和辻哲郎「尊王思想とその伝統」1943、全集141962 (中)

            2003.2.22−3.2―09.1.13  木下秀人

(中)

5 室町時代における皇室憧憬  一条兼良、吉田兼倶、謡曲、八幡宮御縁、熊野権現、

   伊勢参宮

6 江戸時代前期の儒学者における尊王思想  藤原惺窩、林羅山、中江藤樹、山崎闇斎、

   熊沢蕃山、山鹿素行、水戸光圀、新井白石

7 江戸時代中期の国学者における尊王思想  宋学、伊藤仁斎、荻生徂徠、契沖、

荷田春満、賀茂真淵、本居宣長

 

(中)

5 室町時代における皇室憧憬

 下克上の潮が応仁の大乱をもたらし、皇室の勢いは甚だしく衰えた。しかし下克上は民衆の力を解放し、文化の中心を民衆に移し、民衆に尊皇思想を自覚させた。上流階級では一条兼良、吉田兼倶が挙げられる。

(一条兼良)

 応仁の乱の20年前に関白太政大臣で,歴代関白中でもっとも学才あり、程朱の学に明るく仏教哲学にも通じ視野の広い人だった。神代史を注した「日本紀纂疏」において、神儒佛の三教は同一の真理を目指しているなどと、哲学思想とわが国の神明との結合に努めた。 

 書紀冒頭の「混沌」は唯識哲学の阿頼耶識または一心と同一であり、宋学でいう理気の混融に他ならない。この究極の原理が「神」とも呼ばれるのであって,神代史の神々はこの原理の展開にほかならぬ。「一心」と「神」と儒教の「道」の三者が三にして一,一にして三なのである。三種の神器はこの真理を示す(これは付会)。要するに神代史の中に仏教哲学や宋学の形而上学を読み込む事に他ならなかった。親房のような「神国」に対する情熱はなく、神代史を重んじてはいるが,尊皇思想を力説はしなかった。

 将軍義尚のために書いた「樵談治要」に「わが国は神国なり」という標語を掲げ、神を敬うべき事を説いたが、神々と天皇との連関は主張せず、敬神の心構えだけを説き、将軍には神社の修造や祭祀の興行だけを説いた。兼良は,尊王思想をあいまいにし,現神思想を避け、ただ神道を哲学的に深めるのみだった。

江戸時代の富永仲基の「出定後語」、儒佛道三教の教えは結局善を成すに尽きるという説につながっている。

(吉田兼倶)

 吉田兼倶は兼良の33歳下、応仁の乱の時は33歳であり、本姓は占部で学者の家であった。兼倶は「唯一神道」を唱導した。その著「神道大意」は九代の祖が著した「神道由来記」の祖述と称したが、ことごとく彼自身の作に間違いない。「由来記」にいわく

「神とは常の神にあらず、天地に先てる神をいう。道は常の道にあらず,乾坤に超たる道をいう。神性動かずして動き,霊体無形にして形す。是れ即ち不測の神体なり。天地に有ては神といい,万物に有ては霊といい、人倫に有ては心という。心は則ち神明の舎,混沌の宮なり。混沌とは……心の根元なり。心とは一神の本、一神とはわが国常立尊をいう。国常立尊とは無形の形,無名の名、これを虚無大元尊神と名づく。」

 混沌―心―虚無大元尊という把握の仕方は兼良の解釈によく似ているが、この立場も虚無大元尊と現神との関係を視界の外に追いやってしまう。唯一神道は必ずしも尊王思想を含まない。唯一神道は神道を「儒佛の宗、万法源」と説いて、諸々の神社の神道や仏教と習合した神道から自己を区別し、神代史の伝統を踏まえ神社の正しい由緒に基いてわが国の神の絶対性を主張する。だから神道純化運動という意義はあったが、思想内容は三教混合であって純粋ではない。兼倶達の目指したのは純化徹底ではなく、二十二社・三十番神など正統的な神社への崇敬鼓吹,仏教に対し神道信仰へ人を引きつけようというにあり、尊王思想は中心ではなかった。これも兼良と同じで、それが時代の上層知識層の実体であった。しかし民衆の意識は違っていた。

(謡曲は民衆意識を表現)

 謡曲によって、いかなる世界が民衆に愛好されたかが知られる。謡曲は武士階級のものと考えられやすいが、猿楽の能は社寺と民衆によって平安時代から催され、鎌倉時代には社寺の営繕費用獲得のため勧進能が興行され、見物料が払われていた。民衆の嗜好が能楽芸術を発展させ,将軍の愛護をもたらしたのであってその逆ではない。

 「衆人の愛敬を以って一座建立の寿福とする」「いかなる田舎山里の片ほとりにても、その心を受けて、所の風儀を一大事にかけて、芸をせし」という観阿弥の言葉を世阿弥は「風姿花伝,第五奥義賛嘆云」に書きつけている。

 尊王思想といえば、神代史における、天岩戸前のウズメノミコトの舞が猿楽の始まりに擬せられていることも付け加えよう。さらに演能の初めに置かれる「脇能物」の世界は明白に尊王思想であって,「神の御代」や「君が代」「神徳」が讃えられて、天皇の御代として世界を作り出し、その天皇を神と一なるものとして把握している。

 国民も常に一つの全体として捉えられ、「治まるや,国富み民は豊かにて……四方に道ある関の戸の、秋津島根や」「道ある御代ぞめでたき」と、一君万民の国が讃えられる。

(室町時代の物語)

 民間の伝説口碑を筆録した程度で、文芸作品としての価値は乏しいが、民衆思想を知るにはよい資料である。主体は神社の縁起や観音の利生といった信仰物語で、荒唐無稽な描き方であるが、作り出される世界にこの時代の色彩がうかがわれる。

 「八幡宮御縁起」は、応神天皇を八幡大菩薩とし,神功皇后の新羅征伐から男山八幡宮創設までの物語で、君が代の賛美はないが、天津日嗣の神聖な伝統は詳しく語られる。記紀にある題材は縦横に変形されて

「日本のあるじ神功皇后,先王の御本意をとげん為に,新羅百済等を攻めしたがえんとしたもう。日本国にありながら、王命にはいかで背き奉るべき、早く宣旨に従いて忠節をいたすべし。」

 神代史と同じ尊王思想が表現され、「新羅の大王は日本の犬なり」などの言葉は、村の鎮守の八幡宮の祭りとともに民衆に広がった。

 「熊野権現の本地」はインドの物語だが、マカダ国の王は「みかど」と呼ばれ、大臣・公卿・滝口に奉仕され女御・妃にかしずかれている。現実の皇室は衰微しているが、民衆的作品世界では威厳や栄華は皇室の形象によってのみ表現された。観音の熱心な信者である美しい女御が帝の寵愛を受け皇子を身ごもる。周囲の呪詛によって深山で首を切られるが、皇子は生まれ首なき母に保育される。4歳の時母の兄の祇園精舎の聖人につき、7歳の時大王の前で一切の経過を話し,位を譲られて新王となる。15歳で大王・新王・祇園精舎の聖人の3人は、女人の恐ろしい国を避け、飛車に乗って熊野にきた。 仏教説話と源氏物語の妃の話と、人間の苦しみを己に背負う神の観念との結合。

「厳島の縁起」ではいじめられ殺された皇子と妃が不老上人によって甦る。「死んで甦る神」が描かれる。妃の名は「あしびきの宮」大王の命令は「せんじ」,皇室の権威を思わせる形象が使用されている。

 これらの物語を通じての源氏物語の影響に、源氏崇拝が公卿から武士・民衆に及んでいることがみられ、「殿上人」は「天上人」,栄光あるものは皇室に絡めて語られ、そこに尊王思想の民衆への浸透を見出す。

(伊勢参宮の盛行)

 伊勢神宮は天皇が直接祭る神宮で、その他の人は皇子・妃でも勅許なくしては幣帛を捧げられなかった。しかし民衆の参拝が禁じられていたのではないらしい。鎌倉時代に庶民の参詣があった事は疑いない。私幣の禁も、頼朝が神馬・砂金・剣などを奉った事が記録されている。僧尼さえ参詣するようになり、蒙古襲来で伊勢神宮への祈願が国民的関心事となった。そのころ伊勢神道が勃興した。

 鎌倉末期には参宮現象は顕著になり、参宮者の幣物について内宮・外宮間で紛争が起こった。内宮は外宮の幣物横領を攻撃し,外宮は私幣禁断の神宮に幣物のある筈がないが,庶民の参詣・止宿は禁じられていないと主張した。これらは建武以前の事である。

 応仁の乱前後から戦国時代にかけての伊勢参宮現象は、

@武士の争い・皇室の衰微で公卿も武家も神宮への関心を失ったにもかかわらず、民衆は秩序の乱れた社会において伊勢への参宮を欲した。

Aこの時代にできあがった庶民参宮の様式が,江戸時代に盛行した「おかげまいり」の源流をなした。宝永2年1705,50日間の参詣者は362万人、明和8年1771,4か月は207万人であった。明治の尊王理論は、この民衆の自覚を地盤に生まれた。

 古来神宮は国幣で保護されてきたが、荘園の発達・武士の勃興で国幣による保護は衰え、王侯卿相・将軍家・大名などの私幣を黙認せざるを得なくなった。庶民の私幣は参詣者の止宿費名目で神官の懐に入ったとしても、神宮を維持するものは支配階級の経済力であって民衆のそれではなかった。

 ところが室町時代になると、朝廷の保護は衰え大名の奉幣も廃れ、応仁前後には殆ど期待できなくなり、替わって下級神人たる御師=御祷師が活発な活動を始め、全国の民衆と神宮との連絡をはかり、零細な幣物を集めて神宮の維持に努力した。新しい関所の開設が参詣者の道をはばむと、御師は自ら地方に出てお札を配り初穂を求め,参詣の代理を務めた。暦も彼らがみやげとして配った。御師たちは仏教の講にならって、地方に伊勢講を結成させ、国ごとの分担を定め、参詣者との距離を縮め、人生相談もこなした。石田梅巌はここから町人哲学の原理を得たという。

 こうして全国の民衆は、伊勢神宮を中心とする統一を自覚した。支配階級には統一が失われ、分国化が進んでいた時代のことであった。室町時代の下克上は、民衆の力の解放であり,尊皇の道の民衆化であった。安土桃山から元禄にいたる豪華な文化は,この解放された民衆の力であり、尊王思想も底流に存続していた。

 

6 江戸時代前期の儒学者における尊王思想

 下克上がもたらした社会変革は、新しく支配階級を形成する大名と武士団と、商品経済の発達を基盤に、下層民衆から町人階級の勃興を促した。戦国の群雄は京を目指して軍を進め、皇威奉戴によって全国制覇を遂げようとした。信長の制覇は皇室への内裏復旧支援剣と併行し、神宮が130途絶えていた遷宮の復活と重なる。彼自身が20年後の遷宮費用を負担したのは本能寺事件の年であった。秀吉も将軍とならず幕府を開かないで朝臣として全国を統一した。

 これに対し家康は、将軍となり幕府を開き、朝廷を抑え政治から引き離そうとした。禁中並公卿諸法度は,天皇の行動を限定し官位授与に干渉した。反発した後水尾天皇は幕府の意思に逆らって明正女帝への譲位を敢行し、家光は30万の大軍を率いて上洛し、仙洞御所を贈献し京・大阪・奈良・堺に町人に銀を与えるなど懐柔し、尊王思想による国民的統一意識の抑圧をはかった。幕府権力による新しい封建制度が構築されたが、民衆活力は元禄文化を生みだし、家綱は修学院離宮造営、綱吉は大嘗祭復活・葵祭り蘇生・歴代御陵修復など皇室懐柔に意を用いた。

 初期の儒学者=藤原惺窩・林羅山・中江藤樹において、尊王思想は消極的であったが、家光没後の山崎闇斎・熊沢蕃山・山鹿素行・水戸光圀と傘下儒者、少し遅れて新井白石などは積極的に尊王思想を表明した。

(藤原惺窩―神儒一致)

 「仮名性理」「千代もと草」など惺窩の作として流布された書物には(後に疑問が呈されたが)、五倫思想が通俗的に述べられ、神儒一致の思想が説かれた。あらゆる自然現象は「天道のしわざ」であり、「天道」は人にあっては「こころ」、それを磨くと「明徳」となる。「誠」は天の本体で天道の働きの一切を表し、「梅は梅、桜は桜の花をさかするが誠」、人にあっては「君に忠節,親に孝行、人に慈悲を施すが誠のみなもと」であった。

「天の本心は,天地の間にあるほどの物を、栄えるようにあわれみ給う」。だから「人となりては、人に慈悲を施すが肝要」であって、天道は慈悲に通じる事になった。天道の働きは自然の誠にも人間の誠にも通じ、自然法則と人倫の道とは帰一する、前の時代で兼良が「一心」と呼んだものが、ここでは「天」「天道」となった。

 他方,「日本のあるじ」は天照大神で、万民を憐れみ給い,歴代天皇はこのおきてを守って道を行いたもう故に皇統は栄えている。この「天照大神のおきて」が神道であって、「正しきをもはらとして,万民をあわれむを極意とす」るから神道と天道は異ならない。

 この神儒一致思想は、天道を原理とし実践としての道の一致を説き、天照大神のおきてが尊ばれるのは、天道から来ているからという。尊王思想としては兼良より後退している。しかし慈悲という仏教思想に地位を与えている。

(林羅山―幕府べったり)

 羅山は朱子学を唱えたが、理気説においては王陽明の立場をとり、「動き働くものが気」「気の中に自ずから備われるものが理」それが「大極」で,これを道と名づけた。天道の立場が受け継がれ、「仁というもの」は「人にありては慈悲の心」としたが仏教を受け入れたのではない。

 「神道伝授」においては吉田家の唯一神道の影響を受け、

「卜部説に、この五の神元来一体なり。これを大元神と号す。国常立尊は一切諸神の根本なり。……一切の人々もこの神の気を受けずということなし.万物の初め,皆この神に基づく。」

「心は神明の舎」とか「民は神の主なり」などは唯一神道説にあるが、彼の「天理の立場」に合致する限りで受け入れられたに過ぎない。 

「神は天地の根、万物の体なり。……この根あるが故に人も生まれ、ものも生ず。……空に等しくして不空,虚にして霊なり。これを無色無形の神,無始無終の理ともいう。始終あり,古今常の道神あり。よく万物の始めをなし終わりをなす。これ神道の奥義。」

「神道はすなわち理なり.万事は理の外にあらず。理は自然の真実なり。」

 こうして彼は,「理当心地神道」を唱えた。「理」と「神」との同一を説く思想で、唯一神道の五倫書とは違っている。また天照大神を立てず、国常立尊を立て、一神を強調するが、神道即王道を主張した。皇室の尊厳は天皇が神聖だからでなく、神儒同一だからで、三種の神器も儒教の三徳の表現とされた。

「鏡は智、玉は仁、剣は勇」「これを以って国家を治め守る」「三種の神器備わりて王道治まる。王道神道理一なり。」

 幕府が王道政治を行うならば幕府も同様な尊さを獲得できる。羅山は幕政に預かり,朝廷圧迫政策に加担した。

(中江藤樹―尊皇には冷淡)

 彼は「翁問答」を著し、「孝」をもって「万事万物の道理」とした。彼独特の思想で、朱子や陽明にはない。「孝」とは「太虚を以って全体」とする永遠の道理であって、人に現れては「身を立て道を行う」という人倫の道理となる。

 「身を立てる」とは「わが身を父母の身と思い定め」「父母の身をわが身と思い定め」、「大切に愛敬して,物我のへだてなき大通一貫の身を立てる」ことである。しかし「父母の身は天地に受け,天地は太虚に受けたるもの」で、わが身も本来「太虚身命の分身変化」だから、身を立てるとは結局「太虚神明の本体を明らかにして失わざる」こと。道を行うとは、太虚神明を体現せる身によって「人倫に交わり万事に応ずる事」。

 「国所世界の差別いろいろ様々ありといえども、本来みな太虚神道のうちに開闢したる国土なれば、神道は十方世界皆一つなり。」「国隔りぬればことば風俗かわるといえども,その心の位は本来同一体の神道なるによりて、唐土も天竺も我朝もまたその外あるとあらゆる国土のうち,毛頭違う事なし。」

 神道は世界共通であるといっても、わが国の神が他の国の神の上にあるとは云わない。藤樹はただ儒道を説くのであって、唯神の道ではない。大神宮は尊崇するがその教えは「聖人天道教」であって皇統や天皇の神聖とは関わらない。尊王思想においては羅山より消極的であった。

(山崎闇斎の独善的尊皇―討幕思想)

 彼は叡山で修行し,高知で朱子学に接し、25歳で還俗し京で儒者となった。講席を張ったのは38歳で,羅山が没してから江戸に出た。保科正之の師事によって有名になった。そこで吉川惟足に接して神道に関心するようになり「垂加神道」を提唱した。性格が熱情的・狂信的で、積極・無遠慮に尊王の情熱を鼓吹した。

 垂加神道というのは、神道五部書にある天照大神の神託「神垂以祈祷為先、冥加以正直為本」(神のシデ=恵みを受けるには祈祷がまず大切、ミョウガ=神の加護を受けるには正直を本とせよ)から垂と加をとった。伊勢神宮崇拝熱で、家にこの神託が掲げられていた。伊勢神道に本格的に接近し渡会延佳から伝を受けたのは52歳であった。

 度会延佳は、周易の原理によって神道を説いた。神道は自然に易の理にかなっている。国常立尊は太極で,天御中主神と同体異名、外宮の祭神である。すると太極より生じた陰陽、陰陽の神から生じた火徳の神は、外宮の神より上位ではあり得ない(外宮の伝統的主張で易理のこじつけである)。

 闇斎は吉田神道の伝も受けた。吉川惟足は吉田神道も預かっていたからである。吉川は、卜部兼直=唯一神道の「神道由来記」を注釈して「神道大意註」を書いた。

 神は万殊の源たる道体の一理であるから「儒佛バテレンの道といえどもこの一元より起こり」、「理において異なることなし」「理に天竺,漢土、日本の差なし。しかれども事は大いに隔別なり。」無形の大元が形をなす経路を,五行説によって説き、大元の顕現としての天照大神、人倫百般の諸形態に至るまで一理の展開によって明らかにしようとした。道体の一理による天人一貫の道が独善的な神道思想につながった。

 闇斎の「天人唯一の説」は、「無形の形」を「具体的な形」にするについてのユニークな説で、神道を儒教からでなく,神道自身によって理解しようとする立場の先駆をなした。吉田派の唯一は,儒佛との習合を排し純粋な神道の主張だったが、闇斎の一は、天を貫く道の同一性、天と人との直接的同一性だった。天人唯一によって存在する事になった人体神は、「即ち帝王の御太祖、御人体御血脈の本源」で国常立尊と同体。

 この「御人体の御神」は「葦芽の最初より国土成り定まって後,いつまでも限りしられず、常盤固盤に国も君も常しなえに立たせ給える御事なれば、」「国常立尊と称し奉り給えり。」

 造化神=人体神=皇室の御祖先となった。神代記は「わが国帝王の御実録」で、「大君の御血脈の本元」であり「天壌無窮の皇統」を明らかにするものと力説した。天皇の神聖を皇統そのもののうちに見る独特の思想であった。さらに「異国には大君の上に天帝あり」、しかし「わが国の大君は,いわゆる天帝なり」「勅命はいわゆる天命と心得べし」と規定して、外国の大君に対するわが大君の優位を主張し、勅命を重んじない幕府の立場と相容れない危険な尊王思想=討幕思想となった。

(熊沢蕃山―幕府に忌避される)

 彼は闇斎の1年下、中江藤樹の直弟子の陽明学者で、「神道大義」「三輪物語」を著し、合理的・批判的思想を展開した。池田光政に仕え3千石を与えられたが嫉視され、39歳で辞した。「大学或問」における幕政批判の言論が忌避され、古河に幽閉されて4年後に没した。

 「三輪物語」は戦国時代,三輪山のふもとで、禰宜=神道・居士=仏教・公達・社家=儒教・傍なる老翁・傍なる人がそれぞれ意見を主張して議論を闘わせるという趣向である。従って作者の思想は分り難いところもあるが、@日本を万国の本とはしていない。Aシナ崇拝もしない。B皇室衰微の原因は公卿の退廃にある。C三種の神器は鏡=正直,玉=慈愛,剣=断とした。D天地の道は国により異ならない。Eわが国の皇室は特殊で文化と結合し尊重すべきである。

(山鹿素行―古学の唱導と儒教以前の日本の発見)

 素行は早熟で環境にも恵まれ、儒学・兵学・和学・神道を修め、20代で多くの大名の師となり、播州浅野家に預けられ千石を与えられた。朱子の近思禄を読んで無極説が仏教に由来する事を知り、朱子学や陽明学を越えて、直接孔孟の学に回帰すべきという古学の主張を樹立した=「聖教要録」。朱子学の排撃が幕府の忌避に触れた。また「山鹿語類」においてもっとも読まれた士道編において、「耕さず造らず売らず」生きている士は、人倫の道実現の任務を負っている。この職分を自覚し道に志す勇気がなければならぬとした。儒教を実践する気組みにおいて武士たちの人気を集めた。

赤穂蟄居のうちに書いた「中朝事実」は、宋学からの脱却,シナ崇拝からの脱却と日本を中国として賛美する日本主義との結合が説かれた。そして仁徳以前=儒教の影響以前の日本に「聖教の事実」を見出した(このあたり,宣長に先駆している)。彼はそれを古学の精神による書紀の記述の検討によって実証し、この発見が日本主義的情熱の源泉となった。皇統の一系は武家といえども「なお王室を貴びて君臣の儀を存す」という儒教的尊皇論はシナの尊皇論の国史への適用であったが、水戸学や頼山陽を通じて幕末の尊皇攘夷論となった。

(水戸光圀―意図せざる尊皇名分論)

 光圀は素行の6歳上、大日本史編纂は「中朝事実」より十数年前であった。百名以上の学者を150400石で抱え、60余年の大事業であった。「神儒を尊んで神儒を駁し、佛老を崇めて佛老を排す」というのが彼の姿勢で、当時の民衆の神宮崇拝現象には、伊勢の御師の堕落を見るのみで、日本の宗廟たる伊勢神宮の供物や祓えなど民衆がたやすく拝受すべきでないとして、民衆の尊王思想を排することを意に介しなかった。武士の主従における献身的道徳といえども士に学問がなければ光圀には評価されなかった。

 「誠の士たるものは、四書五経の文義・人倫の大義をわきまえ、春秋通鑑によって古今の治礼を鑑み、余りあらば詩文のたしなみが望ましい。」

 それは下克上・無秩序の室町・戦国時代の否定の上に立った、仁義を実現する新しい武士の主張であった。従って尊王思想も、素行と同じく、儒教的士道に立った尊王にして覇を賤しむ思想で、朱子学の大義名分説が強調された。元来,大義名分思想は,シナ古代の春秋時代の思想で、それを近代日本に適用するには問題があったが、それも意に介されなくて、後年皇室と将軍関係において尊王討幕思想として活性化することになった。

 光圀はただ正確な日本史を作ろうとした。しかしそこに描かれた史実は、武家幕府の立場を超えた日本の姿を示し、政権の転変を超えて持続する皇位の伝統を明らかにした。日本の史実は天皇の神聖をおのずから開示することになった。(楠公讚仰に宋学の名分論はなかったのか。)

(新井白石―皇室憧憬と仁政思想)

 江戸時代の優れた合理的思想家、公武調和のよき時代に政治に関与した。貧乏武士の家系、17歳で藤樹の「翁問答」を読み30歳木下順庵に接す。37歳甲府綱豊=家宣に推挙され60歳で退隠、69歳で死去。

 林家の権威に対抗、事実上幕府の最高顧問であった。しかし「折たく柴の記」では官職は朝廷の官制で呼んでいる。幕府の職制は私に過ぎないとの認識。皇室憧憬を感じる。皇子皇女出家の風習廃止、閑院宮実現。「読史余論」は家宣への講義草案、朝威が衰えた歴史過程の考察で、摂関公卿政治を批判。北条氏の執権政治も泰時を除くと姦悪の徒。室町もよいのは義尚のみ。信長秀吉を貶めて家康を礼賛、仁政の実現によってのみ武家政治は認められると説く。目指すものは仁政であって尊王ではないが、頼山陽の「日本外史」に影響したという。

 

7 江戸時代中期の国学者における尊王思想

 江戸中期はヨーロッパ十八世紀に相当する。1635鎖国令、元禄=168817041698ロンドン株式取引所、1699清イギリスに広東貿易許可、光圀1700没,契沖1701没、スペイン王位継承戦争、この年赤穂義士討ち入り、1702英仏アメリカ大陸で植民地争奪戦、仁斎1705没、17091716白石幕府に登用。

 荷田春萬16681736、賀茂真淵16971769、本居宣長17301801、などの国学者の輩出は、石田梅巌16851744、手島堵庵17181786、中沢道二17251803、などの心学者にわずかに先んじているだけであった。

 江戸期の尊王思想において、伊藤仁斎16271705、荻生徂徠16611728を除いたのはその尊王思想に見るべきものがないから。しかし二人の古学運動は後に尊王思想を押し出した。

 古学では山鹿素行を既述したが、彼は配所の赤穂で執筆した「配所残筆」において、世間と学問との乖離について悩んで、古学に至る道筋を述べた。

「寛文のはじめ、我等存じ候は、漢唐宋明の学者の書を見ても合点できないので、直接に周公孔子の書を見て,これを手本にして学問の筋を正そうと存じ、それ以来後世の書物を用いず,聖人の書物だけを昼夜考え,初めて聖学の道筋分明に得心できて、聖学ののりを定め候。」

 宋学の形而上学的性格は、老荘や仏教から来ていたから、古典にさかのぼる事によって儒教本来の面目に気がついた。しかし彼はこの体験を、古典の学問的研究によって裏付け様とはしなかった。

 「大学」の始め「格物致知」についての朱子の格物=究理という解釈に対し、素行は「物」は天地の万物だから「理」でなく「事」であって、事であれば則があって然るべきことが明白になるという主張は興味深いが、朱子が校訂した「大学」が孔子の書であるか,孔子にこのような格物致知の思想があったかについての反省は素行にはなかった。

(伊藤仁斎―古義学によって程朱の学の根底を覆した)

 仁斎の古学の主張は素行と異なり、立派な学問的業績である。仁斎は素行の5歳下、京都の材木商の子で、少より学を好んで程朱の学を学んだが疑いが生じ、36歳=素行の「聖学の自得」と時を同じくして古義学の立場を自覚した。

 仁斎は、程朱がその立場の基石とした「大学」の原典批判の弱点をつき、「大学」が孔子の遺書という程朱の主張を覆すことによって古義学を打ち出した。仁斎は自ら道を開いて程朱の立場を批判し、古典に対する歴史的認識の模範的方法を示した。

(荻生徂徠―先王の道を信じる古文辞学を提唱)

 仁斎の1歳下、綱吉の侍医の子だが父が上総に荷流されて12歳まで独学,25歳江戸に出て学に努め,柳沢吉保に見出されて学界に覇を唱えた。49歳まで古義学を攻撃していたが、一転してより極端な古文辞学を主張した。彼は仁斎が子思の中庸を認め孟子をもって論語を解釈しようとした事を不徹底と批判し、子思・孟子を捨てて直ちに六経により先王の道を見出そうとした。子思が中庸を作ったのは老子の聖人の道批判に対抗=「解嘲」するためで、孟子の性善説も同じような侮蔑を防ぐ=「禦侮」の為に立てられた議論で、それを直ちに聖人の教えと受け取る事は見当違いである。解嘲や禦侮は信じない相手の説得だから詳細にならざるを得ない。しかし「教え」は信ずる者に説くから論弁の必要がない。「物を以ってし理を以ってしない」所以である。思孟程朱は理を以って説く者である。

 かくて徂徠は、六経に表現されたシナ古代の風習制度のうちに先王の道を見出し、これを究極の標準と立て、最も古い原典を確定する「古文辞学」を提唱した。宋学の恣意的な古典解釈に対し,学問的客観的な方法は仁斎より一層復古学を徹底させた。

 しかし徂徠は「聖人の道は動かすべからざる究極の標準・絶対の典型であるという信念」に立っている。「聖人の教えは完全であって乗り越えらるべきものでない」「いうべきことはすでに云い尽くされている」という「シナ古代崇拝」は、信仰を共にしない者には通じなかった。勃興しつつある国学者達は,このシナ崇拝を正面の敵として攻撃した。しかし国学者達はこの否定において逆に復古学の精神を深く吸い込んだ。古文辞を追求して古典の精神をありのままに把握する、老荘・仏教などの異物を洗い落とす、それは国学者自身の方法に他ならなかった。国学者はそれによって皇国の道を見つけようとした。

(契沖―万葉研究に先鞭)

 契沖は仁斎の13歳下で4年早く没した。しかし二人の間には関係はない。彼は真言宗の学僧で、仏教哲学の素養あり漢籍にも通じた。学者として仁斎に劣らず,文献学者としてはむしろ優れている。万葉の解読や仮名遣いの研究において実証的・厳密・緻密に認識を進め、文学における日本人の可能性をあらわにした。しかし思想運動としての国学には、古代精神に道の思想を読み取る他の傾向が必用だった。儒教の古学運動がそれであった。

(荷田春満―皇国の学を提唱)

 伏見稲荷の祠官の家に生まれ,徂徠の3歳下で8年長く生き、東涯の2歳上で同年に没した。32歳で江戸に出て14年滞在し書紀神代巻の講義などをした。京に戻って万葉集・伊勢物語・記紀などの解釈に努めた。力を入れたのは万葉集で語釈が中心,古道の解明ではない。神代巻の注釈では契沖より儒学者に近く、書紀の著者としての舎人親王を重視し、その識見こそわが国の古代精神を伝えるものと見た。彼はこれを「本朝の道」「神祇道」という言葉で表し、「創学校啓」において幕府に国学の学校を開く請願をした。家康の治平は文教を起こしたが、儒教仏教のみで「わが神皇の教」ではない。願わくは京に「皇国の学校」を開き、蔵する図書を備え、古典を明らかにし後学に便したい。必要なのは古語の解釈という主張は古文辞学と異ならないが、それが皇国の学のために主張された。皇国の学に充実した内容を注入したのは彼の弟子賀茂真淵である。

(賀茂真淵―尊王復古の道を確立)

 真淵は遠江の神官の家に生まれた。契沖は5歳・仁斎は九歳の時没し、春満は28歳・徂徠は31歳年長であった。初め徂徠学派に学び、春満師事は37歳,4年後春満没すると江戸に出て古学教授、5064歳田安宗武に仕え、祝詞・文法研究を大成した。73歳で没。

 真淵の万葉研究は文献学的と共に、古語によって古義を把握し古道を闡明するという春満の理念を実現した。この方法は伊勢・源氏等にも適用されたが、祝詞研究が未踏の境地を開拓した。古事記志向は当然となった。真淵が儒学から学んだ思索力はわが国古典の精髄を把握させ,儒学的独断からの解放を成就した。

 「国意考」は和文による儒教仏教特に儒教排撃の論文だが、契沖はもちろん春満もこのような論争はしなかった。真淵は、後に宣長がいい得たほどのことをいってしまい、この儒教排撃が国学の確立を意味した。古義学・古文辞学の宋学批判の方法が、今や儒教自身に向けられる事になった。

 この論争は、儒教の理を批判・反撃する仕方について、後の国学者の模範になった。

@       儒教の説く「大道」「天下のことわり」にそれだけでは権威は認められない。シナの歴史がその空論なことを実証している。王位の簒奪や夷狄の征服の例にこと欠かぬではないか。

A       こうして儒教から道の教えの権威は剥奪されたが、徂徠の力説する先王の道もシナ古代の道故に排撃される事になった。周代の礼楽刑政は人為的であって、自然の性情に即していないから革命が絶えないのではないか。

B       わが国は儒教の渡来以前は、「おのずから神代の道のひろごりて、おのずからくににつけたる道」や、すめらみかどが「天地の心のままに治めたまい」栄えていたのに、儒教が人工的な理によって日本人を感化したために、「うわべのみみやびかになりつつ、うちのあらそい、よこしま心ども多くなり」、シナで国を治め得なかったばかりか,わが国でも皇道の衰えを引き起こした。

  こうして儒教を排撃して明らかになったわが国の道は

@       抽象的人工的な理でない芸術に表現される。真淵はそれを「古への歌」に見出そうとした。わが国の道は自然に即し、空理でなく「生きてはたらく物」である。

A       教えや制度として限定固定されない、理として分別されない自然の道である。「その国のよろしきにしたがいて出来る制,天地父母の教え」である。

B       わが国ですでに実現された道で,模範は古に求められる。「ただ上も下も,天地のおのづからにまかせてありしすめらいにしえこそ、世は治にけれ」。その古えの姿は「ただ天地の心に従いて、すめらぎは日月也、臣はほし也」、天壌無窮の天皇の統治であった。古学はわが国の道を目指さなくてはならない。

 儒教の排撃において確立された古道は、中核に天皇尊崇の伝統を置いた。仁斎・徂徠が「聖人の道」に認めた権威は、今や「尊王の道」に置き換えられ、復古学の方向は自覚せられた。宣長の仕事は,この方向を着実に歩む事であって,自ら方向を探す事ではなかった。

(本居宣長)

 真淵より33歳下、伊藤東涯・荷田春満は7歳の時、太宰春台は18歳の時没、有力な学者は儒学で三浦梅園,心学で手島堵庵・中沢道二くらいであった。商家の家督を22歳で継ぎ、母親の勧めで医師になるべく京に出て28歳まで儒学と医学を修めた。師事した堀景山は惺窩の弟子堀杏庵の裔で朱子学系だが、徂徠とも交わり国文和歌にも通じ、契沖を重んじていた。宣長は契沖の影響によって平安時代の文芸=源氏物語を理解し、帰郷後真淵との接触によって「道の学び」=古事記解読に向かって目を開かされた。42歳で「直毘霊」脱稿、神代巻脱稿は57歳、「古事記伝」完成は69歳であった。医で生計を立て、古典講義を殆ど隔日に行い、研究執筆を続けた。

 宣長による古事記の解読は、契沖・春満に始まり真淵によって展開された国学が宣長によって完成されたことを意味した。

 復古学にとって古学の理解が必要であるが,わが国の古典=記紀は、書紀は漢文で書かれ読めるが,古事記は「わが国の古語」を漢字で表記されているが完全に解読されていない。古事記の解読・解明は初発的な尊皇思想をその本来の姿において顕わならしめる事を意味した。尊王思想をその源流へさかのぼって解明する事が厳密に為され、尊王思想は明白な自覚にもたらされた。即ち古道である。

 この尊王思想のありのままの把握にとって問題はわが国へ浸潤していた仏教と儒教の影響であった。そこで真淵は儒教・仏教へ攻撃的態度をとり、それを受け継いで宣長も漢意=からごころを徹底的に排除した。綿密な文献学研究と、道についての理論的反省とは、密接に関連したものであり、異なった方向ではない。宣長は漢意の排撃からさらに積極的に上古の尊王思想を読み取り、「道の学問」を成立させた。

 宣長の道の論は、古事記伝の仕事の初めに書かれた「直毘霊」に明らかで、途中の「玉くしげ」や後年の「初山踏」にも記されている。

 わが皇国は,天照大神の生まれた国で、皇孫が統治する国と定まって神代も今も安国と平けく治しめす大御国である。だから古代には道の論はなく、ただ「物にゆく道」だけがあった。シナ文化の摂取によって、外国の道と区別する為に「神の道」と呼ぶようになった。シナ模倣が進むにつれ,平和であったわが国が乱れ始めた。「まがつびの神の御心のあらび」である。しかし天照大神は高天原にいますし、天津日嗣の高御座にゆるぎはない。

 この道は「天地のおのずからなる道」でもなく、「人の作れる道」でもない。「タカミムスビノカミの御霊により、イザナギ・イザナミ大神の始めたまいて、天照大神の受けたまい伝えたもう道」=「神の道」なのである。この道の意義は古事記などの古書に明らかであるが、今までは仏教・儒教に煩わされて理解できなかった。人はムスビノ神の御霊によって生まれたのだから、「身にあるべき限りのわざ」は教えずともおのずから心得ている。「ただ天皇の大御心を心として、ひたぶるに大命をかしこみ、祖神を祭り,あるべき限りのわざをして、穏やかに楽しく世を渡ってきた。これが道だから、別に教えられて行うことなどない。」しいていうなら、漢意を祓い清め、「御国ごころ」をもって古典を学ぶがよい。その理解が神の道をうけ行うことなのである。

 「初山踏」では、「この道は天照大神の道にして、天皇の天下を治めす道、四海万国にゆきわたりたる誠の道、ひとり皇国に伝われるを、いかなる様の道ぞというに、この道は、古事記書紀の二典に記されたる神代上代のもろもろの事跡の上に備わりたり。」

 「神の道」は尊皇の道であって、「天照大神の道」は「天皇の天下をしろしめす道」であり、神威を嗣がれる天津日嗣は、他の国の帝王と同等に見られるものではない。

 「神」とは「畏かるべき物=おそるべき物」をいう。八百万の神がある。神々の何が究極者であるかは人知の測り知るべきことでないが、その不可測の根源からもっとも貴いものとして天照大神と天つ御璽と天つ日嗣の相即があらわれている。

 この点が儒教や仏教と結びつき対抗しようとして、究極者・絶対者としての神の概念確立に腐心する、中世以来の神道説と根本的に異なっている。宣長の神の道は、尊王思想が中心で、窮極者・絶対者の問題は不可測なのである。

 だから宣長は、「秘説などといって密かに伝える」卜部神道や垂加神道を排撃した。「神道の行い」として、特別のことを教えるのも「わたくし」=「上にしたがわぬ私事」として排除した。尊皇こそ,天皇への随順こそ公の道なのである。

 だから「神道に教えなし」、教義を作ることは誤りなのである。

「神道に教えの書なきは,真の道なる証也。……教のなきこそ尊とけれ。教を旨とするは,人作の小道也」といって、ムスビノ神による万物生成の話を原理として立てなかった。

 こうして宣長は、教義を持たない神の道を、「天皇の天の下を治めさせたもう正大公共の道」として説いた。この復古神道が尊皇の道にほかならず、国家に即して(国家神道)実現さるべきものであった。だからこの皇国の学はただ学問というべきで、和学・国学等というのはおかしいと主張した。

 さらに「ひとり皇国にのみ正しく伝わっている」道で、「四海万国にゆきわたりたるまことの道」、万国ことごとく皇国の説を信用すべきもの」と主張した。

 宣長は、おのれの古道の解明が、歴史的研究であるという制限を忘れてしまった。古道は絶対的真理となり、儒教仏教の渡来による日本文化の発展の意義を無視する無理を犯し、

それが批判者への反論の無理に結びついた。

 同時代人による批判とそれへの反論は、@「直毘霊」に対する市川匡麿の「まがのひれ」,宣長の「くず花」,A藤井貞幹の「衝口発」に対する宣長の「鉗狂人」、B上田秋成とのやり取りをまとめた「呵刈葭」である。

 いずれも宣長の儒教否定と合理的思惟否定に対する抗議であって、神代史研究のための儒教仏教の影響排除が、全否定という無理は、次ぎの時代の勤王思想が、儒教的素養によって育てられた人に担われたことによって破綻した。儒意は尊王思想の障害にならなかった。

 儒教否定が転化した合理的思惟の否定については、神代史に合理的解釈を加えることと、古道思想を推奨徹底すること=解釈と信仰を分離できなかったことに問題があった。上田秋成の批判はこの点を明確についているが、わが国の国土生成神話を世界創造説に強引に拡張した宣長説は、古神道・国学思想の流れとしてあって宣長の独創ではないが、平田篤胤の神道=「新しい習合思想」となって明治期につながった。

                    中おわり