和辻哲郎「尊王思想とその伝統」1943、全集141962 (上)

            2003.2.22−3.2―09.1.13  木下秀人

(上)

はじめに

序言

前編 尊王思想の淵源

1 宗教的権威による国民的統一

2 上代における神の意義

3 尊王の道   祭祀的統一、善悪・清さ汚さ、慈愛の尊重

後編 尊王思想の伝統

1 奈良時代における「明神」の思想

2 平安時代における皇室尊崇

3 鎌倉時代の神国思想   愚管抄の国体論  平家物語の神国思想と皇室尊重

    吾妻鏡・承久軍物語・承久兵乱記  伊勢神道

4 吉野時代の尊王思想   神皇正統記  太平記  

(中)

5 室町時代における皇室憧憬

6 江戸時代前期の儒学者における尊王思想

7 江戸時代中期の国学者における尊王思想

(下)

8 江戸時代末期の勤王論における尊王思想

おわりに  09.1.13追記

 

(上)

はじめに

和辻哲郎氏には別に「日本倫理思想史」上下1952がある。古川哲史氏の解説によると、「尊王思想とその伝統」は、倫理思想史の第1巻として構想されたが、敗戦により構想を改めた。しかし戦中の尊王思想の叙述は、戦後の思想史に殆どそのまま取り入れられているという。

今、本居宣長の古道説がなぜあんなに偏ってしまったのかを点検しているが、その原因はそれまでの皇国思想の伝統を踏まえているからではないか。ナショナリズムを外圧とそれに対する反応と規定するとして、日本におけるその歴史研究が必要ではないか。とりあえず本書を通読・要約する所以である。

序言

わが国倫理思想の根幹をなす尊王思想の歴史的概観をする。尊王思想はわが国民の生活の根強い基調である。この伝統の偉大さを古典として一般に知られているものを使って力説する。

 

前編 尊王思想の淵源

1 宗教的権威による国民的統一

 日本における原始社会=縄文土器の文化は,農耕技術の流入によって大きく変化し集落は大規模となり、地域の統一状態=部族や氏族の範囲を越えた社会組織=国民的団結の段階に達した。金石併用の弥生式土器と銅器の時代である。銅鐸・銅鏡・祭儀的な巨大な銅鉾が広範囲に出土していて、宗教的に同種の文化圏の存在がみられる。

 古墳から発掘される鏡・勾玉・剣の崇拝=祭り事の統一は、精神的共同体としての民族的全体性の自覚にほかならない。

 魏志倭人伝は、古事記・日本書記よりも300年古い三世紀前半の渡来人の見聞の記録と推定される。倭人は100余国に分かれていたが、邪馬台国の女王卑弥呼によって29国が統治されていた。和辻氏は女王の統治する国は薩摩・大和・筑紫=中部地方以西の全地域に渡るかもしれないと推測している。鬼道をこととして衆を惑わす卑弥呼を「日御子」とする説もある。女王による国家的統一は宗教的権威のもとになされた。

 魏志倭人伝は日本の古墳時代の記録で,それより古い漢書には「楽浪海中に倭人あり分かれて百余国をなす」とあり、これが魏志の記事のもとになった。これ以外の記録はない。

 記紀に記録された神話伝説には、もっと古い時代の記憶が含まれている。記紀の編纂は漢書のそれより600年以上遅れている。しかし伝説化は忘却ではない。神話伝説は一定の時代に定位すべき明白な主題を持っている。その主題とは、宗教的権威が成立し、国家が統一される物語であり、国土の統治者がいかに定められ続いてきたかの物語である。

 記紀の物語には矛盾がある。神々が国土とともに統治者を生み出したのなら、他の統治者が立つはずがない。しかし神統の伝えられ方はいつも神の意思によらざる統治者の排除(二度=スサノオと大国主)であって、それは物語の奥底に、構想で左右できない基礎があることを推測させる。左右できない基礎とは、物語の核としての史実である。

 こうして古墳時代の鏡・玉・剣を尊崇する文化が全国に広まり、地方において統率の地位に立つものは同じように鏡・玉・剣を尊崇し、大和朝廷の神聖な権威が分与されて全国に行き渡った。地方には地方の統率者がいた。直接に天皇の下に立ったのではない。

 

2 上代における神の意義

 万葉の歌人は大君を神と歌った。「あきつみかみ=明神・現御神と大八島しらしめす天皇」と宣命詔勅に用いられている。この神は超自然的超人間的な力を振るう神ではない。

@ 天皇は天つ神の御子として神聖な権威を担っている神である。

A 神聖性の背後には皇祖神,天つ神としての神があるが超人間的ではない。

B 雨の神・風の神のような自然人生を支配する神は神聖性において優れていない。

C ただ名のみ掲げられて祭られる神=祭りを要求する祟りの神。

 記紀にはこれらの区別がある。皇祖神たる天照大神は、祭られる神であるとともに祭る神でもある。天つ神の背後にはもう神々はいない。祭祀も祭祀を司るものも、無限に深い神秘の発現し来る通路として神聖性を帯びてくる。その神聖性の故に神々としてあがめられる。究極者を神とする思想はない。神々の根源は神聖なる「無」である。

 絶対者を一定の神として対象化することは絶対者を限定することであるが、絶対者を無限に流動する神聖性の母胎として無限定にとどめたところに,上代信仰の素直な,私のない,天真の大きさがある。それはやがてあらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、われわれの宗教史の特殊な性格を形成する。こうして多数の神々の祭祀が相互に対抗せず、独立を損なうことなく、鏡・玉・剣の崇拝に統一されながら生き続けていった。

 神代史の主題は「祭事の統一」であった。しかし皇祖神の崇拝を唯一の祭事とせず、それ以外の神々を現御神が祭ることが皇祖神の権威を強めることになった。

 神々は系譜上に位置付けられたが、血縁的統一は単なる支配・服従の関係に止まらず、「統一される神」が「統一する神」によって権威付けられる事を意味した。あらゆる神々とその祭祀が、皇祖神を中心として統一的に組織された。全国的な団結の意識が神々の血縁として自覚させられた。地方的な部族の団体は祭事の統一によって国民的な団結を自覚させられた。祭祀そのものが全体性を自覚する一つの形態に他ならなかった。皇祖神・現御神が民族的全体を表現することは,民族的全体を媒介にして絶対的全体を表現することに他ならない。そこにもっとも究極的な全体の表現を見る。これらは絶対的全体が、特定の神として限定されなかったから可能になった。こうして祭り事の統一者としての天皇が現御神として理解され存在することになった。

 

3 尊王の道

 こうして「祭祀的統一」としての「国民」が成立した。単なる生活共同体ではなく精神的共同体であり、地方的団体を統一した高次の団体であった。そこにこのような社会構造の自覚として,天皇の神聖な権威を承認し,それへの貴族を中心とする倫理思想が現れてくる。その中心にあるものが尊王の道であった。

 倫理思想は祭祀的な統一の地盤から出ていて、団結の力は宗教的であったから,治者と被治者との間に抑圧的支配やそれに対する屈従・反感などがあったとは見えない。戦争はあったが,敗者や捕虜が奴隷にさせられた証拠はない。「権力による支配」でなく「権威による統率」なのであった。村落の統一も国民の統一も、外からの支配でなく内での統率であった。部民の統率者は貴族として朝廷の祭り事に被統率者として参加する。祭事をつかさどる天皇は統率者の統率者として、すべての統率者の権威を集めた地位にある。こうして統一された天皇の神聖な権威は,部の長のみならずその下の民衆一般に及ぶ。

 この地盤から生まれた倫理思想が尊王思想である。唯一の手がかりである記紀の物語は,天皇の神聖な権威が何に由来し、いかに伝えられたかを説明する。「国土」生産の物語、高天原統治についての「うけひ」の物語、大八島統治についての天孫降臨の物語がそれで、天皇の神聖性を現わすためにのみ「神代史」が物語られた。民族の神話としては世界に類がない。神代史は「尊王の道の自覚形態」なのであって、神代史によって尊王の道が樹立されたのではない。天皇の権威が先で神代史はあと、神代史を歴史として認めないとしても天皇の権威は倒れない。神代史はこの神聖な根源に対する解釈として,無限には背後のものを媒介する神聖な通路(=固定した究極者でなく無限に通ずる道)を顕わにした。

 記紀の物語は,皇統が天つ日嗣として神聖であることを示すのであって、この伝統を担っている現人をそのまま神秘化するのではない。天皇の人間性を示す恋愛・復讐談も載っている。現人でありつつ、一系であり万世不易の皇統につながることによって神聖な権威を得て、絶対的全体性の表現者となっている。神代史はそれを物語全体で説き明かそうとした。天孫降臨と神勅はその一部である。

@ 神代史における善悪と清さ汚さという価値の関係。ヨシ・アシともウルワシキ・キタナキとも読まれる。ヨシ・アシは吉凶とも書かれる。悪という漢字はマガ=禍を表すにも使われ、アシという日本語を媒介にして悪と凶が結びつき、悪という漢字を媒介にしてアシとマガとが結びつく。こうして人の生を利する一切のものはヨキモノで善。生を脅かすものはアシキモノで悪。幸福はヨキモノで善、災禍はアシキモノで悪。

 この善悪観は一つの道徳思想であって、本居宣長は善心悪心をウルワシキ心キタナキ心と読ませた。心は善や利福を欲するが欲し方にウルワシサとキタナサがあると解した。アシがキタナシであるとすると,ヨキ心はキヨキ心=利福を求める心ではなくなる。(それでは具合が悪い)こうして善悪は吉凶禍福でなくアカキ心キタナキ心という道義的意味を表すことになった。祭事による宗教的団結は感情融合的な共同体であり、「私」を抱くものは排除さるべきものとして捉えられ、私心を没して全体に帰依する心境がキヨキアカキ心として把握された。

 全体の権威に帰依するか叛くかは結局、皇祖神の権威に帰依するか否かに帰着する。それが倫理の原則とすれば清さ汚さという価値はそれを表し、天皇の神聖な権威への帰依=尊王の道が清明心として、「私」を捨てて「公」に殉ずるヨキ心として把握された。清さの価値が「私」を去ること,それは私的利害の放棄・自己を空しくすること・生命への恬淡・勇気などとして記紀の主要人物のすぐれた性格として描かれた。後の武士道にはその影響が認められる。

A 第二にあげるべきは「慈愛の尊重」である。祭政一致社会における慈愛の性格を決定するものは頂点に立つ神の性格である。モーゼを律するヤーべの神の特性はねたみ・復讐・正義であって愛の神ではない。一人子キリストが十字架に架けられ甦って初めて愛の神・救世主となる。

 これに対しわが上代の神々は「和やかな心情」「しとやかな情愛」を特性とする。スサノオや大国主の物語,スサノオの乱行に寛容であったアマテラスの話。アマテラスには専制君主のような振るまいがない。すべてを活かし慈しむ太陽の神である。神々において人間の慈愛は神化されている。神を尊ぶことは自愛を尊重すること、部民の族長に対する関係は畏怖でなく敬慕であり,族長は部民に抑圧でなく慈愛で接する。天皇に対する帰依も和やかな心情としとやかな情愛に充たされたもので、祭事は仁政として理解された。

 戦争も殲滅でなく服従によって終わり、服従した敵は奴隷とはされなかった。降伏した新羅王は殺されなかった。

B 第三は社会的正義の尊重である。正義の神は必ずしも愛の神ではなく、人間の愛憎はあらゆる偏頗・不正・争闘の原因となってきたが、慈愛は真の慈愛であるためには無私の態度を必要とする。無私の自愛が共同体の成員を生かし協和と公正を生み出す。それは社会的正義なのである。高天原で乱暴を働いたスサノオによってアマテラスは私を没して岩戸にかくれ、スサノオは八百万の神の会議で公に罰せられた。正義は貫徹された。

 専制君主は「私」によって統治し罰する。唯一神は正義の神、自己の意思によって統治し賞罰する。しかし神代史の神は専制君主ではない。「私」をもって世界を支配しようとせず,私を捨て公の立場に立ち正義を実現しようとする。

 神代史は天皇統治の正しさを、神聖な権威=全体的意思の統一、人をその本来性に帰らしめる統治=「知らす」という概念によって現わした。尊王の道は正義を尊ぶ道、権威による政治が正義の実現としての人倫的国家の構成まで展開した。

 以上@ABの価値は歴史の展開において死滅することなく尊王の道とともに受け継がれ、消しがたい伝統として生き続けた。

 

後編 尊王思想の伝統

1 奈良時代における「明神アキツミカミ」の思想

 尊王の道は天皇の祭事の総覧としての国民的統一の地盤から自覚されてきた。それは記紀に記録されているが、記紀は天皇の政治の総覧としての国家統一が打ち建てられた奈良時代に編纂されたものである。それ以前の大化改新前後の国家体制の創成は、明白な国法の規定として客観化されている。

大化改新直後の詔勅には、「天つ神の命のままに国々を治める」・「明神として天が下を治めす」といった表現が頻発する。天皇を「現つ神」として尊崇する=天皇の神聖性はここに法的表現を得た。さらに「天つ日嗣高御座の業」=文武天皇即位、「治め賜い慈び賜い」=聖武天皇、「公民を恵び賜い撫で賜わむ」=文武天皇、「明き淨き直き誠の心」「清直心」などの言葉が、統治する心と扶翼する心のあり方を示している。

(仏教帰依を宣長批判) 

 奈良朝は仏教に帰依したが、聖武天皇が盧舎那佛に対し「三宝の奴と仕え奉る天皇」と宣命に記し、宣長はこれを「あまりにあさましくかなしく……心あらん人は目をふたぎて過すべくなむ」と激語した。しかし天皇が明神として統治する伝統に新たに「三宝への帰依」が加わったのであって、聖徳太子が「篤く三宝を敬へ」と憲法二条に記したのと変わらない。宣長が仏教排斥思想でこれをあさましいと見たのはもっともだが、歴史的事実を動かすことはできない。道鏡の出現で宣長は「神国にかけてもあるべきことにあらず……仏書のみだり説に欺かれたまい」というが、仏教と皇室の長い関係をどう見るのであろう。

(木下説 これは宣長がおかしい。彼の偏頗な皇国思想を遠慮なく批判すべきである。)

 万葉集にも「あきつかみ」思想は、大化の改新の完成者天武天皇時代の歌に見られる。「皇は神にしませば」はむしろ決まり文句で、時代の意識を表している。記紀編纂の20余年前に同じ精神が歌人人麻呂を動かしていた。奈良時代に現神思想は、法的のみならず文芸的表現をもえていた。

 

2 平安時代における皇室尊崇

 奈良時代の最後に桓武天皇の即位宣命として結晶した法式は,その後1世紀わずかの変更だけで踏襲された。天智天皇の定めた法による統治(=皇位継承順位を明確化した)を力説したこの法式は、高天原以来の皇位の話は含まれないが、「現神といます天皇」思想は継承され、臣の扶翼は「忠明之誠」(後に「正直の心」になった)をもってなさるべきことが要請された。桓武のときは「明神」は新たに即位した桓武天皇で、「現神」は譲位した光仁天皇と使い分けられたが、後には譲位した天皇は「現神」は除かれた。

 六国史の最後の三代実録の編纂には藤原時平と並んで菅原道真が当たった。平安遷都後百年たって、徐々に形成された新しい文化がこの時代に明白に形を現わした。最澄・空海による仏教の消化、儒家による漢詩文の消化、仮名文字の発達,和歌の新様式の創成、物語文学の創成、古今集や延喜格式の勅撰があった。

 新しい文化の先頭にあったのは皇室・宮廷であった。その神聖な権威が文化の源泉になり、直接現神の思想に関わらない和歌や物語が、その底に皇室尊崇に通ずるものを感じさせる伝統が成立した。宣長はこれらの物語を尊皇へのよき手引きとして推奨した。道真伝説はこの時代の尊王心を、民衆の同情とともによく表現した。復讐の天神は天皇から正一位太政大臣を贈られて神慮が平らいだ神であった。

 寛平延喜の時代は、藤原氏の専権・栄華が基礎付けられた時代であった。しかし専権は皇室を軽んずることによってはなく、皇室の神聖な権威を頭に頂くことによって可能となった。奈良朝以来、藤原氏は天皇の外戚となり血縁関係によって皇位と結びつくことに努力を傾注した。その努力が平安中期の華やかな宮廷生活の有力な契機であった。

 源氏物語は、延喜時代の宮廷生活をモデルに装った作品だが、当時は写実とは受け取られず,描き出されたのは藤原氏の栄華ではなく,源氏姓の権勢を持たない皇室出の皇子。臣下となったが優美・気品・才能・情愛において完璧で、その運命に人生の意義を描き出そうとした。作者は暗に藤原氏の権勢を貶め,栄誉の源泉を皇室に帰している。 宣長はこの物語から「もののあわれ」という概念を抽出し、皇室を冒涜するとは見なかった。

 枕草子は藤原氏全盛時代の宮廷生活の写生で、皇室尊崇も源氏のように純粋には表されない。しかし全体を通観すると、「みやび」として把握される文化の中枢が皇室にあることを、中宮定子の力量の描写において示している。

 道長時代を頂点として藤原氏の専権は弱まっていった。平安末期は院政や武力が力を持った時代であった。だから栄華物語も大鏡も、藤原氏の過ぎ去った栄華の回顧、しかも長者の伝記ではなくその女の後宮での活動の叙述であって,皇位は道長一門の栄華が何によって開けたかを明らかにするために言及される。全体は皇室尊崇であることは明らかである。

 

3 鎌倉時代の神国思想

 鎌倉時代は大化の改新による国家体制が覆され、武士社会が全国に押し広められた時代である。その変革の胎動は平安中期からあって、鎌倉幕府創設で頂点に達した。その過程で発生した倫理思想は献身の道徳で考察さるべきであるが、社会変動に刺激されて歴史的関心が高まり、歴史叙述や史実を素材とする軍記物が制作され、その中に尊王思想はいかに記されているだろうか。

 歴史的関心が高まった結果,鎌倉時代の歴史書は平安時代を超えて遠い昔までさかのぼった。大鏡を引き継いだという「水鏡」は神武天皇以来大鏡までの皇統を書き継いだ。しかし神代史は「言葉にするにははばかり多く」省略した。歴史理論書というべき「愚管抄」は、承久の乱を起こそうとする後鳥羽上皇を諌める為に書かれたという。神武以来84代の変遷を貫く道理を見出そうとしたものだが、「神の御代は知らず」として皇位の神聖な所以は説こうとしなかったが、慈円にとって大神宮・鹿島大明神・八幡大菩薩などは、神代以来国史の変遷を支配している「冥の道理」に他ならなかった。大きな歴史的事件は「宗廟の神の御心」によって起こるのであり「神明の御はからい」にたがうものは神罰を受ける。神々は道理の根源だからその神の歴史を語ることは、歴史が道理に従って起こる限り慈円にはできなかった。

(愚管抄の国体論)

 和辻氏は引用していないが、次のような「国体」についての文章がある。要約すると

@神国,伊勢大神宮の神・八幡大菩薩・鹿島春日の神など、

A神代から続く一系の国王、

B輔弼者(御うしろみ)を下において国政を行う。

「日本国の習いは国王種姓の人ならぬ筋を国王にはすまじと,神の代より定めたる国也。

その中にはまた同じくはよからんをと願うは、また世の習い也。それに必しもわれからの手ごみにめでたくおわします事のかたければ、御うしろみを用いて大臣という臣下をなして、仰せ合せつつ世をば行えて定めつるなり。」

 

 この時代の歴史書が神々と皇統を直接結びつけるのをはばかったのは、平安時代に藤原氏が皇室を利用し、外戚関係を作ることによって権勢を得た結果、神聖な皇室が人間に近しいものとなり、それまで皇位と一体であった神々が、「冥」の力として皇位から引き離されてしまったからである。神代史における皇位と神との密接な関係は緩められた。実力で権勢を獲得した武士は,藤原氏のように皇室を利用しようとはしなかった。皇室の権威は遠い昔からの伝統として理解され尊重された。

 こうして引き離された神々と皇室とを再び密接に連関させることはこの時代の歴史家の力に余った。平家物語に神国思想はいかに叙述されたか。

(平家物語の神国思想と皇室尊重)

 重盛が清盛に諫言する場、「さすが我朝は……天照大神の御子孫、国の主として、天児屋根命の末、朝政を司り給いし以来、太政大臣の位にいる人の,甲冑をよろう事礼儀に背くにあらずや。」「今これらの莫大のご恩を忘れて、法皇を傾け参らせ給わん事、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候いなんず。日本は是神国也.神は非礼を受け給わず。」

 皇室に対する強力の圧迫が神慮に背く,何故かといえば皇統は神明の意思によって伝えられているからであろう。

 義仲の近江入り前の大神宮への行幸、「大神宮は高天原より天下らせ給いしを、……大宮柱たて祝い初め奉て以来、日本六十余州、3750余社の大小の神祇冥道の中には無双也。されども代々の帝臨幸はなかりしに、奈良の帝の御時……広嗣追討せられし時、初めて大神宮へ行幸なりけるとかや」

 謀反人が国家を危うくした時のみ大神宮への行幸があった。義仲は悪者にされているが、ついで義仲に平家討伐理由は、平家が皇位を冒涜したからといわせ、やがて三種の神器を擁しての「主上都落ち」が語られる。

 都入りした義仲は、部下の略奪をかばって法皇と衝突し、押し込め、家の子郎等を集めていう。

「そもそも義仲、一天の君に向い奉って軍には勝ちぬ。主上にや成まし、法皇にや成まし。主上に成ろうと思えども,童にならむも然るべからず。法皇に成ろうと思えども,法師に成んもおかしかるべし。よしよしさらば関白になろう。」

 義仲の京都占領前に平家の手を脱出した法皇は、平家に「主上並びに三種の神器を都へ返入れ奉るべき」院宣を発するがうまく行かない。結局剣は海中に失われて、玉と鏡のみが都へ帰る。

(吾妻鏡・承久軍物語・承久兵乱記)

 吾妻鏡など鎌倉幕府関係の史書で問題となるのは、幕府軍が都に攻め上って鳥羽上皇軍を打ち破り、上皇を隠岐に流した「承久の乱」をいかに描いたか。幕府方に尊王の意識がなかったのか。吾妻鏡はそれを、君側の逆臣たちの讒言のせいにしている。したがって討伐目標も逆臣たちで、皇室に刃向かうことは認めていない。尼将軍政子は倒幕の宣旨は「不忠の讒臣」の企てで真の綸旨とは認めず、義時も「君の御為に忠を尽くし,未だ不義なし。誤りなくして勅勘を蒙る……朝敵となりぬる身の片時も猶予すべきにあらず」。

 皇室に向かって弓を引こうという意思はないと記述されている。

(伊勢神道)

 外宮の神官が、「神道五部書」なる書物を作り古来の伝書である如く主張して、外宮の主祭神である豊受皇太神を天御中主神(さらには国常立尊・大元神とまでいった)であると主張し、内宮に対する地位の向上を企図した。この書物は,後に吉見幸和によって偽書であることが証明されたが、生ける伊勢神宮崇拝に即して、天孫降臨の神勅や三種の神器の意義を再び人々の心に甦らせた。

 五部書は文永・弘安=蒙古襲来の頃に作られたとされたが、伊勢信仰の復興に加えて伊勢神宮の「教義」ともいうべきものを作り出す効果をもたらした。御鎮座伝記・宝基本紀・倭姫命世記の三書に共通する倭姫命の「皇太神託宣」中の

「神垂、祈祷をもって先となし、冥加、正直をもって本となす」

という文章で、「正直」をもって天照大神の御心とする思想がはっきり樹立された。

 五部書は「正直」を空から創造したのではない。平安初期の宣命は「正直の心」を繰り返しており、奈良時代の宣命の「明淨心」、神代史の「清明心」に連なっている。「正直」は神代史の精神を一語に要約している。さらにこの偽書の作成者は、託宣の最後に

「大日本国は神国なり。神明の加護によって国家の安全を得,国家の尊崇によって神明の霊威を増す」

と書きこんだ。

 

4 吉野時代の尊王思想

(神皇正統記)

 北畠親房は吉野で後醍醐天皇没後に完成させたこの本を「天地ひらけしの初」の神統から始めた。伊勢神道の度会家行と親しく、神道五部書の影響も強く受けた。だから

「大日本は神国なり。@天祖はじめて基を開き,日神ながく統を伝え給う。Aわが国のみこの事あり。異朝にはそのたぐいなし。Bこの故に神国というなり。」

と書き出した。

「ただわが国のみ、天地開けし初めより……日嗣を受け給うことよこしまならず,一種姓の中におきても、自ずから傍より伝え給いしすら,なお正に帰る道ありてぞ、たもちましましける。」

 皇位継承は正統であったが,正統の中に傍と正を認め,正に帰る道があることを主張した。しかし皇統における傍正の別は「兄の継承」でまとめられなかったから、この本の中心的意義は前半にある。親房の尊王思想は「太平記」にも現れている。

(太平記)

 この本は歴史物語で思想書ではないが、建武中興という皇室が武士の専権を打破しようとして敗れた話だから、読者は必然に皇室への強い忠誠の情をあおりたてられる。しかも読者は一般大衆であった。江戸時代の仮名手本忠臣蔵が太平記の知識を予想するものだった事はその証拠で、江戸時代末期の尊王思想への刺激としては神皇正統記よりこの方が優っている。 

 特に目立つのは「楠公崇拝」で、江戸時代の尊王思想は楠公崇拝と密接に結びついていて、作者は楠公において尊王思想の具現者を描き出した。

 倒幕に加わった武士は必ずしも尊王家ではなかった。建武中興の業が崩れようとする時,危殆に瀕した聖運を支えるものとして正成が登場、高氏を追い落とすがやがて湊川で死を迎える。彼の死は、聖運の傾くしるしとともに、「七生報国」尊王思想の新しい甦りを意味する。

                      ( 上)おわり