本居宣長.子安宣邦92.5岩波新書

                 01.2.9−03.3.27  木下秀人

はじめに

子安氏は倫理思想史系の学者のようだ。小生はこのたび、野口武彦氏の「古道論と治道論」を論じて、「宣長の非合理的な説が受け入れられ流行したのは,あの時代に必要とされた、日本のナショナアル・アイデンティティー形成に、すこぶる適切な話であったからではないか」と気がついた。この本は出たとき読んでいるのに記憶になく、改めて読んでみると自己同一性=アイデンティティーの話が出てくる。わが言説との異同について検討・要約する必要を感じた所以である。氏には別に「宣長問題とは何か」95.12青土社という著書があり,最近それを読んだが判り難くて閉口し、ふと「本居宣長」を書棚で見つけ、これは判りやすかった。ところが「宣長問題」も書庫にあって、明らかに読んだ形跡があるのにはがっかりした。それほど強い印象を受けなかったからであろう。「本居宣長」の再読で子安氏の宣長批判の大要がようやくわかった。

簡単にいうと、宣長は神典をそのままに、おのがさかしらを排して読むといっているのに、読む前にすでに独断と偏見があって、結局極めて主観的な「宣長古事記」になってしまったという。要点を記録する。

 

ここで小生の宣長についての問題意識を掲げると

1 記紀など古典研究史上に於ける宣長の位置。宣長以前の皇国思想はどうだったのか。

2 宣長は紀記の記述を丸ごと信じ,かなり無理をしてかの神道説を作り上げた。

3 その非合理説が,批判者があったにもかかわらず歴史に受け入れられた。誰が受け

  入れたのか。

(1)危機の時代におけるナショナル・アイデンティティー,尊王攘夷運動の思想的基礎を提供した。

(2)明治国家が,国民統一のイデオロギーとして利用した。

(3)民衆的基盤としては,神仏混交・習合思想において,仏教に押されるしかなかった神道神主に,反撃の理論を提供した。廃仏棄釈。

(4)国家権力が事実解明を禁じ,宣長思想は超国家思想となった。

4 昭和敗戦により、天皇信仰における非合理部分は消えた。しかし天皇制は継続し、

  宣長が抽出した上下関係についてのルールはそのまま生き延びて、日本的経営の基

  本部分=ビジネス・イデオロギーとなり、高度成長に寄与した。

5 20世紀末において日本は、明治以来の国家目標を達成し,構造改革の踊り場にあ

  って、日本的組織論・経営思想の非合理的部分が問題となっている。今まで生き延び

  た宣長思想が精算を迫られているのではないか。

 

もちろん,子安氏がその全部を満たしてくれるわけではない。とかく議論が細部に渡り,展望を見失いがちなとき,以上の問題意識で方向の整理をしたいまでである。

子安氏の主張は、言説とかエクリチュールなどという言葉が使われてわかりにくいが、宣長の神道に関わる「言説」は,事実を根拠とせず、「文献的実証性を自己正当化の根拠とした〈神の言説〉で」,「排外主義的皇国主義などは彼の表看板である」にもかかわらず、「近代に生きている」。それが宣長問題である(=宣長問題とは何か)という。

判り難い問題提起であるが、明らかに間違った主張でも、世間では堂々と通用することがある。宣長問題はそれと同じであって、間違っていることは今やハッキリしている。しかしそれを担ぐ人が絶えないのは困ったことだというのであろうか。

子安氏の論述を反芻して今小生が思うのは、子安氏によって教えられた『言説』という用語を『歴史的言説空間』に拡大し、宣長のゆがんだ言説がなぜ生まれ、なぜあれほど受け入れられたかを、江戸時代から明治に至る政治社会的変動の中で考えてみたい。どこまで論理を進められるであろうか。

 

1 真淵によって古事記研究に目覚める

京都の堀景山塾で契沖の歌学に接し、古典文学に目を開いた。(儒学には堀塾時代に反発した。佛教には幼少時から関わり、その後深入りしなかった。)その視線で以前から強い関心を持っていた記紀の世界を見ると、『世の神道者』のいうことと異なる。真淵に会って「古意は古言によらねばならず、古言を得ようとして万葉に向かったが、年老いて古事記に手がつかない」と、神典=古事記研究についての志を託された。34歳だった。当時日本書紀は正史として研究され、その神代史の記述と仏典や儒教・道教とを織り交ぜて神仏習合の神道説が存在した。儒学では仁斎・徂徠による後人の付加を排し古学に帰るべしという運動が盛んであった。まだ正確に読み解かれていない古事記の研究が宣長の課題となった。

木下説 宣長が感心したという真淵の「冠辭考」は、綿密な例証を重ねた重厚な論文で、宣長の古文辭研究の模範となったことが理解できる。

 

2 皇国思想が先にあった

直毘霊は古事記伝の総論ともいうべき「道というものの論」であり、「皇大御国(スメラオオミクニ)は、かけまくもかしこき神御祖天照大御神の,御生れませる大御国にして」という、「皇大御国」の自己神聖化の言葉で始まる。小生は宣長の皇国思想は、古事記研究の結果帰納されたと思っていたが、それは間違い。宣長には先人が形成・伝承した「皇国思想」が既にあって、その検証・証明のために古事記が活用された。「古事記雑考」に直毘霊の草稿と思われるものがあり、岩田隆氏の研究によれば古事記伝起稿は、古事記雑考によって「揺るぎない古事記観」を確立してからと推定されている。「揺るぎない古事記観」とは「皇国思想」のことであった。

木下説 ところが真淵の「国意考」という論文は、あからさまな皇国思想・排外思想が書き連ねてあって、その論旨の運び方をみても、宣長の皇国思想の淵源がここに発していることがわかる。

 

3 「異国のさだ」―「からごころ」の排撃と皇国思想の論理

皇国優越思想の裏が,異国蔑視・からごころ排撃の過激・下品な言説だった。

それでは皇国が優れている所以は何か。「神の御国のこころばえ」とは「からごころ」でないもの=他者の否定でしか述べられていない。「おのが知をもって事々しくものをいい、理をもって推しはかる」のが「悪しきからごころ」なのであった。現代の若者達はこの宣長を支持するであろうか。

「道」についても同様であって、御国に「道」という「言」がないのは、道などなくてもよく治まっていて事々しく道を言挙げしないからだと強弁する。(木下説、これは真淵「国意考」の説でもある。)

しかも言葉によらないあらたな自己像の形成は,古事記=神典に書かれた「神代の事の跡」によって知るしかない。古事記伝とはこの「神代の事の跡」という事実によって、自己同一性を形成する作業であった。

 

4 古事記は事実・真実の記録という信仰

宣長にとって古事記は、文字のなかった「上つ代の清らかなる正実」を古語をむねとして記述したもので、古の真実を知るための最上の書物であった。しかも天武天皇自らが口述し,稗田の阿礼が伝承し,太安万侶が漢字・漢文で表記したと解した。

古事記は、古語のままに書かれた記述だから上つ代の実を失っていない。かかれた事が事実か否かを争うのは「さかしら」である。事実と信じて表面的な論理操作をするしかない。言語処理は精密でなければならない。しかし言語量が少ないから恣意的判断の介入を妨げない。さらに事実との関係は問わない。恣意性・非合理性、それが宣長の国学であり神学の実体であった。

 

5 「漢字三音考」1772―「皇国の言語」の非論理

古事記の漢字表記を正確に読むためには漢字音(漢・呉・唐の三音)の研究が必要だった。しかし研究の論理は転倒していた。わが国に漢字文化が導入された時,既に読むべき音も訓も定まっていたという。古言の正音は47、それにヤ行のイエとワ行のウを足すと50。人の正音はこれで終わり、このほかの音は混雑不正である。だから漢字が入ってきた時、それを読む音も訓もすでに定まっていたこと疑いなしという。

驚くべき偏見だが、宣長は「皇国」には正しい声音と正しい言語がある。「天照大神から無窮に伝わる皇統、万国に上たる国だから,人の声音言語も正しく清く,万国に優って」いるという信仰の持ち主であった。

皇国だから言葉が正しいという論理は同義反復に過ぎず,何もいっていないに等しい。しかし宣長はこのイデオロギー的確信に基づいて、古事記に含まれる古代語の復元作業に取り組んだ。

木下説 宣長は、50音図に接して、他国の言葉の声音や語句構成原理と違うことに気付き、その発音原理や語句の構成原理の違いから優劣を判定し、皇国の言語のすぐれていることを断定した。

 

6 アメとカミ――神代の始まり

漢字の導入は表記手段だけでなく,漢字とそれが含意するもの、ものの考え方見方の導入でもあった。国学者はそれに鋭敏なはずだったが、「漢意」批判に走る宣長は「天」をアメと読み、天帝・天道・天理に含まれる意味を排除した。そして「アメという名の義は、いまだ思いえず」といって、中国思想において重要な意味を担う言葉についての恣意的な解釈を封じた。アメは空の上にあって、アマツ神のまします国と注釈した。

「神」についても「カミと申す名の義はいまだ思い得ず」として恣意的な解釈を封じた後、

 「古の御典に見えたる天地の神たちを始め、それを祭れる社にいます御霊、人・鳥獣・木草・海山など何にまれ,尋常ならずすぐれたる徳のありて,畏かるべき物をカミという」とした。

天之御中主神=アメノミナカヌシのカミは、天の真中にいて世の中の大人である神という意味だとしたが、神代の文脈における存在はあいまいで、神々の体系における宣長の位置付けも空白である。

タカミムスビノカミ・カミムスビノカミの「むす」は「物の成り出る」こと、「日」は書紀に「産霊」とあるのが当たっている。「すべて物の霊異なるをヒという」。天照大神をヒというのも天地に比類なく霊異にいますからだ。そして「この天地も万物も事業も、すべてこの二柱のムスビの大御神の産霊ムスビによって成り出るものなり」と重要な註釈を加えた。

これにアメノミナカヌシの神を加えた「三柱のカミは、いかなる理ありて,何の産霊により成りませるか伝えがないので知りがたい。いともいとも奇しくあやしく妙なることわりによりてぞ成りませしけむ。それは心も詞も及ぶべき事でないので、伝えのないのはもっともだ」という。神代の始まりは宣長によってこのように解釈された。

 

7 天地の初めについて「漢意を排した」宣長の解釈

古事記の神代は、いくつかの創世神話を重ねる形で叙述されている。

@       天地初発の時高天が原に成りませる神、アメノミナカヌシの神,タカミムスビの神、カミムスビの神、みな独り神で身を隠した。

A       国稚(ワカ)く、浮き油の如くで漂える時、葦かびのごとく萌えあがる物によって成りませる神は、ウマシアシカビヒコジの神,アメノトコタチの神。独り神で身を隠した。

古事記はここまでの5神を「別(コト)天つ神」として区別した。

B       次ぎにクニノトコタチの神、トヨクモヌの神、独り神で身を隠した。次にウヒジニの

神、イモスヒジニの神、ツヌグヒの神、妹イクグヒの神、オオトノジの神、妹オオトノべの神、オモダルの神、妹アヤカシコネの神、イザナギの神、妹イザナミの神が成りました。

神代七代とは、この後半男女1対を1代と数えていう。

そして宣長は、@の「天地の初発は、必ずしも天と地の成れるを指すにあらず」、ただ漠然と「初め」をいうだけとしたが、「高天が原に成りませる」という意味は、天地に先立って成りまし、その天地が高天が原に成り、そのまま高天が原にいまします神という意味であると注釈した。それが「漢意」を排除して「古への伝説のまま」=神典のままを自負する宣長の注釈であり、だから真正なものとして主張された。

Aの「国稚く」について宣長は、「まだ国生みはされていないが、生みなされた後の名を借りて、その初めの有様を語ったのだ」と注釈した。

宣長は、古事記のテクストの示す重層する物語を、強いて一続きの話にまとめようとしてつじつま合わせをしている。それは後に服部中庸が「三大考」で展開した解釈と遠くないと子安氏はいう。「三大考」の三大とは天・地・黄泉(アメ・ツチ・ヨミ)で、平田篤胤の「霊の真柱」につながる論文、古事記伝17附巻として宣長の好意的解説付きで載せられている。

 

8 「命ミコト」という言葉

神代二之巻になると、「ここにアマツ神もろもろの命もちて、イザナギの命・イザナミの命二柱の神に、『この漂える国を作り固め成せ』と」詔が下り、天の沼矛を賜り、国土創世物語が始まる。そして「神」の尊称が「命ミコト」という言葉に変わる。

国土創世にアマツ神が登場するのは古事記の特色で、書紀本文にはない。宣長は、アマツ神とは5柱の「別アマツ神」であり、「もろもろ」とは「5柱を集めて」ということで、「命もちて」の「命」は「御言」で、尊称としての「命」ではない。しかしその「みこと」の意味については「いまだ思い得ず」と注釈する。

津田左右吉は、尊称としての命の「こと」は言で、命は命令者であるとしたが、「文字の義にかかわらず借りて書くのが古の常であって、この字に目をつけてその意を思うべからず」というのが宣長の説であった。

しかし書紀の注釈に「至りて貴きをば尊という。自余をば命という」「ともにミコトと訓む」とある。宣長は「これは君と臣と称の同じなのを憎んで、強いて別ける為に文字を書き換えた。撰者のしわざだ」「強いごとだ」と批判した。それでは神の御言との関わりから「命」と尊称される存在を想像する神話解釈の道筋は閉ざされてしまう。折口信夫の「みことの語源は至上の神との関係を示し、みこともちの省略形で、御言を伝達する者の義である。天上の神のみことを伝達するすめらみこともちを略したのがスメラミコト=天皇である」という説をも子安氏は挙げている。宣長説は「強いごと」のようである。

 

9 高天原と黄泉の国――新しい解釈

古事記は三層の世界像を想定した。上方に高天原、中に葦原の中つ国、下方に黄泉の国であった。必ずしも垂直方向とはいえない記述を、縦の上下方向に描いた世界像を明確に示したのは服部中庸「三大考」であり、宣長も賞賛した。

アメノトコタチは、クニノトコタチに対応して登場する。宣長は「常立」は書紀の表記である「底立」と同じとし、空の上方にアマツ神のいる御国=天があって五柱の別アマツ神とイザナギがおり、はるか下方に「根の国」=黄泉国ヨミノクニ・ヨモツクニがあってイザナミ・スサノオ・マガツビ・オオクニヌシがいると設定、根の国を出雲という説は「例の私の漢意」として拒否された。これは記紀神和の新たな解釈であり、国学によって提示された世界像であった。

 

10 神とはなにか――思い得ないというが饒舌

宣長は「カミと申す名の義はいまだ思い得ず」としたが、それは戦略的意図を持った発言であって、儒家・神道家によって先行する「天」「神」「命」などの言葉についての解釈を批判し解体しようとした。宣長が提示した古記・古伝承におけるカミとは

「古の御典等に見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、それを祀れる社に坐す御霊をも申し、また人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい海山など、そのほか何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、畏かるべきき物」をいうのであった。さらに

「カミは種々で、貴きも賎き、強きも弱きも、善きも悪しきもあり、心もしわざもさまざま、とりどりだから、一むきに定めてはいいがたい物」であるという。

だから、道理によってカミを考えようとする思考方法は、「外国の佛菩薩聖人などと同じと考えるのは『いみじきひがごと』だ。人の智は限りがあって、まことの理はわからぬものだから、カミについてはみだりに測りいうべきにあらず」。

こうして佛菩薩聖人などに類したカミ思想を排除した宣長は、記紀において存在感の薄いマガツビを悪神という名をつけて登場させた。

 

11 ムスビの神――天地万物の生成

神とは何かを語るのに禁欲的姿勢を見せた宣長は、神をめぐっては極めて饒舌に注釈を繰り返した。二柱のムスビの神は、天地・万物を生成させたと意味付けられ、「すべて世間の事は、神代にあった跡をもって考えるべきで、神代の趣をもって万代まではかるべし」と、歴史の推移も、世の良し悪しも神代の跡で推量できるという「神道神学的言辞」を記した。

紀伊の殿様に献じた「玉くしげ」にもムスビの神による万物生成が説かれ、道理的世界観が批判され、しかし自らの神道学説が恣意的であるとの自覚はなかった。

 

12 伊勢神道説の排除――心に神は宿らない

度会延佳は「陽復記」で「神は鏡の中一字を略したもの」、「心を鏡のごとくすれば」明鏡は明徳に通じるとし、同時代の吉川惟足は「心は神明の舎」と説いた。いずれも儒家神道に属する人である。「明徳」とは、朱子学の重んずる「大学」の冒頭にに出てくる語句で、明徳を明らかにするのが大学の道なのであった。子安氏はいう。近世になって神道家も儒教家も人の心をベースに議論するようになった=「心の言説」。それは石門心学にも受け継がれた。しかし宣長はこれを「臆説・わたくしごと」として排除した。宣長説では心に神は宿らなくなった。

 

13 宣長の「神の道」――臆説を咎める臆説

「直毘霊」の説く神の道は、天地の自ずからなる道でもなく、人の作った道でもなく、イザナギ・イザナミが始め、アマテラスが受け伝えたる神の道である。その道の心は、古書をよく味わえばわかること、それをあれこれいうのは佛と漢の意であって、それではまことの道の心はわからないと突っぱねる。

既成の神道学説を非難・否定した宣長が主張するのは、「神典に見えたるとうり」「ただ神典のままに心得る」だけであった。自分の説くことはすべて記紀に記された古の伝説のままだから正しい。「もしおのが説を咎めるならば、まず古事記日本書紀を咎むべし」という鼻息だから手におえない。宣長説は、記紀の記載に対する解釈であることにおいて既成の神道説に優越できる筈はなかった。しかしその自覚はなかった。

 

14 アマテラスは太陽である

黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、ツクシで禊をする。左目を洗うとアマテラス大御神が、右目からツクヨミの命、鼻からスサノオの命が生まれた。三貴子である。

宣長はいう。アマテラスは、天に坐しまして照りたもう意、今まのあたり世を照らすアマツビだ。月日はここで始めて成り出でた。世の識者が月日は天地の始めからあるというのは、からぶみの理に溺れた私ごとで古の伝えに背く邪説と非難する。

さらにアマテラスは、「高天の原を治らせ」とのイザナギの詔によって、六合に照臨する「天つ日」=太陽という専断的解釈が導かれる。正しい古伝=神典だから外国の古伝にない正しい説が伝えられ、そのままに読むから正しい説が見出しうる。だから御国の古伝は比較を絶して正しいという自己循環的自己言及論理の閉鎖性。

「四海万国がこの大御神の御光を蒙りながらその始めのことを知らず、皇国のすぐれて尊きことを知らないのは、外国には神代の正しい伝説がないからだ」

 

15 日の神論争――上田秋成

宣長の神典解釈の臭気に鋭敏に反応したのは上田秋成であった。「胆大小心録」に次のように書いた。

「やまとだましいということをとかくいうよ。どこの国でもその国のたましいが国の臭気なり。……『敷島のやまと心の道とえば、朝日にてらすやまざくら花』とはいかにいかに。おのが像の上には、尊大のおや玉なり」

アマテラス太陽説についての秋成との論争は、宣長によって「呵刈葭」という書にまとめられている。秋成が論難するのは、「アマテラスは太陽であり、万国を照らすから、その生み成したわが国は、他に比類ない皇御国である」という宣長の説に見られる荒唐無稽な自己神聖化の言説のもつ偏執であった。

 

16 折口信夫の神道説

民俗学者で柳田とやや異なる説を唱えた折口は、敗戦後に行った「神道概論」で、「いままでの神道論はつまらない。国家神道論の神道はいつも外を向いている」といった。

「神典のまま」という宣長の神道説は、一見文献実証主義的であったが為に、近代の神道説形成に大きな影響を及ぼした。折口はそれを批判し、「神道と霊魂崇拝、たまの信仰」問題に答えようとした。

「いままでの神道の研究は民俗学を用いなかったので間違った。古代信仰・原始信仰を解くには民俗学を方法とする必要がある。そのものを直接対象とするのでなく、それがわれわれの間に残していった殻を研究する。神道という日本の原始信仰が残した形式を、フォークロアの対象として研究してみる。するとそれを残した神道の形が出てくる」

「原始信仰といったが、神道は現に生きている。それを原始信仰といえないと思うのは後入要素が多いからで、すっかり取ってしまうか、入れて対象としていくか。鎌倉時代以来、神道を生かそうとする努力が幾度繰り返されても、後入要素となって神道をわずらわしている。陰陽道・仏教・儒教、携わった人々は何とかして神道を生かそうと説明した。その説明がすべて神道のわずらいとなった。」

「まず神道に原始信仰的要素があると仮定してかかることが必要である。努力によって「後入要素」を取ってしまったそのあとに、神道というものの実体が見えてくる。それをつかむ為に神道を考えていく」

宣長は、あらゆる後世的な要素・解釈を排除することによって「神典のまま」なる神の道を見出そうとした。しかし生み出された宣長説は排他的・専断的なものであった。それを「つまらない」として「神道の根本」にせまろうとする折口の方法は、古事記を巡る宣長の方法と同じ=夾雑物を取りのぞいて実体に迫ろうというものであった。

木下説 別稿石田一良氏の「カミと日本文化」は、その試みの一つであろう。

 

17 平田篤胤の神道

平田篤胤は、「古事記伝」の神代の解釈を聴衆を前にして文字どおり物語った。それを記録したのが「古道大意」となった。篤胤は古事記の語りによって、宣長が注釈として書きこんだ皇御国が神国であるゆえんを形象化しようとした。「天地の限りの大君主にして、世に限りなく尊い天照大御神」=永久に万国に照臨する日の神の生国であるゆえに卓越する皇国の物語は、篤胤によって古事記を下敷きに、祝詞式・神代紀・古語拾遺・姓氏録・出雲風土記に記載されている多くの異説を、古事記伝にならって、「一貫に見通す」ように再構成されて語られた。

篤胤によって語り直された神代の物語は、宣長の語らなかった「霊の行方の安定」=死後の霊魂の行方という問題にまで踏み込み、その前提として日の神の本国であり、その皇孫の統治する皇国が万国に優越することを明らかにしようとした。

世界像の再構築という課題が、宗教的救済の課題を担いつつ、幕府崩壊の時代に追及展開された。

宣長を評価した吉川幸次郎は、篤胤は読まなかったと書きつけた。子安氏は宣長の古事記解釈が、「既成の解釈」との激しい抗争の内において、それと異なる「新たな解釈」として登場したことを読み出した。                 以上