朝鮮と日本―開国から併合まで

                     2002.7.1―31  木下秀人

目次

始めに

(1)   朝鮮の状況

1 武班に対する文班の優位

2 学問における実学の軽視

3 苛烈な政権闘争

4 徹底した鎖国体制、小中華思想の独善

5 苛烈な収奪が生産性増強意欲を奪った

(2)   日本と朝鮮―開国から併合まで

1 通信使による友好関係

2 征韓論―1873年=明治6年

3 幕末期の朝鮮―大院君と閔氏政権

4 江華島事件―1875年=明治8年

5 壬午軍乱―1882年=明治15年

6 甲申政変―1884年=明治17年

7 脱亜論―福沢諭吉と朝鮮―1885年=明治18年3月

    北岡伸一「独立自尊」  丸山真男「福沢諭吉と日本の近代化」序 

    安川寿之輔「福沢諭吉のアジア認識」  竹内好「アジア主義の展望」

8 日本軍介入による大院君政権の誕生・日清戦争―1894年=明治27年

9 閔妃暗殺―1894年=明治27年

10 ロシア派のクーデター―1996年=明治29年

11       独立協会―1996年=明治29年

12       北進事変―1900年=明治33年

13       日露戦争―1904−5年=明治37−8年

14       韓国併合―1910年=明治43年

15       日本の開国とアジア侵略

16       韓国の現代と日本 

 

始めに

住んでいる小金井市の成人大学講座「江戸(日本)と世界」が面白かった。

ICUSteele先生は、「西洋から見た江戸」「江戸から見た西洋」。ザビエルやフロイスが日本人を褒めていたとか、江戸まで旅をしたケンペルが汚物で匂わない江戸に感心したとかは知っていたが、カントが永久平和論で日本の鎖国政策=「来航することをオランダ人にだけ許可し,そのさい彼等を捕虜のように扱い,自国民との共同生活体から閉め出し、他地域で行われている訪問と同一の征服行為を防止した」を、思慮深いことと評価しているとは和辻哲郎の「鎖国」にも書いてないことだった。

続く小島康敬先生の「江戸外交の始まり」は出られなくてレジメによると、仲介に当たった対馬藩の宗氏による国書偽造・改竄があったなど興味深い話題があった。

若い思想史研究者の鄭載勲先生による「夷狄の国から日本へ」という朝鮮の実学者による日本観が、当初の「夷狄」からやがて「普通の国」へ好転していった話が続いた。

小島先生の二回目からは日本から見た朝鮮観。前期、藤原惺窩・山崎闇斎の時代は朝鮮の朱子学者への尊信があった。中期になると儒学理解が進んで評価が分れる。熊沢蕃山・山鹿素行は日本優越論、新井白石は蔑視、対馬で交渉役だった雨森芳州は文化風俗の相対性を認める立場、徂徠門下の太宰春台は礼儀あればどこの人でも中華の人と同じという立場で通信使と筆談・詩文を交わした。

十八世紀後半から幕末に至る後期になると、朝鮮蔑視観が強まり、国学の日本優越思想も加わり佐藤信淵の世界侵略思想、吉田松陰の朝鮮を足場にして大陸進出を説く「征韓論」が現れた。征韓論は既に幕末にかなり広く存在していたという。

朝鮮側の対日イメージが徐々に好転していったのに,日本側の朝鮮イメージがなぜ蔑視・征韓論へと悪くなっていったのか。

この話題を手許の姜在彦「朝鮮儒教の二千年」によって補い、朝鮮儒教とその政治・社会との関係を日本との比較において略述し、近代史における両国関係の背景を探ってみた。細かく論ずると限りがない。気付いた項目を指摘するに止める。

 

049月4日補説

8月に平山洋「福沢諭吉の真実」文春新書がでて、福沢論に大きな一石を投じた。@福沢全集に載っている時事論集(無署名)には、大正・昭和全集にかかわり「福沢諭吉伝」の筆者でもあった石河幹明の作為があって、天皇崇拝やアジア民族蔑視の侵略思想は本来福沢にはないのに、時流におもねってその思想に沿わない福沢の論説は除き、その思想に合致する石河執筆論文が載せられている。Aさらに「福沢諭吉伝」は、その思想に沿って執筆され、時流にあわない真実の姿はまげられ、都合のよい石河論文によって描かれている。B安川寿之輔氏などが、福沢のアジア侵略思想の証拠といって挙げている論文の殆どは石河執筆のもの。C脱亜論についての解釈は小生の解釈とほぼ同じ。D丸山真男氏の諭吉論は氏の生前には完成されなかった点は平山氏の指摘のとおりで、その理由についての氏の推測も当たっていると思う。ただ丸山氏本人も自らの20年前の福沢論には批判をもっていることは書簡集5の安川寿之輔氏宛の書簡に明らかである。

 

(1)朝鮮の状況

1 武班に対する文班の優位

朝鮮が官僚選抜の制度として科挙を取り入れたのは985年高麗時代。仏教排斥が起こるのは朱子学が持ちこまれた高麗末期、高麗は元に抵抗して戦った(海印寺所蔵の大蔵経はモンゴル軍に焼かれたのを退散を祈念して再版されたもの)が力尽きて元の帝室と婚姻関係を結んだ。日本の頼朝政権の頃に武臣政権が成立した期間があったが、朱子学を受け入れた元との講和とともに文班優位に戻り、それは1392年武人李成桂が朝鮮王朝を建ててからも替わらず、19世紀の日本による併合まで続く。その特徴たる「崇文軽武」思想も継続した。同じ儒教文化の日本では科挙は取り入れられず、平安以後武家政権が続いた。朝鮮ではモンゴル侵入軍との抗戦時代を除くと武班は文班に比し低い立場に終始し、自主的軍事力建設はおろそかにされ、国防は中国諸王朝との事大外交に依存する体質が近代まで続いた。

2 学問における実学の軽視

科挙試験において文科・武科のほか訳科(通訳)・医科・律科・陰陽科(天文・地理・命課)などの雑科があった。しかし雑科を担ったのは両班階級ではなく中人階級で、その下にさらに常民、賎民があった。実用の学である雑科=実学は軽視され、中人階級だけの学問として閉鎖的に世襲された。それが欧米の開国要求に対する国内体制整備の決定的遅れをもたらした。徳川政権下日本における蘭学・洋学のあり方との著しい相違。時代は下るが江戸末期、幕府使節に同行した福沢諭吉がロンドンで、清国の私費留学生に清で横文字を解する者は十数人と聞き、日本なら百千の単位で数えられるのにと驚く話がある。古くから西洋人を入れていた清でもこの遅れがあった。清・朝鮮のこの認識の遅れが体制改革の遅れをもたらし、列強に付け入る隙を与えた。

3 苛烈な政権闘争

両班階級は王位継承のたびに、政権争奪の理念なき苛烈な国民不在の闘争を展開した。

王朝交代にルールがないのはやむを得ないとしても、王位継承にルールがなく官僚を巻き込んでのクーデターが頻発、儒学者・知識人は学問思想でなく単なる派閥によってこの闘争にまきこまれた。勝者に属しなければ立身はなく、敗者には苛烈な刑罰が課せられた。理念などなかったから正論は育まれることなく逼塞した。19世紀には勢道政治といって外戚一族による国政の私的支配が政権交代によっても改まらなかった。国民の為の国政の立てなおしは停滞、若手改革派の台頭、保守派のまき返し、改革派のクーデターの失敗、農民反乱=東学党の乱と多事多難、それに日本・清・ロシアがからんで動乱が絶えなかった。

4 徹底した鎖国体制、小中華思想の独善

秀吉の理不尽な朝鮮侵攻はいまだに禍根を残しているが、このとき朝鮮は明の援軍に期待し、明は期待に応え秀吉軍を破ったが、7年にわたるこの戦いの間に女真族=清の台頭を許してしまった。ところが清は中華思想の旧秩序においては夷狄に属し、滅びた明に朝鮮は恩義がある。そこで朝鮮儒学にわれこそ真の中華思想を受け継いだ国という思想=小中華思想・「崇明排清」思想が台頭した。名分を重んじる朱子学の影響であった。江戸初期の日本は儒学も朝鮮に依存し一段低い夷狄であった。吉宗のころ通信使に加わって来日した申維翰「海遊録」に「名分」にこだわる儒教倫理で日本の風俗を批判する姿勢がうかがわれる。この頃明には洋式大砲も導入され、イエズス会士が盛んに西洋科学書を翻訳しており、日本にももたらされた。清はこれをそのまま受け入れた。朝鮮には人質として清に留まり洋学を習得した王族がいたが帰国と同時に暗殺され、中国経由の洋学=実学推進の芽は立ちきられた。以後朝鮮は、清に対し内心では蔑視しつつ宗主国として事大の礼をとるという矛盾した関係を継続し、西洋諸国や日本を蕃夷として排除しようとする「衛正斥邪思想」が蔓延し交易は禁じられた。キリシタンは禁じたが長崎オランダ貿易は継続し、洋学所=蕃書調所を設置した日本との差は拡大するばかりとなった。

5 苛酷な収奪が生産性増強意欲を奪った

両班は首都で高級官僚層を形成する一方、地方において多人数の奴婢(売買・相続の対象であり、人格を認められなかった)を抱え、同族集団を結成し祖先祭祀と賓客接待(客は両班・地方官、それに伴う贈答品が経済の重要部分を形成した)に明け暮れ、自ら手を汚すことなく徒食・収奪するのみで実学には目をくれなかった。商業蔑視で貨幣経済の浸透が遅れ、贈答や物々交換が流通の主流時代が続いた。地方在住の両班では農耕は奴婢層が担い、収穫を増やしても収奪されるだけだから生産性向上に意欲を示さなかった。後には奴婢層を小作化して地代を取り上げるようになる。それは下層階層の両班階層への上昇指向を伴った。この両班的価値観・生活観の社会全般への浸透は保守思想の浸透でもあり、開国・文明開化という新時代への社会的適合の重大な障害となった(宮崎博史、両班)。これに対し士農工商の日本では農民は武士に次ぐ階級と持ち上げられ、江戸時代初期に,技術向上と二宮尊徳に象徴される「勤勉革命」によって生産性を向上させ、貨幣経済の浸透・商工業の発展と共に元禄町人文化の繁栄をもたらした(速水融、歴史人口学で見た日本)。

明治初期に朝鮮・満州と日本の東北・北海道を単身旅行した英国婦人イザベラ・バードの「朝鮮紀行」「日本奥地紀行」には両国の状況が鋭く描かれている。朝鮮領内では男は遊んで働かないが、飢饉から逃れてロシア領沿海州に定着した朝鮮人は勤勉で裕福で品行もよい。朝鮮本国でも真摯な行政(ロシアの移民行政はは褒められている)と収入の保護さえあれば暮らしが良くなる希望が持てるという。鋭い指摘といわねばならない。

(2)日本と朝鮮―開国から併合まで

1 通信使による友好関係

江戸期における朝鮮は、日本が正式な外交関係のある唯一の国であり、文化的に先進国であった。徳川は秀吉の侵略に兵を送っていないことを理由に関係を復活させた。通信使の来航は秀忠時代1605年に始まり、1811年文化8年対馬で応接したのが最後となった。松平定信の改革による経費節減と、国学のもたらした皇国思想による蔑視もあった。江戸初期には朱子学を学び、通信使との知的交流は知識人のあこがれであった。しかしその後の朝鮮は宗主国清以外とは鎖国で知的には停滞、日本は長崎を通じてオランダからも清からも文物が入り知的変革が進んでいた。日本はもはや朝鮮経由で学ぶ必要がなくなっていた。通信使の来訪は1607年に始まり12回あった。その後計画はあったが実現しなかった。1966年慶応2年対馬で予定されていた家定将軍のための使節は実現せず、1876年家茂将軍のための計画が最後であった。これは明治維新によって幻となった。

江戸期を通じて対馬藩は、釜山に認められた倭館=日本側窓口を通じて、同じ釜山の東莱府=朝鮮側窓口との間で幕府の代行者であり、対馬藩自体も貿易船派遣を認められ、貧しい藩財政の支えであり続けた。朝鮮からは通信使が来て将軍と国書の交換を行ったが、日本からの使節派遣は、足利将軍時代には頻繁にあったが江戸期には途絶え、対馬藩に常駐する京都五山の僧二名が外交に関わった。日本人の移動は倭館までに限られた。仲尾宏、「朝鮮通信使」NHK人間講座が詳しい。幕府は通信使を将軍への来貢と見られるよう演出しようとし,朝鮮側の認識は対等交際であった。そこに対馬藩の苦心があった。

2 征韓論―1873年、明治6年

日本には1853年ペリー来航,1958年日米修好通商条約調印、同年中にオランダ,ロシア,英国,フランスとも締結。その後明治まで尊皇と攘夷と開国をめぐる思想と政治の混乱があった。尊皇攘夷運動が本居宣長の皇国史観に補強され、平田篤胤の弟子佐藤信淵のアジア侵略構想を含み、吉田松陰などにも朝鮮・満州・支那征服思想が明らかであった。勝海舟の「三国合縦連衡して西洋諸国に対抗すべし」などは少数意見であった。そして財政窮乏に悩む対馬藩に「征韓」を名目に幕府から財政援助を引き出そうという動きがあった。幕府は時局に鑑み朝鮮外交を直轄に改め、フランス・米国軍艦の朝鮮海域侵入事件に関し使節派遣準備をしていたが、鳥羽伏見の開戦で沙汰止みとなった。

外国の干渉を受けることなく1968年明治維新を迎えた新政府は、対馬藩役人に替わって外務省係官を派遣、新政府成立を通告した。この通告文が旧来の形式に違反するとして受取り拒否、その文章が無礼だと外務省は軍隊派遣による談判を主張した。岩倉・大久保・木戸ら政府首脳は外遊中であった。この種のもめごとは通信使の歴史を通じて経験済で、軍事行動に発展するほど緊縛していたわけではない。朝鮮には大院君の保守政権で、開国した日本を受け入れがたい「衛正斥邪」思想があり、日本には、幕末以来の朝鮮蔑視があり征韓論があった。板垣退助は派兵を主張したが西郷隆盛はそれに反対し、丸腰で使節となり謀殺されることで開戦の名目を作ろうとした。西郷は薩摩兵の征韓熱を押さえかね、また旧藩主久光の維新政治への追求に耐えかね,死所を求めていたという説もある。留守政府は西郷の使節派遣を内定し,正式決定は岩倉らの帰国を待つことになった。朝鮮の軍備の弱さを見越し、不平士族の不満の捌け口を対外問題に振り向けるのが征韓論であったが、朝鮮の背後には「大国」清がいる。日本は「内治優先」すべきで清とことを構える状態にはない、使節派遣は時を待って行うべしというのが反対派の主張であった。

なぜ西郷が待てなかったのか、なぜ大久保は西郷と対立してしまったのかはわからない。ただ当時の政局は、司法卿江藤新平による長州派の汚職追及で紛糾していた。その鉾先をかわすため伊藤博文が暗躍して大久保を無理やり取り込み、江藤を参議から引きおろす策が西郷にまで及んだ。江藤如きに維新の功を奪われてなるものかというのが、岩倉・大久保が結託して一旦決定していた話を無理やり逆転させた真相であるという(毛利敏彦、「明治六年政変」)。「敬天愛人」をとなえ、維新戦争で庄内藩を感服させた西郷といえども倒幕では権謀術数の限りを尽くしていたのだから腹の中はわからない。むしろ小島康敬氏が指摘するように、幕末に征韓論があった。それに升味準之輔氏が「日本政治史」で指摘するように、薩摩・長州の政権に対し政権から排除された土佐・肥前が国会開設・民権運動で政府に迫る構図であって、自由民権派の板垣もその流れに同じたに過ぎないというべきであろう。勝海舟のような大局観に基づくアジア連帯論は少数派であった。吉田松陰も大陸侵略論だったから、長州の陸軍が影響されたのは当然であろう。日本は結局明治8年、江華島に軍艦を派遣し事件を引き起こし、翌年日朝修好条約を締結、朝鮮の開国を自らがやられたと同じ砲艦外交で実現した。

開国に伴って朝鮮政府は清と日本に使節・留学生・視察団を派遣、開化政策を実行しようとしたが,国内の儒学生を中心とする保守派が猛然と立ちあがり,開化派との間で国論を二分する争いが始まった。根底には勢道政治の腐敗に対する怒り、民衆の困窮がそれを助長したし、「衛正斥邪」という儒教的攘夷思想もあった。李氏朝鮮500年、硬直した朱子学思想・排外攘夷思想が下層階層の両班志向上昇につれて社会の底辺にまで浸透し、経済的困窮が柔軟な思想=知識人の抱く開化思想が受け入れられる基盤をなくしていた。開国とは国を売ることではないか。しかし外国の武力に対抗すべき近代兵器を備えた軍隊は存在しなかった。既存権力が主導する改革が生活向上につながるのか。改革の行方への不安・不信任もあった。長く外国の状況から目を閉ざされ時局認識の遅れがあった。政局の混迷は外国の干渉を招き、王室も激変する状況においてどの外国と結ぶべきか右往左往した。清国,ロシア,日本の隣接三国が朝鮮を巡って戦火を交えるに至る。

3 幕末期の朝鮮―大院君と閔氏政権

明治維新の5年前=1863年、25代朝鮮国王哲宗が後継者なしで死去した。指名権は王妃にあり、王妃は安東金氏から出ていたが、哲宗の父王の妃=趙大妃(豊壤趙氏出身)が存命で、傍系王族興宣君の第2子命福11歳を指名した。26代高宗である。興宣君は大院君として国王を補佐するようになった。趙氏は、落ちぶれて勢いのない興宣を選ぶことによって安東金氏の勢道政治を打破しようとし、趙大妃は摂政になったが一族で政権を占有しなかった。大院君は儒教的保守主義の人物で、安東金氏一族を政権から追放し腹心の部下を要職に登用し、財源もないのに秀吉の侵攻で消失していた王宮を再建して官民を苦しめたが、ほとんど黙認状態であったキリスト教の徹底弾圧は全国の儒生から支持を得ることができた。沿岸には欧米の船舶が出没していたが、いずれも「撃退」、米国船シャーマン号は炎上沈没させ、神父殺害の報復でやってきたフランス艦隊も、シャーマン号調査でやってきた米国艦隊も交戦の末引き揚げさせた。先方の都合で引き揚げたにしろ鎖国攘夷を貫徹できたことが大院君に「衛正斥邪」の自信を与え決意を固めさせた。

大院君は、高宗の妃に自身の妃の実弟=閔升鎬につながる娘=閔妃を選んだ。幼くして両親を亡くしているので外戚の専横は招かないと判断した。ところが閔妃は頭の良い旺盛な権力欲ある人物で、閔升鎬と結んで不満両班を糾合し,大院君と対立するようになった。きっかけは高宗が女官に生ませた子を大院君が後継者に指名したことであった。閔氏一派は次第に勢力を広げ高宗22歳の時、国王親政を求め大院君を非難する声をあげさせ、孤立無援となった大院君は1873年=明治6年下野した。高宗は意志薄弱で何事も閔妃頼りであったので、閔妃を実質的中心とする閔氏による勢道政治が始まった。閔氏政権は反大院君勢力と開化派官僚によって支えられていた。それまで対日交渉を担当していた官僚を「国交阻害罪」で処分し、清からの示唆もあり日本の新政権と交渉することにした。

4 江華島事件―1875年,明治8年

1874年4月、日朝両国は書契交換から交渉をはじめることとし、日本は外務理事官森山茂を釜山へ派遣した。朝鮮政府は伝統的な形式で儀式を始めようとしたが、森山は洋式大礼服の着用と中国使節と同じ待遇を求め交渉は決裂した。日本は翌年5月砲艦を釜山で発砲演習という示威行動に出た。9月測量の名目で江華島に砲艦を派遣停泊し、兵士がボートで水道を無断でさかのぼろうとした。砲撃戦となったが砲台の弾は届かず砲艦からの一方的な砲撃で守備兵は逃走、日本兵は上陸し城内と民家を焼き払い兵器を押収して引き揚げた。この事件を地方官憲は中央に報告しなかったが、日本は10月軍艦を釜山に派遣,示威行動を加えつつ、清に仲介を依頼する一方全権大使を江華島に派遣することを決めた。清国北洋大臣李鴻章は朝鮮に日本の書契を受け入れるよう勧告し、朝鮮政府は大使派遣中止を要請したが,日本はその前に黒田大使と兵員800名の艦隊を出発させ、1876年=明治9年2月日朝修好条規によって朝鮮の開国が決定された。内容は、朝鮮が自主の邦あること、日本の治外法権の設定,関税自主権の放棄など日本が欧米に押しつけられた不平等条約をそのまま朝鮮に押し付けたもので、朝鮮側に国際法についての認識があったとしても砲艦外交に敵することはできなかったであろう。幕末征韓論は明治にこのような結果を得た。

5 壬午軍乱―1882年、明治15年

開国によって閔氏政権は日本から軍事指導者を招いて近代的軍隊を養成しようとした。ところが新式部隊との待遇格差に不満を持った旧式部隊が守旧派=大院君と結んで反日クーデターを起こした。日朝修好条規で日本が押しつけたのは不平等条約で関税自主権はなく領事裁判権が存在した。日本からの輸入は綿布・雑貨であったが2年間に4倍増、朝鮮から日本への輸出は米が主体で2年間に7倍増、日本商人の買占めと折からの旱魃で米価は2−3倍に高騰、民衆の生活は困窮した。しかし閔氏政権はなんの対策も講じず、民衆の怨嗟は閔氏政権と外夷日本に向けられた。攻撃されたのは日本公使館と政府要人。王宮も襲われたが閔妃は辛うじて脱出に成功、花房公使も命からがら脱出、政権は保守派の大院君に一時とって代わられた。日本が軍艦と兵を出す、清の李鴻章も陸海の兵を出し仲介に動いて、大院君を北京に連れ去り、清国軍隊1500名の駐在下で閔氏政権が復活し袁世凱が実権を握った。清国の勢力拡張は日本に危機感をもたらした。この変乱は征韓派を刺激した。頭山満・平岡浩太郎の玄洋社は、義勇軍を組織し侵入しようとしたが対馬で解散させられた。自由党壮士を朝鮮に派遣独立派と結んで改革支援計画もあった。

6 甲申政変―1884年、明治17年

清の軍隊がインドシナでのフランスとの戦争の為移動した空白を狙って、日本の後押しで若手改革派の金玉均たちがクーデターを起こした。公使館守備の150名の日本兵と改革派に同調する政府軍の一部で王宮を占拠し新政権樹立と思われたが、真相を知った閔妃が清国軍に出動を要請、袁世凱軍のすばやい動きに戦意を失った竹添公使は、金玉均らと共に日本に脱出した。福沢諭吉は教え子ともいうべき金玉均を応援していたし、井上外務卿もからんでいたらしいが、日本は公式には関与を否定し被害者として明治18年漢城条約を締結した。清の李鴻章は事を荒立てず天津条約を結び、両国ともに兵を引き、今後朝鮮派兵については文書で通知することを約した。この事件に触発されて福沢諭吉は「脱亞論」を執筆した。急進開化派は崩壊し、閔氏政権は日本から清へ乗り換え、日本は朝鮮への影響力を清に奪われた。清の朝鮮への影響力が拡大したが、新たにロシアと閔氏政権との密約があらわになり、清は親ロ政策牽制の為日本の同意を取りつけて、閔妃に対立する大院君を帰国させた。ロシアの南下政策は英国の関心事でもあった。閔妃はロシアとの提携を模索し始めた。ロシアの朝鮮への進出は日本の国防上許せない脅威であった。

7 脱亞論―福沢諭吉と朝鮮、1885年、明治18年3月

福沢は征韓論にも台湾出兵にも反対だった。1875年江華島事件を契機とする日朝修好条規について,アジア諸国との和戦はわが栄辱に関係なし、日本の真の課題は、欧米との貿易・商売での競争であると主張(独立自尊、北岡伸一)、他方1878年通俗国権論において「わが人民の報国心を振起するには朝鮮と兵を交えるにしくはなし」とも主張した。日本によって開国した朝鮮は日本に改革の指導を求めた。1881年若手官僚・知識人が日本に視察・留学にやってきた。福沢諭吉は当代洋学の第一人者として、親切に斡旋し慶応義塾に入学させたり面倒を見た。その連中が帰国して朝鮮の文明開化の先頭に立って頑張っている。福沢は深い共感を持ち協力を惜しまなかった。

福沢は1882年、「朝鮮を開国に導いた日本が西洋諸国のアジア進出に対抗する中心勢力になるしかない。ところが清国も朝鮮も頑迷固陋でそのまま放置すれば必ず西洋の手に落ちる。日本は類焼を免れる為に干渉しなければならない」と論じた。その年の夏、日本主導の軍隊改革に対する保守派の反発から壬午軍乱=反日暴動が起こった。福沢は「兵力を派遣し断固たる態度をとり、賠償金決着」を主張した。袁世凱の介入で決着後,謝罪使として改革派の金玉均が来日し福沢との関係を深め、慶応義塾への留学生が増えた。福沢は清国の介入・ロシアの野心をみて、増税しても軍備強化の必要を説くようになった。清の後押しで復帰した閔氏政権は、清国への依存と保守色を強め、保守の事大党と金玉均ら改革派の独立党が対立した。改革派を福沢は応援し期待した。しかし甲申政変は改革派の敗北に終わり,清国の介入により復帰した閔氏政権は改革派を断罪し、清国依存の保守路線に戻ってしまった。

改革派への過剰な期待が裏切られた福沢は後年「脱亞論」として有名になる社説を時事新報に発表し、「日本は遅れたアジアの域から脱した。しかし支那と朝鮮は西洋文明を取り入れようとしない。このままでは分割されてしまうかも知れない。日本は隣国の開化を待ってともにアジアを興す余裕はない。むしろ西洋諸国と進退をともにし,支那・朝鮮に接する法も隣国だとて遠慮はいらない。正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ。アジア東方の悪友は謝絶しよう」と論じた。この明治18年11月,民権派=自由党の大井憲太郎などが朝鮮でクーデターを企てているとして逮捕された。大阪事件である。政府にはこの時点で朝鮮を舞台に清と事を起こす自信はなかった。

日本敗戦=明治以後の大陸侵略政策の破綻にともない、福沢の「脱亞入歐」こそそのイデオロギーではなかったかと改めて問題となった。しかし福沢の真意は誤解されているという丸山・北岡説もある。幾つかの説を次に検討する。

北岡伸一、「独立自尊」

この「処分する」という言葉には侵略的意味にとられる可能性があるが、この時期にはそれは日程に上がっていない。同じマナーで交際するという意味で、むしろ朝鮮の文明開化に熱中した福沢の敗北宣言ではないかという。福沢を高く評価する立場で,後述安川氏のような「福沢こそ日本の大陸膨張政策の源流」という見方は正しくないという。理由は「1 日清戦争は文明の野蛮に対する戦いであり、そのままでは朝鮮が独立を維持できない。2 福沢は朝鮮の独立を本気で考えていた。併合や保護国化を明確に否定していた。3 政府の肥大化に反対しつづけた福沢が、植民地化に賛成したとは考えられない。4 福沢は日本の将来を貿易国家としての発展にかけていた。領土拡張を目指す大陸主義者の発想とは無縁である。5 最近の研究で時事通信の社説のうち強硬な主張のものの中に、他人が書き福沢の手が余り入っていないものが多いことがわかった。」という。

かりに5に属する論説があったとしても、福沢の名で発表された以上その意を体したといわざるを得ない。責任は免れるべくもない。しかし大陸膨張政策は江戸末期以来の思想界の傾向で、安川説の主張のように福澤が源流とはいえない。

丸山真男、「福沢諭吉の哲学」中の「福沢諭吉と日本の近代化」序

福沢は長く誤解されてきた。戦前にあった拝金宗とか町人根性の延長といった誤解が、戦後は民主主義の先駆的思想家ともてはやされる時期もあったが、また戦前には存在しなかった新しいゆがんだイメージが流通し始めた。その一つが「脱亞入歐」である。「脱亞」という言葉は福沢の論説の中で2度と用いられていない。「入歐」は使われたことがない。この頃「アジアの諸国連合してヨーロッパに対抗しようとする興亜会ができたのに対し、停滞不流・積弱遅鈍支那如きと栄辱を共にしたらどうなるか、予はそれに反して脱亞会を希望するものだ」とアイロニカルな形で、かつ福沢好みのショッキングな表現として「脱亞」という言葉が出てきている。だから2度と使わなかった。「脱亞論」は甲申政変に対する福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならないという(丸山真男手帳20、福沢諭吉の「脱亞論」とその周辺)。

綿密な論証ではあるが、論旨に反する「通俗国権論」の記述は無視している。次の安川氏の突きつける「証拠」をことごとく論破することはできないのではないか。大学者であるがゆえに一旦建てた論理は軽軽に修正できないのか。

安川寿之輔、「福沢諭吉のアジア認識」

福沢全集からアジア認識に関わる文章を細かく抜き出して、早くから朝鮮・中国に関する蔑視と偏見があったことを指摘している。「学問のすすめ」中の「一身独立して一国独立する事」の章は、肝腎の「民権の確立」や「一身独立」の課題について論じないで「一国独立」達成の為に「一身独立」が必要と論じているだけ、一見民権派に見える福沢はこの章でもまた生涯にわたっても民権派ではなく、国民に無条件で国家への滅私奉公をすすめる国権思想家であったのに、そしてその事実はこの文章から読み取れるのに、表題にごまかされて誤読されて今日に至った。「これは諭吉研究史上最大の誤読である」という。

この誤読論は小生にはなかなか理解できなかったが、福沢の論説と歴史的事実とを突き合わせることによって納得できた。「文明論の概略」に、「すべて事物を詮索するには、枝末を払いてその本源にさかのぼり、止まる所の本位を求めざるべからず」という原則が提示されており、その終章で頑固な「国体論」と粗暴な「民権論」が状況に応じて得失ありと論じられているように、福沢の議論は状況に応じて為されるだけに終始一貫せず矛盾が多い。単純な理想主義や現実主義ではわりきれない。安川氏は福沢の議論を,丸山氏のように状況に深く立ち入らないで抽象的に論じているので,鋭い議論となっており丸山氏は誤読した1人として批判されている。「丸山諭吉」という言葉があるそうだが、丸山氏の福沢像とは著しく対象的である。丸山氏の延長線上にある北岡氏の本では無視されているが、安川氏の問題提起は、福沢を論じるには避けられないと思う。ただ薩長政府対土肥民権という政権をめぐっての機会主義的対立が真実であり、その複雑な政治状況下で西郷同様,福沢も一筋縄ではくくれない対応をしたということではないか。

竹内好、アジア主義の展望

丸山氏によると、戦後「脱亞論」誤解のきっかけとなったのは竹内好の論説ではないかという(丸山真男座談9)。竹内は「アジア主義」の解説として書いた「アジア主義の展望」において「脱亞論」を引用して次のように述べた。「福沢の抱く緊迫感にアジア連帯は間に合わない。連帯によって何を実現するかが問題だが、福沢は日清戦争の勝利を文明の勝利と随喜して思想家としての役割を終えた。連帯により実現すべき価値を示したのは、西欧文明をより高い価値によって否定した岡倉天心であり、滅亡の共感によってマイナス価値としてのアジア主義を価値としての西欧文明に身をもって対決させた宮崎滔天や山田良政だ」という。丸山の綿密な論述にすら脱落があるように、幕末の大陸侵略思想が抜けている。また短い文章で複雑な福沢はくくれない。岡倉や、宮崎・山田の思想と実践は敬服すべきであるが、福沢とは活動のカテゴリーが違う。同列での比較評価には疑問が残る。むしろこの説は戦後にわかに評価が高まった福沢のマイナスの一面を指摘した点にユニークさがある。

丸山氏はさらにいう。脱亞論が発表された時点では日本の軍事力は清に対抗すべくもなく、侵略など思いもよらなかった。朝鮮では開化派がようやく出てきたが、早くから外国人を入れていた清で変法自強派の国政改革が始まるのは日清戦争後で、それさえすぐつぶされてしまい、儒教主義のアンシャンレジーム支配が厳然と聳え立っていた。だから福沢の脱亞論は、日清戦争勝利後に出てきた内田良平など大陸主義者の主張とは連続しない、むしろ「脱亞」という表現は、脱「満清政府」及び脱「儒教主義」といいかえれば福沢の思想の意味論としてより適切となるであろうという。

しかし小島康敬氏に従えば、日本知識人にとって朝鮮は江戸初期には知識も技術も学ぶべき先進国であったが、日本は徳川260年の平和で学問も技術も生活も発展があったのに、朝鮮は政争続きのため停滞を余儀なくされ、両国関係は幕末には逆転し、西欧諸国の武力進出という事態を迎えた。逸早く開国・改革できた日本に対し鎖国・攘夷を続ける朝鮮。日本に隣接する朝鮮がどうなるか。それにいかに対処するのかは大問題で、日本史をさかのぼり様々な関係の中から何を選択するか。征韓論は既に幕末にあった。福沢も内田良平も陸軍もその議論の延長線上にあり、朝鮮の政情,列国との関係において日本が選んだ道は、征韓論という幕末思想を離れられなかった。それを修正する意見は強力ではなかったというべきであろう。

8 日本軍介入による大院君政権の誕生・日清戦争―1894年,明治27年

日本を排し清に頼った閔氏政権によって改革は進まず、民衆の生活は改善されなかった。困窮した民衆は反乱を起こした。東学教という「敬天順天」「斥洋斥倭」を主張する新興宗教で、西洋人や日本人を排斥する攘夷論であったが、大衆の支持を得て政府軍を打ち破り全羅道の首府全州を制するに及んで、政府は清に出兵来援を依頼した。日本は朝鮮で清と勢力均衡を図る機会を待っていたので、その報に接し直ちに清国を上回る兵力の派遣を決定した。清軍は牙山の馬山浦に止まったのに日本軍は仁川から強引にソールに入城した。既に東学教徒軍とは和議が成立したにもかかわらず、日本政府も軍部も清との開戦を決意して大本営を設置していた。国会開設後の政府と野党の対立を知っている清にとって日本の急速な大軍派遣は予想外であった。日清会談は日本が開戦の口実を求める以上まとまる筈はなく、各国注視の内に日朝会談に持ちこまれたが、袁世凱は帰国してしまって頼りにならない。日本はこのとき「王宮を占拠し」強引に王を説き伏せ大院君政権を樹立させた。

7月29日夜日本軍は牙山の清国軍を攻撃開始、それより早く25日豊島沖で牙山に向かう清国軍輸送船を東郷平八郎の艦隊が撃沈していた。宣戦布告は8月1日であった。日清戦争はこうして始まり日本軍の勝利に終わった。日本人はこれを義戦と考えていた。長い間朝鮮をいじめた横暴な清国をこらし、朝鮮独立のため力を貸そう。内村鑑三も福沢諭吉も開戦を支持した。

9 閔妃暗殺―1894年、明治27年

この事件は、角田房子、閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母が詳しい。以下この本によって略述する。

執政として政権に復帰した大院君は、内政改革に名を借り閔氏一族への復讐を行った。閔氏系の要人多数が官職を追われ罪せられた。しかし最大の敵閔妃の処分は宮廷の波瀾を嫌う日本側が是認しなかった。穏健な改革派の金弘集内閣が成立したが改革は進まず、10月大鳥公使に替わって井上馨が着任し大院君と衝突し,大院君は4ヶ月で引退した。大院君も国王も政府高官も清国の勝利を信じていた。閔妃は大院君の日本への不満を読み、清国勝利後の王権復帰を期待していたが日本は勝利し、1895年講和条約が締結された。しかし三国干渉があった。朝鮮は清との宗属関係を離れ独立国となったが、三国干渉は朝鮮における日本の地位を著しく低下させ、ロシアの地位を向上させた。井上の改革構想は頓挫し、開化派は退けられ、ロシアの後援を得て閔氏勢力が欧米派官僚とともに復活した。改革は進まなかった。8月金弘集内閣が閔氏派閣僚のもと成立が親日派は1人だけ。井上は1895年9月離任し、井上の推薦で三浦梧楼陸軍中将が着任した。三浦は着任に先立ち1 朝鮮を独立同盟国として将来日本だけで防衛・改革を担当する。2 列強と共同保護の独立国とする。3 紛擾を免れないなら大国と分割占領する。の3案を示し指示を求めたが政府は回答せず、「政府無方針のまま赴任する以上臨機応変自由にやるほかない」と決心したという。着任した三浦は国王と謁見後、公使館で読経に明け暮れる日を送り、朝鮮側は途惑ったがやがて無視しロシアとの親交を深めた。日本の勢力衰退・朝鮮側が示す軽侮に在留邦人は激昂していた。閔妃暗殺が日本勢力挽回のための突破口という使命感が三浦の確信となった。10月8日未明、日本軍守備隊・巡査・訓練隊・日本民間人は王宮に侵入,閔妃は日本人によって殺害され遺体は庭園で焼却された。王宮を守護する侍衛隊のアメリカ人教官とロシア人技師がこの事件を目撃した。

かねて大院君は日本側に説得・連行されて待機していたが,王と三浦公使との会談に招かれた。ロシアとアメリカ公使がつれだって参内した。公使館に戻った三浦は上機嫌だった。日本政府がこの事件を知ったのは、午前6時32分発公使館付き武官から軍令部長への電報「今訓練隊、大院君を戴き王宮に討ち入れり」が第一報、次いで8時50分発守備隊長楠瀬から川上参謀総長への電報「大院君が訓練隊を率いて王宮に入った」,公使館付き武官から伊東軍令部長への9時20分発「国王無事,王妃殺害せられしとのことなり」であった。外相井上は出張中で、外務省は西園寺外相代理の催促で三浦から11時発「大院君のクーデター、王妃は行方不明」との返電を受けた。3時半三浦はロシア公使始め各国公使の訪問を受け、詰問され「すこぶる重大,見過ごせない」と宣言されて意気消沈した。政府は諸外国の強硬な態度を恐れ、事件調査に政務局長小村寿太郎を派遣した。一歩誤れば重大事件に発展する恐れがある。政府はこの事件は日本政府の方略にでたものではない,嫌疑者は朝鮮から退去させ法に照らして処分すると各国政府に了解工作を進めた。日本人の裁判権は朝鮮側にはなかった。退去命令を受けた48人の被告達は民衆の同情と熱烈な歓迎を受け、凱旋将軍を迎えるようだったという。結局軍法会議では全員無罪、広島地裁でも全員免訴となって釈放された。ロシアの南下を警戒する英国は日本に好意的だったし、アメリカは事を構えるつもりはなく,ロシアも強く出なかった。朝鮮政府が下手人として3人の自国人を処刑したことが日本の立場を楽にした。

この事件は朝鮮民衆の対日感情をさらに悪化させた。目撃者が多く閔妃がどのような人であれ,王妃が殺害された。しかも死が明らかなのに「廃后の詔勅」が発表された。憤激した官吏の職場離脱、詔勅取消の声が国に満ちて,日本に断固たる処置を求める上疏が連日王宮に届けられた。国家の犯罪と信じられ反日・反政府の機運が燃えあがり、日本人43人が殺害され反日反政府の義兵運動が起こった。

この事件は三浦梧楼の犯罪で、政府や井上の関与には証拠がない。しかし三浦の赴任した当時、朝鮮にいた在留邦人―壮士・浪人といわれる人の間で閔妃暗殺による打開が語られていたという。民衆が被告達を歓迎・支持したことは三国干渉後の当時の雰囲気を伝えている。三浦はそれを踏まえ、それを自らの任務として行動した。三浦はやがて枢密顧問官として優遇された。

10 ロシア派のクーデター―1996年,明治29年

親日政権による改革は伝統的な守旧派=両班や儒学者から猛烈は反発を受けた。国母を殺害した日本に指導された親日政権に対し翌1996年1月、各地で農民層を巻き込んだ義兵が一斉に蜂起した。義兵鎮圧で親衛隊が出兵し王宮警護が手薄になった隙を突いてロシアの手を借りた親ロ派のクーデターが起きた。国王はロシア公使館に移り、公使館はロシア始め各国の兵で警護され日本は全く手出しができなくなった。国王は親政を宣言し、義兵蜂起の直接原因となった断髪令の廃止と親日政権首脳の断罪を布告した。これで改革派は穏健派もすべて一掃され、日本が開国以来努めてきた内政改革は終わりを告げた。

ロシア一辺倒=ロシアの保護国と化した新政府に対し義兵は矛を収めなかったが,農繁期の10月頃ようやく終息した。この間6月日本はロシアと朝鮮問題に関し、電信仮設・軍隊駐屯・干渉地帯設置の秘密協定を結びとりあえず安全保障を試みたが、清は逆にロシアにシベリア鉄道に通ずる満州横断鉄道建設権を与え、日本対象の相互軍事援助を含む秘密協定を結びロシアの満州進出を容認した。日清戦争によって清の朝鮮支配を排除したはずの日本は、新たにロシアの満州進出、朝鮮支配という難問を突きつけられることになった。

11 独立協会―1996年,明治29年

清の勢力は消え,日本の影響力もなくなり、開化派は消え、守旧派の勢いも衰え、閔氏の勢道政治もなくなったが、国王はロシア公使館にあって独立の態をなしていなかった。この時、外国依存のこれまでの政府のあり方を批判し自主独立と朝鮮人自らの手による改革を訴える「独立協会」が活動を開始した。彼らは国王のロシア公使館から王宮への帰還,自主独立体制の確立を求めたが,一般民衆からは孤立しほとんど影響力を持てなかった。国王は1897年ロシア公使館を出て慶運宮に入り,10月国号を「大韓帝国」と改め、皇帝となった。独立協会が朝鮮で政府の外国への利権供与を糾弾している頃,欧州列国は清から次々に利権を獲得していった。ドイツが膠州湾、ロシアは旅順・大連、フランスはインドシナ,英国は九竜半島と威海衛。日本が三国干渉で譲ったもの以上を欧州列強は清から奪った。とりわけロシアの旅順獲得は日本の脅威となった。日本はロシアと、1 韓国の独立を認め内政干渉をしない,2 軍事教官・財政顧問派遣には事前協議する、3 ロシアは日本の朝鮮での経済活動を認めることで、ロシアの旅順・大連租借黙認を余儀なくされた。ソール―釜山間の鉄道建設条約が韓国と日本で締結された。朝鮮政府は独立協会に圧力を加え壊滅させた。

12 北清事変―1900年,明治33年

列強の中国進出が続き中国の改革が一向に進まない中で、義和団事件が起きた。拳匪の乱といわれるように、元来は拳法の団体だったが呪術宗教の性格もあり,キリスト教と列強の中国侵出を激しく攻撃した。清政府は初め国土防衛団として公認したが、食い詰めた農民が大量に流れ込み,「扶清滅洋」を叫んで西洋人宣教師を殺害するに及んで日欧米連合軍が出動、北京まで進攻し鎮圧した。義和団の乱とも北清事変ともいわれるこの事変の終息後、各国は撤兵したが、ロシアは4千の兵力を満州に存置、清の撤兵要求に1次はしたがったが2次撤兵には応じず、韓国国境に防御線構築を始め、この間シベリア鉄道は東清鉄道と結合して軍事輸送路を完成、フランスと結んで南進政策が着々と進行した。日本は伊藤・井上の慎重論を押しきって、桂・小村の積極派が日英同盟を結んでこれに対抗し,資金調達と情報(チリの完成戦艦のロシア購入阻止・イタリアの完成近い重巡2隻の日本購入支援)において多大の利益を得た。併行して日露協商会議で日本はロシアの満州からの撤兵を,ロシアは日本に北緯39度線で韓国分割を提案するがそれぞれ拒否,ロシアは満州占領を宣言した。日露の衝突は時間の問題となった。1904年1月韓国は戦時局外中立を宣言したが、承認したのは清国・英国・フランス・ドイツ・イタリア・デンマークに止まり,肝腎の日本・ロシアはもちろん、中立化推進を頼む米国にも無視された。2月、日本艦隊は仁川沖でロシア艦隊を奇襲、陸軍は仁川に上陸、宣戦が布告されて日露戦争が勃発した。

13 日露戦争―1904−5年,明治37−8年

韓国の中立を認めない日本は,仁川に上陸した軍をソールに入れ,韓国政府を制圧して日韓議定書を調印した。主な内容は1 韓国は外国の侵略・国内の動乱・皇帝の危機に際し日本の行動に便義を与える。2 日本は韓国の独立・領土保全を保証する。3 韓国政府は日本の承認なしで第三国と条約締結できない、であった。続いて財政・外交について日本人顧問派遣の第一次日韓協約が結ばれ、韓国は事実上日本の保護国と化した。

連戦連勝で1905年1月旅順陥落、3月奉天会戦、5月日本海海戦で歴史な大勝をし、革命騒ぎが絶えないロシアの国内情勢にも助けられ、9月米国の仲介でポーツマス条約が成立した。幸運であった。日本は既に弾薬も兵員も補給が尽きて戦争継続困難であったから。升味準之輔、「日本政治史2」は書いている。「当時ロシアの政治家も軍人も東アジアについては関心も知識もなく、無智なまま日本を軽蔑していた。そしてちょっとでもいいから戦争に勝って為政者の威信を示す必要があった。――国内の騒乱の拡大,満州におけるうち続く戦敗、今や講和が必要になったが,対面上償金も領土も渡すものであってはならない。戦力を使い果たした日本にとっても講和以外の道は破滅だった。」

日本はこの結果、ロシアの韓国における特権を受け継ぐこと、遼東半島の租借地と長春・旅順間の鉄道を受け継ぐことが承認され、樺太の南半分と沿海州の漁業権を獲得した。この間日本は米国のフィリピン支配承認と引換えに日本の韓国支配を承認させ、日英同盟を改定して英国は日本の韓国への保護権を認めた。11月第二次日韓協約が締結され、韓国統監府が設置され,韓国は完全に日本の保護国になった。統監には伊藤博文が就任し、黒竜会の内田良平が嘱託として随行した。

14 韓国併合―1910年,明治43年

伊藤統監の直面したのは、韓国の国権回復・独立改革を目指す反日義兵運動と、愛国啓蒙運動であった。呉善花氏の「韓国併合への道」によって略述する。

反日義兵運動は,日清戦争後に「衛正斥邪」「反日反ロ」で決起した武装闘争を継承していた。1907年韓国軍の解散命令が出て以後活発化し,全国にわたってゲリラ戦が繰り広げられた。1907年8月から10年末まで衝突回数2819回、義兵数141603名に及んだ。対する駐留日本軍は2千数百名,最大でも数千名で、近代的武器と組織戦法で不十分な武器と結集力を欠くバラバラな決起集団は個別撃破された。義兵の死者17688名に対し日本側の死者は133名に止まった。

愛国啓蒙運動は、義兵運動の「衛正斥邪」思想も武装闘争も受け入れられない都市の知識人によって展開された。中心になったのは1906年創設の「大韓自強会」で、当初は日本との同盟による改革を目指したが、次第に日本のやり方に対する批判活動を活発化し,反日に転換するようになった。統監府は「保安法」をもって解散させた。会員達は07年11月「大韓協会」として再発足したが、懐柔され分裂し抵抗運動から離れていった。非合法の秘密結社として国権回復・民族独立活動をしたのは07年9月平壤で結成された「新民会」である。併合後は国内組と亡命組に分れ,国内組は寺内総督暗殺計画容疑で逮捕起訴され壊滅した。愛国啓蒙運動を展開した諸団体は,前身である独立協会と同じ運命を辿った。広く国民の支持を集められずまた相互に強固な連帯を生み出せなかった。派閥・分裂闘争という両班以来のパターンを脱却し団結結集できなかった。

積極的に日本との関係を強化し「日韓合邦」を目指す大衆運動も存在した。東学党の流れを汲む李容九の「進歩会」と宋秉oの「一進会」が合併して1904年できた「一進会」である。彼らは韓国の国際環境と経済政治的条件によって独立は到底不可能,日本によって併呑される前に対日協力によって親日の実を示し,日本と「対等の合邦」を遂げ,日本の援助によって自立の基礎を獲得することを熱望し、日露戦争では対日協力を惜しまなかった。会員百万と称したが、併合時の統監府資料で14万,最盛時には二十数万はあっただろうという。当時最大の勢力だった。戦後韓国では日本の傀儡,欺瞞的な売国行為とされているが、人口1300万人の1−2%に達する支持者がいたこと、そして目指したのは「日韓合邦」であり、「韓国併合」ではなかったことに注意する必要がある。樽井藤吉の「大東合邦論」は李容九の素志であり、黒竜会の内田良平は一進会顧問であった。しかし最後に裏切られた。

初代統監の伊藤は併合には積極的ではなく、いずれ独立国としての韓国を認める方針だったといわれる。伊藤はロシアについても協調派で日英同盟に消極的だったが、朝鮮についても欧米各国との協調主義だった。しかし伊藤は「義兵」に暗殺されてしまった。義兵は味方を殺して敵を助けてしまったのではないか。もし伊藤が生きていれば、欧州大戦中の大陸政策も押さえが効いたのではないかと惜しまれる。

呉善花氏は、ヘンダ−ソンの「朝鮮の政治社会」の「18841904年の朝鮮を巡る外国勢力のシーソーゲームのなかで、改革を志す朝鮮人にとって、清朝中国は反動的,ロシアも似たりよったり、米国は無関心,韓国政府は無能、ひとり日本のみが明治改革を推進し訴えるところがあった。大部分の改革者は日本を当てにし,日本も彼等を支援した」を引用し、「開国以来朝鮮で改革を志した者の主流は,基本的に日本との提携を軸に発想する者であり、当時の世界情勢からして当然のことだったと思う」と書いている。説得力ある説であるが、問題は日本側の受け止め方にあった。

19063月,伊藤博文統監着任,宮城守備の部隊を除く韓国軍隊は解散、併合条約は締結された。高宗皇帝は密かに米国大統領に条約無効を訴えたが無視された。高宗皇帝は076月オランダのハーグ万国平和会議に密使を派遣、日本の韓国主権侵害を訴えようとした。

しかしロシア代表の議長は外交権のない韓国の出席を拒否。皇帝の詔書が新聞に暴露されて日本の世論を刺激した。日本の抗議で高宗皇帝は皇太子純宗に譲位を余儀なくされ,各地に反日暴動が起こった。7月第三次日韓協約で統監府による支配が明確化され、日本人官吏2千余名が配置された。数千の群集が宮門前で日本兵と衝突。義兵が決起したがそれが治まりつつある1909年6月,伊藤は統監を副統監の曾禰荒助に譲った。7月司法警察も日本に委任,事実上の併合の完成であったが、名実共に併合を急ぐ勢力があった。

10月伊藤ハルビン駅頭で安重根に暗殺された。上垣外憲一、「暗殺・伊藤博文」は暗殺者は安重根ではないと論じている。同行し被弾もした室田義文が、1 銃弾は二階から発せられた、2 銃弾は安重根の持っていたブローニングでなく騎兵銃のもの、3 ロシアに遠慮して事を荒立てなかった、の3点が理由である。上垣外氏は、真犯人は伊藤の協調主義に反対する軍部・右翼ではないかというが、裁判記録は銃弾には触れず、決定的証拠があるわけではない。伊藤は合邦について漸進主義で、韓国人に対し韓国が富強になれば独立させると公言して,一進会の活用には消極的で、合邦を急ぐ杉山茂丸・内田良平の浪人や山県・寺内の軍人派と対立し、6月枢密院議長に転じたが、後任が伊藤派の曽禰で軍人・浪人派を失望させた。しかし桂内閣は7月併合断行を閣議決定した。満州出張前に伊藤に内田が合併断行を伝えると伊藤は意外にも賛成したというが、伊藤の死は障害を除いた。8月杉山は桂の代理として一進会顧問に就任し,李と宋に「合邦請願」を説得した。「併合」の前に「合邦請願」をすれば対等合併ができると欺瞞した。内田もその欺瞞であることは知っていた。李も宋も不安をぬぐえなかったが「売国奴」となる覚悟をするほかなかった。12月提出された請願は曽禰総監の指示により却下された。曽禰は赴任時に伊藤・桂と当分併合はしないと打ち合わせていた。ところが桂首相の命令で受理せざるを得なくなった。「奇怪なるは桂の心事なり」と憤慨した曽禰にかわって5月寺内が陸相のまま統監を兼務、日本では大逆事件の検挙が始まっていた。

1910年6月、桂内閣は「併合後の韓国に対する施政方針」を決定、ソールでは警察と憲兵が増強され戒厳令下のような緊張の中で韓国皇帝は御前会議を開き、寺内と李完用との間で日韓併合に関する条約が調印された。韓国皇帝は統治権を日本国皇帝に永久に譲与し,日本国皇帝はそれを受諾して韓国を日本へ併合するものであった。ソールで危惧された騒擾は起こらなかった。原敬は日記に「これで朝鮮問題も落着したが,それにしても今日決行する必要があったか疑わしい。山県・桂・官僚派が功名を急ぎ過ぎた結果ではないか」と記した。李王家は日本皇室に準ぜられ、朝鮮貴族令で76名の貴族が誕生した。一進会の宋秉oは子爵となったが李容九は辞退した。9月一進会は他の一切の政治結社と共に解散を命じられた。李はその翌日喀血し翌年日本で死去した。

1911年、中国で辛亥革命が勃発,日本は米・英・独との修好通商航海条約を成立させ、ようやく関税自主権の確立を見た。1912年、清朝滅亡して中華民国成立。アジアの動乱はまだ続くのみならず、1914年には欧州に戦乱が巻き起こった。1919年退位後も国力挽回に腐心していた高宗が死去,パリへ密使派遣計画が洩れての毒殺といわれる。その3月1日の国葬を前に3.1独立運動=万歳運動が勃発した。参加者136万人死者6670名投獄52730名であった。この事件は関東大地震における朝鮮人虐殺の遠因となったかもしれない。同年5月4日、中国では日本の21か条や山東省ドイツ利権の継承を巡って北京の学生3千人の反日抗議運動=5.4運動が展開された。1926年純宗死去,その国葬の6月10日6.10独立万歳運動が起り、学生106名が検挙された。純宗に子はなく閔妃の直系の血脈は絶えた。

15 日本の開国とアジア侵略

升味準之輔、「日本政治史1」によると、徳川政権は外国と朝廷と外様大名という3要因を封じ込めることで成立していた。ところがペリー来航以来、成立期に封じ込めていた3要因が次々と活性化し幕府崩壊に導いたという。鋭い見方である。その間に日本の外国に対する見方も大きく変化した。初期には熱心な学習の対象であった朝鮮の儒学は消化吸収された。やがて洋学が研究の対象になって、和魂洋才が唱えられるようになった。阿片戦争に始まる中国への西欧列国の侵略は、ロシアの進出と共に国防意識を先鋭にし、隣接する朝鮮が頑なに旧弊な排外攘夷意識で固まっているだけに、朝鮮の動向が問題となり征韓論が生まれた。日本での攘夷論は、開国した幕府に対する外様大名・朝廷の反抗=倒幕の口実であり、民衆の生活は政権争いの外にあった。これに対し朝鮮では、民衆生活の困窮が政治不安定の増幅要因となり、李朝支配の五百年を通じて両班層の拡大という形で社会に浸透していった儒教的保守思想が改革の頑固な障害となってしまった。

欧米列国の圧迫に対し,東洋はいかに対処すべきか。中国・朝鮮・日本三国が連携して対抗すべしという説もあり,大東合邦論もあったが、近代的軍隊なく政治混迷閥族跋扈の中国・朝鮮に対し、結局は力で押す征韓論が勝ちを占めた。砲艦外交による朝鮮開国は保護国家化への一歩であり、民権派であった後藤象二郎や,大井憲太郎によって企図された朝鮮への介入計画は、板垣の政府資金による外遊に象徴されるように、民権・国権が政争の旗印に過ぎなかったことを示している。政府の薩長に対立する野党の土佐・佐賀が、自由民権を称して不平士族の征韓エネルギーを自由民権運動に転換した。民権派も征韓派であった。だから民権運動が行き詰まった時、体制整備を急いでいた政府が旗を振りさえすればたやすく征韓に復帰できた。民権といい国権といっても時と次第によって変わり得るのであった。だから大隈は首相時代に、欧州戦乱に乗じて悪名高き21箇条を中国に突きつけた。

升味氏は書いている。「(大陸に進出した)国士や浪人は,弱きをくじく侵略の爪牙であった。名義がなんであれ,動機がなんであれ、彼らは弱者を欺罔し脅迫した。韓国併合で結末を告げた朝鮮における謀略は、さらに果てしなく大陸に拡大し繰り返され、夜郎自大の東洋経綸の尖端には、つねに欺罔と脅迫の爪牙が同伴していた。」日本の大陸政策の混迷はなお続くが、それは本稿の課題ではない。            

16 韓国の現代と日本

2000年10月初めて韓国を旅行した。仏教寺院を訪ねる旅であった。都市の設備の良さは想像以上であった。ガイドさんの話で驚き・感心したこと。(1)有名といわれるお寺はほとんど訪れたが、その多くが秀吉の侵略で焼き払われていること。慶州仏国寺も国宝に指定されているのは石造の階段であり塔であって、建物はその後に再建されたものであった。(2)韓国の山は禿山と思っていたが、朴正煕政権18年の開発独裁時代に植林が進み緑で覆われている。(3)さらに朴政権はセマウル運動で国民の自助勤勉・自助協働を促し、民活によるインフラ整備(道路・橋・畑の区画整理・堤防・ソール―釜山間の高速道路建設)を進めた。それがその後の高度成長につながったという。手本は日本でなく西独だった。

今年6月NHK人間講座で四方田犬彦氏の[大好きな韓国]を視聴した。大変興味深かったことは韓国では386世代という言葉がある。3は30才台、8は1980年に学生(この年、全斗煥(慶尚道=新羅)政権は全羅道の光州民主化闘争を弾圧した)、6は1960年生まれ、であってこの世代が韓国社会をリードしているという。注目したいのは学生の民主化運動が曲がりなりにも実を結び,そのエネルギーの延長線上に政治経済社会の改革があり今日の経済発展があるという輝かしい実績。1997年の通貨危機も金大中政権(全羅道=百済、なお北朝鮮=高句麗)のIMF対応の厳しい改革=財閥解体と金融機関への公的資金投入によって逸早く克服され、まだ銀行の整理が終わらない日本と好対照を見せている。日本の学生の民主化運動は安保改定であったが挫折し、その後は保守政権下で世界最高の所得水準を実現したが、その間に政・官・財癒着政治が続きバブルを発生させ、バブル崩壊後10年を越えたがまだ明るい見通しが得られない。若者が政治勢力として成功体験を持ち現に社会をリードしている韓国、改革は一向に進まず抵抗勢力の支配が続いている日本との差。

日帝支配36年,慶尚道37年という言葉も初めてだった。全羅道出身の金大中政権で37年間の慶尚道支配がやっと終わったという。新羅・百済の争いに北朝鮮の高句麗まで絡むから複雑であるが、いまや日本文化も解禁され、日韓友好も進み、歴史は確実に前進していると実感できる韓国。対するわが小泉政権の改革は、足下の自民党内部の反対・抵抗勢力を押さえていかねばならない難しさがある。なんとか実現してもらいたいものである。

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