飯田藩補遺―山口お藤と太宰春台
2003.10.29―2004.1.22
木下秀人
飯田高校の校歌3番に「遊惰の世より抜け出でて、骨ある儒者の名を得たる、太宰春台先生は、昔この地に生れたり。侫諛ネイュの俗を退けて、血ある女と謳われし、山口阿藤その人も、またこの中に育ちたり」とあるが、二人の詳しい話は聞いたことがなく、福澤悦三郎という作詞者についても注意することなく永年が過ぎてしまった。
偶然この03年11月の飯田高校同窓会の新聞で、福澤氏が伊那出身の国漢の先生で、飯田中学在任は明治39.5‐44.3。赴任した年に「南信健児の歌」を作詞、それが校歌となったと判った。また、お藤も春台も知らない人が多い。今は3番は歌われていないらしい。
たまたま住んでいる小金井の市民講座で、ICUの小島康敬先生の指導で荻生徂徠の「答問書」を読む機会があって、徂徠の弟子であった春台について、多少の認識を加えることができた。しかしそれではとてもわかった事にならない。何冊か本を読む必要があった。
山口阿藤については、大分前に三田村鳶魚の書いた文庫本によって、烈婦説の根拠が安井息軒の「阿藤伝」にあり、それには異論があることは承知していたが、その蔦魚の本が見つからない。図書館にもない。国会図書館で探さねばという時,ようやく本箱の隅から見つかった。そこで、小島康敬「徂徠学と反徂徠」1994ぺりかん社、武部善人「太宰春台」1997吉川弘文館、相良亨著作集「日本の儒教1・2」1964ぺりかん社、原念斎「先哲叢談」1994東洋文庫、三田村鳶魚「お藤は烈女か」1998中公文庫「お大名の話・武家の婚姻」所収(原著は大正12年刊)、鈴川博「消された飯田藩と江戸幕府」2002南信州新聞社などによって概説を試みることにした。
なお、春台については、日本思想大系「徂徠学派」と、相良亨著作集「日本の儒教」1・2は、儒教史上の位置付けについて教えられるところが大であった。相良氏の書物については稿を改めて精読したいと思っている。
1 山口お藤
@ 三田村説の問題点
三田村鳶魚については、江戸時代についての膨大な著作がある事しか知らない。たまたま本屋で手にした中公文庫に、お藤と飯田藩のことが71ページにわたって書いてあった。(校歌では阿藤、息軒も阿藤であるが、蔦魚にならってお藤で通すこととする。)
蔦魚説に対する問題点は4点ある。
1は「お藤は烈女か」と、校歌にある烈女説に疑問を呈していること、
2は天保改革に貢献した英邁なはずの飯田藩主堀親宝(正字は宝の下に缶を付ける。
チカシゲ)の女性問題をあげつらっていること、
3は幕末4代の将軍に奏者番などとして仕えた嗣子親義(チカノリ)の暗愚が問題の
発端としたこと、
4は殿様の幕政への参加。本人は望んだろうが、余分な出費のもととして国許からは歓
迎されなかったということ。
事情に通じていると思われる三田村さんの意外な発言にはいささか驚かされ、また勉強させられたが、以上の問題を頭に置きながら考察する。
A 烈女説とお家騒動と安井息軒
鳶魚によると、当時大名家のお家騒動を面白おかしく書いた本があって、その中に作者不明の「飯田忠婦伝」なる写本があった。それを当代の碩儒安井息軒が鵜呑みにして漢訳「烈女阿藤伝」が公刊された。さらにそれをなぞった藤田藤陰の小説「藤の一本」が世に流布されて、烈女説となった。しかし息軒が烈女と考える理由がなかったわけではないと、蔦魚は、飯田藩の家督相続を巡っての、お家騒動になりかねなかった内幕を語る。
なお上記3冊の江戸時代の書物、国会図書館で探したが見当たらなかった。飯田のどこかにあるかもしれない。確かめたいものである。
なおこの小論執筆後に、江戸末期に噂話を集めた「藤岡屋日記」を編集した、鈴木裳三編「藤岡屋ばなし」ちくま学芸文庫に、「信州飯田藩の「お初」」という題で、お藤事件が載っているのを発見した。烈女説で終始しており、これが当時流れた噂だったのかもしれない。(04.2.8)
B 藩主堀親宝と嗣子親義とその弟
親宝は徳島25万7千石、蜂須賀侯の妹を正室としたが(彼女の姪が後に松平定信の嫡男の正室となった。蔦魚は彼女を定信の姪としているが誤り)、迎える親宝18歳に対し夫人は20歳でその間に子は生まれず、側室によって15人の子女(当時珍しいことではない)があったが、長男は早世した。お糸という側室に生ませた次男が親義で、嗣子のはずだが親宝になつかない。「癇性で発育が鈍く」と伊那03.11に永井辰雄氏は書いているが、蔦魚は暗愚だからであるという。ところが同腹で2歳下の三男が怜悧といわれ親宝の心も傾き、まだ幼年の大納言家慶の紅葉山東照宮と赤坂日枝神社参詣のお供に選ばれ(年齢で親義は該当しなかった)、将軍家斉へのお目見えも兄に先立ち、家督論が御殿女中の口の端に上るようになった。
C 側妾蒹お年寄若山
この間親宝の寵愛は、お糸から中老若江(後に阿藤に斬られたお年寄若山)に移った。若江は、お糸と同年輩で美人ではなかったが才気もあり文筆も立ち、殿様の心を捉え離さなかったので、側妾は現役のままでお年寄として奥向き支配をも任されるようになった。この人が、嗣子ではあるが暗愚な兄でなく弟を押すようになった。殿様と一体の立場である。「烈女阿藤伝」に、この人の姉が西丸御殿でお年寄を務め、親宝の幕閣へのとりなしに役立ったとあるが、蔦魚はそれらしい人を推定してはいるが、地位も低く時期も場所も異なると否定している。
お家騒動の危機感を抱いた国許から、親宝の叔父(蔦魚は従兄弟としているが間違い)に当たる家老安冨主計が江戸に来て諫言をした。黒幕と睨まれていた若山は一時君側を離れたが、安冨帰国後、老女豊浦(後に若山に戻る)として復帰した。よほど気に入られていたらしい。間もなく問題の弟が急死して家督問題はなくなったが、復帰した若山が、側妾の身でお年寄りとなって奥の取締りをするのがけしからぬという若山排斥問題が表面化した。蔦魚も異例と批判するこの点が消えないで、若山は親宝から名跡を与えられる恩典に浴し、それがまた周囲の反感をそそり、お藤の凶行は、原因など一切発表されなかっただけに、「君側の奸を除く烈婦」という物語にふくれあがった。
D 親義お手つきのお藤と若山排斥問題
嗣子の立場が安泰となった親義は、天保改革で親宝と一体の水野忠邦の妹を正室として迎えたが、いつか若山のところに召し使われていた地位の低いお藤に手をつけた。お藤の父は飯田藩の江戸屋敷に勤める下級武士であった。鳶魚は、徳川泰平爛熟文化という時勢にあって、側妾蒹お年寄という異常を許した飯田藩の風紀の乱れを指摘しているが,取り締まりの立場にあった若山は、若殿と下女との事件を心配して親宝に打ち明け、お藤を親義附き中老に取立てる解決を願った。しかし水野に遠慮して自身の生存中は親義に妾を持たせなかったほどの親宝は(自分に比べれば厳しすぎるが)これを拒否、お藤を御殿から下らせた。実家に戻されたお藤は、金貸しの盲人と結婚したが間もなく死別し、再び実家に戻ったが、父親によって親宝の妹で出戻っていたお重様の屋敷へ奉公に上げられた。まだ20歳であった。この経緯からすれば若山はお藤の味方であった。
若山は、親宝の従弟西尾為右衛門の男子を養子として名跡を立てることを認められたが、国許の家老安冨は西尾氏と犬猿の仲という偶然が、安冨の若山への反感をさらに荒立てることになった。そして江戸屋敷における若山の側妾蒹お年寄の問題は未解決で、国許で若殿によるお家安泰を願う安冨は、鳶魚によればその排斥の巨魁なのであった。
E お藤の決意
お藤は、若山が豊浦といった天保元年から姫君付でいたので、若山がお年寄りで寵愛を受けている事を知らないはずはない。しかし憤激して殺意を決したのは天保9年冬という。この年、若山は名跡を立てられた。しかし親義の生母お糸も若山の先任老女もこの恩典に浴していない。それが影響しているかも知れないと鳶魚はいう。若山排斥の周囲の風潮と自身の不安定な精神状態とが相乗じたのではないかというわけだ。お屋敷を下げさせられてからの不幸な結婚で、お藤は悪い病気を貰い、精神異常説もあるらしいが蔦魚は否定している。
若山は上屋敷,お藤は下屋敷にいる。毎年虫干しにお年寄が来るのが接近のチャンスだが,この年来たのはお糸であった。お糸は若山と年配も同じ、しかも若殿の生母なのに名跡など与えられていない。嫉妬・敵対感情があってもおかしくない。お藤へのお糸からの手紙があったというが、教唆説には証拠が伝わらず不明である。
F 凶行とその後
お藤は、虫干しに若山が来ないので天保10年9月2日、若山から呼び出されたと偽り、自宅から脇差を持ち出し、西丸下の上屋敷に夕方到着した。宿直している父親が明日帰宅するというので、決行はその後にすべくその夜は足軽小屋に無理に泊った。
3日朝お藤は、まずお糸の部屋に寄り、そこで父親の退出を待った。しかしこの日は、殿様が下屋敷へ行くというので父親の退出は遅れ、お藤は若山と二人だけで接触する機会がなかなか掴めない。結局、父親と話していた若山が戻って来たところを背後から襟髪をつかみ、右手の脇差で脇腹を突いた。逃げる若山を追おうとしたが、父親に取り押さえられた。脇差は衣服が見苦しいからと合羽を着て隠していたが咎める者はなかった。若山にもお藤にも武術の心得はなかった。
若山の傷は1箇所で、重くはなかったらしい。自分の部屋で加療し床上げを急いだのが傷口を化膿させることになり、3ヶ月後に死去した。
お藤は吟味方、館野東六・柳田東助によって内密に取調べられ、若山死後に飯田へ送られ、12月4日首を打たれた。辞世は「しなのなる山路の雪ともろともに、春をも待たできゆる今日かな」であったという。大殿・若殿に関わることなので、お藤が「ただただ若山罷り在り候ては宜しからずと一図に存じこみ,何分止み難く,右の次第に及び候」と口供したというが、吟味役は取調べ内容を一切口外せず、藩中では噂をするのも禁物であったらしい。だから膨らんだのであろう。お藤の墓は箕瀬町の長源寺にある。
お藤の父親は、事件後国詰となって俸給を減額されたが、親義が家督相続後再び江戸詰となり、従前どおりの役に戻った。親義には若山を心よく思わない理由がある。お藤とは愛を交わした仲であった。このあたりにも烈婦説の生まれる原因があると思われる。
G 親宝とその幕政への参加
蔦魚は、親宝の子女の多さを家斉・家慶の多さと並べて挙げつろい、側妾である若山をお年寄に引き上げ、奥の取締りをさせたことをけしからぬと批判しているが、他方親宝が、家慶将軍の奏者番・寺社奉行・若年寄・御側用人と昇進し、天保の改革では水野忠邦と組んで「随分鳴らした」ことを認めている。また、殿様の幕府勤めは、多額の出費をもたらすとて、藩財政を預かる家臣からは忌避されたとも書いている。しかし親宝が若殿時代に、家臣や領民に心配りのある振舞で明君の誉れがあったことも書き落としていない。
幕閣において若年寄の時、付け届けが半期1200両もあったが、内外に殿様料として散布を惜しまない。その人心への配慮が御側用人への昇進を呼び寄せた。妻方の姻戚にあたる松平定信からの「そんなにまわりに心を使わずに、少し横着をしたらどうだ」という手紙が残っている。弱点は女色であったと蔦魚はいうが、15人の子女を生んだ女性は4人、正妻と若山など子を産まない女性もいたろうが、27から61歳までであるから当時では不自然ではない。咎めるには当たらない。
親宝時代の幕政がらみの持ち出しは、奏者番拝命に付き3000両、将軍日光参拝に付き3500両、若年寄拝命に付き13000両の御用金が領民から徴収されているから(消された飯田藩と江戸幕府、鈴川博2002南信州新聞社)確かに負担は重く領民にかかった。金座の後藤三右衛門との関わりはこの負担と関係したろうし、水野とともに失脚後に、加増の7千石召上げに加え本領2万石が3千石削減されたのは痛かった。領民からの御用金は幕末にどうなったかが問題だが、返済が建前ではなかったか。
蔦魚が掲げる文政10年1827の堀大和守親宝を痛烈に皮肉った落首。誰が作ったか何に載せたか書かれてないが、真実を突いて笑わせる。
寺社奉行掘り出し物の小身は、若年寄がやまとうぞ見ゆ(大和と山が遠いを掛けた)
身上にこれから穴を堀大和、いつの世にかは梅の紋所(穴を掘る、堀家の=家紋梅花紋の梅と埋めを掛けた)
親宝の負債と減封の後を継いで、幕末・維新の激動期に藩主だった親義は、家慶・家定・家茂・慶喜の将軍4代に主として奏者番として仕えたから、さぞ物入りだったろうと思われる。返済の状況は明らかでないが、明治になってからの偽金騒動では全額補償したらしいし、明治13年親義の葬儀では葬列見送りが延々と続いたというから、苛酷な取立てで嫌われてはいなかったのであろう。
H 親義は暗愚か
蔦魚の評価で,一番引っかかるのは殿様のこと、殊に親義の評価が低い。親宝については、若山問題がお家騒動寸前まで藩政を混乱させたが回避できた。幕政参加は金はかかったろうが、それなりに評価されている。しかし親義については、幕末動乱期の将軍4代にわたる忠勤について言及もしないで馬鹿者扱いはいかがなものか。殿様を馬鹿呼ばわりは維新後に珍しくないが、蔦魚ともあろう人、知らないはずはないのにひど過ぎないか。しかもケチだという。
親義が藩政を受け継いだ時には、飯田藩の石高は親宝時代の加増で膨張した27000石から17000石に減っていた。人減らしができない以上緊縮財政が当然であったが、蔦魚は親義をケチだ世間知らずだ低能だと指弾して止まない。
親宝には晩年に生ませた7歳男子と5・4・3歳の女子=4人の子を抱えた側室がいた。親宝死後の冷遇を悲しんで母親は自殺したと蔦魚はいう。しかし子を生ませられなかった親義は、その女子の1人を養女にして養子を迎えている。この養子とは気が合わなくて間もなく離縁となるが、母親の自殺が親義の冷遇への抗議であったなら養女にはしないであろう。そもそも馬鹿殿様の葬列を、維新後の領民が延々と列をなして見送るはずはないであろう。
蔦魚がこの論説を刊行したのは大正12年で、資料がまだ十分でなかったとは推測されるが、親義馬鹿殿説は間違いではなかろうか。郷土史家の反証を聞きたいものである。
2 太宰春台(1680−1747)
太宰春台について小生は、荒町の太宰楼という料理屋が屋敷跡であり、太宰松という曲がりくねった大木(大火で消失)があったこと、我が家にある「太宰春台」という本の主人公がそれである程度の認識しかなかった。大学で丸山真男先生に習い、「日本政治思想史研究」を読んで、初めて春台が荻生徂徠の弟子と知った。
春台は江戸中期の儒学で覇をなした荻生徂徠一門の儒者で、徂徠の儒学の「経世済民」面を受け継ぎ、「詩文」を受け継いだ服部南郭と双璧をなした。徂徠の儒学は、幕府主流の朱子学ではなく、それを批判する古学派の伊藤仁斎に連なる古文辭学と称する一派であったが、古典の正しい読み方を主張し,新しい政治のあり方を提唱して広く受け入れられた。
立ち入って考察するとまことに興味津々であるが、詳しくは別稿で論ずることとし、ここでは春台の家系と経歴に焦点を絞って略述する。経歴は主として武部善人、「太宰春台」による。
@ 父は飯田藩の重臣だったが、春台8歳のとき浪人となった。
太宰春台の父は、言辰ノブトキといった。若き織田信長の守役で、治まらぬ素行を死をもって諌めた平手政秀の後裔=外様であるが、母方の縁で同じ外様の飯田藩200石の重臣太宰謙翁の娘梅(後游と改名)と結婚し養子となった。梅は20歳下であった。長男重光が生まれたのが1672年で、言辰の飯田赴任は1679年とされている。1672年は堀藩の飯田転封の年であるから、縁組はその前ということになる。
元禄元年、春台8歳の時飯田藩を離れた。飯田在住は足掛け10年であった。原因は同僚との争いともいわれるが、鈴川氏は、将軍綱吉に小姓として仕えた3代藩主親常の藩政改革の犠牲ではないかという。綱吉は徳川一門や譜代大名に遠慮なく改易の斧を振るったが、親常もそれにならって高禄の重臣にリストラを強制し、家臣団を再編成したのではないか。だからこの頃、堀家の重臣が相次いで改易・降格・減禄されているという。
太宰言辰は飯田藩退去の時、槍を掲げ列を組んで堂々と歩み去ったという。豪気な人だったのだろう。春台は礼にこだわる厳格謹直な人だったらしいが、死去の時、遺言して葬列に槍を掲げさせたのはこの故事を踏んでいると思われる。
父親の浪人に伴い、春台も飯田を離れた。しかし春台は飯田を懐かしみ、また平手政秀を誇りとし、署名に「信陽」を加えたり、「東都処士本姓平手氏中務大輔政秀五世孫」と名乗ったりした。
言辰52歳での浪人生活であったが、既に元禄平和謳歌の時代、商品経済の浸透で各藩ともに財政難。出費切り詰めで武術で再就職の道はなく、家計はわずかの蓄えと主婦のやりくり内職に依存せざるを得なかった。春台の8歳上の兄重光は病弱で(後仏門に入る),期待は春台の肩にかかり春台はそれによくこたえた。春台は父から素読を学び豪気を受け継ぎ、母の薫陶を受けた。母の影響か和歌を学んで12−3歳までに3−4千首詠んだが、和歌では公卿に対抗できないと焼き捨て、漢詩に転じたという。面目がうかがえる。
B 出石藩6年出仕後、放浪生活10年
貧窮のなか15歳で但馬出石藩松平忠徳の小姓となる。17歳朱子学者中野ヒ謙の門に入る。21歳母死去45歳。6年出仕した出石藩の退職で藩主の怒りを買い10年間禁錮=他藩に出仕できなくなる。その10年間、25歳京都に行き伊藤仁斎の講義を聞いたり、各地を放浪したり、大阪で30歳結婚したり、医術で貧乏生活を支えたり、しかし舞の免状を取ったり笛の名手となったり、勉学以外に余裕がないわけではなかったようである。
32歳江戸に戻って中野門で親しくなった安藤東野の仲介で荻生徂徠に対面。禁錮が解け、寺社奉行生実藩主森川重令より5斗の扶持を受ける。35歳妻死去。再婚する。36歳生実藩を4年で辞め、小石川牛込天神あたりに私塾紫芝園を開き、研究・執筆・教育活動を始める。徂徠門で頭角をあらわす。42歳火災にあい、芝浦に一時仮寓、この頃「紫芝園前稿」刊行、春台の名声次第に上がる。44歳父死去88歳。幾つかの大名から扶持米が贈られるが、後に断る。潔癖で作法にうるさいのである。紫芝園に俊才が集まり、厳格で礼儀正しい教育が注目される。49歳荻生徂徠死去63歳。50歳主著「経済録」刊行。吉宗が見たいというのを断る。将軍にもへつらわない。53歳「上書」を建白。「聖学問答」ほぼ成る。刊行は57歳。63歳定保を養子に迎える。68歳死去。結局嗣子は家名を残せなかったらしい。
D 春台の儒教史上の位置付け
簡単にいうと、江戸幕府は、京都朝廷に対し自らを合理的に位置付ける教学として、儒教の朱子学を採用し林羅山がそれにあたった。朱子が重んじた「大学」に、正意・誠心・修身・斎家・治国・平天下とあるように、修養によって国を修めることを要求する哲学であり、忠・孝・義といった身分に基づく規範の遵守も要請していた。しかしそのうちに、朱子学の煩瑣な規範主義は、孔子が説いたことと違うのではないか、聖人の真意は孔子・孟子の直接の精読に依るべしという日本独特の「古学」思想が伊藤仁斎によって唱えられ、徂徠はこの系統の大学者として「弁道」「弁名」を著し、柳沢吉保に仕えて綱吉将軍に関わり、吉宗将軍にも「政談」「太平策」などの政策論を献じ、多くの弟子を養成した。徂徠の学問は多岐にわたったが、弟子は、自由な文学生活を享有しようとする派と、時代の問題を直視し経世済民を志す派との二派に分れた。前者を代表するのが服部南郭であり、生真面目な太宰春台は経世済民派であった。
E 明治政府の徂徠処遇
維新後の新政府は華族制度や位階勲等制度を設けて、暦史上国家に貢献した人にも追贈した。江戸時代の主要な学者は殆ど贈位された。国学四大人は揃って従三位、儒学では闇斎・山陽が従三位、仁斎・蕃山・白石は正四位、しかし徂徠は、大正天皇即位での大量贈位でも外された。徂徠が生前「朝廷を押さえ幕府を持ち上げ将軍を皇上と称したこと、日本夷人物茂卿とへりくだり孔子・中国尊崇をしたこと」が天皇制国家主義体制下で問題となったらしい。従って弟子である春台も外された。贈位がなかっただけでなく学界でも敬遠された徂徠を、きちんと儒学思想史に世界共通の用語で位置付ける仕事は、1941‐2年=戦時中の丸山真男まで待たねばならなかった。春台もそのあおりを食った形跡なしとしないであろう。
春台が日本にのみ伝わった古写本によって、徂徠死後に刊行した漢の孔安国「古文孝経孔安国伝」は、中国=清朝に輸出され、訓詁が盛んであった現地学界で評判となり,太宰純が何者か不明のまま覆刻された。春台の学問水準を知るべきであろう。
F 日本思想史上の儒教
日本の哲学思想には古来、インド・中国に由来する仏教、中国の儒教・道教、日本固有の神道という三つの流れがあり、近世になって西欧の近代思想・キリスト教が加わった。明治維新は徳川幕府こそ倒したが、成立した政権は万世一系の天皇絶対主義イデオロギーであった。その思想は主として江戸時代の国学が提起した「神話」に過ぎなかったが、歴史学も思想史学もその思想に呪縛され、自由な研究は戦後まで抑圧された。