和辻哲郎「尊王思想とその伝統」1943、全集141962 (下)

            2003.2.22−3.2―09.1.13  木下秀人

(下)

8 江戸時代末期の勤王論における尊王思想  竹内式部、山県大弐、寛政三奇人、

    藤田幽谷、会沢正志斎、頼山陽、吉田松陰、平田篤胤

おわりに  091.13追記

 

(下)

8 江戸時代末期の勤王論における尊王思想

 宣長の没した1801年頃を堺として,歴史情勢は急変した。外国の圧迫が顕著に表れ始め、幕府の威力がようやく傾き始めた。いずれも国民的自覚を刺激し、勤皇論が台頭した。

(竹内式部―勤王論で遠島)17121765

 新潟の人、15‐6歳で京に出て垂加神道を学び,公卿に出入りして闇斉流の書紀や朱子学の大義名分思想を説いた靖献遺言等を講義し、王制復古問題を率直に取り上げた。感激した若い公卿が桃園天皇の耳に入れた。浅見絅斉といえども「これより先は今日なお敢えていう所にあらず」と濁したことであった。上層公卿が影響を憂慮し、天皇への進講を不穏と禁じた。所司代の審問もあったが放免され、天皇の強硬な意思で進講が再開され、それに五摂家の激しい反対があって20人の公卿が処分された。幕府の了解なしだったのでもめて、結局式部は学問の仕方よろしからず、公卿衆の風儀を乱したとて,重追放に処せられた。

 勤王論に敏感になっていたのは公卿達であって幕府ではなかった。その後8年たって江戸で山県大弐事件が起き,ようやく幕府も事態の重大性を認識し、式部は禁を犯して江戸・京を訪れたことを理由に、遠島に処せられた。

(山県大弐―幕府批判で死罪)17251767

 甲州の人、闇斎の流れを汲み,1756江戸に出て兵書を講じ門弟3千人、「柳子新論」は大義名分を論じ武家執権が道ならぬことを主張した。幕府政治の否定論を敢然と主張し、平生の講義における不穏当な文句・幕府政権への不柔順な態度が死罪の理由となった。

(寛政の3奇人) 

素行・蕃山時代に比べると大義名分論が実践的色彩を帯び、幕府の態度も強くなって、尊皇の言説は慎まねばならなくなった。ついで勤王論を唱えるのでなく,実践する「勤王家」が登場した。寛政の3奇人=高山彦九郎・蒲生君平・林子平である。

 君平は,歴代山陵の踏査で「山陵志」を著し、彦九郎は純粋に皇室の衰退を嘆き、勤王の気運普及に貢献した。林子平は、外国の圧迫を感じて国防の急を論じ、「海国兵談」を著し、不穏の言論として幕府の咎めを受け、禁固の判決を得た。半年後、ロシアのラクスマンが、大黒屋幸大夫を送って根室に現れ通商を求めた。子平の警告は現実となり、大義名分論が尊王攘夷論という実践論に転化する口火を切った。

(藤田幽谷―後期水戸学)17741828

 古着屋の倅に生まれた幽谷は、学才を示して立原翠軒に学び、15歳で史館に入って紀伝校訂に従った。「安民論」「正名論」を著し水戸学伝来の大義名分論を明示し、「江戸幕府厳存の状態でも君臣の名正しく、上下の分厳かである」と論じた。だからその名分論は、幕府に対し皇室を敬えという程度に過ぎなかった。

 その彼が水戸学の先駆となった所以は「攘夷論」である。24歳の時ラクスマンの来航を「北虜の警」と呼び、要路の人が平和に恋々として急速に軍備に努めないことを攻撃した。蒙古襲来時の北条氏の如く、藩主の力で幕府の政策は動かせなくとも、藩の立場で武備に着手すべきことを献策した。

 この主張は、レザノフ来航、千島・樺太への侵略。英艦フュートン号の長崎侵入、奉行の切腹。英船の浦賀来航など鎖国下日本への外国船の来航は引きもきらなかった。幽谷はこれを黙視し得ず、「開闢以来の神州安危の機だから、非常のご推断をもって大東の御鎮撫・社稷の大計を決断するよう」希望した。捕鯨や通商は目的の為の手段に過ぎず、最後の狙いは侵略にあるとして攘夷実行を主張した。1825幕府は外国船打ち払い令を発した。

 攘夷論は外国に対し皇国を自覚することであった。封建的意識を超えて国民的自覚に達することであった。これが彼の大義名分論に新しい性格・新しい活気を与え,尊王思想の実践への推進の代替となった。林子平の国防論にはこの大義名分論との結合がかけていた。

 会沢正志斎と藤田東湖が後をついだ。

(会沢正志斎―攘夷=幕政批判と儒教主義)17821863

 藩士の子で少より幽谷に師事して彰考館の写字生となり、後藩主に用いられて重きをなした。44歳「新論」を書いて藩主後嗣問題後の藩政改革に用いられた。82歳で没。「新論」は幽谷の攘夷思想を詳述したもので、幕末勤王論に強い影響を与えた。彼は幽谷の力説した忠孝の道を詳細に国体の中に読みとって、君臣の義・父子の親をあらゆる人間の道の上に置き、皇国の道は忠孝の道と解したから、封建武士は矛盾を含まず幕府政権も国体に反しないで是認された。だから攘夷論であって討幕論ではなかった、しかし攘夷の主張が討幕を促すことになった。幕府の武備は内乱を押さえる為で、日本国の国防を考えてはいなかったからである。幕政を是認しつつ、その国内統治の根本をつかざるを得なかった。兵農分離は土着強兵を目指す妨げとなったとされ、封建性打破の要求となった。

 世界を戦国時代と把握したから、ロシアの東方侵略の危険を警告し、西洋諸国の南海植民地化が日本に向かう危険を論じた。そして内政革新・軍令整備・富国・大艦巨砲・国防国家形成を説いた。

 時世に適合した国防対策だった。尊皇思想の実践への方向を攘夷論の形で表現した。しかし尊皇思想そのものは前期水戸思想にあったし、大義名分論は宋学という儒教思想であったから、宣長の儒教批判には強烈に反論した。

(藤田東湖―詩文による情動)18061855

 若くより学者の会沢と並んで、政治家肌で活躍した。文筆にもすぐれ「回天詩史」では、大津村上陸の英人取調べを熱情的に叙述して人を動かした。藩主没後の後嗣騒ぎは東湖の記述によって有名となった。斉昭の改革方針は会沢に依ったが、その実現については東湖の活躍が寄与した。

 思想的には会沢と変わらなかったが、それを実践に移す気迫や情熱的に表現する気品において特徴があった。「弘道館記述義」は彼の思想の要約を示しているが、弘道とは道を広めること。その道は儒教による「天地の大経」であって宝祚=皇位はこれをもって無窮、国体はこれをもって尊厳,人民はこれをもって安寧,外敵はこれをもって帰服した。しかも天つ日嗣の皇子たちは、シナの聖人の教を取り入れて政治を助けたのでこの道はいよいよ明らかになったという。儒教の道による国体解釈であって、国学者の如き儒教排撃はない。

家康は尊王攘夷の英雄として賛嘆され、会沢のように攘夷論が討幕に転ずることはない。

 にもかかわらず東湖が幕末の勤王運動に刺激を与えられたのは,東湖の斉昭と一体となっての政治活動と著書の文芸的魅力である。漢文で書かれた「回天詩史」などの著書は、返り点をつけ日本語として読まれ味わわれていて、東湖はそこで鋭く訴えることが出来た。その代表例は頼山陽である。

(頼山陽―名分論による国体論)17801832

 幽谷の6歳下、会沢より2歳・東湖より26歳上、朱子学者の子、広島で育ち18歳江戸に出て1年、帰国後21歳で脱藩・京に出たが連れ戻され、30歳備後の菅茶山の塾に2年、京に出て48歳で武家諸氏の歴史「日本外史」を世に出した。神武以来の歴史「日本政記」を脱稿53歳没。外史の松平楽翁への上は新論に1年遅れたが、すぐ世に認められ公刊普及した。

 山陽は歴史家・史学者というより詩人で、その詩人的直観は人を感嘆させた。外史巻頭の史論において、わが国兵制の沿革を通観し、武士勃興の所以を論じた。上古中世は文武一途・国民皆兵で天子大元帥となって親征した。藤原氏が政権を取るに至って将帥は源平に委ねられて武門が現れ、豪民で武装する者が武士となり、源平と君臣のごとき関係を生じた。藤原氏は武士を奴僕視してこの意義を悟らず、鎌倉幕府で大権は武門に帰した。

 藤原氏の専権と失政が武士勃興の原因という点では白石と変わらないが、山陽はそれを反国体的な現象と指摘し、室町時代に足利氏の武士統制策によって大名が生まれ、徳川氏の成功は主従関係の緊密さにあることなどを鋭く指摘した。

 山陽は「外史」で、数世紀来の尊王思想の流れに総合的表現を与えた。

@ 水戸の大日本史の理念を受け継ぎ、簡潔な叙述により国史の流れ・武士の興亡を鮮やかに描いて、一般読者に近づけた。

A 日本人が好んできた物語・英雄を,時代に即した新しい歴史として表現した。太平記の勤王で人を動かす勘所は、そのまま翻訳引用を辞さなかった。

B 江戸以来2百年鼓吹された漢学尊重の波に乗った。武士の基礎的教養はシナの古典によって与えられていた。漢文の理解力・作文力は高く、和文の思想も漢文化によって簡潔・活気という別種の妙味が付加された。

C 北条や足利の所行を痛罵し、武家幕府を反国体的と叙述することによって、徳川幕府批判を含意させた。北条政治の根底は陰謀狡智として建武の正成の勤王・討幕を称え、江戸幕府については危険な言辞はなかったが、幕府倒壊の原動力の一となった。

D しかし会沢と違って攘夷論=国防論においては認識不足で、軍備充実の必要を認めず、現状で十分対抗できるとした。

E 国学に対しては会沢と同じで、道は一であって一国の私有するものでなく、儒教の説くと同じ道はわが上古にもあったが概念化されていなかっただけ。道に彼此はない。国学というものなどある筈はない。宣長流の古道の主張には一顧も与えなかった。

 やがて勤王討幕の実践運動が盛んになり、転回点にあった思想家が安政の大獄で処刑された。傑出していたのは吉田松陰である。

 水戸の攘夷論は、本質的には国防論であって狭い鎖国主義ではなかった。手段としての開国断行は認めうるし、国防の為、封建制度を改変して全国的統一体制を樹立することは主張の核心であった。しかし天皇親政までは説かなかった。松陰は、攘夷の情熱で外国渡航を企て失敗して「国体の真の姿を悟り」尊王討幕に転換した。

(吉田松陰―国防から尊王討幕へ)18301859

 萩の下級武士杉家の子、父母が立派で幼より山鹿流兵学師範(吉田家)たるべく訓育され、藩主の前で講学した。19歳で藩校で兵学を教え、20歳「水陸戦略」において外敵防御策を論じ、海防に携わった。21歳九州の長崎・平戸・熊本をめぐり外国事情と経世の原理探求に専心、「新論」に接した。22歳江戸に出たが師に会えず、沿岸踏査に出,水戸で会沢正志斎に会い東北を経て帰郷蟄居(無断出京)2310年間諸国留学を許され、学者歴訪、佐久間象山とともに浦賀にてペリー艦隊を見る。「軽蔑侮慢、実に見聞に堪えざる事どもなり」「船も砲も敵し難く、勝算少なく候」。だから、象山のもとで砲術習得に努めた。

 憂慮のあまり藩主に上書して、「天下は天朝の天下にして……幕府の私有にあらず」「ひそかに内外の情勢を熟察するに、天下の事勢,必ず一変するに至るべし……一変後の措置,あらかじめ論定せずんばあるべからず」と、転換点の近いことを予測した。それが藩内の批判を招き、批判派の見解の偏狭さが松陰を憂慮させた。

 彼は外国渡航を決意した。単純偏狭な国粋主義でなかった。「己を空しくして物を入れ、人の長をとって己の短を補うのみ」。漂流なら鎖国令を犯さずすむという象山の意見に従って、長崎で露艦に投じようとしたが出航後で果たせなかった。

 彼はこの旅行で各藩の閉鎖的立場を打破して、藩の間を通ずる団結を作ろうという、後の尊王討幕運動と同じやり方を肥後藩と長州藩とで試みようとした。

 25歳ペリー艦隊来航=和親条約締結。米艦を下田に追って密航しようとしたが拒否され、「西洋へ渡り国々の風教軍備兵器等研究致し立ち戻り……お国の御為に相成るべく」と主張したが容れられず、「国禁を犯し不届き」とて長州藩で禁獄となった。

 江戸でも郷里でも獄中における彼は、同獄の囚人を学問の情熱に巻き込み、孟子を講義した。「講孟余話」である。彼にとって学問は、道を求めるのであって利を求めるのではなかった。彼は仁政の理想を説き,士道を論じ,幽囚の下にあって道の実現を激しく希求した。

 出獄後の松陰は,国防から国体の自覚に至った=攘夷から国防に至る水戸学と逆だった今までの道筋を転回して、尊王を出発点にして考え直そうという気持ちになって、松下村塾の活動を始めた。

 講孟余話では、「列藩と心を合わせ,幕府を尊崇し、天朝に奉事し、…内は万民を愛養し、外は夷狄を威服せしめ」るのだから尊王はあったが、討幕は目標にはなかった。封建的な主従関係において、国王とわが主と二重の君臣関係の矛盾が論理の貫徹を妨げていた。しかし米国との通商航海条約で違勅問題発生によって松陰は,ハリスの強要に屈した幕府を許さず、討幕論に転じた。

 松陰のこの決定を受けて、門下生は江戸や京都で活躍し、8月討幕の密勅が下り、9月勤王志士の大量逮捕、松陰は直接行動を示唆、11月松陰は捕らえられ10月刑死。

 野山獄中では、参勤途上野の藩主を伏見でとらえ,京都で事を挙げようという過激な案であったが、門下生の時期尚早論に苦しめられ、「死を求めもせず死を辞しもせず、獄では獄でできることをする」という気持ちに落着いた。

 江戸に送られたのは、梅田雲浜との連累容疑からであった。容疑は簡単に解く事は可能だったが、松陰はここで自説を展開したので、思想・著作・言動「公儀をはばからず不敬のいたり」とて死罪となった。

 こうして漢学を地盤とする尊王思想は政治運動として実践されたが、他方国学の思想も尊王運動に結びついた。

(平田篤胤)17761843

 幽谷の2歳下、山陽の4歳上、秋田藩士の子、浅見絅斎の流れの漢学を学び、20歳で江戸に出て苦学。25歳で山鹿流兵学者平田氏の養子となる。宣長の著作に26歳で接し、29歳門人を取り始め30歳「鬼神新論」を書く。34歳養父の死後古道を説き始めた。36歳「古道大意」「俗神道大意」など講本を多数作った。48歳上京して著書を禁中に献じ、服部中庸から宣長の道統を受けた。63歳盛名と共に秋田藩に禄を得たが、非難も多く65歳「天朝無窮暦」が忌避に触れ,68歳で没。

 篤胤は、宣長の門人であったかが門中で問題だった。著作を読んだその秋に宣長は没しているので、本人は夢の中で入門を許されたと主張して、春庭に認めさせようとしているが、嗣子鉄胤は「名簿を捧げたもう」とした。

 篤胤の仕事は、宣長説の祖述の面と,彼自身の主張を強調する面とがからみあっているので、宣長の権威によって両面の説を認めさせる必要があった。

 彼は宣長の考え方をそのまま自分の考え方としてふるまって、宣長の思想の力によって彼自身が相手に感銘を与える結果を導き出した。門人でなければ受け売りに過ぎないから,門人である必要があった。

 宣長の「天皇が天の下を治めたもう道」=古道説を世間に普及した功績は彼が一番で、それには篤胤の迫力も与って力があった。物静かな宣長の風格を慕うものにとってそれはよい印象ではなかった。

 篤胤は、弁舌滝の流るる如く、博覧高才万人にすぐれ、昼夜寝ることなく書見著述でき、疲れると34日も飲食せず臥し、覚めるともとの如しという異常な精力家であったらしい。

 問題は「鬼神新論」において現れ,「霊の真柱」において完成され、平田神学の中枢となった思想であるが、宣長の道は公共正大の道、真昼の道であったのに対し、篤胤の道は幽冥の道なのであった。

 「鬼神」を篤胤は「かみ」とよんだ。「鬼神新論」で彼は、幽冥のことに関する儒者の合理的態度を覆すことを狙った。儒者にとって天とは理であり、怪力乱心を語らないのが君子のとるべき態度である。そこで篤胤は、孔子をとらえ、孔子も鬼神を貴んだという事を論証しようとする。(天を理とするのは朱子学、孔子ではない)

 孔子は、「君子は天命を畏る,小人は天命を知らず畏れない」とか「罪を天に得て祈るところなきなり」とか「天を欺かんか」とか「われを知るものはそれ天か」などと論じたが、これは天を理とすれば理解しがたい言葉である。

 孔子は、天上には「実物の神」がいまして、世の中の万事を司りたもうことを知っていたと篤胤は主張する。だから天つ神の畏るべく欺くまじきこと、天つ神は諸神の君であるが故に、その心にたがえば他に祈る神がない事をいい得たと篤胤は強引にいう。

 孔子が明白に天上の主宰神のことをいわず、怪力乱心を語らなかったのは、シナにまことに伝説がないからだ。伝説なくば孔子といえども容易に知り得ず、50歳で初めて天命を知った。孔子が知って教えている以上、天は理でなく天上の主宰神である。

「からくにの古書どもに、上帝后帝皇天などいい,また唯に天とばかりもいいて、甚く畏き物にいえるは、天津神の天上にましまして、世中の事をつかさどりたもうことを,彼の国人もかつかつはかり知れるおもむきなり」

 篤胤は「幽冥の事,怪力乱心を語らず」という儒者の態度を斥け、幽冥の道に人を導こうとする。「天上に主宰神」があって、それがわが古典の「天つ神」だと主張する。その天つ神がやがて、「世界万国の作り主」で、「わが国はよろずの国の本つ国」という主張に展開する。

 そのためには世界の成り立ちを説明する必要があった。服部中庸の「三大考」が取り上げられ「霊の真柱」となった。「三大」とは日・月・地球で、記紀の神代史からその成り立ちを説明しようとしたのだからとても説明にならないのに篤胤は、それが宣長の道の学を発展させる急所と考えた。この篤胤の姿勢は,東湖によっても宣長の門下によっても批判された。本居大平は、「三大考」も「霊の真柱」も奇説であって古学の妨げをなすと書いて、小林茂岳が「天説弁」において展開した両書の批判を賞揚した。

 篤胤を擁護し、宣長の学の正統を継ぐと認めたのは服部中庸であった。門人500人中に篤胤に及ぶものはいないといって,大平に対し篤胤のために弁じた。

 中庸は宣長から、「歌詠み文書く事は小事の一つなり。神代の道を説く事は大道の大道なり。しかるにわが教え子数百人ありといえども、皆詞花言葉のみを学びて、古学を出精し大道を続けて教を立んとする者一人もなし。是わが愁とする所なり。何卒中庸は歌詠み文章を書く事は努めずして,大道に心をよせ候へ」という教示を貰っていたのであった。そこで大平に対し「70歳となって漸く篤胤を得て、本望を達し大慶に堪えない。宣長霊前で篤胤と兄弟の約を結んだ」と報告した。

 宣長は、大道をいうのみで幽冥の事に向けよといったのではないが、中庸は、門人中に篤胤排斥の声があるにもかかわらず、篤胤を古道の後継者として推した。

 宣長の上に掲げた遺誡は、鉄胤に至って古事記伝以降の宣長の思想の発展を示すものとして解釈された。篤胤の学問の性格を示すものというべきであろう。

 

おわりに

さすが綿密に思想の論理を辿った明快な説明で大いに啓蒙された。簡単に要約が28枚となってしまったので3分割した。尊王攘夷思想のそれぞれの展開の筋道、それが幕末に政治運動となって行く過程など、まるで推理小説のような面白さである。

 宣長の神国説=皇室崇拝の尊王思想の歴史的淵源が明らかであると同時に、彼の独善的皇国思想には名分論という儒教思想に発する尊王思想からの反対論があった。神道国学からと儒教名分論からと両様からの尊王論は、外国船来航によって触発された国防意識によって尊王攘夷というスローガンに結合され、それぞれ平田篤胤・頼山陽という煽動者によって国民的運動に盛り上げられた。その担い手や運動の経緯については別に論及されねばならない。                       以上 

 

09.1.13追記

なお和辻氏は、戦時中に時局便乗的な論文を「思想」に書いた。「日本の臣道」「アメリカの国民性」などで、全集に集録されていないので見られない。「丸山真男回顧談」で丸山氏は倫理思想史を評価し、南原先生が津田事件での和辻氏の弁護論に感謝したこと、しかし和辻氏は「既成事実となったものを合理化するという人」という結論。丸山流の「たこつぼ」論でいうと、「つぼ」が違うようで、交流がなさそうなのは遺憾である。

                   下おわり