ドラッカーについて   

                         2000.9.5  木下秀人

目次

1 戦後経営改革のイデオローグ

2 資本と経営の分離=経営者時代の管理者の位置づけ,管理のあり方

3 企業経営者の変化=機関投資家の登場と年金社会主義にいち早く注目

4 金融の変化=為替取引の実需取引との乖離=マネー商品時代を予測

5 新しい社会の構想=ノンプロフィット・ノンガバメント組織の必要性を予測

 

1 戦後経営改革のイデオローグ

ドラッカー氏の本は、戦後日本でアメリカ経営学の教科書として良く読まれた。米国より日本のほうが信奉者は多かったと言われる点は、品質管理のデミング氏と共通する。両氏ともに、戦後の経営改革で影響を及ぼした人物の双璧かもしれない。

そもそも戦後日本の改革は、軍国主義から平和主義への新憲法に象徴される政治改革と、財閥解体・農地改革・労働三法制定にはじまる経済改革の二本立てであった。経済問題に絞ると、財閥解体と旧経営陣の追放で自由になった若手経営者が、労働問題に対処しつつ、農地開放と米価政策で一躍広がった国内市場に向かって、復興を旗印に衣食住の新製品を競って売り込み、朝鮮戦争の特需という外貨資金源にも恵まれて、昭和30年には「もはや戦後ではない」というほどに回復し、池田内閣の高度成長につながった。

その間、朝鮮戦争のための米軍基地での日本人従業員教育に使用された、米国で戦時中に開発された管理者教育・企業内訓練システムが、MTPManagement Training Program)・TWITraining within Industry)として日本の企業内訓練に移植され、また電話機生産という大量生産における品質管理がデミングの指導によってなされた。その上管理者教育・経営者教育によって、古い考え方を新時代の思想に転換させることが必要とされた。その最大のイデオローグがドラッカーであった。

やがて生産性本部による米国経営視察団の大量派遣、米国の生産技術・管理技術の徹底学習が、大量の技術導入と並行して始まった。学習効果はたちまち現れた。貿易収支は70年代に黒字化、経常収支も80年代に黒字化し、80年代半ばには一人当たりGDPで米国を追い抜いてしまい、やがて逆に日本システムがもてはやされ米国に導入されさえした。その後米国は冷戦終了とIT革命で立ち直り、史上初めての長期好景気を享受し、日本はバブル破裂と構造改革で停滞を余儀なくされている。歴史の変転の面白さ!

さかのぼると、米国で開発された銃器生産における部品の互換性追及、テイラーの時間分析による科学的管理法、フォードの流れ作業、ホーソン実験による人間関係論などのいわゆる科学的管理法はすべて、戦前に紹介・導入されていた。能率向上・産業合理化は、欧州大戦中のバブル景気で膨張し、それが終わっての不況に関東大震災の打撃が加わり、世界大戦と世界恐慌の打撃に苦しむ欧米とともに、長い不況に苦しむ日本産業界再生の重要なキーワードであった。昭和5年、農商務省に臨時産業合理局が設置され、岸信介が欧米の状況調査に出かけ、米国には及びもつかないが資源に乏しいドイツのやり方ならと、ドイツで行われていた米国経営手法による産業合理化運動に日本の進むべきモデルを見出した。カルテル・トラスト・コンツェルンなどの言葉がはやったのはこの頃で、大企業・大資本による市場支配は各国ですすんでいた。しかし個別資本による独占でなく、国家による統制がむしろ合理的ではないか。既にロシア革命で「社会主義経済」が存在していて、それに対抗する為に、自由放任でなく国家の総力結集のために、経済統制の必要が主張され、その実情も調査の対象であった。民間では能率協会ができて改善手法の紹介に当たった。しかし戦中戦後を通じて日本は、コンベヤーシステムすら万足に稼動できなかった.

小生など戦後の昭和30年に扇風機・洗濯機工場にいたが、需要不足=ロットの小ささもあったが、部品切れでラインはよく止まるのに、米国では一つのラインから仕様の異なる車が生まれるなどと聞かされた。その、本で知るしかなかった知識が、実地に確かめられるようになり、経営者・管理者が続々米国産業視察に参加し、経営学が誕生し経営学者やコンサルタントが生まれた。ドラッカーはその中で人気抜群のリーダーであった。

われ思うに、ドラッカーの仕事の独創性は次の3点に要約される。

 (1)資本と経営の分離=経営者時代の管理者の位置付け、管理のあり方を提唱

 (2)企業所有者の変化=機関投資家の登場と年金社会主義に逸早く注目

 (3)金融の変化=為替取引きの実需取引との乖離=マネー商品時代を予測 

 (4)新しい社会の構想=ノンプロフィット・ノンガバメント組織の必要性を予測

この4点は、戦中戦後を通じての資本主義経済の発展と変化に対応しており、それをその節々で巧みに捉えて、適切な発言をしてきたところに社会思想家、(本人は社会生態学者と称している)としての彼の真骨頂がある。

(1)資本と経営の分離=経営者時代の管理者の位置付け、管理のあり方

  資本と経営の分離は、バーリとミーンズの「近代株式会社と私有財産」1932によって  明らかにされた。近代経済発展に伴う企業規模の拡大=資金需要の増大は、個人資本家では支えられず、株式市場での不特定多数の投資家による分散投資に依存することになった。会社所有者としての資本家にかわって、資本面では多数投資家が、管理面では経営者・管理者が、新しい企業社会の中心人物として登場してきた。企業組織の拡大と企業社会の複雑化は「経営管理」と言う新しい職能と、それを担う新しい社会階層を生み出した。

ファシズムの荒れ狂うドイツを逃れ、英国を経て米国に移住したドラッカーは、その経営管理者層の社会的倫理的役割・機能の優劣が、自由経済体制の生き残りの鍵と見た。バーナムの「経営者革命」1941も、ロシア・ドイツの社会体制に対し民主主義社会を存続させるには、資本家を無力にする・大衆を抑制する・経営者も相互に競争することによる「経営者機構」への移行が必要と説いた。それが時代の流れだった。

ドラッカーは「経済人の終わり:全体主義の起源」1939(チャーチルに絶賛されたという)、「産業人の未来」1942、「会社と言う概念」1945GMの組織分析の結論、フォードニ世はこの分権化導入で建てなおしに成功した)、「現代の経営」1954などを書き、GMとの関わりは世間的に有利に働いて、戦後社会で経営者・管理者教育が重視されるに伴い、ドラッカーの本は売れた。

しかし、「新しい産業社会=経済がコミュニティと社会に奉仕する、人間はコストではなく資源である=を作ろうという彼の思想は、繁栄を謳歌する米国では無視され、日本で受け入れられた。日本企業はドラッカー流の企業というコミュニティ構造を作り上げ、それを無視した米国企業に追いつくようになっていく」=ビーティー。

GM建てなおしの名経営者スローンは、ドラッカーを評価しなかった。そのGMが、ドラッカーの計画を復活させたのは、日本車に市場を圧倒された1980年代半ばであった。米国のドラッカー評価の象徴というべきであろう。そしてマネジメントの技法は、世界共通・普遍的な資産となった。ドラッカーの貢献である。

(2)企業所有者の変化=機関投資家の登場と年金社会主義に逸早く注目

  1950年、GMと全米自動車労組はドラッカーの助言を受け入れつつ、全米民間部門最大の年金基金=ペンション・ファンド創設に合意した。提案は確定拠出型であったが、決まったのは確定給付型であった。(それがやがて行き詰まって確定拠出型となった。)それをモデルにして、1年もしないうちに8000もの年金基金が設立された。それぞれの基金は債券・株式などの金融資産で資金運用をする。(小生1961年、米国で転換社債の私募をしたが、買ったくれた大口がフォードやUSスティールの年金基金であったことを思い出す。)基金は毎年積み立てで着実に増加する。所有株式が増える。従業員の積立である年金基金は、生命保険・各種財団・基金と並ぶ新しい機関投資家として登場した。

「見えざる革命」1976においてドラッカーは、これを「年金社会主義」と表現した。個々の従業員の持分は小さいが、基金としてまとまると大株主となる。従業員が企業の所有者になるという所有関係の逆転、まさに革命であった。そして事態は予測どうりに進行し、年金基金の代表者が信託の代理人として、大株主としての役員選任・リストラ実行などの権利行使を行い、大会社の経営に介入する事態が実現した。かつて企業の巨大化に伴い株式市場で分散された個人資本家の持ち株が、個人年金基金として集められ、機関投資家=大株主として社会化された形で再登場した。従業員持ち株会が大株主になるケースも増えた。企業は、支配関係において提案制度などのように一方的支配・服従関係から脱皮しただけでなく、所有関係においても従業員を無視できなくなった。これを企業の社会化というか社会主義というか。新しい企業が新しい社会をつくる。企業も社会も生き延びる為には絶えざる革新が必要であった。

 (3)金融の変化=為替取引の実需との乖離=マネー商品時代を予測

ドラッカーが「断絶の時代」を書いたのは69年で,ニクソン・ショック=71.8の前だったが,その中で、貨幣としての金は、産出量が貨幣の必要量に合わない。米ドルは、基軸通貨として世界貿易に流動性供給の責任あり、米国の国際収支は必然的に赤字たらざるを得ない。その結果、米国の金保有量を上回る米ドルの過剰供給で、金のドル価格引き上げが必至であると指摘した。ブレトン・ウッズでケインズが新しい国際通貨創設を提案したが,それに替わって作られた、金と唯一交換可能なドルを基軸通貨とするシステムに危機が迫っている事を鋭く指摘した。

ニクソン・ショックで金との関係を断たれたマネーは、その後の貿易自由化・金融自由化の進行と共に,外国為替取引において実需制約から解放され、マネー=通貨自体が他国の通貨との交換格差を求めて大量に売買される商品となるに至った。ドラッカーがそれを最初に指摘した栄誉を担うべきか否かは知らないが、グローバル・エコノミーとバーチャル・マネーがもたらす問題の指摘において、包括的で鋭い議論を展開し、国民経済はバーチャル・マネーに常に敗退し、グローバル・経済は全面戦争を不可能にするなどの命題を生み出した。  

金との関係を断たれ、変動為替時代となって、金融取引の自由化が推進され、新しい金融商品が開発され、インフレとの戦いがあり、規制緩和があり、コンピューターの発達があった。米国ではS&l危機とその救済があった。日本は残念ながらこの大変化に対応する改革を怠り、バブルを生みだしその破裂があり、東西冷戦の終了があり、インターネットを使ったIT革命による米国の戦後初めてどころか、史上初めての長期成長下に10年に及ぶ停滞を続けている。

ドラッカーが指摘した問題点は、各国経済状況とバーチャル・エコノミー時代の国際投機資金とが織り成すドラマとして、メキシコ金融危機・アジア金融危機・ロシア金融危機、さらには米国に飛び火して、ノーベル賞学者二人を擁する巨大ヘッジファンドLTCMの救済劇にまで発展した。

日本では金融再生はようやく終幕かというところである。米国は財政赤字は克服に成功,残るは経常赤字の累積であるが、インフレ克服にも成功した現在これは基軸通貨国の特権で問題にすらされなくなっている。

 (4)新しい社会の構想=ノンプロフィット・ノンガバメント組織の必要性を予測

ドラッカーが、その処女作「経済人の終わり」で主張したのは、社会における個人の自由と平等の追及が歴史を貫くテーマであり、資本主義も社会主義も、その実現に失敗した。その絶望状態の混乱からファシズムが台頭したが、ファシズムは何ら新しい原理を提示できず自滅した。社会主義=共産主義の失敗は、高度工業社会において必然的に発生する中間管理者層を、特権的階層としか位置付けられなかったからである。資本主義の失敗は、豊な社会的生産物の分配において階級格差を是正できず、経済生活において自由と平等を実現できなかったからであった。

米国は、唯一自由と平等が実現可能な国と思われたが、その米国で大恐慌が発生した。経済的利益追及だけの「経済人」の時代は終わった。

新しい産業社会は、経済が社会とコミュニティに奉仕し、人間をコストでなく資源とするような社会でなければならない。ドラッカーのこの思想は、米国で必ずしも受け入れられているとも思えないが、彼が今、NPO=非営利組織に関心を持ち、その役割に期待を寄せ、その運営に関する著作を続けている点に注目するべきであろう。

日本への関心は、日本が唯一、資本主義発展で、社会的階層格差の大幅圧縮を実現し、不況であっても人員解雇に消極的で、社会的安定性があって、特異だからであると思う。日本社会の構造改革は,ドラッカーの期待に応えられるであろうか。              

                          2000.9.5