カミと日本文化―神道論序説、石田一良、1983ぺりかん社

                 2003.3.29−5.24−09.1.11  木下秀人

 

 子安宣邦氏の「本居宣長」1992岩波新書をみると、宣長は古事記伝で、外来思想の影響を排除して純粋な古代の心を明らかにする事を指向しつつ、当時宣長が既に抱いていた皇国思想による恣意的な解釈をした事実を指摘し、仏教・儒教・道教などの影響を排除したという神道思想は、実は新たな国学的神道説であると指摘されている。

 平田篤胤を経て天皇制と結合し、国家神道として近代日本に君臨したこの神道説は敗戦後,宣長自身が当時既に批判されていた非合理的部分を拭い去り、神社本庁という宗教法人によって維持され、全国に散在する神社や社は国家公共の財政支援を断たれ、地域社会において自立することになったが、経済復興と共に新年や季節の祭りに理屈はともかく参詣者を集め、日本人の宗教として存在している。

 子安氏はこの本の終わり近くで、民俗学者の折口信夫が戦後まもなくの講義で行った、「神道は仏教・儒教・道教などの「後入要素」による学的説明によってわずらわされた。もとの姿は民俗学を活用して取り戻したい」という意味の発言を紹介している。

 たまたま書棚にあった石田氏のこの本は、その意味で注目すべき内容を含む。要約する所以である。

1 神道は着せ替え人形

 日本の神道は、稲作農業が始まった弥生時代にその原質を形成し、以来その原質は今日まで継続保持されてきた。しかし歴史の発展過程でその原質は、時代の宗教や思想の影響を衣装のようにまとい替えることによって、常に新しい神道となって展開してきた。

 古代には、中国の儒教と結びついて古代国家を構成する氏族的祖先教となった。

 次いで仏教と結びついて本地垂迹説が立てられ、天台系は山王一実神道、真言系は両部神道となった。

 近世には、宋・明の儒教や古代国家と結んでは儒教系の古学・復古神道となった。

 維新後には、国家主義思想と結合しで天皇崇拝の国家神道が意識的に形成された。

 他の思想・宗教の影響によって発展することはどの宗教にも見られる。しかし神道の展開で特異なのは、新しい思想・宗教の影響が積み重ねられないで、前代までの影響がすっかり払拭された原質の上に、新しいものを改めて受け入れる形が繰り返されたこと。着せ替え人形という所以である。

 それでは変わらない「原質」とは何か。石田氏は連歌の比喩を示す。「火かと見ゆるは蛍なりけり」という前句に、「漁舟泊まる 葦間の暗き夜に」とつけると、前句の「火」は漁火となる。ところが

「春ははや すぐろの薄暗き夜に」とつけると、「火」は枯れ草を焼いた野火の残り火となる。神道の原質はこの「火かと見ゆるもの」に譬えられようという。

 このような鮮やかな「変わり身」は、仏教・儒教・キリスト教では見られない。そして時代ごとに変わる「衣装」「すがた」にもかかわらず、神道の原質は元のままで変わらなかった。だから時代ごとに変わる「衣装」を調べるだけでは神道の原質・本質は捉えられない。

 石田氏は、「水稲農業時代の日本人の文化意思」に神道の原質を求め、それを生活中心主義・共同体主義・関数主義という3要素の結合体とした。この結合体=「時代の共同体の生活意思」が、それぞれの時代の真・善・美・聖の価値基準となった。

 日本の文化文明史は、この固有の文化意思の上に、典型主義の中国文明や仏教文明が重なって、重層構造として定着し発展してきた。

 木下説、着せ替え人形説は、丸山真男氏が抽出した「つぎつぎ、なりゆく、いきおい」という日本文化の古層論にも関連するし、着せ替えが理論の発展としでなかった点では「違った立場が共通の知性の上で対決し、その対決の中から新たな発展を生み出していく例に乏しい」という「日本の思想」における丸山氏の指摘にも整合する。ただ、「あらゆる時代の観念や思想に相互連関性を与え、それとの関連で自己を歴史的に位置づけるような座標軸にあたる思想的伝統は形成されなかった」という指摘には「原質」が改めて注目されるとともに、その特異なところが日本人の思想史なのだと開き直ることも出来る。

 

2 原始信仰の形成

 日本の古代文化は、縄文の狩猟採集文化から弥生の水稲稲作文化への転換として理解される。縄文文化圏は、稲作文化の普及発展につれて次第に変化していくが、それぞれの文化は、小集落=共同体によって担われ、そこでは何らかの原始信仰祭祀が行われていた。

 その名残を記紀・風土記に探ると、三輪の土着神=大物主神を崇神天皇が祭ったが効なく、大物主とイクタマヨリ姫との子に祭らせたら疫病が治まったという話。大物主は蛇であり、別の姫に夜々通って蛇と知って驚いた姫がホトを箸で突いて死んだのを祭ったのが箸墓という話。常陸風土記にも狩猟採集段階の先住者の神と推定される蛇神が、水稲農業を営んだ豪族と衝突し、結局水稲農業側が、先住者の信仰対象を自分の氏神として祭り、祖神とする話がある。出雲神話のヤマタノオロチも、河上にいる先住狩猟採集民族の神で、大蛇を退治し「国つ神」を救ったスサノオ、蛇から出た剣がやがて水稲農業部族=「天つ神」系の高位の守護神となる物語など。

 ここで注目すべきは、蛇神はすべて「国つ神」=先住民系として祭られ、「天つ神」の中には見出し得ないことである。 蛇神は雷神とも考えられていた。三輪山も雷岳と呼ばれていたというし、「大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」という歌も万葉集にある。「天つ神」系の大君は「国つ神」系の蛇や雷より上位と考えられたのだろうか。

 縄文土器に渦巻き文様が見られるが、蛇の図案化で、蛇神が縄文時代の呪術的存在から弥生時代以降の水稲農業時代の宗教的存在へと変質して「神道の神」となり、時代が進むにつれ原始性を払拭してその神格を高め、高位の国家神の一つ=大物主となっていった。

 この原始的な蛇信仰には、神道に吸収し尽くされないで「原始信仰の生き残り」として残存することがあるが、だからといってこのように形成され「生活意思の神格化」として合理化された「神道の原質」を原始的ということは出来ないであろう。明治期やってきた欧米人がキリスト教のような一神教に対し、多神教の神道を原始信仰と貶めたのは誤りだった。

 

3 神道の神観念―宣長説への疑問

 伊勢神宮では、20年ごとの遷宮の時に、新しい正殿の床下に「心の御柱」が立てられ、そのまわりに平瓦を積み上げ榊の垣で取り囲む。それは「神への捧げもの」ではなく「それで神を祭るもの」のようである。

 神武天皇は大和に入って、天の香具山の土をとり八十平瓦を作り、自ら斎戒して諸神を祭った。下って崇神天皇は物部氏の祖先を神班物者=神に捧げるものを作り分かつ人に任じて、「八十平瓦」を「祭神のもの」として諸氏族に与えて諸神を祭らせ、大物主の子を探し出して大物主を祭らせたところ、疫病は鎮まり国内は平穏になり五穀は実って百姓は富み栄えた。

 神武も崇神もともにハツクニシラス・スメラミコトであり、崇神は神武が征服した先住民族の子孫に、祖先神=大物主を祭らせている点が注目される。そして「祭神のもの」として「平瓦」を与えたのは、征服したときそれぞれの氏族が持っていた「神宝」を取り上げてしまっていたからであろうという。「神宝」とは元来「それで神を祭るもの」であったが、征服により取り上げられて石上の倉庫に収められ、物部氏が管理していた。

 大和朝廷は被征服氏族に対し、それぞれの氏族の神の祭りを、天皇が朝廷で作った「平瓦」を与えて祭らせることによってその神を支配し、その神を奉じる氏族を統御した。刀や弓矢(垂仁天皇)も「祭神のもの」として用いられた。中臣氏は天皇家の祭りを司り、物部氏は武をもっても仕えたが神庫の管理をし神の祭りに深く関わった。だから蘇我氏の仏教受け入れに反対したのではないか。

 だから石田氏は、宣長の「何事にせよ尋常ならず、優れた徳があって、かしこきもの」という神の定義に疑問を持つ。宣長とその説の信奉者による、「縄文時代の先住民は水稲農業を営む大和族に征服されて、神々諸共絶滅して弥生文明に影響することはなかった、記紀の神々は純粋に水稲農業民族のもの」という説は歴史の事実に反する。縄文人も弥生人も差別なく同じ日本人で、縄文時代も弥生時代も日本史上同格の時代と考えるべきであるという。

 記紀や風土記の記述は、水稲農業時代に縄文時代の古い神々が、新しい神々と葛藤し結合し同化して、姿を変え性質を変えて新しい神として生き残っていったプロセスを表しているのではないか。出雲神話や常陸風土記は、先住民の蛇神が「山の神」となり「水神」となり「神剣」となって水稲農業を護る神に変わる話を伝えているが、上述のプロセスの説話化されたものと思われる。

 縄文時代の呪術的な神と弥生時代の宗教的な神との区別は難しい。日本の神道は各時代に、それぞれの衣装で着替えているからである。

 さらに神道の神観念の歴史を見ると、神は時代ごとにさまざまに変身した。古事記では皇室や有力貴族の祖先神だった。神・仏習合神道では佛・菩薩の垂迹となり、神・儒習合神道では理(太極)そのもの、または理が純なる気として表れたものとなった。神・国習合神道では皇室と国民の祖先神、神・基習合神道ではデウスのような創造・主宰・最後の審判神、国家神道では皇室・国民の祖先神のほかに忠臣・義士・内乱外戦の戦没者も神となった。同一神社でも祭神はしばしば入れ替わり、祭り祈る人々にそれが知られていないことがある。

 日本の神道における神々は、宣長が言うような「非合理な姿のもの」でなく、はるかに「合理的だが姿なきもの」ではないか。神道の神々の「原質」は、生活中心主義・共同体主義・関数主義の結合体の宗教的側面として見出され、「共同体の時々の生活意思を神格化したもの」ではなかったか。

 木下説 このような石田氏の神の定義には新鮮さがある。宣長と同じように記紀を読み込んで出した結論が正反対、記紀に対する姿勢が違うからである。宣長は書紀の記事には「から心」混入の疑いをもったが、古事記には信仰に近い絶対視をした。石田氏は記紀に、上山春平氏の説=神々の体系正続、中公新書を踏まえて、作成者の「ためにする意思」の存在を認め、それを読み破って真実を求めようとした。信ずる者と疑う者、そこに大きな差が生じた。

 しかしそれと別に「何事の負わしますかは知らねども、かたじけなさに涙ながるる」という西行?の伊勢神宮での歌や、芭蕉の日光での「あらとうと、青葉若葉の日の光」に示されるように、日本人のもつ自然随順の素直な敬虔な気持ち、理屈で表せない気持ちが神道を支えていることは間違いない。

石田氏が言うように、生活中心主義・共同体中心主義が日本社会の特徴であることは明らかであるが、その宗教面が神道の神であり祭りであるということだろう。

 

4 神道の世界―国家と政治

 神道は自然宗教で民俗宗教でもあるから、他国・他民族との関わりはどうだろうか。

@       日本の神を国外で祭った例はない

 日本書紀の欽明16年、百済から軍事援助の要請があった。雄略の時、同様の要請に対し神託に従って「建邦の神」を招請して救援に成功した。その神を百済は祭らなかったが、神宮を修理し神霊を奉祭すれば国は栄えるという記事がある。「建邦の神」とは日本の神か百済の神か。江戸時代以来議論があるが、石田氏は記紀その他の百済・新羅との記述を検討し、百済の建国神・百済王家の祖先神と断定する。日本の神を祭る時は必ず「神名」を明らかにするが、百済・新羅の場合「国神」「神」と記すだけ。要するに日本の神は国外で祭られた例はない。その理由は以下。

A 祭るとは支配すること

 ある氏族が他の氏族の神を祭るとは、その神の恵みをわがものとし、その氏族を支配すること。だから征服者が被征服者に、自分の神を祭らせることはありえなかった。大和朝廷は諸氏族を制圧すると、その神を直接祭るか、神が受けない場合は当該氏族のものを祭主にして間接に祭らせた。出雲・大物主・大国魂の例。

B 官幣の起源と意味

 大和朝廷は他氏族を征服すると、その氏族と氏神を滅亡させることなく、自らの管理下にその祭祀を温存した。その氏族には官製の神宝・神体を与えて祭らせ、これが官幣の起源である。しかし、朝廷は諸氏族が皇室の神を祭ることは許さなかった。平安時代でも伊勢神宮への私幣は厳く禁じられた。

C       それぞれの国にそれぞれの神がある

 上代日本人は、帰化人を通じて新羅・百済・高句麗など外国の存在や始祖降臨・建国神話は知っていた。だから高天原は、日本の上空にある日本の神々が住む国であって、宣長が言うように、日本が世界の中心で、世界の神はすべて高天原から天下っていったとは考えられない。

D 国土の形と空間観念―クニとクニタマ

 古代中国神話における世界像は、黄河流域の無限に開かれた地理的空間=中原を前提とし、その平地の無限の平準性と無境界性が心性にもたらす遠心性と求心性を特徴としてきた。五行思想や天帝を巡る雄大な世界構想、王者の徳化と個人の修養が「格物・致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下」=大学と遠心的また求心的に描かれるのは、この「開かれた」政治的世界像に照応する。

 これに対し、島国で平地が少なく盆地に規定される日本の「閉められた」空間においては、山川・海洋に囲まれた地形が喜ばれ、「大和は国のまほろば、たたなずく青垣、山こもれる大和しうるはし」であった。閉められた地形を喜ぶ心は、それを表す言葉を生み出した。オオヤシマクニ、シマとクニである。クニとは限りある地形を表す言葉、シマも同じ。そこにクニタマの神を祭って部族が定住。広い空間は、それぞれクニタマの神を祭る多数の部族のクニの集合体であった。

E 国をシルと縄張り

 宣長はシルとは徳をもって治めること、ウシハクは武力で治めることと、儒教観念を排撃しているにもかかわらず、儒教の王道・覇道観念でこじつけているが間違い。稲田をツナ(シメナワ)を張って取り込みモル(守る)。モルがモリとなって「杜」「社」と書かれ、ヤシロとも読まれ、これはイヤシロの約で、イヤは神聖の意味、シロはシルの語尾変化。神のシルところのイヤシロ=聖域が、神のモリ=社=禁足地となる。シルはシメナワで縄張りしてある土地を侵犯から守ること。縄張りの中がシロ・クニ・シマ。シルに表される日本の政治理念は、水稲農業生活に固有の共同体主義の「縄張り精神」に深く根差している。

F クニごとにアメがある

 宋書の倭国伝によると、倭の武王は「東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国」と自国を表現した。武は雄略天皇に比定されているが、征服された小さなクニグニは境界が破壊されて等質化されたのではなく、それぞれの神々は幣を手向けられ社を建てて祭られると、危害を加えない穏やかな神になってヤワ(平和)された。

 神々はアメから降ってきた。それぞれ小さなクニごとに別々に降ってきていたのが、各氏族説話が結集される時、大部隊でタカチホの峰に降臨する話となった。宣長も高天原は「限りのあるクニ」と説き、高天原=アメを中国の天とは同一視しなかった。

G       アメノシタシロシメススメラミコト―矛盾した観念の結合

 このような氏姓時代の政治理念の上に、古代中国の政治理念が取り入れられ、新しい天皇観が生まれた。「天神の子孫だから大王になる」という日本古来の観念に、「有徳者ゆえに天意にかない天命を受け天子になる」という中国古代の天子観が載せられた。中国の開かれた世界=天下と政治、日本のシメられた世界と政治=「シル」は、二つの矛盾した観念の統合であった。

 記紀編纂当時の日本人には、天皇が中国の天子のように全世界をあまねく治めるという観念はなかった。「八紘一宇」は記紀の心で読むべきで、後代の政治的願望で読むべきではない。宣長の神観念や神国観は、当時の日本人にはなかった。

 木下説 ユニークな説得力ある宣長批判で、日本の神道理論としても面白いし、記紀の神代記の解釈としても注目すべきだが、学会の評価が不明なのが残念。氏は1976設立の日本思想史懇話会同人代表で「季刊日本思想史」が発行されている。手元の1989NO.33で既刊の目次を見ると関連する論文は見当たらない。残された問題である。09年、「季刊日本思想史」は続刊。読むのが楽しみ。

H 本地垂迹説による神と仏の融合

 欽明天皇のとき伝来した仏教は、「蕃神・客神・仏神」などと呼ばれた。日本の神は、特定氏族や地域共同体の氏神=祖先伸であったが、西方から伝来した新来の神は超氏族的・超地域的な神であって、広大な大陸諸国で祭られている神であり、きらびやかな仏殿・仏像・祭具・祭式や膨大な経典という理論書を備えていた。日本は国家仏教として受け入れ、東大寺大仏の開眼は国際色豊かで、日本人には前代未聞の経験だった。

 本地垂迹説という、神にも仏にも立場を失わせないユニークな妥協によって、両教には共存の道が開けたが、この思想は既に中国で道教・儒教の摩擦緩和のため説かれていたもの。石田氏はさらに、平安末期における浄土教の末法・辺土思想と、「和光同塵」=「菩薩が本来の姿を隠して俗世間の衆生を救済する」という思想との関連を指摘する。比叡山天台系の山王神道では、日吉神社の祭神の本地は釈迦・薬師・弥陀の3佛とされ、真言系の両部神道では、金剛界・胎蔵界の両部に諸神・諸仏を配し、儒教系の吉田神道・唯一神道につながった。いずれもこじつけに過ぎないが、本来理論を欠く神道には儒教・仏教の経典は貴重な理屈となって永く広く信じられ、今日でも説き続けられている。

I 愚管抄と神皇正統記における神道思想

I−1 天皇を支える神道・儒教・仏教思想

   壬申の乱で権力を奪取し皇位についた天武天皇は、旧来の氏族制度を温存しつつ、その上に中国伝来の律令制官僚国家を形成した。氏族代表と律令官僚という二重性格の新貴族が生まれた。頂点に立つ天皇を支える思想は、(1)記紀の神代記に明らかなように「神孫為君」思想であり、(2)儒教の教える「有徳為君」思想であり、(3)仏教の「十善の国王」思想であった。

この天皇像は、その後の歴史を通じて伝承されたが、平安半ばで幼い天皇が即位するようになると「有徳者が君になる」要素が薄まり、「十善の国王」=「前世に十善を守った功徳で国王になる」要素が強まった。この流れの末に「愚管抄」が書かれ、「祖先の冥約」が主張された。

I−2 愚管抄の場合

   1220年ころ書かれたという愚管抄は、後鳥羽院の策動による討幕運動=承久の乱を踏まえて、孟子の革命思想=有徳の臣は万民のために不徳の君を討つべしという幕府側の論理に対し、摂関家として歴代天皇を補佐してきた藤原氏の一員である慈円が、公武の当局者に自重を警告したものという。

その論理とは、天照大神がニニギノミコトを天降らせる時、藤原=中臣氏の祖先神であるアメノコヤネノミコト=春日明神に供を命じた記事を、「祖先の冥約」と称し,藤原氏の執政を永久に保証する証拠とするもの。藤原氏は飛鳥期の鎌足以来政治の中枢にあって、天皇を補佐してきた。しかし平安末期、入内した女子に皇子が生まれず、院政によって藤原氏の権力が有名無実になった。皇位も名ばかりの幼帝を上皇が支配する変則が定着し、さらに武士の台頭で幕府が公家から実権を奪っていた。それを元に戻そうとする策動が承久の乱で、そこで藤原氏の歴史的役割を強調する説が力説された。

   慈円は、その冥約を信じる九条兼実の弟だったから、歴史を貫いてアマテラスと春日明神の冥約が一貫し、鎌倉の源氏と藤原氏との出来事は、八幡大菩薩と春日明神の相談によると信じた。慈円はさらに論理補強のため、自ら座主を勤める比叡山の仏法と王法=朝廷の政治が両輪をなすという思想と法華経の観音の和光同塵思想(老子の言葉が、本地=観音が日本の神として垂迹するのに転用された)・正法・像法・末法思想(仏教の時代観、釈迦滅後、正法=正しい教えが広がる、像法=形ばかりの教え、末法=教えが衰退する。平安末期が末法時代と観念され、救いを観音に求める浄土信仰が広がった)を組み合わせた。

  第1期の正法時代=神武より成務まで、天皇の器量優れて親政、天照大神だけが働いた。

  第2期の像法時代=仲哀から後三条の院政開始まで、天皇の器量衰えて藤原氏に助けが必要となり、天照大神と春日明神が協働した。

  第3期の末法時代=院政以後、天皇に加えて藤原氏の器量も衰えて武士が勃興、八幡大菩薩を加えた三神の協働により、源氏を3代で滅亡させ藤原氏を将軍の後継ぎにして皇室を守り、国を安定させようとした。この間、観音が和光同塵して聖徳太子や菅原道真や比叡山の慈恵大師に化身して各時代の王法・仏法を助けた。

  ところが後鳥羽上皇はこの歴史の必然性を理解せず、神慮にそむき鎌倉幕府を倒そうとした。これでは日本国は滅びるであろうと慈円は、上皇と鎌倉武士に実朝のあとの新将軍が成人して摂関職を兼任するまで、三神の神意を奉じて自重するよう求めた。そのため天台座主によりかかれた愚管抄は、神道思想を中軸にし儒教・仏教思想を交えた歴史書で、天照大神の神意が歴史を貫通すると信じられた。しかし承久の乱では幕府が圧勝、後鳥羽上皇は隠岐に流され1239そこで没した。

I−3 神皇正統記の場合

   1339年南朝の忠臣北畠親房が書いた。後醍醐天皇に謀反した足利高氏が北朝の天子を立て足利幕府を作ったのに対し、南朝が正統であることを説き、後醍醐天皇の立場を擁護した。南朝はのちに北朝に吸収されたから、この本には北朝側による改変が加えられているという。

 

ここで石田氏を離れ、神皇正統記を要約する。

「大日本は神国なり。天祖はじめて基を開き、日神ながく統を伝えたもう。わが国のみこのことあり。異朝にこの類なし。この故に神国というなり。」

 この出だしは、仏教・儒教的世界観が支配的な当時なので、宣長的皇国優越思想の主張ではなく、国土を守ってくれるのが神で、皇位継承においても神孫為君の神道思想が貫流している事を指摘したもの。しかし古代の天皇親政がやがて藤原氏の補佐を要する律令官僚制となり、墾田開拓が進むにつれて中央・地方の制度が乱れ、摂関政治や院政が始まり、天皇はないがしろにされるようになった。昔天皇家から分かれた武士が地方で勢力を蓄え、中央の争いに加担するようになり、幕府を開いて政治の実権を握り、承久の乱では上皇が隠岐や佐渡に流された。持明院統と大覚寺統という皇位を巡る争いの本質は、所領の相続問題で、皇族間では処理しきれず幕府に仲裁を求めた。皇室でも貴族社会でも官職や財産配分を取り仕切る惣領的人物がいなくなったのが原因だった。(この説、誰か不明)

 そこで後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し院政も廃止し、天皇親政の昔に政治を返そうとした。一時は成功したが、足利高氏の謀反によって都を追われ、都には神器もなしに北朝が立てられ、神器を保持する後醍醐は吉野に押し込められた。後醍醐と戦いを共にした北畠親房は、わが国の天皇継承の歴史を振り返り、「正統」とは何かを論述し、後醍醐亡き後に後村上天皇を残そうとした。

 慈円が天皇の歴史で「道理」の存在を明らかにしようとしたのに対し、親房は、皇位継承の正統・傍系の判断を試みた。

 親房の論理は必ずしも明確でないが、

(イ)皇位継承には天照大神の計らい・二神の冥助・十善の戒力が働いてきたが、天皇自身のとが=業績の善悪・正邪による誤りも3件あった。武列が悪王で皇胤が絶え、応神5世の孫を継体とした時、称徳に皇胤なく傍系の光仁を選んだ時、陽成が悪王で仁明の子お宇多とした時、いずれも誤りは正された。(ロ)保元・平治の乱以後天下乱れて平家が台頭、王位が軽くなったのは皇室内の不仲=名行の破れによる。

(ハ)清盛の悪行は源氏の義兵で正されたが、安徳と共に宝剣は失われた。

(二)頼朝は幕府を開き守護・地頭を置いたので王家の権はいよいよ衰えた。しかし頼朝も北条氏も、民生安堵の功あり。

(ホ)従って承久の乱は北条家に傷はなく、この期に勢力拡大を図った上皇方の迷いに過ぎない。

(ヘ)後嵯峨から後醍醐までの持明院統・大覚寺統問題は無視。

(ト)後醍醐が倒幕に踏みきった理由も明確でない。

J 石田氏は、親房がこの書物を後村上のために書いたことを重視し、後村上が君徳を積んで経世安民の善政を行う事を要求したという。天照大神の神意による正統の君といえども、人の善悪に応報して発動する天命によらねば治世を全うできないからであった。

 愚管抄では正統の系譜は神が決めるが、神皇正統記では人の意思が介入する。天皇の心がけによって系譜は移動する可能性がある。かつては神が歴史を作ったが、いまや人が歴史を作る。承久・建武の峠を挟んで、日本人の神道思想に「神と人との関係の逆転」という大転換があったと石田氏はいう。鋭い指摘である。

木下説 慈円と親房は120年を隔てているが、その説には共通するところが多い。両書とも、論理の筋をたどり難くて、上記石田説が妥当しているか否かはっきりしないが、最大の共通点は「アマテラスにつながる天皇家の存在をこの国の特異性」としていることである。歴史の経過と共に天皇家も貴族も武士も変化したが、それをいかに評価し受け入れるかについての、時代と作者の立場の相違が議論の分かれ目となった。やがてその区別は意味をなくし、二人とも神国論を唱えた思想家として記憶されることとなった。

しかし慈円にも親房にも、宣長のような排仏・排儒思想は全くない点に注意する必要がある。江戸時代の1764ころ賀茂真淵が、荻生徂徠門下の太宰春台が日本には道がなく儒教によって神道が成立したという「弁道書」に反論して「国意考」を書き、それを踏まえて宣長が激烈な仏教・儒教排斥の「直毘霊」を著した。古事記伝の序説として執筆・分析の思想的立場を鮮明にしたもので、宣長の極端な「国粋主義」が古事記の研究の結果もたらされたのでないことを明らかにしている。

K おわりに

石田氏の神道説は、戦後タブーから解放された歴史学が民俗学・宗教学・言語学の蓄積を踏まえ、日本の神道を洗いなおす作業の一つ、ユニークな議論として面白かった。別稿で加藤周一氏が、宣長の仕事として日本古代の民俗の洗い出しを指摘し評価した事を記述したが、石田氏はそれをさらに厳密に追及・解明した。

小生は興味の赴くまま雑読を重ね、その結果のささやかな紹介を重ねているが、宣長問題についてはこのあたりで筆を置くこととする。              終わり

 

09.1.11追記

石田さんの「神道は着せ替え人形」説は、だからダメだとはいっていないことに注意する必要がある。問題は「原質」である。言葉で表現しにくいその内容を日本人は、あえて記述しようとせず、経典にもまとめないで、仏教・儒教・道教などの外来宗教思想・システムの着脱で過ごしてきた。

宗教が「人と人との関係」「人と動植物を含む自然との関係」を規定するものとすると、「唯一絶対神」という独断に支配されないこの日本人の姿勢は大勢順応・良いとこ取りのオポチュニズムともいわれよう。

しかし世の移り変わりへの柔軟な対応として明治維新があり、進化論を含む自然科学を人智の進歩の一つとしてあっさり受け入れた。資本主義はいいとしても、帝国主義・軍国主義まで受け入れたのは大失敗で、敗戦で脱ぎ捨てて平和主義・民主主義にあっさり転換という現状も「着せ替え人形」説のパターンそのものである。

世界に「原理主義」という怪物が横行して摩擦を起こしている時、「原質」不明確のまま「着せ替え人形」という日本の神道の柔軟性は、見直されてしかるべきかもしれない。

                   おわり