を広げるギリシャ合理主義思想を発展させるどころか断絶させ、翻訳を許さないコーランという制約が識字率の伸びを阻害し、それが近代西欧への遅れの原因となった。

 

 2 その後の中国と西欧

 北宋は、騎馬民族の遼と経済援助を伴う和平条約を結んでいたが、遼を滅ぼした金に圧迫されて南宋となり、朱熹が現れて朱子学=格物致知・修身斉家・治国平天下、よく観察して知識を広め、修養を重ねて家を整え、国を治め天下を平和にするという新儒教哲学を完成させた。まさに科挙に合致した哲学だった。しかし西欧がイスラムから受け継いだアリストテレスのギリシャ合理主義哲学がないことがその後の展開に影響した。中国では、矛盾や白馬非馬論などの論理問題は、論理学にまで高められなかった。近代学術の基礎となるアリストテレスの論理学や、事実によって検証するという学門の方法は伝わらなかった。中華思想で繁栄する中国人にとって外国は、東夷・西戎・北狄・南蛮と古来いうようにすべて劣った国で、学ぶものはないと信じられた。属国として貢物を納めれば、それに勝る財物が下賜される。それがやがて負担になった。中国は外国に依存しない唯一の大国だから、外国の文物を研究することはなかった。それが産業・軍事技術の遅れにつながった。

科挙制度は、明・清に継承されたが次第に形骸化し、184042年アヘン戦争の敗北で西洋の科学技術導入を促す洋務運動が起り、18945年日清戦争に敗北ののち、1905年で終った。改革運動は守旧派の抵抗でなかなか実らず、孫文の革命で清朝は終わり1912年に中華民国となった。

イスラムからギリシャ哲学を学んだ西欧は、文芸復興と宗教改革を経て産業革命を起こし、株式会社による資本主義システムを創出し、地中海からイスラム勢力を駆逐し、3本マストの大型船を開発してアメリカ・アフリカ・アジアへの侵略を始めた。

それに先立つ明の永楽帝の鄭和の7回にわたる大航海140533年は,アフリカまで達し、東西交通促進、中国人の南洋進出に力あったが、次の代には財政難で打ち切られ資料は廃棄された。西洋流の征服思想はなく、西欧との対決はなかった。中華思想の影響というべきだろう。

鄭和の拠点は広東で、ザビエルが154951日本で布教後に病没したのも広東だった。ザビエルの志を継いで中国語と中国文化を学習した神父たちが、儒教古典の翻訳・研究を行い、その著作がフランスのルイ14世の宮廷に伝わり啓蒙思想を促し、ドイツに伝わってカントの先駆者に深い影響を及ぼした。神なき東洋に、高度の文明があり独自の合理主義哲学があり、まだ西欧にない庶民に開かれた官僚システムがあった。しかし、中国には近代科学は根付かず、イスラム世界と同様、社会は停滞を続け、アヘン戦争に始まる植民地化を迎えてしまう。イスラム世界にも独特の中華思想があったかもしれない。

 

2 モンゴルと14世紀の異常気象

中国の北にモンゴル・ツングース系の遊牧民族の国=遼があり、その遼が北宋を滅ぼし、金=女真族国11151234が旧満州に起こって遼は滅び、北宋は南に逃れ南宋11271279となり、やがてモンゴルの元12711368が中国を制圧し、1223ロシアに進出してキエフにキプチャク汗国12431480を建て、西アジアでは1258イスラムのアッバス朝を滅ぼした。このシルクロードを制するモンゴルの大帝国の解体を促したのが1320年代に始まった小氷期という地球の寒冷化で、中国本土では黄河の氾濫・飢饉・疫病など天才が続いて紅巾の乱など反乱が各地で起こり群雄割拠で元は江南を失いやがて朱元璋が北伐して明13681662を建てる。このモンゴル政権の崩壊のうちにシルクロード=東西を結ぶ交易は冷えこんだという。中国経済史p162。西欧における黒死病流行の時期と重なり、西欧でも農民反乱が起きているが、関連は明らかでない。気象と歴史の問題ははっきりしないが、アッバス朝を滅ぼしたイル汗国は1295イスラムになり、チャガタイ汗国はチムール帝国13691409に変わったが、ともにイスラムだからシルクロードは支障なかったのではないか。やがて西欧がシルクロードに代わり、海路によるアジア進出をすることになる。

 

3 日本と中国、近代化と儒教・科挙制度

日本は中国文化の下、朝鮮経由で仏教・儒教を学び、遣唐使を派遣して国家体制を整えたが易姓革命も科挙も受け入れなかった。カナ文字を発明し、天皇の下で実務者が政権を握る独自の日本文化を発展させた。武家政権の鎌倉時代に禅宗とともに宋学=朱子学が入ってきて、徳川幕府は儒学を奨励したが、その名分論からやがて尊王思想が起こり、尊王攘夷が討幕開国に変わって明治維新となった。幕藩体制というシステムは、幕府が中央、藩が地方で、それぞれ武士が官僚として農・工・商を支配した。幕府は、ことがなければ藩に干渉できなかった。皇帝専制の中央官僚制度=科挙制度が中央官僚支配だけで、地方は官僚支配に任せた中国と異なり、天下泰平の徳川日本には地方には各藩システムがあり、参勤交代という国内文化交流システムもあった。武士=官僚には学問が奨励され、長崎を通じる海外文化の流入で蘭学も研究された。武家支配の江戸時代は識字率も高く、治安もよく清潔で、子供たちが笑顔で旅人を迎える国として明治の外国人に記録されている。

明治維新以降の日本は、西洋に倣って武家政治を廃止し、廃藩置県で中央政府に権力を集中するとともに、欧米に倣って殖産興業で財政基盤を固めるまではよかったが、朝鮮半島を巡って清国と戦い、南下するロシアとも戦い、韓国を併合し、満州国を巡って中国と戦い、世界戦争まで引き起こしてしまったのは、文が武に優越する科挙制度ではありえないことだった。西欧近代の物質科学に基づく軍備充実・産業開発は受け入れたが、自由・民権思想は押しつぶされ、日清・日露の勝利に奢って近隣諸国と友好関係を結ぶことに失敗した。その後遺症は未だに靖国問題として残っている。

 

4 科挙制度のその後

科挙制度が中国社会に残した否定的側面については、大正デモクラシーの旗手吉野作造氏18781933の体験談と清朝末期に河南省に生まれ科挙に合格して県官となった父を持ち、北京大学を経て米国に学び新中国では北京大学教授を務めた馮友蘭氏18951990の回顧談を紹介する。両氏は年齢には17歳差があるが、体験した時代はともに清朝末期、吉野氏は首都、馮友蘭氏は地方都市での体験であった。

 

4−1 吉野氏の話。大正デモクラシーの旗手となった吉野作造氏は、清朝末期の明治3941年=19068年、学資稼ぎで中国の袁世凱の息子の家庭教師をした。その後中国は19121月孫文が中華民国臨時大総統に就任するが安定せず、3月袁世凱が代って大総統となり、19151月大隈内閣の悪名高い21か条の要求、5月無理やり承認させ、12月袁世凱帝位につくが、反乱が各地で起こり19163月取り消すが、大総統の座も追われ6月憤死。この事件に絡んで、吉野氏が行った大正412月学士会での講演を要約する。

「シナが帝政であるか共和政であるかは、官吏の死活問題。なぜならシナの政治は一種の閥族政治、親族政治で、中央の大小役所は勿論、地方の諸役所は殆どことごとく、親族、友人、古い知己から成り立っている。袁世凱が天下を取ればその政府は袁の一族をもって形作るのだから、もし他人が天下を取れば、これらの大小諸役人の地位が危うくなる。親分の地位の変動は子分にとって常に懸念すべき理由がある。だから袁世凱が一代限りの大総統では安心できない。そこで地位の継続について諸説が起こり、結局皇帝説が行われるに至った。馬鹿げたことだが、役人の地位の死活問題が本質だった。

シナの政治意識は、高いところから低いところまで、閥族政治、請負事業ということは、幾分変化したかしれないが昔からで、田舎の学校なども校長の請負仕事、当局への報告もホンの形式にすぎない。知県知府=地方政府長官などでも、下役に異分子を入れるのを嫌がるのは弾劾を恐れるからである。知県知府が交代すると、自分の親族・昔の学校の先生・古い友人などを呼び寄せて役所を作る。あたかも私人が営業をなす時のよう。一度官場に時を得れば三代を養うとか、三年清知府十万の雪花銀=3年知事をすると巨額の富が得られるという話は事実なのだろう。租税を徴収するとき、両と元の換算率を勝手に決めて差額を着服する。知県となるためには多額の賄賂を払うが、3か月もすれば元が取れると聞いた。知県一人やめると浪人するもの6070人いるという。知県の友人が来て漁業会社の看板を掲げ、漁商たちに毎月金を納めるように告知し、持ってこなかった漁商の魚を官憲が踏みにじったという。役人はもちろん、親戚知己まで金を儲けようとするのだから,知県が一人辞める際はその親戚・故旧・部下は賄賂を使って反対運動をする。上官の地位の安泰は追随する多数の安危にかかわる。だから転任は部下を伴うのが決まりで、何かの都合で残されると冷遇され罷免されてしまう。袁世凱が直隷の総督から北京に転任したときは、部下に職を与える都合から同じ役所が二つ作ってあった。後任者は袁氏をはばかり、残された部下や施設をそのままにしておいたが、部下たちは不安で転任し、格下げられるなどがあった。

警察も学校も土木も裁判所も皆請負仕事で、仕事は金儲けのためだから、異分子を入れることを嫌う。公私混同で袁の子などは父の役人を使うのは当然のように考えている。始めた仕事が責任者の交代で中止になったり、前任者の発注品が後任に受け入れられなかったりする。役所の仕事は長官個人の仕事であり、政府もまた同様だから、大総統となった袁氏が、世襲=帝政を要求し、それが瞬く間に官吏社会の世論となった。」

孫文もかかわった革命政権が直面した、利権に毒された政治のありかた・官僚の実態が明らかであろう。「革命いまだならず」という孫文の最後の言葉が思い出される。しかし腐敗の中でも清廉な人がいたことは次の馮友蘭氏の父君の例でわかる。

 

4−2 馮友蘭氏の話。河南省唐河県の生まれ。父君は清朝末期に科挙に合格して県官(吉野氏のいう知県だろう)になった。本人は北京大学・コロンビア大学で哲学を修め、新中国で活躍した哲学者。馮友蘭自伝、平凡社2007

1895年、日清戦争の終わる年に生まれた。生家は使用人2030人を抱える中クラスの地主で、7歳から先生が家に来て論語・孟子・大学・中庸を暗記するまで学ぶ。インドでヒンズーの古典を暗記すると同じ。四書が終わると詩経、もちろん一般向けの本も読んだ。

そのころ売官が一般的だったが、父君はそれによらず隣の湖北省武昌にできた外国語学校の総務長に任ぜられ家族も一緒に赴任。母の指導で書経・易経・左伝を学び、作文は父君が見てくれた。

1907年父君が崇陽県県官となった。新県官は、幕僚を雇い使用人も家具備品も自弁で仕事をする。役所は塀で囲われていて、吏・戸・礼・兵・刑・工の6部の建物があり、そこで事務を執る現地人は世襲で吏という。吏は行政サービスで報酬を受ける。賄賂ではないし、県官の負担でもない。中央派遣(そのころは省が派遣)の官と地方在住の吏、あわせて官吏。県官の家族・幕僚・使用人の住居は役所の裏にあり、その配置と格式は故宮に準じている。県官が代るとこの人たちも変わることになる。なお幕僚は裁判納税担当の刑銭・文書担当の書啓・子供の教育担当の教読の3人、給料は県官が負担する。その他の仕事は十数人の使用人が分担し、彼らに給料はなくサービスに対する料金を受け取る。賄賂ではない。

県官はその地域の支配者だから、農民から年貢を集め、所定の金額を国庫に納め、裁判を行う。県官には給与はなく養廉という年に銀45両の補助金があるだけ。農民が納める年貢は銅銭で、国には決められた銀子を納める。銅銭と銀子の換算率の差で余剰が出てそれが県官の収入となっていたらしい。

父君は42歳で脳溢血で死去した。慰労金の捻出に、県として赤字決算をしてごまかすか、国に納める不動産取得税をごまかして納めないなどの方法が一般的で、母君の反対にもかかわらず行われたらしい。みんな失業するわけだから。

父君の没後二年間故郷に戻り、家に先生を招いて国語の基礎を学んだが、県立の小学を経て、1911年、開封の民間経営の中州公学の夏休みの後、辛亥革命が始まった。馬車で帰郷の途中の宿で父君が昔書いた詩に出会った。母君は唐河県の女学校の学監になっていた。革命軍は戦闘を交えることなく唐河一帯を「光復」した。後、省略。

行政サービス料金は、吏が受けるものは彼らのもの、県官が受けるものは政務費用だが部下の給与を払うと後は県官の収入となりうる。もちろん清廉な人はいたけれど、所定外の収入に目がくらむ人もいただろう。平安時代の日本で地方官の任命=除目に悲喜こもごもとおなじであろう。

この科挙による官僚制度は、中国の政治の長く続いたパターンだったから国民党政権下でも残り、新中国の共産党政権下でも社会的慣習として残った。役人と人民との間の歴史的慣行だから簡単には消えない。この官吏の収益パターンが、改革解放後の現代にも残ってしまった。行政決定に対し支払われる金銭を,賄賂というか礼金とみるか。本人でなく家族に贈る方法もあるらしい。それにしても新聞などで見る数字の大きさには驚かされる。

 

4−3 毛沢東は、国民党との内戦中に地主から土地を取り上げ、農民に分配して支持を集めた。当時の共産党軍は、農民からの物資調達にきちんと対価を支払い、略奪が多い国民党軍の腐敗ぶりと対照的で外国のジャーナリストに賞賛された。

やがて共産党が内戦に勝利して政権を担い、分配した農地は人民公社に集めたが、大躍進運動は悲惨な食糧不足を惹起し、文化大革命は社会的大混乱を生み出した。専制君主毛沢東の死後、ケ小平の改革開放でようやく経済成長路線に乗ったが、都市と農村、沿岸部と内陸部との経済格差拡大は、国有とした土地の使用権の分配が地方政権の巨額の資金源となった。農村も都市も土地は国有だが使用権が高値で売れ、国庫と許可権者をうるおす。高度成長下で地価の猛烈な値上がりは日本でもあったが、日本には値上がり益を課税で吸収するシステムがある程度機能した。それが中国にあるのか。開発して多額の利益を享受できるのは誰か。共産党一党支配の中で汚職や巨額の蓄財の根源はここにある。新政権はどうするのだろうか。

 

5 中国の地方自治、科挙制度の背景

科挙制度の中国と幕藩体制の日本。科挙官僚は殿様に該当するとしても、なぜ多額の資産を蓄積できたのか。鍵は行政官の報酬システムの違い。武士には禄高が決まっていたが、中国の役人の収入はサービスに対する報酬だったこと。チップという習慣は日本にないが、サービスに対する報酬なら賄賂ではない。今日の中国で短期間に大金持ちができる理由ではないか。閥族・親族政治の反面として、科挙に合格したが仕官せず、郷里に帰って郷紳=地方の有力知識人として地方政治にかかわる人がいた。華僑として成功し故郷に多額の寄付をする人がいた。悪政に抗議し反乱の指導者になる人もいた。易姓革命で王朝は変わっても地方政治システムは変わらなかった。

そもそも科挙制度は、「士」=治者を養成するシステムで、その下の階級に「庶」=被治者があり、この差別は中国史を貫いているという。科挙制度は両者のか細い架け橋だったとすれば、今日の共産党支配における地方から中央に至る組織が治者のシステムで、優秀者の選抜は日々の行政成績によることになる。問題は歴史的に社会に蓄積された固定給は少なく「サービスに対する謝礼」で補うという報酬システム。

共産党といえども、歴史的システムを替えられなかった。ただ中国政治で感心するのはトップクラスの政治家の質の高さ。共産党の網の目が小さな組織にも張り巡らされていて、優秀な人材はどんどん抜擢され昇進するらしい。人間社会だから派閥はあるだろうし、頭のいい人間で悪賢い人もいよう。それを含めた人間集団が高い倫理水準を維持しえた歴史が近現代の中国にはあった。

ケ小平による改革開放が中国人の倫理感覚を一変させたという話があるが、その前にあまりにも形骸化した儒教への批判があった。科挙試験のためには四書五経を暗記が必要だったと知ると、それも当然と思う。改革開放も当然なければならなかった。むしろ社会に染みついた歴史的慣性の修正に習近平政権は苦しんでいるということだろう。

戦後覇権国として世界をリードした米国の民主主義押し売りの咎め目が見られる昨今、中国は新しい見本を提示できるだろうか。中国はいかなる近代国家を作るのか、歴史が問うている。

なお、最近の中国の直面する問題に関連して、忘れられていると思うことがある。

(1)  現在の中国共産党政権は一部に腐敗があるにしても、内部でこれを処理するしかない。

(2)  中央政権に軍事・治安両面の強い支配力があり、かつて地方反乱が政府転覆をもたらしたようなことは起こらないだろう。しかし歴史的に地方には軍閥しかなかったのか。自治はなかったのか。

(3)  中央政権には外貨蓄積があり、為替は管理され、財政的にも余裕がある。いわれているような金融危機は回避可能だろう。

(4)  法治国家といえるか。裁判官の地位は独立していない。罪刑法定主義でなく倫理的基盤を背景に行われているらしい。高度成長後の転換期でまだ適切な処理ができていない。いかに治めるか注目される。

                             おわり                           

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