本居宣長について          02.6.23―03.5.22 木下秀人

目次

私と本居宣長

1 「宣長に謎」

2 吉川幸治郎氏の「うい山ふみ」評価

3 宣長の青年期を支えた母君の「京都医者修行」支援

4 医者としての宣長

5 オランダ医学と宣長

6 「批判者」上田秋成への反批判

7 村岡典嗣氏の古道説批評

8 神国思想の淵源

9 加藤周一氏の信長論

10 小林秀雄氏の宣長論

おわりに

 

私と本居宣長

昭和20年に旧制中学1年生であった私は、本居宣長について「敷島の大和心を人問わば

朝日に匂う山桜花」という和歌の作者,天皇信仰を鼓舞した国学の大家という程度の認識しかなかった。敗戦を契機とする日本思想史への関心から、大学では丸山真男先生の「東洋政治思想史」を選択し、その後出版された「日本政治思想史研究」を読んだのが宣長との関わりの始まりで、吉川幸次郎氏の「支那人の古典とその生活」、「論語」の注釈や「日本の心情」などの随筆に親しんだのもその延長である。「本居宣長」を書いた小林秀雄は「無常といふ事」以来の読者であったが、丸山先生の「日本の思想」における論及があり、「本居宣長」の記述は分り難くて,いずれきちんと整理する必要を感じていた。以下は、ささやかながらそのまとめである。

 

1 「宣長の謎」

宣長は源氏物語・万葉集を講じ紫文要領・石上私淑言を著し、古事記を初めて読み解いて古事記伝を著し、日本文学・日本語学に巨大な貢献するとともに、神国日本=皇国イデオロギーをも唱導した。源氏物語研究からは「もののあわれ」という卓越した概念を抽出したが、古事記に書かれた神話を事実と信仰し、日本が他国と異なる神国であるという極端な排外優越的理論を唱えて止まなかった。その国学思想は、後年伴信友や平田篤胤によって組織推進されて「尊皇攘夷思想」として明治維新を駆動するイデオロギーとなった。倒幕運動の過程で尊皇攘夷が尊皇開国に転じたのは、攘夷を強行した薩長の西洋との軍事力格差認識の反映であった。維新政府成立初めに重んじられた神道派は廃仏毀釈の暴挙に出て,永年仏教側に牛耳られた恨みを晴らしたが、時代離れの復古思想は政治思想としての地位をたちまち失った。

山田孝雄は、昭和10年教学刷新評議会で「明治5年以来の日本の教育方針はことごとく間違っている」と公言したという(和辻哲郎全集第13巻、古川哲史解説)。明治日本は欽定憲法制定によって、万世一系の天皇が統治する立憲君主国となったが、そこに規定された天皇の「統帥権」が、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に反対する軍令部や、それと結託して政権を奪取しようとする野党=政友会によって「統帥権干犯」という政争の道具とされ、議論の行きつくところ憲法学説としての「天皇機関説」まで「国体明徴運動」によって斥けられることとなった。

当初右翼と海軍が取り上げたこの憲法問題は、欧州大戦後の不況脱出を図ろうという政治状況下で、民衆の支持を得て政権奪取を企む政友会に、政府批判の格好の論点を与え、悲惨な農村の状況とあいまって、思想未熟な陸海軍青年将校をテロ・クーデターという直接行動に走らせる原動力となった。

宣長によって形成され篤胤によって宣伝普及されたこの非合理的国体思想は、陸軍にあっては若手隊付将校を中心に「皇道派」を形成し、中央参謀将校の「統制派」との部内闘争が2.26事件となり、敗れた「皇道派」は中央から一掃された。軍政は統制派の手に握られたが、永田鉄山という大黒柱をテロで失い、煙ったい石原莞爾を排除した統制派には、軍事膨張路線への暴走を統制する力はなかった。

そこで宣長の謎は、 

@       「古文辞研究における卓抜な業績」=学問と「国学における非合理的主張」=思想との並存。一々引用しないが丸山氏など日本思想史家の多くが提起する「宣長の謎」。

A       宣長は「桜の花」で潔く散る武士道を賛美したのではない。むしろ折口信夫が小林秀雄に示唆したように、源氏物語研究から抽出し賞揚した「もののあわれ」は、武士道的・軍国主義的価値観を否定するものだった。なぜそれが誤り伝えられたのか。

B       宣長は医者であった。当時オランダ医学が理解されかけていたが、宣長において医学の合理的主義は生活・思想にいかに関わっていたか。

以下はそれについてのささやかな考察である。

 

2 吉川幸次郎氏の「うい山ふみ」評価

戦時中のある日,若き吉川氏はふと宣長の「うい山ふみ」(岩波文庫昭和9年)を一読し、「言語をもって単に事実伝達の手段と見ず、言語表現そのものが人間の事実であるとする説」が説かれており、(おおかたの人は,いえる言となせる事と思える心と相かないて似たるもの、古の人のそれは古言古歌によって知られる。)それを吉川氏が当時思いつめていたので先を越されたくやしさと、「多読をよしとする説」に接しての喜びとを味わったという(昭和35日本の心情「受容の歴史」、同39短長亭集「一冊の本」)。

「うい山ふみ」は古事記伝を脱稿し一段落したところで弟子に学問の方法を提示したもので、もちろん当時流行の皇国思想も多分に含まれるが、吉川氏を感激させたのはその宣長が説く学問方法論であった。吉川氏は戦後、人の関心を引かなくなった宣長の学問観を褒めたが、宣長の国学につきまとう皇国思想についてはふれていない。

「うい山ふみ」の主体は学問方法論だが、「学び明きらむべきすじは道の学問で、この道は天照大御神の道で,天皇の天下をしろしめす道,四海万国にゆきわたりたるまことの道、ひとり皇国に伝わり、古事記・日本書記に記された神代上代のもろもろの事跡の上に備わっている」とあるし、岩波文庫の後に載っている「鈴屋答問録」には、「日本は神明の開かせたもう御國で、古事記・日本書記に記された天地の始まりは万国の天地の始まりだから、成り出でたもう神々は万国の天地の始まりの神々で、日神は万国を照らしたもう神。日本人は日本の伝説を信じるべきで,他国の説は皆非なれば少しも心にかけるべきでない。」という皇国思想が説かれていることを無視するのはいかがなものか。「うい山ふみ」は宣長が功なり名とげた68歳の作で、弟子たちに対する説教であって論敵に対する反論ではないので、宣長のヒステリックな感情的な側面は隠れてしまっているとしても。

宣長63−71歳にわたって書かれた玉勝間46段「師の説になずまざる事」に「よきあしきをいわず、ひたぶるにふるきをまもるは,学問の道には,いうかいなきわざなり。」といって師の説でも道のためには批判すべしと書いているが、それは仲間に向かっての言葉で、宣長の部外者からの批判への対応は、感情的反発以外ではなかった。痛いところをつかれたせいもある。とにかく言行は一致しなかった。

 

3 宣長の青年期を支えた母君の「京都医者修行」支援

宣長は医者であった。生家は松坂の木綿商人で父・兄の死後跡取として商家で修行したが、読書好きで商人向きでないのを見て取った母君が、読書と生業とを並立できる職業として医者に目をつけ、遺産処分で得た400両の資金を基に、京キの堀景山の塾で医学修行をさせた。

堀氏は広い学風で狭い儒学にとらわれなかったし、母君からの送金は滞らなかったので、宣長は自由に心の赴くままの勉強ができた。

築摩書房版全集19巻の大野晋氏の解題によれば、宣長の医者修行は、始め堀元厚に師事し,元厚死後は小児科医武川幸順の門に入った。当時の日記は大部分医学以外の記述であるが、上洛4年目に「春庵」という医者らしい号を名乗り、医者として世に立つことを明確にして母親を喜ばせた。

 

4 医者としての宣長

松坂に帰ってからの宣長の医師としての名は、全集19巻の大野晋氏の解説によると、「大医」としても「小便医者」としてもあげられていない。はやりごとの記事に「安永元年本居歌の講釈」とあるのが源氏や古今を講じていた宣長の記事ではないかと、森壷仙の「宝暦咄」という本に書いてあるという。後に紀州藩に「医師」として召抱えられるが、筆頭は600石なのに、宣長は最後尾の「御針医格10人扶持」に留まっている。仕事は紀州に出向いて国学の進講が主で、松坂在住が許されていたという(上掲大野晋氏)。世襲で家格が高い医師に対し、新入りの宣長は低く位置付けられたのかもしれないが、低い。

しかし医者としての宣長を、その若年の医学論文によって極めて高く評価する高橋正夫氏の「本居宣長―済世の医心」があることに注意する必要がある。(別稿「宣長の医学論―送藤文興還肥序」)

全集19巻の北原進氏の解題によって、宣長の家計における医師としての収入をみると、確かめられる58歳の天明8年から71歳での没年=享和1年まで、さらに没後6年=文化4年までを4期に区切って表示する。

   年 令    毎年の入金 内祝儀・謝礼  医療による薬料  摘  要

  58―61歳  153両   30両     50両    いずれも年平均

  62―66歳  120両   56両     34両

  67―71歳   96両   52両     15両

  没後6年間    34両    9両      4両

61歳まで医師としての収入が祝儀・謝礼=教師としての収入を上回っているのが注目される。彼の本領は国学であったろうが、それを支えたのは医師としての収入であり、彼を医師とした母親の人生設計は見事に的中した。もっともこの頃流行病が多発し患者数が増えた事情もあるらしい。58歳までの収入は資料がないが,医療がかなりの比率であって医者が本業だったとはいえるのではないか。

62歳以後になってようやくそれが逆転、没後は両者とも激減する。なおこのほかの収入とは貸家の家賃、扶持米の売却,小作料、預金利息などであって、各年の収支はほぼ均衡し赤字はわずか4年,金額では数両に過ぎない。堅実経営といえるであろう。著書販売にかかる収支は記載がない。

 

5 オランダ医学と宣長

医師として生活を支えた宣長であるが、蔵書には医書はほんのわずかしか残されていない。文化6年編の鈴屋蔵書目において、全集20巻の8ページに渡って載せられている膨大な国学関係の書目の最後に、「雑々之書」という項目で「本草綱目」1箱と「医書類」1箱が記載されているに過ぎない。(本草綱目は和書であるが、中心は「漢方」の書物であった。)

医学の勉強には熱心でなかったように思われるが、高橋氏は「実に149種に及ぶ医書」「おびただしい医書群」は「当時の責任ある良医の必読の医学文献」であって、宣長が「大医たるの風格を偲ばざるを得ない」と賞揚している。

しかし高橋氏も、宣長の医学修行が京都留学中の三年間、春庵を名乗るまでであって、宣長の医学思想をうかがう文献としては、京都時代の27歳時に医者修行の仲間だった友達に送った1700字程度の漢文「送藤文輿還肥序」があるのみとは認めている。他に残っているのは投薬記録や家計の収支・薬の宣伝文など。

そこでオランダ医学であるが、山脇東洋の解剖による人体構造図「臓志」1759年=宣長29歳、杉田玄白のターヘル・アナトミアを翻訳した「解体新書」1774年=宣長44歳。いずれも宣長に意思さえあれば購入可能だった筈であるが、両書ともに蔵書中にない。しかし上記1700字論文中に、中国伝来の伝統医学を捨て、五臓六腑十二経絡を廃する説(=オランダ医学と名指していないが)が台頭したことに対し、「その言おおむね臆説で誤謬なきにあらず」と拒否し、山脇氏を名指して「その識見高きに過ぎて卑陋・無稽で、その言は取るに足らない」と否定した。この書き方からすると「臓志」を読んではいるのか。

医学史に照らしてみると、宣長が履修したのは「今方」という室町時代にもたらされた朱子学をベースとする理念的・保守的な学派で,これを批判する実証主義的開明的「古方」学派があって、山脇東洋などはこれに属し、オランダ医学をも摂取しつつあった。宣長の時代は両派が覇を競い合った頃であったが、宣長は、自ら履修した「今方」に止まり、西洋近代科学の思想・手法に通じる道には拒否反応を示した。

宣長は、医者で稼ぎながら医学は研究の対象とせず、「余技」の筈の国学研究に時間を注ぐばかりで、折角西洋医学が手に取り得たにもかかわらずこれを無視、思想変革の機会をみすみす逃してしまった。シーボルトの来日は宣長没後の1823年で、生前には蘭法医学はまだ研究中であったかもしれない。しかし彼は自らが依存した漢方医学に対し、事実という観点から批判的見解を明らかにした解剖学の業績に、一向に注目しなかった。

宣長が学びそれによって生活を立てた漢方医学は、宣長が批判した「からざえ」そのものであったが、この矛盾撞着について反省の言葉は見当たらない。

洋学に関連しては、新井白石がフランシスコ会士ヨハン・シドッチを尋問して得られた「采覧異言」が蔵書にある。この本は主として地理を論じているのであるが、宣長の皇国思想転換のよすがにはならなかったようだ。

晩年に書いた「玉勝間」七の巻20に、「オランダという国の学び」という項がある。「オランダ人は諸国を知っているので,その学問をすれば遠い国のことがわかる。万国のことがわかれば皇国が万国にすぐれて尊いことがわかるはずだ」という。理屈はわかっていたのに自己の思い込みは変えなかった。確信犯であった。むしろ1790年「直毘霊」を含む古事記伝を刊行してしまっていたから、そこで表明された皇国思想をいまさら変更するわけに行かず、ただ防戦一方に追い込まれていたという事かもしれない。

伊勢の船主・大黒屋幸太夫が、漂流してロシヤに捉えられエカテリーナ女帝に謁見を許され、滞留10年して使節ラクスマンと共に1792年来航し、幸太夫からの聞き書きが将軍家医師・桂川甫周によって「北嵯聞略」となり、幸太夫は伊勢に帰った。伊勢の人宣長は知らなかったはずはない。皇国の外に立派な国があることを経験した人が同郷にいた。これも皇国思想訂正には効かなかった。

 

6 「批判者」上田秋成への反批判

宣長と同時代の学者・文人に上田秋成がいる。真淵の孫弟子であるが、真淵や宣長と異なり小説家でもあり、蜀山人・蕪村・兼花堂などと交際の巾が広い文人で、仏教を一方的に否定はしなかった。50歳を越えてから視力を失い妻にも先立たれ、晩年は宣長のようにはめぐまれず、伏見稲荷神官の戸倉氏の世話になったらしい。

加藤周一氏は二人について、宣長が武士や町人のイデオロギーに自己を同定できず、しかし抽象的な上級集団としての日本民族を創出=日本社会に共通の意識されざる価値観の意識化をはかって社会と折り合ったのに対し、個性の強く批判精神旺盛な秋成は、日本社会に共通な明示的常識を拒否して自己と社会との疎外関係を生きざるを得なかったという。

二人の間に国語問題と皇国思想問題でのやり取りがあり、「呵刈葭」という題名の秋成の批判と宣長の反論を、宣長が記録した書物が未刊のまま残された。「悪しきを刈って叱る」という意味の題名に、宣長の感情家である側面がうかがえる。村岡典嗣氏「本居宣長」によると天明7年正月57歳の作。そのうちの「日神論」として名高い皇国思想の部分についてのやり取りを適宜縮小した口語訳で見る。

 秋成 日神が、四海万国を照らしますとはいかが。

この神の伝説は「光が六合の内を照らす」「天岩戸を閉じてより、高天原も葦原の中つ国も暗くなった」というが、六合が四海万国でないのは葦原の中つ国といっているので明らかである。この国だけでなく天地内の異邦をも悉く照らすなどとどの本に書いてあるのか。

書物でなくそのものをあるがままに写し出す地図でみると、この国のものは正しくうつしていないが、オランダの航海に使う地球の図を見ると、文字のある国は少なく,名さえ知らぬ国が多く、広大な地域の中でわが国はどこかと見れば、広い池の端にささやかな葉を散らしたような小島である。異国の人にこの小島こそ万邦に先立って開けた国だ、世界を照らす日月が生まれた国だ、万邦はわが国の恩恵を受けているから貢物を持って来いといっても服するはずがない。いやわが国にも太古に日月が現れたといって争いになった時誰が裁定できるだろうか。宣長さんが唐=中国や天竺=インドに生まれて3国の勉強をしたならどうなるだろうか聞きたいものだ。

 宣長 日神のことを「から心」で論じたもので,いまさら論ずるのは面倒だが、六合はいいとして、この神様は「日神」という号であり,「天地を照らす」と書いてあるではないか。唐天竺は皇国と別ではないか。唐天竺の日月は皇国の日月と別というのか。「ただ一点の「から心」の雲さえ晴れれば神典の趣旨は明らかなのに、この一点の黒雲に邪魔されて大御光を見られないのはまことに憐れむべきことだ。」(まるで理屈になっていない。「不合理ゆえにわれ信ず」ではないかと村岡典嗣氏はこれを評した。)

オランンダの万国の地図を見たと珍しげにいうのはナンセンスだ。そんなものは今時誰も見ている。皇国が必ずしも広大でないことも知らぬ人はいない。大小は尊貴に関わりない。皇国は四海万国の宗主たる国で,その理由は凡人の智慧では判らない。判らない(=不可測)事は判らないのだ。それを測ろうとするのは「から心」である。(議論にならない。どうしようもない頑迷さ)

皇国が万国にすぐれて尊いのは皇統の不易なこと、生命の元である稲殻の美しいこと、その他万国と天地ほどもかけ離れていることは枚挙に暇がない。国は狭いが神代以来外国に犯されたことがない。もろこしなどはもろもろのえびすの中で富ある国というが、広いといっても皇国に比べると田地も人民も少ない。世界に皇国に及ぶ国はない。よく考えて「不 可測の理」を悟るべきだ。太古の伝説が各国にあるというが、外国の伝説は正しくない。間違って伝えられ愚民を惑わすものだ。天主教も偽造の説だ。わが皇国の古伝説は真実の正伝で一々神代の赴きに符合して妙なるこというべからず。それを上田氏は外国の雑伝説と一緒にしてこの妙趣を悟らないのは黒雲が晴れていないからだ。

秋成・宣長の問答はまだ続くが、これ以上引用する必要はなかろう。宣長の皇国説に対する秋成の論難は今日も通ずる常識,それに対する宣長の反論は(1)とても理屈になっていない、非合理ゆえにわれ信ず=信仰告白に過ぎない。(2)しかも宣長は、オランダ地図があり、そこにあらわされた日本の地図上の位置・状態を、十分知った上で反論している。宣長は確信犯なのである。

むしろ秋成の反論があったにもかかわらず、宣長・平田説=尊王愛国というナショナリズム思想をあおって攘夷・倒幕に持っていった社会政治的背景が問題なのであろう。

宣長は、儒学者藤井貞幹が宣長説を批判した「衝口発」天明1年1781年(覚えず口をついて出るの意か)に対し、「鉗狂人」天明5年1785年という反論を書いた。「狂人に首かせをつける」という意味,挑戦的感情的題名である。上田秋成も宣長の別稿「上田秋成の答書」では狂人扱いされている。

宣長は弟子には「師の説になじむべからず」と調子のよいことを後年「玉勝間」に書きつけた。「学びの道は天が下の大道なれば、学ぶ人も師の教なりとてあながちになじむべからず」という契沖の文章があり、この自由討究の精神は契沖によって吹きこまれたことが村岡氏の「宣長」に指摘されている。しかし宣長は、部外の批判者には学問的に対することができないどころか、紳士としての礼儀さえ守れなかったようだ。

「鉗狂人」の公刊は没後であり、上田秋成への反論「呵刈葭」(悪を刈りとって叱るの意)は未刊であったが、写本が流通した時代であるから論難の相手には伝わったのであろう。

               

7 村岡典嗣氏の古道説批評

明治以後宣長研究の大家村岡典嗣氏は、明治44年刊、昭和3年増訂の「本居宣長」で次のように書いた。

宣長の学問は古代文献学として多大の業績をあげたが、その古道説は「古代の客観的解明がさながらに主義的主張をなし」「解明した上古人の意識内容たる古伝説が、……幾多の背理妄説を含んでいるにもかかわらず、没批評的に承認され尊信されて」「Erkennen des Erkanntenが同時にGlauben des Erkannten」となっており、文献学としては変態であると指摘した。わざわざドイツ語でGlaubenと書き、これを「信仰」としないで思想と訳したのは当時の風潮に遠慮したのであろうか。

村山氏は、問題の古道説と文献学との異常な乖離については、宣長の「古代主義が彼の意識において主張として思想として確実性を有していた所以は、他に心理的に(そして半ば論理的に)その根拠をなすものがあった」として3点を指摘した。@ 国家的自覚と国民的自尊からなる尊王愛国主義、それが古代主義の道徳的根底をなした。A 経験的不可知論的思想、われわれの知識の根拠は経験にある。それに基づかない推理は空論である。古書の事実は古人の経験の結果であるから、絶対に信じなければならぬとした。B 敬虔的思想は万事万物に絶対的神意の発現を認めて絶対的信頼をなすという態度であって、これが@Aの根底にあって「彼独特の敬虔宗的神道の信仰を抱くに至らしめ」、この「三つの思想が互いに相関連して宣長学の根本思想をなした。」「古伝説上の事実はその伝説的性質を脱して、知らず知らず彼の意識中に絶対的に事実となる。」「かくてErkennnenGlaubenとなった」という。宣長に即した解釈として妥当というべきであろう。

小生の意見を述べれば、宣長は古事記という先人が読み解けなかった謎の古代文書を解読した。この古代文書に書かれていることは日本の国の始まり、皇室の祖先に関わることだった。しかも日本書記のような漢文表記でなく、古代日本語を漢字の意味と音を使って表記したものだった。そして解読の苦労が大きかっただけに書かれていることをそのまま信じるようになった。信じてしまうと、古代から存続している日本と皇室という事実が一種の循環論法で信仰の真実を保証するようになった。苦労して読み解き見つけ出した真理だけに、その苦労と無縁の批判者の安易な批判には腹が立った。つい感情的になり、激しい言葉をぶっつけた。問題は信じるか否かであるが、解読の苦労が信じさせた。不可解なことを信じることは今日でも人間世界にいくらでもあるではないか。人間における非合理性の存在、その克服の為の宗教問題については別に論ずる必要がある。 

 

8 神国思想の淵源

日野龍夫氏の日本思想史大系「本居宣長」の解説に、「排芦小船」に盛りこまれた様々な主張は、子細に点検すると宣長の独創にかかるものは案外少なく、師の堀景山や徂徠学派の思想の濃厚な影響を容易に指摘できるという記述がある。

神国思想・皇国思想については、和辻哲郎氏の「尊王思想とその伝統」「日本倫理思想史上下」が、明快な論理で複雑な糸を解きほぐしてくれている。詳細は別稿「和辻哲郎「尊王思想とその伝統」に記述したが、要するに宣長の神国説=皇室崇拝の尊王思想には歴史的に古い淵源があるが、彼の独善的皇国思想・儒学排撃には、賀茂真淵の「国意考」という先例を指摘している。儒教排撃にはさらに、水戸学という、宋学の名分論に発する尊王思想からの強い反対論があった。

神道国学からと儒教名分論からの二つの尊王論は、外国船来航によって触発された国防意識によって尊王攘夷というスローガンに統一結合され、それぞれ平田篤胤・頼山陽という煽動家によって国民的運動にまで盛り上げられた。

長尾竜一氏の「宣長考」(日本国家思想史研究所収)の指摘によって、本居宣長稿本全集中の宣長京都遊学中に学友に送った書簡の写しを見ると、宣長は「夜郎事大」という成語で有名な「夜郎王」に喩えられているのを打ち消そうというのに「六経論語を読むのはただ文辭を弄ぶだけ、孔子以後2千年未だに道を行うものが現れないではないか」などの主張を繰り返して平然としている。皇国思想はまさに夜郎自大な考え方であり、それは早く京都遊学時代に根ざしていた。それが宣長の考え方だったという他ない。

ただ宣長の行った日本のカミの考察については、石田一良氏の「カミと日本文化」というカミの綿密な考察をベースにした批判的な論考がある。別稿で考察する。

 

9 加藤周一氏の宣長論

 加藤氏については「雑種文化論」や「現代ヨーロッパの精神」によって親しんでいた。その加藤氏が「日本文学史序説下」で宣長論をかいた。加藤説を要約する。

@       宣長の功績は、儒佛の影響の深く及んだ文化のなかで、その影響を離れた日本の土着的世界観を、知的に洗練された思想の水準まで高めたこと。彼はその思想を、古代文献の精密な歴史言語学的研究と、日本の大衆に固有の文化の核心への洞察によって、独特の学問=国学として表現した。

A       彼の学問は、古事記の語学的解釈であり、彼の信念は、古事記の記述がそのまま事実であるとすることだった。学問は信念を強め、信念は学問を支えたが、信念は学問の論理必然的な結論ではない。

B       彼は自己と周囲の人の「まことの心の奥」を見て、それを古事記に見出したから古事記を信じた。彼が大和心と呼んだ土着の精神構造は、古代文献に現れ、彼及び同時代の大衆の心の奥にもあった。彼の信念と学問の独創性は、町医者として大衆と共有した意識の深層に発していた。

C       町医者として暮らしを立てた宣長は、町人を賤しき民としながら、町人社会を好んでいた。「人繁く賑しきところ好ましく」「田舎びたるところ好ましく」「人の心はよくもあらず、おごりてまことすくなし」。宣長は、その経験を知的に対象化して、仏教的彼岸でなく、儒教的善悪でなく、土着の此岸的文化伝統との調和を探求した。

D       武士でなかった宣長は、儒教という武士社会のイデオロギーと自己を同一化できなかったし、商人失格であったから町人社会でも同じだった。そこで宣長は、意識面では自己をより抽象的な上位集団=日本人と定義し、生活面では仲間を集めて小集団を作り仲間意識を強調する他なかった。弟子たちと共有したその心理的必要性が、彼の極端な民族主義的ナンセンスの母体となったのであって、過激な民族主義は、学問の結果ではなかった。(村岡氏の信仰説にふれていないが、特異な古道説を仲間内で共有したというのは、信仰といえるかもしれない。)

E       町人から出た学者では、伊藤仁斎は、武士社会の儒学領域で圧倒的な学識を備えることによって自己の立場を護り、石田梅岩は、武士社会の儒学を商人の言葉に置き替えることによって大衆の教師となった。宣長の方法は第三の解決法であった。

F       主著古事記伝は、第1巻が総論、第2巻が「序」の注釈、第3巻以下が本文の注釈で30年以上にわたる語学的考証の成果は画期的独創的で不滅の業績である。

G       古事記伝以外の宣長の著作には、言語学=詞の玉の緒・漢字三音考、哲学的議論=直毘霊・玉くしげ、美学的=あしわけおぶね・石上私淑言・源氏物語玉の小櫛、民族主義的イデオロギー=馭戎慨言・くず花、政治社会問題=秘本玉くしげなどがあり、学問的論稿でもそこに民族主義イデオロギーが介入すると自己撞着に陥ることになる。

H       彼の哲学の中心は、「人の心のありのまま」=大和心=人間の自然状態の承認であって、カミには善もあり悪しきもある、カミと人間の関係は断絶でなく連続的で、世界には秩序があって、その自然状態は日本の古代に見出され、古事記によく記されていると主張した。

I       人の心のありのままの尊重は、政治上の保守主義・政策上の寛容として現れ、時世の勢いを変えるのは人力の及び難いこと、古きに従うにしくはない。そこからは道徳的規範は生み出されない。宣長の世界は、日常的現実そのものであって、死後ははかり知るべきにあらず。関心は徹底してこの世にしかなかった。遺言書も手続きに詳細なだけで、死や死後の世界にふれていない。

木下説 この点について長尾竜一、宣長考「日本国家思想史研究」2167に面白い考察がある。要約すると、宣長の「まごころ」論は、欲望の解放という実践的帰結を伴わない。理由の一つは、まごころを欲と分離し、「欲はきたなきもの」と規定したこと。二つは、歌や物語は、国を治め人を教える道とは異なる道で、歌の表現する「まごころ」や「もののあわれ」は政治的道徳的実践には関わらないとしたこと。要するに宣長の、歌の政治・道徳からの独立の代償としては、政治・道徳への不介入という対価が支払われているという。さらに人間像として、「まごころ」は欲ではなく情であって、欲を抑制して生ずる情緒が「もののあわれ」だから、欲望の充足の結果を受動的に受ける人間像が前提されていて、欲望の充足そのものを追及する積極的人間像は排除されているという。加藤氏はそれを保守的寛容といった。政治学者は鋭い指摘をしたが、当時の状況でどこまで踏みこみえたろうか。

J       宣長の思想で深く正確で時代を超えていたのは、古事記の中に儒佛渡来以前の土着的世界観の原型を見出し、それとの関連において日本の文化遺産に新たな意味を与えたことである。この独創的歴史文化の解釈は、日本人の精神における建前と本音、意識的価値と無意識的な心理傾向、外来のイデオロギーと伝統的な世界観との関係を初めて明瞭に示した。

K       しかしその後の国学者が継承したのは、文献学的技術面を除くと、宣長の大系の二つの弱点であった。一は神話と歴史の混同であり、二は文化の特殊性と思想の普遍性の混同である。二は上田秋成との論争に明らかである。

木下説 以上が加藤周一氏の議論の要約である。宣長の業績の高い評価、しかし民族的イデオロギーのナンセンス指摘とその発生理由の社会心理学的説明は、村岡典嗣氏の古道論は信仰という説明に対し、その後の社会・人文科学の発展を吸収した内容となった。行き届いていて納得できる公正な評価であろう。医者である加藤氏が、宣長の医学に触れていないのは、業績のうちに数えていないからであろう。

宣長論の終わりは、小林秀雄氏の「本居宣長」である。それを加藤周一氏の小林論によって論じるのは、両者が姿勢において対照的と思えるからである。

 

10       小林秀雄氏の宣長論

加藤周一氏が小林秀雄の最大の著作という「本居宣長」論については、氏の小林秀雄論とあわせて論じる必要がある。小林氏について小生は、氏の感性と文章の迫力に感銘すると同時に、氏が宣長に倣ってではなかろうが、人文社会科学的論理構築について無関心というより否定的と見られることに、若き氏は物理学を大岡昇平氏に説いたというのを知るだけに、残念の感を禁じえない。すなわち医者で詩人で合理的な加藤氏の小林論に注目する所以である。所論は専ら日本文学史序説下による。

@小林秀雄の位置 小林は、林達夫・石川淳とともに、第一次世界大戦後の大正教養主義とマルクス主義の流行の中で青春を送り、軍国主義と太平洋戦争の時代に壮年期を過ごし、流れに抗し、大勢順応を拒否し、一貫して自己の立場に徹底した三人の中に数えられる。

A西洋指向型の林、ジードの訳者でもあり和漢の古典に通じた石川に対し、小林は19世紀と同時代のフランス文学から出発したが、西洋思想を彼自身の問題を解く知的道具として借用し、文芸批評家として活動したが、対象は文芸・西洋に限らなかった。モーツアルト・ゴッホ・実朝・宣長など、創造的天才を語ることによって常に自分自身を語っていた。  

B西洋文化に対する態度は、3人異なった方向に進んだ。林は西洋思想史の内側からの理解を通じて普遍的なものに到達したし、石川は深く肉体化された日本の文化的伝統と西洋文化との接点を追求した。小林は二つの文化の対立を自己内面の問題に還元した。西洋崇拝はこの三人にはなかった。

Cマルクス主義に対し、林は理論的に接近し冷戦時代にスターリニズムを批判した最初の日本人だった。石川はアナキストを含む反権力行動の徹底的な形式としての関心は示したが、ソ連の現実への幻滅において林と遠くなかった。小林はマルクス主義者たちを、理論と人間の結びつきという一点において激しく批判した。その結びつきは浅く、理論は借り物で、次々輸入される「様々な意匠」の一つに過ぎない。当時の日本の文化的状況についてのこの洞察は、一面において当たっていたが、小林の力点は大勢順応主義の批判ではなく、マルクス主義の論理構造の批判でもなく、生活と思想との密接な結びつを強調しつつ、独特の美学を作り上げる方向に向かった。(詩人である所以)

D小林は、一般的抽象的な概念体系に具体的な生活感覚を対置し、社会科学の替わりに美学をとった。その美学はいかに生きるべきか、という問いへの答えでもあった。それは知的で感覚的な人格の全体に関わり、特定の瞬間との一回限りの内的経験に集中して現れ(主観性)、歴史的時間を超越しようとする(非歴史性)。「私は宣長の思想の形体、構造を引き出そうとは思はない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。」(やっと宣長が登場した。)

Eここでいう「肉声」とは要するに宣長の心である。その心は石田梅岩の、「神儒仏ともに、悟る心は一なり」という心にも近い。小林はマルクス主義の歴史的客観主義に対し、主観的で超歴史的な「心」の内的経験を対置させた。その姿勢はモーツアルトについて美しく語ることを可能にしたが、日本の中国侵略戦争について冷静に客観的に語ることを不可能にした。人生を歴史過程に還元できないように、歴史を歴史家の心に還元することもできない。(鋭い分析、長尾氏の説と符合する。)

F小林は戦時中に戦争批判の言葉を書かなかった。しかし軍国主義の思想動員にも決して便乗しなかった。戦争中は日本の古典文学について、戦争と関係のない文章=「無常といふこと」を書いた。それらの短く緊密な文章には、詩人小林の鋭い感受性が遺憾なく現れている。(この本が小生の小林との出会いだった。)

G小林の最大の著作となったのは、「本居宣長」である。彼の歴史に対する考え方の特徴はそこに要約されている。宣長の心を説いて、そこに古代信仰があり、その信仰が宣長をして古代文献学に赴かせた動機を活き活きと描く。詩人小林の感受性がなければ、その洞察と叙述は成り立たなかったろう。しかしその文献学の実証的方法の由来の説明は明瞭でないし、宣長における神話と歴史、「言」と「事」との混同(古事記に書かれたことがすべて事実という認識の誤り)の弁護も明瞭でない。

H小林の文章は、芸術的創造の機微に触れて正確に語ることのできた最初の日本語の散文である。その意味で批評を文学作品にしたのは小林である。しかしそれには代償が払われねばならなかった。代償とは、人間の内面世界に超越する外在的世界―自然的社会的な世界―の秩序を認識するために有効で精密な方法=学問の断念である。

I両大戦間の西洋思想の挑戦に対する小林・林・石川の反応は、徳川時代あるいは平安時代以来の、日本の文化の構造を反映していた。内面的な直接経験における自己同一性の確認=小林、外来の概念装置を通じて客観的世界への通路を見出そうとする企て=林、権力に対する反語としての芸術、全体に対して部分の洗練を重んじる様式=石川、―それらは徳川時代の梅岩にも、徂徠にも、また狂歌師たちにも現れていたものである。

木下説 まことに見事な分析で付け加えることはない。宣長も小林も、以って瞑すべきであろう。

おわりに

冒頭の三つの謎のうち、古文辭研究における業績と対照的な「民族主義的ナンセンス」は既に京都遊学時代に、先行する神国思想や、真淵の儒教排撃思想によって彼の信念となり、それをベースにして古事記研究がなされた。それはまた武士でも商人でもない宣長のアイデンティティーに関わるもので、彼はそれを仲間と共に支えた。

医学は彼の生活を支え、しかも彼が古道説で排除した「からくに」のものであったが、彼はこの矛盾にはふれず、また西洋医学の論理性に注目することもなかった。古事記そのものを信じる彼の姿勢は、論理とは無縁で、それが宣長の信仰なのであった。

しかし宣長の思想の背景に、外国船来航という時代の風雲を考えないわけには行かない。儒教名分論による尊王思想もあって、互いに反発する両者を結合したのが海防=攘夷論であって、文学が主であった国学をその時代の波に載せて、思想・政治運動に盛り上げたのは平田篤胤の働きであった。その運動の社会的分析は今後の課題である。

また宣長の愛した桜が、宣長と無関係な、潔く散る軍国イデオロギーに変身した経緯についてもまだ明らかになっていない。小生はかつて日本と朝鮮の関係を調べていて、佐藤信淵の過激な侵略思想にびっくりし、森銑三氏の「信淵の言説には虚構が実に多く、彼の説は一向に行われず、社会的声望もなく、生前に著書は刊行されなかった。ところが明治になって持ち上げる人が出てきて、著書は刊行され、教科書にまで取り上げられる有名人となった」(著作集9)というのでさらに驚いたことがある。宣長は、信淵と比べられては迷惑だろうが、「もののあわれ」が理解されず、「桜好み」が曲解された経緯は、古道説に一半の責任がないわけではないが、思想を正しく受け継ぐことの難しさを表しているとでもいうのだろうか。

宣長論としては子安宣邦氏の著書があり、小生も一読したが、小生の主題とずれていて、言及する余地がなかったのは遺憾である。                おわり