宣長の医学論―送藤文輿還肥序

                   2003.2.3―3.6   木下秀人

宣長は医者で生活を支えていた。にもかかわらず蔵書目録でみると医学関係の図書は少なく、オランダ医学には冷淡であった。高橋正夫氏が推賞する、宣長の医学思想をうかがわせる唯一の論文が、京キ時代に帰郷する友人に送った題記の文章。27歳頃書いたものである。漢文1700字ほどを訳してみた。文章の区分けと小題は高橋氏に依った。

高橋氏は医者としての宣長を高く評価しているが、この医学論の文章を医学史と重ねてみると、宣長は今方に属し,やがて近代医学に発展する古方の山脇東洋などを攻撃している。日本医学史では、あとから伝わった「今方」が概念的保守的で、これを批判した「古方」が実証的開明的なので紛らわしいが、宣長は最初に習得した「今方」を墨守し、オランダ医学をも摂取しようとする「古方」派を批判した。

古事記研究において宣長は、古くから伝えられ自らも信じた「皇国思想」から終世抜けきれなかったが、医学思想においても若年修得したものの墨守に終始し、近代医学や近代的思考方法に通じる蘭方を受け入れた証拠は見られない。蘭方受け入れによって、実証的思考方法を身につけることはなかった。宣長は,古学・古道学に身を入れたほどには、医学の勉強はしなかった。古道に関する論争からみると、近代実証主義思想を受け入れるにはあまりにも強く「皇国思想」信仰に偏りすぎているというべきかも知れない。「残念だ」というのが小生の結論である。

註 富士川游氏の「日本医学史」決定版、昭和49形成社を国会図書館で見つけ、本居宣長を探してみた。索引には載っていなくて、徳川後期の学問の一般状況の説明で儒学者の名が挙げられ「国学には本居宣長あり」とあって、蘭学導入によって医学が進歩したのみならず兵法・天文・地理にいたる西洋学術移植に功があったと続く。宣長は医者としてでなく国学者として言及されているに過ぎない。穏当な見方であろう。

 

1 素・霊

そもそも素霊(黄帝・内経の素問・霊枢)は、黄帝と岐伯の大経、寿世の大法である。

医者はここに宿りその道を知ってやってきた。

後世にそれが無益となったのはなぜだろうか。

けだしその旨が遠ざかり、術が難しく解らなくなったからだ。

今は三部九候である。岐黄はもう復活しないなど誰が推察できただろうか。越人の叔和の妄説である。

宋元明となって医者は固陋になり、僻説が競い起って人を惑わせた。

その誤解は今もまだ解けていない。世間の医者の愚かさはかくのごとく甚だしい。

「人迎・気口」を移して、その誤りを正したいものだ。

 

註 (以下の註は大塚恭男、東洋医学、岩波新書1996。山田慶児、中国医学はいかにつくられたか、岩波新書1999。富士川游、日本医学史綱要、東洋文庫1974《=日本医学史の要約版である》による)

(1)「黄帝内経」、前漢時代紀元前1−2世紀成立の医学古典、人体の生理病理を論じて治療に言及した。治療のウエイトは針灸,特に針に置かれ、身体を走る12経脈、それをつなぐ絡脈=経絡概念を形成し、「つぼ」を発見した。体系化において薬方に先立った。

「素問」はそのうちの針術を述べたもの。

「霊枢」は素問と並ぶ内経の主要部分。

「岐伯」は雷公・少師・伯高・小兪などと並ぶ黄帝と対話する医師。

「張仲景」は後漢末の医聖とあがめられる人。古来の医書を分析し傷寒雑病論=最初の臨床医学書を著し、診断と治療法を結合し湯液を中心とする療法と薬の処方を集成した。これが後に傷寒論と金匱要略となった。吉益東洞はこれを編録して「類聚方」を作った。

「三部九候」は脈を診る頭・手・足の各3個所のこと。診断法としての脈診は、当初頚動脈=人迎と手首動脈=寸口に依ったが、岐伯派によって三部九候に改められ、さらに九箇所でなく手首の寸口部を寸と尺にわけ二本指で脈を取る法が、経脈による陰陽の気の流通・循環を説く「難経」に依って提示された。脈法と脈論の原理が陰陽五行説を踏まえた五臓六腑十二経脈の理論として体系化され確立した。

「叔和」は三国・魏の王叔和。刊行して2-30年後散逸した「傷寒論」を加筆・増補・編集し、診断学を主体とする「脈経」「張仲景方論」を著し、難経の手首の寸口・人迎を気口・人迎とし、三部九候説を排除した。

張仲景の原文が失われたため宋代以後、叔和の「脈経」(220頃)・金代成無已の「注解傷寒論」・唐の孫思獏の「千金翼方」(七世紀後半)など,それぞれ時代を映した集成を分析し「傷寒論」を復元することが、医学・文献学的研究の大きなテーマとなった。宋刊「注解傷寒論」1065,同明代復刻本1599。臨床経験を重ねるうちに三陰三陽病の脈証群と治療法群との対応関係が明らかになった。五世紀後半には「弁証寒并方」が現れ、張仲景の原点への模索が逆に「六経弁証」という診断と治療法の統合への新しい道を生みだした。

古い八法には治療のもたらす効果と治療を施す手段とが混在していたが、清の程国彭の「医学心悟」1732はこれを効果の視点から統一し新しい八法を提唱した。彼は併せて病証弁別にも八綱を提唱、現代中国の「弁証論治」=証拠を弁別して治療を論ずる法への飛躍をもたらした。

富士川氏によると、わが国の漢方医学は(あとの註と少し重なるが)

@ 奈良時代は僧が医師でもあり、施薬院・悲田院などがあった。

A 平安時代は隋唐の医学が行われ、大宝令に医事制度が定められた。「大同類聚方」「金蘭方」が選せられた。典薬頭丹波康頼の撰した「医心方」は後世まで広く行われた。

B       鎌倉時代には僧梶原性全の「万安方」「頓医抄」があった。釈忍性は奈良や鎌倉で救

護施設を運営し数万人に達した。榮西は茶の功徳を説いた。

中国では、宋の神宗・徴宗が収拾制定した「和剤局方」が宋・元時代の主流で、これがわが国では鎌倉・室町時代まで行われた。

宋代に起こった朱子の性理学が医学にも影響し、五運六気・陰陽虚実などの説=李朱医学が唱えられたが、日本への流入は次ぎの時代になった。

C 室町時代になると、明から帰った田代三喜によって元の李東垣・朱丹渓などの「李朱医学」=金元の医学が流入した。宋学の影響であって僧にかわって儒者が医者となった。

D 安土桃山時代は、曲直瀬道三が「啓迪集」を著し李朱医学をさらに普及させた。診断を詳しくし、病因を察し、経過を詳らかにし、急性慢性を区別し、男女老若の差異を考慮し、薬物・針灸を論じ、医方は面目を一新した。腹診は道三に始まった。

これに対し、張仲景の方を宗とする永田徳本が関東におり、「峻剤」を使って秀忠の病を治し、旧来の処方に納得せず自然良能を唱えた。後に後藤・山脇・吉益の唱導する「古医方」の先駆である。

E 西洋医学はキリスト教布教の方便として流入した。宣教師は施療救恤にも力を入れ,禁教後も医術は残った。蘭方である。外科と眼科が優れていた。

F 江戸時代は朱子学の時代だから、宋儒性理の学の系統である李朱医学が当初受け入れられたが、別に「劉張学派」(金の劉完素・張子和)という李朱医学の一派=「後世家別派」が台頭し、陰陽五行、五運六気の説、臓腑経絡配当の論を唱導した。

しかし伊藤仁斎が朱子を批判し古学を唱導する頃には、李朱医学は勢力衰え「古医方」がこれに替わって、李朱医学は「後世家」といわれるようになった。

中国では明の中頃より程朱学の偏狭を排し、清初には考証学が起こっていたが、日本では江戸初期にはまだ程朱学が盛んであった。やがて古学が起きて朱子学を批判し,経典の古義を明らかにする事を主張するに呼応して,医学でも名古屋玄医が、明の喩嘉言の「傷寒尚論」「医門法律」などによって、医の原点である張仲景・巣元方に帰るべきことを主張し,世の医家が、時運の変遷を知らず李朱医方を墨守するのを批判した。「古方・古医方」といわれた。

G 宣長が師事した京都の堀景山は、李朱医学を日本に導入した曲直瀬道三門下の堀杏庵四代の子孫。杏庵は藤原惺窩門下で林羅山と共に四天王といわれ、医学では古林見宣と共に李朱医学に古方を折衷し門下3千人といわれた。宣長が医学で最初に師事した堀元厚と景山との関係は明らかではないが、元厚死去後についた武川幸順と共に、曲直瀬につながる学統であるから李朱派・後世派=今方。堀元厚は後世派の一人として富士川氏の「綱要」に記されている。宣長の学んだ医学は当然「今方」であった。

H 富士川氏によると、今方は享保より寛延に至る17161751頃はまだ隆盛で、古方はそれに続く宝暦17551763以後に盛んになったという。宣長は17301801であるから、修学の頃は今方がまだ隆盛で(堀元厚、宝暦4年没)、古医方の普及は開業後であったらしい。宝暦には折衷学派も出てきていた。東洋の蔵志は1754、玄白の解体新書は1774刊である。古方家の努力は蘭方の摂取にも向けられ成果を挙げた。

 

古方と今方

近頃のわが国の医者には、素霊陰陽五行説をでたらめとして捨てて省みない者がある。

甚だしいものに至っては五臓六腑十二経絡説まで廃してしまっている。

後藤氏が言い出し香川氏が追随したその論は千古に卓絶、まさに盛言というべきだが、臆測であって誤謬がないとはいえない。

 

註 (2)宣長の学んだ医学は、朱子学の理・気説や陰陽五行説の影響が濃い思弁的なもので後世派=今方であった。古方派はこれを批判し、実証主義的な張仲景医学への回帰を説いた。後藤艮山、山脇東洋、香川修庵,吉益東洞などは新しい医方にも意欲的でその後の医学をリードした。今方が保守的・思弁的で古方が実証的・進歩的なのであった。

山田慶児氏は、後藤艮山の「一気留滞説」=病を気の渋滞・閉塞とみる説を病理学の基礎となる思想として褒めている。

宣長はこの中国と日本における医学の流れを理解していたとはいえない。「傷寒論」復元研究のはしりである元の王履「医経溯集」1368、明初の黄仲理の「傷寒類証弁惑」1393、明の方有執の「傷寒論條弁」1592などは知らなかったのではないか。古方のみならず李朱信仰をもけなしてはいるが、転換期にあって立場は「今方」だった。

 

山脇氏の如きは、識見が高すぎてかえって卑陋、無稽の言で取るにたらない。

峻剤を使うといえども,見そこないが過半で,うまく行くのは10中3−4とは恐るべし。

最近の見識ぶる人は、高邁顔をして伝統的処方をないがしろにし、深く考えずに古方を施すが、それでは百病を治すことはできない。古方で今病を治すことはできない。

よくわからないで古方を使えば、天寿をちじめる恐れさえある。

俗医は李朱を聖人の如くあがめ、古方家はこれを笑うが、その古方家も張仲景を見ること神の如くである。

仲景といい丹渓といっても昔の医者に過ぎない。処方の優劣は時代とともに変化する。

よいところを取ればよいのに古方を是、今方を非とするのは偏っていて五拾歩百歩である。

 

3 薬剤

粗暴な医者が古方で人を害するのは、近世の処方が平穏無力なのに及ばない。

しかし宋元明の名家の処方がそのままでいいかどうかは私にもわからない。

薬物の効用を過大にいってはならない。これを畏れこれを信じ、鬼神に接する如き誠をもって,君が臣を使うが如くに加減取捨すべきだ。

一品をもって一役にあて、それぞれ特徴がある。この説によりこの薬があり、左が上がるか右が下がるかして気分・血色がよくなる。陰中陽あり、陽中陰ありという。こんな馬鹿なことでは話にならない。

たとえば補中益気湯に柴胡升麻を加えるとどうなるかについて、処方の趣意を理解して信ずべしということである。

多くの病に効く薬はないし、多く使えば薬の効き目は落ちる。古方でよく効く薬でも効かない病はある。近方は分類が細かいので少量でも劇的に効くというのであろうか。

至真要論(誰の著書か不明)にいわく、多ければ効く少なければ効かないというものではない。

融合作用もある。弱くて全く効かないもの、強いが効き目は弱いもの、口の渇きを癒すだけのものがある。

薬で病を治そうとするのはやむを得ない時であって、内経には薬は少ないことを知るべきで、だから草沢相伝之方は単方であって,多くても34種に過ぎない。後世の多種混合はよろしくないことがわかる。

婦人の病は時代により地域により異なるから治法もまた変化する。これで治るとはいえない。薬は神様が作ったものではないし聖人の処方ではない。だから杓子定規でなく弾力的に状況に応じて対応すべきである。

今日の俗医者は学問も医術もなく、勝手な処方をして困ったものだ。

 

4 養気

病は処方や薬剤でよくなるものではない。「ただ煕然たる一気が独りよく病に抗してこれを制す。その気は神にして測るべからず。本これを天に受け身に充てるもの。後世これを元気という。この気ありて人となり、無ければ屍たるのみ。時に盛衰ありて皆よく病となる。外邪内傷、404病、皆この盛衰によって発する。死生はただこの気の有無のみ。」

五臓六腑,四肢九穴は、それそれその用において一身を支え、気を発し、その政は中和順従で過ぎたるも及ばざるも無し。外に六気の犯なく,内に七情の傷なし。

病は何によって起きるか。過不及があったり憂いごとがあったり内外左右上下、その隙をついて発する。

気には真邪の別がある。薬や治療はその真気を助け邪気を攻めるもの、薬や治療は真気の政を助けるもので自ら病を攻めるものではない。真気の病との関係は吐いたり利いたり攻め補い暖め冷やし一つとして失うもの無し。その力はよく攻め大病を治す。その気が衰弱に勝てないと、病が重くなり、克てなくなる。気が病を制しえないときは医者としても手の打ちようがない。いわんや草薬においておや。ただ真気の赴くところを察し、薬石でこれを順導すれば、その力を助けて真気大いに振るい、汗吐よろしきを得て病は癒える。

この真気の趣を察しないで妄りに攻め温めても効果はなく、人を害うばかりである。

治病に大事なことは、真気の勢いを察すること。世の医者は温めて気の働きを助けたり知らずして気の働きを妨げたりする。考えが足りない。治療のためには気を助けるものを退けてはいけない。この気は養うべく補うべからず。一度無くなると巨万を積んでもだめ、ただ手を拱いて倒れるを待つばかり。

この生をまもるには、この気を抱養して生きるべし。これを養うには、食は薄く食べ過ぎない、よく働いて倦むことなく、思い煩わず、気に従って逆らわず、流れを滞らせず、四肢を適度に動かし、身体を大事にしていれば、病気にはならない。

経にいう、気を平かに保のがよいと。そこで、養気とは医の至道なり、慎まざるべからず。古方家の失は攻にあり,近方家の失は補にあり、その適並び得ず。悲しむべし。

 

註(3)「気」は「血」とともに漢方の重要な概念。自然界を大宇宙とし人体を小宇宙と考えて、それを満たしているのが気で、生命活動の根源として,宋学において体系化された。経絡も気血の運行路として理解される。

後藤艮山は、宋学を背景とする李朱医学を空論として排斥し、古医方に帰れと唱え「万病は一気の留滞から起こる」と説いたが、艮山の「気」の使い方は疾病発生の原理追及であるに対し、李朱医学では「運気分配説」による哲学的「気」である点に、注意する必要がある。

「養気」を医の至道とする宣長の説は、高橋氏によって大いに賞賛された。宣長はここでは古方・今方双方の失を論じているが、ここでの「気」は文脈から古方に属すると推定される。

 (4)日本の中国医学 中国医学は五-六世紀に日本に伝えられ、九世紀初頭、平城天皇の命により「大同類聚方」が撰述され、984丹波康頼が膨大な中国資料を取捨選択し「医心方」を著した。その後栄西「喫茶養生記」、梶原性全「万安方」「頓医抄」、有隣「福田方」,坂淨運「続添鴻宝秘要抄」などが続いた。

16世紀の室町中期、田代三喜が明に留学し、日本僧月湖の「全九集」「済陰方」を持ち帰り,金・元医学を広めた。弟子曲直瀬道三はそれを発展させて「啓迪集」などを著し、中国でなくなった腹診を取り入れ日本独自の歩みが始まった。「後世派」という。

後世派に対して「古方派」が現れ、陰陽五行説による金・元医学を批判して、実証・経験主義的な「張仲景医学への回帰」を説いた。名古屋玄医が祖とされ、後藤艮山は「一気留滞説」を唱え、山脇東洋は人体解剖で「臓誌」を著し、艮山の弟子香川修庵は「傷寒論」の六病論を観念的と批判し、吉益東洞は抽象理論を捨て自分の感覚と経験に基づき腹診を体系化し「万病一毒説」を唱え、張仲景を換骨奪胎して処方別に編纂した「類聚方」、個々の生薬の効能を帰納的に追求した「薬徴」を作り医学界を一変させた。艮山と修庵は仁斎の門下である。

西洋系医学は16世紀後半から導入されたが、ポルトガル・スペイン系で南蛮医学といわれ外科領域で新しい技法をもたらした。鎖国によってオランダ医学=蘭方が十八世紀後半に盛んになり、1774杉田玄白・前野良沢の「解体新書」が刊行され、大槻玄沢は漢蘭折衷で大きな功績を残した。宇田川槐庵は本邦最初の西洋内科書「西説内科選要」1792を訳出した。さらに宇田川榛斉・同榕庵・桂川甫周などの俊秀が続いて西洋医学導入に大きな貢献をした。

宣長はこの流れにおいて革新側ではなく、新しい動きにむしろ逆らった。

相良亨氏の「徳川時代の儒教、著作集2」ぺりかん社によれば、玄白はこの事業を、徂徠の書物(鈴録外書=軍学)に啓発されて行ったと記しているという(形影夜話)。「朱子学全盛時代には朱子学的形而上学によって病因を論ずる医学が栄え、朱子学が批判されるとともに,病因の追求を否定し,医学を臨床経験の集積による治術の習熟と理解する傾向を生んだ。玄白らのオランダ医学は、………治療を単なる経験的な慣れにまかせることなく、個々の治療が「何の故に」有効であるかということを,形而上学的ならざる新たな仕方で追求する姿勢を押し出した。」しかし、徂徠学のこの側面は宣長には無縁であった。

明治維新後の漢方は「古い時代の遺物」視されるに至った。この頃の死因の一位を占めた感染症に対して漢方はなすすべなく、1849牛痘法導入は西洋医学に対する決定的に遅れを明確にした。政府は1968西洋医術採用許可令を発布し、翌年ドイツ医学が採用され、1875医術開業試験が実施され、1883医術開業試験規則・医師免許規則によって漢方医の存続の道は断たれ、1895漢方医提出の医師免許規則改正案は第八議会で否決された。医師になれば漢方は自由に使えたが、漢方をする医師は殆どいなかった。東洋医学・漢方の復興が明らかになったのは第二次大戦後で、高齢化社会の到来とともに合成医薬品による副作用の顕在化、西洋医学の過分科現象による臨床上の問題、疫学動態の変化などが原因であった。1976漢方製剤が薬価基準に載せられ、保健医療の対象となった。しかし漢方医学はまだ学校教育からは閉め出されているなど問題は解決されていない。

 

5 善医

藤君文輿深くこの理を察し、この攻と補の間を周旋し、偏らず頑なならず、善医というべきのみ。文輿は九州肥前の人、大村藩主の侍医であるが、数年来上洛して医学研鑚に精励し、その蘊奥を極めるに至った。

その傍ら儒雅を尚び厚く文辞を好む。実にわが益友である。今錦衣の別れに臨み、医言を連ねもって送別の辞とする。

以上

註で述べたように、宣長は医学思想において、蘭方につながる古方派によって批判された今方派の医学を学び、その頃が両派の分岐点であった。この論文でそのことに触れているから無関心ではなかったろうが、結局近代実証主義につながる方向へは進まなかった。医学論文がこの1篇というのも、医学についての宣長の関心のなさを示しているであろう。蘭方が決定的な威力を示したのは種痘であったという。ジェンナーの発明が1796年,日本に導入されたのは1849年、宣長の死の半世紀後のことであった。    おわり