本居宣長の古道論と治道論,野口武彦1986.10筑摩叢書「宣長選集」解説

                   2001.2.3−8  木下秀人

野口武彦氏は,「王道と革命の間」というユニークな著書で知った。日本儒学は,中国儒教思想における天命思想は受け入れたが、湯武放伐=易姓革命思想は受け入れなかった。そして、天皇家は断絶することなく、政権の正統性の淵源であり続けた。

中国で正統性を問題としたのは南宋の朱子学だが、日本にも南北朝問題が起こり、水戸光圀が南朝正系論を唱え,徳川親藩に水戸学が始まった。徳川政権の正統性は、天皇に任命された征夷大将軍にあったから、勤皇=王道思想の行きつく先は大政奉還でなければならなくなる。それは幕府にとっては革命=倒幕に結びつく危険思想なのであった。この書は、この江戸期を通ずる思想・政治運動を主導する概念の矛盾・相克関係を分析したものであり、国学はその推進力の一つとして分析の対象であったが,そこでは「宣長問題」はテーマではなかった。

吉川幸次郎氏の,中国文学者の立場からの宣長論に物足りない思いの小生は、たまたま図書館で筑摩叢書「宣長選集」を見つけ、その解説である野口氏の「宣長論」を読んだ。単に国文学のみならず思想・歴史学も加えた広い視野からの分析で,論述は鋭く説得的で目のさめる思いがした。ここに要約するゆえんである。

 

1 「道」に行く道

「直毘霊」は古事記伝の総論であり古道総論、「くず花」は同時代の儒学者市川多門の直毘霊批判に対する反批判の書、「玉くしげ」「秘本玉くしげ」は紀伊藩主の命に応じて書かれた治道論の書で、前者は原理論,後者は応用論。4編は宣長国学の巨大な業績のほんの一部にすぎない。

宣長は、学問諸分野の「主としてよるべきすじ」は「道の学問」であり、その「道」とは「皇国の道」で、それはさらに「天照大神の道にして,天皇の天下をしろしめす道,四海万国にゆきわたりたるまことの道なるが、ひとり皇国に伝われる」道である。その「古道」のすべては,記紀に記された「古伝の趣き」に明らかであると主張した。

それは「歴史的過去」=古道論であるとともに現在の社会をも規定する「時代を超えた原型」=治道論でもあるという二重性を持っていた。古道論と治道論が表裏一体となっている点に、後の国学が政治的なものに関わる問題性が包蔵されていた。

宣長は,京都に出て堀景山の塾にいるころ,「聖人の道は治国安民の道であって,私人である自分の預かり知ることではない」と友人に書いた。「道を行うことは君とある人の務めであって,もの学ぶ者のわざにあらず、われは道を考え尋ねることをつとめる」と明言した。

その後契沖を読み,真淵に師事して歌を学び、記紀を精読し、もののあはれ論をあらわすなど古道を考え尋ねて,後年「治道論」ができた。

 

2 「直毘霊」=宣長古道論の原点

直毘霊は、古事記伝の「道ということの論なり」=総論として執筆されたが,三種類の原稿が存在する。現行冒頭の「皇大御国は,かけまくもかしこき神御祖天照大御神の、御生れませる大御国にして」は、初稿では「大御国にもと道ということなし、美知はただ物へ行く路にして,山路野路などの路なり」であったという。始めは過激ではなかった。

中国では,やたら「道」と名づけてことごとしいが,上古日本では「道」をいい立てる=言挙げする必要がなかった。(木下説 なぜならいわなくとも行われていたからだということ!)そこに彼我の差があり,わが国の優越があるという。「物に行く路」とは具体的な道で,抽象的な意味ではないことを強調している。

この点は「神の道」についても同様であって、「神の道に従うとは,天の下治め賜う御しわざ」であって、歴代天皇の「御しわざ」としての「治道」は,単なる政事でなく「神代よりありしまにま」の古道を体現したものであった。王朝交替・易姓革命の中国との対比における,「天津日嗣が遠長に伝わりきませる」皇国の優越性が誇示された。

神学の展開において、マガツビノ神をやや唐突に登場させた宣長は、中国儒学の性善説に対し、「善き悪しきの万事みなことごとに神のみしわざ」であり、「神には善きも悪しきもありて、しわざもそれに従う」と、善神悪神共存論ともいうべき論を提示した。ただ「皇国の神の道」は、老荘のいうごとき「天地のおのずからなる道」ではなく、徂徠学でいうごとき「人の作れる道」でもない。「ミオヤノカミの始めたまいたもちたもう道」であって、人間でなく神によって創始された道で、その神は天皇の祖先神なのだから中国に優越するのであった。

道の趣意は,古事記などに記されているが、ことごとしく道などとして記されてはいないが、上古の事跡や習俗のすべてである。そのエッセンスは、「下なるものはただ上のおもむけに従いおること」。古伝の示唆する方向と,時々の君主の指示する方向が裏表であって、君主は古伝の示唆に,下のものは君主の指示に「ただおのずから」帰依することが,道の道たるべき所以であった。

問題は悪神たるマガツビノ神が、善神たるナオビノ神とともに,古事記の「神統譜上の地位」が極めて低いこと。イザナギが黄泉の国から帰って日向で禊をしたとき、中つ瀬で生まれた神で、黄泉の国のケガレによりなれる神がマガツビ、そのケガレを直さんとなれる神がナオビノ神であって、出てくるのはそこだけ。「いささか神学的な拡大解釈ではないか」「儒教に対抗すべく宣長が作り出した神学ではないか」=西郷信綱・古事記注釈、「禍の神の禍を直すためのナオビノ神の生まれ方は抽象的で具体性を欠いている」中西進・天つ神の世界、などの批判がある。宣長は,「マガツカミのあらび甚だしき時は,天照大神の御力も及ばぬことあり」などといっているが、そんなことは古事記に書いてない。細部の拡大解釈としかいいようのない無理である。

 

3 「くず花」=論争家としての宣長

「玉くしげ」が出てから,皇朝を尊ぶ意識が勃興し、「かの大喝一声をのみ心地よき事として」、御国を皇国と書く儒者が出てきたと江戸後期の国学者中島広足が「童子問答」に書いている。国学者流のナショナリズムはその後大流行した。「くず花」も,大喝一声の点では同じであって,相手は名古屋の徂徠派の儒者で宣長の弟子と交友がある市川多門であった。古事記伝の稿本を読み,古事記伝そのものは評価したが,直毘霊には驚いて「末賀乃比礼」=まがのひれを書いて批判した。宣長はそれに対し直ぐ反論した。宣長の批判に対する反論は,藤貞幹=鉗狂人=かんきょうじん、上田秋成=呵刈葭=かかりあしなどがあるが、くず花はその最初。満々たる自信で威猛高な論難。論点は直毘霊の繰り返し。

「老荘が説いた自然」と「神のままなる道」との異同。真淵は老荘思想を受け入れたが,宣長は「真淵は記紀をよく知らないから」と否定した。

日の神=天つ日(太陽)説も真淵は「天地に従いてすべらぎは日月也」と比喩的に捉えていたが、書かれていることを信じる立場の宣長は、このような記紀神話の合理的解釈を拒絶し、非合理をそのまま事実と信じた。

宣長問題とは、あれほど厳密なテキストクリティーク,用例から字義を帰納する厳密さ、日本語文法発見の論理性、にもかかわらず古伝承の記載をことごとく信じるという極端な主観的独断的思考が同一人格に並存したこと。「もし皇国の説を信用すとならば,他国の説は論もなく非なれば,少しも心をかくべきにあらず」=答問録,(宣長自身も問題が、「信用」=信仰するか否かにかかっていることを認識していた!)それは絶対信仰の立場であった。村岡典嗣は、明治時代に日本文学史を書いたアストンが、宣長のこの矛盾を「不合理故にわれ信ず」と評したと伝えている。宣長が、日本の神は体言で実物の神、中国の神は用言で神霊不可測なる道をいう作用概念とした(=答問録)のはその延長線上の無理である。

 

4 「玉くしげ」応用篇・「秘本玉くしげ」原理篇=古道と治道との接点

国学的世界像の根幹をなす論点。

人は死後どうなるかに,ほとんど関心を払わない。死すれば善人も悪人も黄泉の国へ行く。

きたなく悪しきところで,死ぬことは悲しい。そう古事記に書いてある。それだけ。すべては神の御所為みしごと、人力の及ぶところにあらず、安心の理屈はない。

だから「少々国のために悪しき事でも、改めたい事をにわかに除き改めんとはしたもうまじきなり」=改革はいけない、これが古道論と治道論との接点をなす命題であった。

しかし「極意のところは人力の及ぶところにあらず」では人間の主体性はどうなるのか。そこに「幽事」=神のなしたもう御所為=大国主命が担当と、「顕事」=世人の行う事業・人事=頂点は天皇が行う政まつりごとであって、政の下部機構として臣下の身分に応じた「顕事」があると説いた。

国譲り神話に発する世界像であるが,大国主命とマガツビ神との関係は古事記の記載になく、マガツビの悪は荒びから生ずる結果で、アマテラスの善と対応していない。吉凶禍福は神々の力関係で決るという,多神教的アナーキイともいうべき世界であって,支配するのは「不可測の神意」、無理な解釈で神学的整合性はない。

神は人で人のように働くが、人は人形で神意に支配されて人形のように手足があって働くだけ。神意に対する絶対受動性が,現状容認の態度を生み出す。

 

木下説 古道論における神絶対主義・神につながる天皇統治国家思想が、人の一切の行動を神・上が支配する構造を生みだし、超保守主義政治思想という奇形児を生んでしまった。神主権が天皇主権に連なり,人民無主権というありがたくない国家思想を生んでしまった。これでは皇國の民は救われない。宣長神学の悲劇的帰結であった。

宣長理論は,神仏習合思想以来仏教に理論的主導権を握られ、もちろん儒教に対抗するすべもなく、しかしなんとか理論的整備を行うべく模索していた神道に、仏教・儒教に対するかつてない反撃の武器を与えた。時代はかつて日本の師であった中国が,阿片戦争で西洋に敗れ、その西洋が日本に開国を迫る危機に向かっていた。その危機における日本のアイデンティティーとして宣長国学が流行したのではないか。松本滋氏は宣長個人のアイデンティティーを分析したが、宣長国学自身が,後進国日本のアイデンティティーとなって志士たちを奮い立たせ国民を団結させ、明治維新や富国強兵国家建設の原動力となったのではないか。

宣長には飢饉と農民一揆の時代にもかかわらず,現状を変えようとする気持ちはなく,ただ自己の神学に忠実な世界を描いた。

 

真淵は「国意考」の結びで、「もし上に、昔はよかったという人が出て,世直しをしようとするなら,十年二十年もしないで世はよくなる。上の人の心次第で世は移る」といった。宣長との差をみるべきである。

 

5 非政治性と超政治性のループ――「かにもかくにも」の論理

石川淳氏はその本居宣長・中央公論社の解説で、「すでにして宣長神々の世界に入る。そこに深入りしただけ,人間の世界からは遠ざかったわけであろうに、この宣長の孤独な心を人界の政治思想なんぞの枠におしあてようとするのは,それこそ後世のあさはかな“おもいはかり”の一種にすぎまい」といっている。

しかし問題の核心は,宣長の心的態度にある現実無関心が根本である。古道にあれだけ熱心であった宣長の治道に対するあの冷淡さ。宣長国学の特質は、その非政治性にあった。

同じ真淵の門下であった村田春海は、「答和泉和麻呂書」で宣長を批判し「記紀の神代の事項を、しいて道を説たるものというのは,附会の説だ。この二書のどこに君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友の道を説いてあるか。どこに政を行い国を治める模範になることが載せてあるか」と記した。すでに宣長は死んでいたので反論はなかったが、この批判は宣長古道論に治世制度論としての「道」が欠落している=非政治性=根本的なノンポリ性という欠点を鋭く突いている。「道」とは、中島広足がいうように、上古における上下和合の習俗のことであり、それ以上のものではなかった。

しかし幕末,江戸思想界の一大勢力に成長した国学のノンポリ性は、重大な転機を迎えた。政治激動の季節との際会である。

渡邊浩氏「道と雅び」は、天誅組の伴林光平と、井伊大老のブレインで尊皇攘夷派の弾圧にあたった長野義言について、その非政治的でもあり・極度に政治的でもあり・勤皇でもあり・佐幕でもありうるという“いかがしいまでにあいまい”な性格を指摘している。政治死をとげたのは国学者に限らないが、国学者はなぜ死に急ぐのか。

伴信友は,秀吉の朝鮮出兵を支持しないにもかかわらず、「ことわりはとまれかくまれ」といって「国のみいつを外国に輝かせた功」を認め、「かにもかくにも」ただ上の命令に服することが皇国の大道であることを説いた。

皇室はこのころ,三万石をあてがわれていたに過ぎない。しかし信友にとって皇室は、ただ上古の理想的な世のありかたの根源という一点でさえあればよかった。そこに現実無関心と尚古的関心との無矛盾的存在という、宣長国学の遺産がそのまま受け継がれている。

幕末になると,上とは皇室か幕府か、皇室が価値源泉として復活の気配を示し始めたことが尊王か佐幕かという新たな問題を提起した。皇室を選ぶか現行制度を重視するか。どちらの立場もあり得た。

国学者達は,政治的ノンポリそのままに、様々な政治参加を余儀なくされた。政治的思考を欠いたままで政治判断を余儀なくされた。そのとき、目的合理性を無視して,大義への一体感・民族的使命感・美学的情念などの価値観が動員された。「超政治的なもの」――自己の心情的充足のためという非政治的目的で,無意識的に政治を手段化・自己目的化することさえ行われた。

このメタ・ポリ性の悲喜劇的性格は、主観的な献身的服務感と分かちがたく一体化し、かつての現実への無関心が一挙に過剰な関心に転じ,ノンポリがメタポリとなり、政治の目的合理性が非合理的情念に圧倒され、国学思想の非合理性と政治とが初めてぶつかり合い、歴史が悲劇となった。

「かにもかくにも」の論理が,理念としての上へのベクトルを見失い、めいめいが上と信じるものへの情念と変質したとき、思想は威猛高=ヴォルテッジの問題となった。

国学的思考は滅びて久しいかもしれないが,国学的心性の遺伝子はいまだに残っている。政治的なものといかに折り合いをつけていくのか、それは日本の精神史上の古くて新しい問題であろう。

 

木下説 宣長国学は、危機の時代におけるナショナル・アイデンティティーとなったのではないか。だから危機が続いている間は超国家主義となってその非合理性にもかかわらず世論をリードし、その非合理性の故に国策を誤ってしまった。維新期において、攘夷・開国と尊王問題との処理において,初期における非現実的な尊皇攘夷論を開国論へ切り替え得たのは幕府側の現実主義と,薩長における攘夷論の政策の現実的敗北によってであった。その現実感覚は維新直後の廃仏毀釈・国学者登用をすばやく転換したことにも現れたが、ナショナル・アイデンティティーの一点について、宣長国学の非合理性を払拭できなかったことが、昭和敗戦に至る致命傷となった。この点については,別に考察する必要がある。

なお、宣長国学と日本的心情との関係については、感想と意見10、「日本の構造改革と日本的心情」において若干の考察を試みた。        2001.2.8