ロシアの歴史雑観        2015,2.16 木下秀人

(1) 遅い建国とモンゴル支配 

ヨーロッパとアジアの北方にまたがるユーラシア大陸にまたがるロシア。気候条件が厳しく古代文明発祥地から遠かった。ルースというロシアの古代名が、ギリシャ語でもアラビア語でもノルマン人を指すのは、スカンジナビアのノルマン人が南下し支配者となったからである。住んでいた民族を総称してスラブという。スラブのもとの意味は明らかでないが、古来、戦争捕虜は奴隷としたことから、ギリシャ語に入って奴隷の意味となり、それがラテン語に伝わったらしい。

受け入れ先はオスマン帝国だったが、イスラムの奴隷は、世界史における奴隷や農奴よりはるかに高い処遇を享受し、結婚も財産所有もでき、奴隷解放はイスラムにとり善行だったから、軍人で将軍になることも可能で、奴隷出身者が建てた奴隷王朝120090まであった。物としての人と、人としての人権が分けて認識されていた。人権思想は西欧の産物ではない点に注意する必要がある。

「ドリナの橋」というユーゴスラビアのノーベル賞作家イヴォ・アンドレッチ氏の小説がある。ドリナ川のほとりで生まれた少年が、デヴシルメ制の奴隷としてオスマンの宮廷に入り、大宰相になって故郷の川に石橋をかけた。1577完成した橋は、20世紀の内戦で破壊されたが復旧して健在という話。

9世紀になって、東方教会の修道士キリロスとメトディオス兄弟がやってきてキリル文字を作り、キリスト教の布教を始めたという説があるが、二人は広くスラブ諸国を回り、スラブ語の文字を作り、キリスト教の典礼を、やがては聖書も現地語に訳した。その活動の延長上にロシアがあったのではないか。いずれにしても、これがロシア史の始まり。中國にはもちろん、日本に比べてもはるかに遅い。

原初年代記という古記録があって、スラブ人たちが内部対立をまとめられずノルマンに統治者を求め、リューリク兄弟がノブゴロドに来てユダヤ人のハザール王国を退けて862年ルーシの国=キエフ大公国を建て、ウラジーミル9801015の時代に東ローマの内乱を鎮圧した功で皇女を妃に迎え、キリスト教を受容した。典礼の言葉は、ギリシャ語でもラテン語でもなくロシア語だった。

キエフはウクライナの首都でロシア発祥の地であるが、やがてロシアの首都はモスクワに移った。ウクライナはロシアの穀倉であったが、革命初期にソビエト政府軍に抵抗して敗れ、農業集団化で富農が追放・抹殺され、第2次大戦ではドイツ軍占領下の忠誠が疑われるなどの悪い記憶が残った。

今日問題のクリミアは、1783エカテリーナ2世の時にクリミア・ハン国を併合し、黒海艦隊の基地としたのが始まり。ソ連時代に、ウクライナ生まれのフルシチョフが、ウクライナの行政区画に移した。当時はなんでもないことだったが、ウクライナが独立しロシアから離れ、NATOに加盟するというので大問題となった。

冷戦解消とソ連崩壊は、ソビエト時代の圧政に苦しんだ東欧諸国に、独立し西欧陣営に移る機会を与えた。東西ドイツの合併の時ゴルバチョフは、米国のベーカー国務長官と、ソ連側独立国のNATO加盟は認めないことで合意したが、その後の米政権は、文書化されてない口約束として反故にしてしまい、折角の核軍縮、冷戦終結にもかかわらず、東西のバランスは崩れてしまった。米国に多大の責任があり、プーチン氏やロシアを非難して済む問題ではない。

第二次大戦においてドイツの攻撃を真正面に受けて勝利に貢献したロシアは、欧米の第二戦線=ノルマンディー上陸が遅れたために、ドイツの4倍、英仏とはけた違いの人的損害を被った。戦死者1450万人、民間死者700万人、ドイツは285230、ポーランド85577、英国276,フランス2117、イタリア289、日本23080、米国29、民間なしという数字がある(英国タイムズ、第2次大戦歴史地図)。ロシアの数字の大きさには、スターリンの軍幹部粛清の影響も指摘されるが、冷戦がたちまち始まって、疲弊したロシアへの戦後の欧米の援助は皆無で、原爆所有が圧倒的優位として誇示されるばかりだった。

リューリクに始まる王朝は、ツァーリの名を残したイワン雷帝の死1584に続くフョードル帝の死で1598断絶、ボリス・ゴドゥノフ帝の死、偽ドミトリーの混乱ののち1613ロマノフ朝に代わる。ロマノフ朝は第1次大戦末期にレーニンの革命で倒れ、ソビエト社会主義共和国連合となり、ソビエトは1991ロシア連邦と変わったが混乱は今も続き、落ち着く先としてプーチンは、ユーラシア連邦を唱えている。

ロシア建国時の西欧では西ローマ帝国は既になく、ローマ教会によるフランク王国のキリスト教化の結果、800カール大帝の戴冠式はローマ教会で行われた。まだ東西教会分裂(1054年)前で、ギリシャ・ローマの文化を受け継ぐ東ローマ帝国がコンスタンチノポリスに健在で、多数の修道士を布教に派遣し、ルーシはそこで初めて高度文明に接しキリスト教を受け入れた。

既に西ローマ帝国は滅亡していたが、ローマ教会はローマ帝国の首都の教会だったし、ゲルマン民族を教化した実績があった。教義論で東に譲るわけにはいかなかった。両教会の争いは今日も続いている。

バグダッドではイスラムのアッバス朝が全盛期。中國は唐の末期、楊貴妃と玄宗皇帝の悲劇は百年以上前の756年。日本は中国・朝鮮経由で仏教・儒教を受け入れ、平安初期、清和天皇の時代。ロシアの歴史への登場は遅かった。住みにくい寒冷地のせいであろう。

ロシアのルーツとして歴史に登場したキエフ大公国は、相続争いによる内紛で次第に衰えた。そこへ東からモンゴル軍、西から西欧軍が攻めてきた。第4回十字軍は東ローマを攻撃、略奪した。ローマ教会のキリスト教や西欧思想には異端を見逃せない偏狭さがある。自らの宗派内の異端審問ばかりか、東方教会もイスラムも武力を含む攻撃の対象だった。今なお融和が困難な理由だろう。

1096 第1回十字軍、東ローマの救援要請に発したが、虐殺、略奪の挙句エルサレム王国を建てる

1147 第2回十字軍、ムスリム軍に敗退

1187 第3回十字軍、エジプトの英雄サラディンに大敗、エルサレムを失う

1202 第4回十字軍、コンスタンチノポリス征服・略奪、ラテン帝国を建て、東ローマは亡命政権となる

1223 ロシアとモンゴル軍と最初の戦い、カルカ河畔で南ロシア諸公軍完敗

1237 モンゴル、バトゥ軍来襲、1238ウラジーミル陥落、1240キエフ陥落

1240 スウェーデン軍来襲、アレクサンドル・ネフスキー、ネヴァ川で撃破

1241 モンゴル軍、アドリア海に達したが、第2代オゴディ・カンの死で撤兵、西欧は侵略を免れた

1242 十字軍帰りのドイツ騎士団来襲、アレクサンドル・ネフスキー、チュード湖上で撃破

1243 バトゥ、ボルガ下流域に留まり、キプチャク・ハン国を建てる。ロシアを支配。  

ロシアは、西欧軍は撃退したが、留まってイスラム化したモンゴルの支配が、「だったんのくびき」として15世紀後半まで続く。ウラジーミル公として西欧侵入軍を撃退したアレクサンドルは、ネヴァ川の戦勝にちなんでネフスキーと呼ばれ、1252モンゴルによってウラジーミル大公に任ぜられ、北東ロシアに君臨したが、モンゴルには恭順するしかなかった。

 

 

(2) 「だったんのくびき」とモスクワ大公国

わが文永1274、弘安1281の2度にわたるモンゴル軍の来襲は「神風」によってなんとか防衛された。西欧も蹂躙を寸前で免れた。しかしロシアは苦難を強いられた。二世紀半に及ぶモンゴル支配は住民に過酷な負担を強いた。十分の一税、兵役など。それを終わらせたのはイワン雷帝で1480、税金を支払わないモスクワに対し大軍を派遣したモンゴル、応戦したイワンに、モンゴル軍は退却したという。

モンゴル帝国は5代フビライの時に4分裂した。

1 中国の元朝

2 中央アジアのチャガタイ・ハン国(現在、カザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン)

3 キプチャク草原のキプチャク・ハン国、(現在、ウクライナ、ハンガリー)

4 西アジアのイル・ハン朝(現在、イラン、イラク、キルギス、トルクメニスタン)

である。元は1368明に滅ぼされ、チャガタイとキプチャク・ハン国はチムール13361405により統合されイスラム化し、15世紀の中頃、クリミア,カザン、シベリア、アストラハンなどのハン国に分裂し、4ハン国はすべて、やがてロシアに併合された。

因みに、ソ連の分解前に独立したのは、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国。

分解後独立の非モンゴル系は、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴィア、アルメニア、グルジア、アゼルバイジャンの6か国。

現在ロシア連邦は、48州、7地方、21共和国、9自治管区、1自治州、2都市で構成されている。独立を求めてもめているチェチェンは共和国で、独立は他の共和国に波及するから認められない。ウクライナと問題のクリミア共和国は昨年編入されたが、ロシア領と認める国はまだ少ない。

インドのムガール朝は19世紀まで続き、第2次大戦後、ムスリムのパキスタン、ヒンドゥーのインド、東パキスタンがバングラデシュに分かれた。しかし混在が解消したわけではない。

キエフ大公国の領域は、バルト海から黒海・エーゲ海・地中海に連なる川や山で別けられた肥沃な大地、中でもウクライナは穀倉といわれる豊かな地域だったが、モンゴルによるキエフの破壊は激しく、ロシアの政治の中心はアレクサンドル・ネフスキーの治めるウラジーミルに移り、その息子が新興のモスクワ公となり、モスクワが大公国に昇格することになる。モスクワが交易の中心地ノブゴロドの支配から生み出す資金でハンを満足させたからという説がある。

モンゴル支配はロシアに何をもたらしたか。風のごとく突如世界史に登場し、東西を結び付けたモンゴル帝国。西欧まで進んでいたとしたらどうなったか。中国に君臨した元朝は12711368、百年しか続かなかった。キリスト教は、中国の儒教と同様に、モンゴルを感化できなかったと思う。しかし教義のあっさりしたイスラムは受け入れられて、イスラム系ハン国が、2世紀半もの間ロシアを圧迫した。

明によって中国を追われた元朝は、カラコルムを首都とする北元1378となるが、91内紛で諸部族に分裂、モンゴル帝国は終わった。

ジンギスカンの後裔と称し、サマルカンドを首都としてシルクロードを支配したチムール朝13701507や、チムールの5代の孫バーブルがインドに建てたムガール帝国15261857のムガールは、モンゴルのペルシャ読みという。ムガール朝時代のインドで行政に用いられたのはヒンドゥーのバラモンたちで、仏教はイスラムに破壊され消滅してしまった。

ムガールに代わった英国もまた分割主義で、識字率の高いバラモンを官僚に多用した。コーランの翻訳を認めないイスラムでは、知識人は限られた少数にとどまり、識字率も上がらず、アジア各国で中国系や仏教徒との差が所得格差につながり、各地で紛争をもたらしている。

ロシアにとって、モンゴルは遊牧民で、書物を蓄積する文化はない。中国と接しながら儒教文明の理解者でも媒介者でもなかった。1258アッバス朝を滅ぼし、バグダッドを制覇したモンゴル軍は、ギリシャ・ペルシャの古典を集め知恵の館といわれた大図書館を焼き払ったという。モンゴルにチベット経由で伝えられたラマ教は、密教という末期の仏教で、大乗仏教がロシアに伝えられることはなかった。モンゴル経由で西欧に伝えられた活版印刷は、グーテンベルクのドイツ語聖書となり宗教改革の原動力となったが、その頃東方教会はトルコ軍の攻撃で生死の瀬戸際、聖書を印刷した記録はない。

イスラムから西欧に伝えられてルネサンス、科学技術振興のベースとなったギリシャの哲学は、東方教会やロシアで開花することはなかった。ローマ教会の教義論争は、ギリシャ哲学を援用して精緻なものとなったが、1453帝国滅亡時に持ち出されたギリシャ古典を含む膨大な書物は、皇女とともにモスクワに持ち込まれ、宮殿の地下に納められたというが、図書館として活用されはしなかった。

西欧に隣接しているのに、十字軍など西欧諸国はあまりにも攻撃的敵対的で、文化吸収に動くには、ピョートル大帝16891725まで待たねばならなかった。それでも隣接するオスマンよりは早かった。バルト海に面した首都の建設に始まる大改革は、政治・経済システムの改革までは及ばず、それが後年の革命を呼び起こすことになる。

日本では、1707富士山噴火、江戸幕府は綱吉がなくなって家宣、新井白石が登用されて吉宗171645に至る。大阪堂島では世界初の米の先物取引1730が行われていた。1792ロシア使節ラクスマン、漂流民大黒屋光太夫送還で根室に来航、国交開設はできず。これが日露接触の初め。

モンゴルについては、その世界史的意義を高く評価する杉山正明氏の業績がある。小生は宮崎市定氏の説しか知らなかったが、これから学習して別稿で紹介するのを喜んでいる。

 

(3) ロシア正教

ロシアのキリスト教は10世紀、キエフ大公ウラジーミルが、東方教会のキリスト教を受け入れて発足した。西ローマ帝国は既に滅び、ローマ教会と東ローマ帝国の東方教会との教理論争は、たびたびの協議にもかかわらず決着せず、東西教会は11世紀に分裂した。

分裂の理由は二つあった。一つは「三位一体」という中心教義の解釈の違い。キリスト教には、父なる神、子なるイエス、精霊という三つのペルソナが優劣なく一体であるという教義がある。その三者の関係。東方教会は「精霊は父から発出する」とするのに対し、ローマ教会は、父と子はペルソナを異にするが同質だから「精霊は子からも発出する」として譲らない。

二つ目は教権と王権との関係。ローマは教権の王権に対する優位を主張するのに対し、帝国がまだ存在する東方には、王権の優位を跳ね返す力はなかった。繰り返し行われた会議における合同案の賛成者は、母国に受け入れられなかった。ローマ教会は、西ローマ帝国滅亡後に異民族政権を教化した実績がある。教会の方がゲルマンの作った王国よりずっと古く権威がある。東方教会には、キリスト教を国教としたローマ帝国の別れである東ローマ帝国がまだあった。政権の教会支配が当然だった。

しかもローマ教会支配の西欧の政治的安定に対し、東ローマ帝国と東方教会にはイスラム勢力の侵攻が迫っており、応援に来たはずのローマの十字軍が東ローマ帝国を侵略するという考えられない暴挙があった。ローマを信頼して合同するなどできるはずがなかった。

東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国は、同じ啓典の民として、ギリシャ人もユダヤ人も排斥せず、リコンキスタ後のスペインの迫害から逃れたユダヤ人とイスラムの受け入れ先だった。イスラム政権下でも東方教会の存続は認められたが、ロシアのモスクワが東方正教の中心を主張するようになった。

分裂後の西欧は、イスラム経由で受け入れたギリシャ文化からルネサンスと科学技術を生み出して発展したが、中欧・東欧は、西欧・イスラム・ロシアの政治的宗教的せめぎあいで落ち着くことなく、ロシアにはモンゴル支配の2世紀半があって西欧近代世界へ登場は遅れた。ピョートル大帝1682-1725時代に正教会は、俗人の統括する宗務院の一機関となってしまった。

教義論争の公教会議で思い出すのはギボンのローマ帝国衰亡史で、それぞれの教会からの参加者は、武装兵の護衛付きだったという。日本の叡山の僧兵と同じである。日本では近世の一向一揆、信長の叡山焼き討ち・石山本願寺との戦い、徳川時代初期に島原の乱があり、その後、寺社奉行が宗教勢力を統括し宗門改めが厳しく、寺には檀家制度が強制された。維新後の憲法は信教の自由を明記したのに、国家神道、天皇信仰が強制され、迷夢から覚めるには敗戦が必要だった。日本の宗教・思想統制はロシアより厳しかったかもしれない。

西欧では近世を通じて、苛烈な宗教・民族戦争が国内外で続いた。第1次大戦はその摩擦地点から生まれ、西欧を悩ましてきたイスラム世界は、英仏により分割され、その余波が今日なお世界を揺るがしている。ロシアが近代まで西欧の影響に薄かったのには、西欧側の攻撃的姿勢への反感があっただろうか。

大戦末期のロシアに、社会主義政権という西欧思想と政治にとって異質な政体が誕生した。無神論を主張したから、教会は壊滅した。間もなくおこった第2次大戦でロシアは、ドイツ軍の侵攻を一手に受け、欧米の支援のないままに広範な領土を踏みにじられ、2千万人を失った。

戦後「冷戦」のもと、スプートニク打ち上げまでは、社会主義も西欧に優位を示し得たが、やがて自由を抑圧する体制が経済発展を阻害することが明らかになった。皇帝の専制政治が続いたロシアには、近代システム受容の社会的基盤ができていなかった。レーニンの権力奪取は必然ではなかったという説があるが、「革命」によってできた社会主義政権は、近代化に必要な政治的経済的自由を許さず、抑圧した。脱出した知識人は故国に戻ることなく、スターリンの粛清が、第2次大戦まで続いた。

社会システムの抑圧体制からの自由体制への転換はいかにして可能であろうか。いかなる準備が必要だろうか。ロシアは壮大な社会的実験に、準備不十分のまま立ち向かい、まだ模索中。中国も失敗を重ねながら慎重運転中である。社会的、歴史的条件が違うから転換には少なくとも1世代=30年はかかるという説があった(青木昌彦の経済学入門、ちくま新書2014)。人の心は変わらないから人が変わるしかない。ロシアは短期戦で失敗した。中国の30年後はどうなるだろうか。

ソビエト連邦からロシア共和国連合への政治体制の移行と、経済システムの自由化、市場経済の導入は、仲間だった民族国家の独立・離反を含む政治的経済的混乱をもたらした。ウクライナがロシアか西欧かという難題は、ロシアとウクライナの歴史的問題に、ドイツ軍の猛攻を一国でしのいだロシア、異質な社会主義国の故に孤立させられ援助なく、巨大な損害を被ったロシア、それゆえに格差がつけられたロシア。再び東西冷戦の図式を持ち込むべきではないと思う。欧米首脳の政治力が問われるであろう。

今日、正教会(これが正式名)は、コンスタンチノープル、アレクサンドリア、アンチオキア、エルサレムの4つの総主教庁と、ギリシャ正教会、ロシア正教会などの11の独立教会と、シナイ山正教会、日本正教会、中国正教会など5の自治教会、ラトヴィア、モルドヴァ、エストニア、ウクライナなど6の自主管理教会の集合体としてある。各構成体は国や地域で分かれているが、その間に優劣がない点が。ローマ教会カトリックの縦型組織と異なる。

さらに欧米を含む外国在住の正教徒が結成し資金潤沢の、カトリック系の東方典礼カトリック教会がある。帰一協会とも、ユニエイトともいわれる。ウクライナにはウクライナ東方カトリック教会がある。典礼は東方で司祭の妻帯を認めるが、ローマ首位権を認めるなど、神学的にはローマ・カトリックと同じという。正教とカトリック、同じキリスト教だが、歴史的対立のしこりはまだ解けていないらしい。

古来、ローマ教会は、旧約聖書を母体とするユダヤ人を迫害し、イスラム政権にも厳しい対立姿勢を取り続けてきた。しかし、イスラムは、同じ唯一の神を信仰する仲間だからと、ユダヤ人やキリスト教徒に寛容であった。ユダヤ人は早く世界に分散し、キリスト教国で迫害されてきた。シオニズム運動によるイスラエルの独立宣言は1948年であるが、パレスチナ難民問題を生み出し、周辺のアラブ諸国と未だに融和できないで、責任ある欧米も手が付けられないでいる。

今日、ピケティ教授の資本論は、近代資本主義世界に明快な課題を投げかけた。近世欧州の宗教戦争の解毒には啓蒙思想という薬が効いた。旧約・新約・コーランという同じ唯一神を崇める人々が,強力な武器で殺し合いもつれ合う現代。誰が解決策を生み出し得るのであろうか。

ロシア正教については、キリスト教以前の原始信仰が残って形成された「分離派」、それに対するニコンの改革と弾圧についても触れなければならない。

論点整理も不十分な論考で恐縮ですがとりあえず提示し、続稿で補充することにします。

                             以上

 

 

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