木越安綱と山本権兵衛―明治末・大正初期の陸海軍と政治の考察―明治篇

                 2001.8.11−04.3.20 木下秀人

 木越安綱は石川県の人、妻は柳田国男の妻の姉で、小生の田舎飯田藩の柳田・安東家の閨累に関わる人で陸軍大臣を勤めた。舟木繁氏の「陸軍大臣木越安綱」1993河出書房新社によって、大臣時代に「陸海軍大臣現役武官制」という昭和史において宇垣内閣を陸軍が流産させた事件に関わる制度を、大正期に山本内閣で陸軍の反対を押しきって改正し、伊藤正徳氏の「軍閥興亡史」で評価された人物として教えられた。

 山本は薩摩海軍のボスで日露戦争の功労者、そのとき首相であった。問題は陸軍の2個師団増設、海軍の八八艦隊建設に関わっていた。私見によれば、この予算獲得に関する陸海軍の軋轢で、陸軍の面目をつぶした山本のやり過ぎがその後の陸海軍対立の淵源である。

 以下舟木氏の叙述に伊藤正徳「軍閥興亡史」昭和33年文芸春秋新社、信夫清三郎「大正政治史」昭和29年河出書房、升味準之輔「日本政治史2」1988「日本政党史論第3巻」1967ともに東京大学出版会、岩波講座・日本歴史18所載の江口圭一「1910-30年代の日本」1994の記述を加味し、財政・政治状況を折込みながら考察する。

 

1 日清・日露戦争の戦費と財政

 日清戦争は2億円の戦費を要したが、3億6400万円の賠償金を得た。剰余金を英国に預金し金貨を鋳造して念願の金本位制が実現できた。

 日露戦争はほぼ9倍の17億1644万円という戦費がかかった。その戦費をまかなったのは増税と内外国債、とりわけ10億4400万円の外債であった。賠償金はなかったから内国債を含めての元利償還資金は借り換えがやっとで残高は増えるばかり、いかにして財政を圧縮し借金を減らすかがその後の財政に重くのしかかった。国債残高の日露戦争=0405年に向かっての急増が数字に明らかである。

 しかしロシア陸軍は退却しただけで健在だった。日本海海戦でのロシア海軍の完敗が、国内情勢もあり皇帝にルーズベルトの講和斡旋を受諾させたに過ぎない。山梨勝之進は「歴史と名将」で、「ロシア艦隊は旅順になど移らずウラジオストックにいればよかった。バルティック艦隊も回航する必要などなかった。海軍の大敗戦が講和のきっかけを作ってしまった」という。実際日本陸軍は弾薬が尽き、これ以上交戦は不可能だった。

 一般会計歳出・軍事費・国債費・GNP=大川統計 単位百万円・歳出は予算でなく決算額

明治年29  30   31  32  33  34  35  36  37  38  39  40  41  42   43

歳出 168 223  219  254  292  266  289  249  277  421 464  602  636  533  569

軍事費 73 110  112  114  133  102  85   83   32   34 129  198  213  177  185 

国債費 30  29  28   34   34   37   42   36   31   49  151  174  176  153  154

同残高357 399  391 488  386  502  530  539  973 1870  2199 2254 2228 2582 2650

GNP 1666 1957 2194 2314 2414 2484 2537 2696 3028 3084 3302 3743 3766  3780 3925  貿易収支                            -14  -28   -78  -176  -3  -64   -69  -17  -13   

 だから日本は依然ロシアに向かって備えが必要であった。さらに新たに獲得した南満州鉄道・南樺太・朝鮮などの権益保護のため経常軍事費は増加する。39−41年に、歳出の37%増加に対し軍事費は65%増加であった。野党の財政にたいする批判は軍事費に向かった。しかし軍主流派はその圧縮に抵抗した。

 

2 藩閥・官僚政府と民権野党の対立

 明治22年憲法が制定され、国家予算の成立には議会の協賛が必要となったが、その議会は発足早々から薩長藩閥・官僚支配に対抗する自由民権=政党勢力の争いとなり、野党勢力は増税軍事予算拡充に抵抗した。

 日清戦争直前の明治24-26年に軍艦建造費全額削除3回、これに対抗して政府は議会解散すること2回。この抗争は日清戦争で休止となったが、明治36年日露戦争直前にも議会は建艦費を否決し、政府は解散で応じ、戦争勃発で抗争は休止した。日露戦争後も大正元年12月、陸軍の2個師団増設否決など、野党の民力休養=財政圧縮要求に対し軍備拡張の政府予算案はほとんど議会通過に成功しなかった。選挙と新聞=マスコミの普及が強権的支配を難しくしていた。社会主義・無政府主義などの「危険思想」も流入し、大逆事件が起きた。

 この間、野党側は政府の選挙干渉・議会操縦に対抗し「護憲運動」を展開し、藩閥・官僚内閣に対する立憲政治=議会多数党による政党内閣の成立を求めた。賠償金の取れなかった日露戦争の講和にも大々的反対運動を展開、民衆の暴動化は政府に衝撃を与えた。

内閣は歴代伊藤・黒田・山県・松方・伊藤・松方・伊藤・大隈・山県・伊藤・桂などの薩長藩閥勢力の回り持ちで、唯一の政党内閣である大隈内閣は4ヶ月しか保たなかった。しかも藩閥は薩摩の海軍、長州の陸軍といわれる軍閥を形成した。

 

3 軍部大臣の現役武官制

 英米では陸海軍の長官を文官が務める事は珍しくない。同じ儒教文化のもとにある中国や朝鮮が文官優位の統治構造であったのに対し、日本は鎌倉時代に公卿政権が実権を失って以来、武家政権が続くという特異な国であった。従って尊皇攘夷・王制復古というスローガンのもと一旦は公卿に政権が返還されたかにみえた明治維新であったが、徳川政権を引き継いだ明治政府の実質的支配者は薩摩・長州を中心とする武士達であった。

 明治憲法において天皇は参謀本部・軍令部によって「陸海軍を統帥」し、陸・海軍省は「陸海軍の編成と常備兵額を定む」と規定されていた。この規定が後に「統帥権」の内閣からの「独立」という奇妙な説に転化され内閣打倒・軍部暴走の手段・原因となった。シビリアン・コントロールという近代国家の原則に対する軍部の抵抗手段となったのが陸海軍大臣の現役武官制=大臣推薦拒否という組閣妨害であった。

(1)明治陸海軍創設の頃は、文官といっても旧武士勝海舟の海軍卿、陸軍中将西郷従道の海相、西郷外遊中の大山陸相の海相兼務など、人材不足による変則があった。しかし官制で現役将官でなければならぬと規定された。

(2)その官制の将官専任制を、23年海軍(山県内閣)、24年陸軍(松方内閣)が、大臣・次官について削除した理由は不明。明治天皇は大丈夫かと心配したというが、実質的には文官は任命されず現役将官制が不文律として継続した。

(3)明治31年大隈・板垣内閣で問題が起きた。明治31年第3次伊藤内閣が衆議院解散すると、大隈の進歩党と板垣の自由党は合併して憲政党となり政府に対抗しようとした。伊藤は自ら政党を結成して対抗しようとしたが山県が反対したので、政権は伊藤の指示で突然憲政党に転がり込んだ。日本最初の政党内閣が生まれようとした。軍部は阻止の動きに出た。組閣妨害の初めである。大隈・板垣の政党は軍事予算削減で軍部に対立していた。軍部の動きを察知した大隈は、軍部大臣を得られないことを理由に大命辞退を奏上、勅諭による桂陸相・西郷海相の留任を得たが、両相は就任に際し大隈・板垣に日頃の軍備縮小を引っ込めるという条件をつけた。妨害は予算編成にまで及んだ。

 2度まで建艦費削除で軍部を痛い目に会わせた政党が、初めての組閣に当たっての軍部の壁はこの他にも厚かった。大隈は政党人に政務に習熟させようとして各省に「参与官」を置こうとしたが陸海軍は拒否。行政整理実施に「臨時政務調査局」を設置し各省から練達の職員の供出を求めたがこれにも不参加。各省定員削減による人件費節減にも陸海軍は非協力。しかし予算編成で松田正久蔵相は赤字を埋める為軍事予算の増額を認めず、西郷海軍は頭だけ出せばで妥協、桂陸軍も要求の半分で収めて予算成立となった。

 内閣は尾崎行雄文相の「共和演説」の処理を巡る旧進歩党と自由党との内輪もめ(といっても西郷・桂・星の策動)によって4ヶ月で崩壊したが、後に西園寺内閣瓦解の種をまいた上原と違って桂は妥協を知っていると伊藤正徳は褒めている。

(4)明治33年軍部大臣現役大中将に限定

 大隈内閣の後は第2次山県内閣であった。山県は星を通じて憲政党(自由党)と提携したが、提携の代償として閣僚の椅子の要求が拒否されたとき自由党は山県と断絶し伊藤支持にまわり、伊藤を総裁に頂き官・財界人・憲政党を主とし過半数の代議士を糾合する、藩閥と民党合同の政権党政友会が誕生した。山県・桂は、官制改革に乗じて軍部大臣現役制の不文律を明文化し、軍の利益に反する政府の存立を許さない為の予防線を張った後伊藤に首相の座を譲った。そもそも明治20年頃は予備役の将官は少将が2人だけだったが、33年となるとそれぞれ2桁に増え、反主流派の好ましからざる人物=谷干城・三浦観樹などが明らかに実在し、この人達が政党側につく危険性があった。山県・桂の深慮遠謀だった。

 

4 民権と政権、軍備拡大と護憲運動

 議会開設以来、政党=民権と藩閥政権との間には対立があった。藩閥間でも薩・長に割り込もうとする土佐・佐賀勢との争があった。まだ殺伐な時代、議会周辺で院外団が日本刀を振り回して反対派を襲うことが日常だった。話し合いによる意思疎通はなかった。そして相次ぐ戦争による赤字財政。それは増税と借金=内・外国債でまかなってきたが、国民の負担、外国からの借入=外債も限界ではないか。にもかかわらず行政整理に協力どころか軍備拡大を要求して止まない軍部。自ら政友会を組織した伊藤と異なり、山県は公正な立場に立つべき元老の政党加担には反対で、自分の意思を明示しない性格と権力欲から陸軍の黒幕視され、長閥・軍閥の代表者とされて現役将官制を盾に倒閣にでる横暴さが民党の攻撃目標となった。しかし国会には選挙があり、国政に関し重大な問題を国民の意思を無視して行うことはできない。怒った政党は「護憲運動」という国民運動を組織し、火がついた民衆の怒りが大正政変を爆発させた。矢面に立って傷ついたのは陸軍であり桂首相であって、老獪な山本率いる海軍は、陸軍以上に金を食い当時の東洋で慌てて建設する必要が゙ない点では師団増設と変わらない八八艦隊建設につき政友会を納得させてしまい、世論にも咎められなかった。傷ついた陸軍のその後の暴走、陸海軍の感情的疎隔はそこから生まれたのではないか。

 

5 日露戦争と桂太郎――政治も陸海軍も一致協力した

 日露戦争時代の首相は桂太郎=長州であった。(最初は井上馨が指名されたが大臣が集められず桂にまわった。)陸相は寺内=長州、海相は山本=薩摩であった。参謀総長は大山=薩摩、次長に内相から児玉=長州が就任、この人事配置の特異性は陸軍において薩摩と長州が組んで、海軍の薩摩と協力体制があったこと。後に大山は満州軍総司令官、児玉は満州軍総参謀長となり、二人は開戦時から「第三国の調停」を考えており、大山が赴任前に山本に「軍配団扇」の上げ方を頼んだ話が伝わっている。

 38年1月旅順開城、3月奉天会戦でロシア軍は退却したが兵力は残っている。大本営は6個師団増設を政府に迫ったが、桂首相・寺内陸相は財政的に不可能としてこれを承認しない。手詰まり状態の下で日本海海戦の勝利があった。ロシアはルーズベルトの調停を受け入れた。しかし賠償金なしのポーツマス条約は国民に受け入れられず、講和反対国民大会・交番焼討事件が引き起された。

 講和条件が国民に不評判であったにもかかわらず、桂は日露戦争で侯爵、韓国併合で公爵に叙せられ、内大臣となって位人臣を極め政界の表から消えた。それが戦後の財政と軍事費増額問題を西園寺内閣が処理できず後継が求められたとき、内大臣の地位を利用したかのごときやりかたで政界に復活したと非難され、それが護憲勢力や民衆の反政府の動きに格好の油を注ぐ結果となった。

 そもそも桂内閣は、初めての非元老内閣で、元老山県に操られる「二流内閣」「小山県内閣」(山本海相以外は山県系の人物ばかりだった)といわれて登場したが、桂は山県・伊藤を操って大本営のいうままにならず、財政を考慮して遼陽会戦後の4個師団増設要求を半分に査定し、日英同盟を成立させ、日露戦争をポーツマス条約までこぎつけ、勝利に貢献した。しかし民権思想・政党政治思想の普及は、民衆の動向や議会多数党の意向を無視しては政治が成り立たない社会的条件が徐々に成熟していることを告げていた。このことに早く気付いた伊藤は明治33年自ら立憲政友会総裁となり日露開戦にも消極的であった。この元老政党党首制は、元老である伊藤が首相であるときはいいが、首相でないときは政友会は野党となる。野党党首として政府攻撃をする立場と元老として話をまとめる立場とに矛盾(この矛盾は公卿西園寺にとっても同じだった)が生じる。要するに伊藤の存在が政党にとって邪魔になってきた。かくて枢密院議長西園寺との総裁の椅子の交換があり、伊藤は政界の表から消えて韓国統監となり、やがて暗殺されてしまう。日露戦争において陸海両軍の纏め役だった大山巌は政治には関わらず、戦争終結について軍内部を押さえるに大きな役割を果たした児玉源太郎は翌年早死にしてしまった。

 日露戦争終結時の混乱を見越した桂は、政友会の実力者原敬を介して西園寺と終結への協力を代償に、首相の座を西園寺に譲る密約を結んだ。桂超然官僚内閣と西園寺政友会内閣の政権互譲「桂園時代」の始まりである。

 

6 日露戦争と軍備拡大の推移、帝国国防方針制定

 戦後財政に苦しむ政府、税負担にあえぐ国民は軍事費縮小を期待する。野党と軍部は議会において激突した。

 日清戦争は常備7個師団で戦ったが、日露戦争開戦時の陸軍は近衛師団を含めて13個師団。遼陽会戦後2個師団増設して15個師団。沙河戦で2個師団増やして現役17個師団。これに予備混成の8個師団を加えると25個師団となる。対するロシアは、45個師団が健在で報復攻撃が想定されていたから、児玉はこれに対抗すべく野戦6個師団・補充4個師団を加え、35個師団でないと対抗できないと見積った。前途遼遠の35個師団は別としても、8個師団の増設は急がなければならなかった。新たに獲得した南樺太に加え朝鮮情勢も不穏であった。戦争は終わったが軍備縮小などできなかった。

 海軍は、日露戦争前に既にロシアに対し優位であった。戦艦・装甲巡洋艦の排水量・艦齢・速力を加味した佐藤鉄太郎の評価(日本海軍史2巻)によると、英国675、フランス202、ロシア198、日本142、米国122、ドイツ104となっていた。ロシアの主力はバルティック海にあったから、ウラジオストックや旅順の艦船に対しては日本は優位であり、だからこそバルティック艦隊の東洋回航があり日本海海戦があった。

戦後の海軍はロシアの主力艦の捕獲活用、小型艦艇の建造が加わって戦力は増加した。戦前の軍艦7827万トンが、戦後には10641万トンに拡大していた。ただこの間海軍思想には大きな変化があった。米国海軍軍人マハンの「海を制するものは世界を制す」という海上覇権思想の出現であり、英国における高速・大口径砲前面装備の「ドレッドノート」型戦艦の出現であった。列国は海軍力強化競争に突入し、特に米国の増強が顕著だった。明治43年の各国海軍力評価は、英国1292、米国560、ドイツ486、フランス367、日本312、ロシア158で、当面の敵ロシアを失った日本海軍は米国を仮想敵と選び、太平洋の向こうの米国との建艦競争を迫られる事となった。海軍も軍備拡大の必要を言論界・政界に向かって巧みに宣伝・主張した。そのあたりが陸軍に比べて海軍のうまさであったと伊藤正徳は記している。「大海軍を想う」の作者伊藤には、これが平和の海に波風を立てる愚かな選択という意識は昭和敗戦後にもなかった。

 明治40年4月、陸海軍の合意に基づく初めての「帝国国防方針」が制定され、「統帥権」の為協議後に意見を求められた西園寺首相は、所要兵力は財政状況に応じて整備したいと奉答した。ここにおいて、陸軍はロシア、海軍は米国を仮想敵国とし、陸軍は常備後備を含め25個師団を、海軍は戦艦・巡洋戦艦各8隻=八八艦隊を目標とすることが決定された。

大正政変はこの目標の実現を巡って展開された。この方針決定に西園寺首相の不関与は明らかで、陸海軍間でしっかり議論はされず単に陸海の数字を単に合わせただけという説がある。その後の推移を見ると、陸海勝手に予算を取合うだけで、軍事予算として統一的管理がされていたとはとても思えない。情けないことである。

 

7 米国の太平洋への登場――海上覇権論

 ペリー艦隊で1853年日本に開港を迫った米国は、翌年和親条約を幕府から勝ち取った。この幕府の攘夷から開国への転換、そして井伊大老の尊皇派弾圧が幕末騒乱の契機となった。しかし火付け役の米国は南北戦争の混乱に陥り、太平洋に積極的に関わるのは明治30年ハワイ合併、31年米西戦争でフィリピン保護領化、そして日露戦争講和斡旋であった。

 この間欧州各国の帝国主義的東洋進出が中国・朝鮮に対して活発で、ロシアの不凍港を求めての南下が日清・日露の戦争となった。勝った日本は「一等国」に昇格したものの財政基盤は虚弱、工業水準もドイツ・米国に著しく遅れていた。しかもロシア陸軍は健在であった。さらに南北戦争を終えた新興資本主義国米国では大陸横断鉄道が開通し、米西戦争でフィリピンを保護下に置き太平洋政策が始まろうとしていた。

米国鉄道王のハリマンが満州の鉄道運営につき提携を申し入れ、桂以下で仮調印したのに、ポーツマスから帰国した小村の猛反対で解約したことは既述した。時代はずっと下るが、鮎川義介の試みた日産の満州移駐=昭和12年は、米国からの資本導入が前提であった。しかし関東軍の横暴がまかり通る状態では所詮かなわぬことであった。米国は大量の移民を世界から受け入れ、広大な国土・豊な資源を背景に躍進する工業生産力は日清戦争前に英国を抜き世界一、国力は日を追って充実し、資本輸入国から資本輸出国へ脱皮しつつあった。

その米国を日本海軍は、仮想敵国として対抗しようとした。国力を考えた賢明な判断とは思えない。僥倖の戦勝に浮かれたとしか考えられない。日露戦争に際し伊藤・井上は日英同盟反対・日露協商派=平和論であったが、山県・桂=主戦派の日英同盟成立によって押しきられた史実がある。日露戦争は文武の智恵を集めて戦われた。しかし伊藤は暗殺されて既に亡く、国防方針決定は武官のみによりなされた。その後の日本を狂わせた統帥権のためである。

 

8 第1次西園寺内閣―明治39.1−41.7―桂園時代の始まり

 西園寺は伊藤と枢密院議長を交代し明治36年立憲政友会総裁となり、桂と講和条約支持を条件に次の首相を約束されており、39年初頭、桂に替わって首相となった。陸相寺内正毅、海相斎藤実、内相原敬、蔵相板谷芳郎、法相松田正久で、政友会出身は原と松田のみであった。以後、藩閥でも政党でもない桂園時代といわれる政権交代が続く。

 39年度予算――陸軍67-海軍61百万円(これは実算,予算と符合しない。以下同じ)

 西園寺内閣は交代の時期もあり桂内閣が編成したものを提出し、陸軍には戦時中増設した4個師団の常設化=17個師団で1千万円が認められた。海軍には戦前計画の第三期拡張計画分を含む経常費増加4百万円が認められた。陸軍の復旧費、海軍の復旧費・艦艇補足費は当年分のみ計上、継続費化は先送りされた。しかし本来戦争終結で廃止予定の戦時特別税1億6千万円を継続し、さらに8千万円の公債発行が必要なほど財政状況は逼迫していた。井上馨の師団増設を削っても生産的事業支出を増額すべしとの意見があり、陸海軍の復旧費をそれぞれ260・240万円削減し、その分国債発行を減らすことで承認された。  軍事費については4個師団の常設化が認められただけで、新規計画も復旧計画の継続費化も先送りされた。井上は長州の武士出身であったが、早くから理財=産業育成に関心を寄せ、この時期に軍備より産業育成を主唱した。

 40年度予算――陸126-海72百万円

 予算編成時期には帝国国防方針の作成が始まっていたから、予算要求には国防方針の構想が織り込まれた。

 陸軍は平時25個師への計画を2期に分け、3師団増設と兵役2年現役制を提案。初年度3300万円総額11年で1億1700万円の臨時費と初年度600万円完成後1800万円の経常費が必要だった。

 海軍は海軍復旧費の継続費化=5年で1億1500万円、昨年度見送った軍艦水雷艇補充基金(減価償却費)40年度1100万円の計上、八八艦隊に向かっての新規拡張計画=戦艦1隻・装甲巡洋艦3隻・2等巡洋艦3隻分、初年度800万円9年で1億7700万円、完成後の経費増加600万円を要求した。

 各省の要求総額は6億円をはるかに越えたので、大蔵省は歳出総額を5億5400万円に押さえ、陸海軍の拡大要求は全額削除されたので復活折衝が始まった。

 特に陸軍が強硬だったが井上・桂の仲介で、陸軍は2年現役制と2個師団増設、経費も満韓駐留部隊を2師団に半減するなど節減を認めた。その他復旧費は初年度300万円5年で5200万円が認められた。

 海軍は減価償却資金を財源とする7年計画7600万円で戦艦2隻・装甲巡洋艦1隻・2等巡洋艦2隻の建造が認められた。年約1100万円の支出は陸軍の経常費増加に見合うものだった。復旧費は全額臨時事件費として年2500万円7年で1億7500万円が継続費化された。斎藤は寺内のように表だって反対せず、海軍内で弱腰と批判されたが、それでも五七艦隊の予算を獲得した。この頃から、陸海の予算獲得における対応の差が顕在化した。陸軍は力で押した。海軍はそれを見ながら裏で工作した。

 ここで軍事費実算の陸海軍別の推移を見よう。単位百万円

明治26  27  28  29  30  31  32  33  34  35  36  37  38  39  40 41  42 43  44

陸軍14  10  10  53  60  53  52  74  58  49  46  12  11  67 126 141 106 101 105

海軍  8  10  13  20  50  58  61  58  43  36  36  20  23  61  72 71  71 83 100

 この表からわかること。(1)日清戦争後に軍事費は増え始めた。(2)日露戦争期の数字が少ないのは臨時費でまかなったからであろうか。(3)ほとんどの年度で海軍が少ない。上述の臨時事件費も同じ手口か。(4)ただ40・41年で陸軍の半分に過ぎなかった海軍は、陸軍の減少に対し43・44年で陸軍に追いつき、以後陸軍と対等か上回る水準を維持した。(5)9ページの表に明らかなように大正軍拡の主役は海軍だった。

 こうして40年度予算は、財源を公債に依存しつつ軍事費以外にも多額の新規支出を認めて成立した。この予算はヨーロッパでロシア・米国などへの戦争準備ではないかと疑われ、外債借換に悪影響を及ぼしたという。

 41年度予算―軍事費予算で内閣辞職―陸軍141−海軍71百万円

 財源を公債に依存しつつ積極財政を展開すれば物価が上昇し庶民は苦しむ。外債の利払いで為替下落=支払増加し外貨事情が苦しくなる。39年満鉄株ブームのような復興景気があったが間もなく沈静し、40年10月米国の株式大暴落をうけ、輸出品価格暴落・生産縮小。41年初頭東証も暴落、40の銀行が支払停止になった。

 41年予算で政府は増税による財政均衡を企図した。陸海軍とも前年度で経常費増加を  認められていた。増税は酒・砂糖・石油・タバコ等の消費物資であった。反対運動に立ちあがろうとした実業団体の機先を制して政友会は増税案を上程可決したが、それが反対運動の火に油を注ぐことになった。全国商工業者は時の政府に対し初めて公然と反対運動を展開し、増税のみならずそれを不可避とする「軍備過大の弊害」を指摘した。野党は「英露・日仏協商・日露協約あり、中国など東洋平和は確保されている。民力を休養すべし」と軍事費の繰り延べを主張したが、多数党の政友会は押しきって予算は成立した。

 しかしその執行に問題が生じた。米国の恐慌で外債が募集できなくなった。政府の金繰りがつかないのに資金難の銀行は救済を懇請してくる。井上・松方両元老が財政整理=事業中止と繰り延べによる打開案を提示したが、寺内陸相・斎藤海相が承知しない。41年7月西園寺首相は桂にその座を譲った。日本経済は金融資本主義=金融と財政が政治を動かす段階になっていた。

 

9 第2次桂内閣―明治41.7―44.8―国債借換の成功

 42年度予算―軍拡予算繰り延べ―陸軍106−海軍71百万円  

 桂首相は蔵相を兼務し進んで財政整理に当たる決意を表明した。(1)増税は当分しない。(2)内外債を整理償還し新規発行は避ける。(3)財政の基礎を固め公債への信用を高め産業発達で財政均衡を指向する。国債整理は全国金融経済界の要望であった。これを踏まえ政府は新財政計画によって42年度予算を編成し承認された。軍事費の膨張は繰り延べられた。

 43年度予算―陸軍据え置き101ー海軍小増加83百万円

 同様な方針で国債償還額6080万円を織り込み、軍事費については陸軍は押さえこんだが、斎藤海相は総額5億8千万円の要求を8200万円に削り44年から6年で分割計上、残りは保留することで承認された。

 国債償還によって市中に供給された資金は金利を低下させた。その結果としての国債価格の高騰が借換の条件を整備した。外債募集は海外情勢から不可能であったが、内国債の低利債への借換が可能となり財政における利子負担は軽減した。低金利はさらに資本市場の発達を促し産業発達の条件を整備した。

 民間13銀行のシンジケートによる43年2月1億円の借換は1億8千万円余の応募を得て成功し、海外市場での国債価格高騰をもたらした。3月の第2回1億円借換は応募1億5千万円余でまずまずだったが、第3回1億7千万円には国内市場の消化能力を懸念したシンジケートが引受拒否、失敗した。しかし外国市場における信用回復で外債は5月ロンドン・パリで2億8154万円の募集に成功した。手取金は海外流出内債を含め内債の償還に当てられ、財政の利子負担は1314万円節減された。しかし借換が主体であったから残債の総額は26億円台で25億円台になったのは大正3年、解消には欧州大戦景気が必要であった。

 44年度予算―陸軍据え置き105−海軍増加100百万円

 2年続きの軍事計画の繰り延べに不満の声は軍需に期待する財界の一角からも上がり、それは消極的財政政策の積極化への転換を求めていた。海軍拡張は前年度において決定済みだったが、その他に鉄道整備・治水・製鉄・電話などテーマに事欠かなかった。しかしそれは桂内閣の公約=「非募債主義・増税はしない」に矛盾せざるを得なかった。公債は募集できなかった替わりに借入金が7480万円増え、それでも事業資金は足りなかった。桂は西園寺政友会に、内閣への協力の見返りに議会終了後政権譲渡を約束し、予算の議会通過後8月、西園寺内閣が成立した。

 歳出決算額・軍事費・国債費・GNP・貿易収支(続)  単位百万円

年次 42   43   44   45    2    3    4    5    6    7    8    9   10   11   12    

歳出 533  569  585  593  573  648  583  590 735 1017 1172 1359 1489  1429 1521  

陸軍 106  101  105  104   95   87   97  94  123  152  220  246  246  230 223

海軍  71  83   100   95   96  83   84   116  162  215  316  403  483 373  275   

国債費153 154 147  141  142  142  120  115  136  136  111   94  112  115  163

同残高2582 2650 2583 2573 2584 2507 2489 2467 2699 3052 3278 3777 4077 4342 4730

ウチ外債1165 1447 1437 1457 1529 1515 1461 1370 1339 1311 1311 1424 1359 1359 1621

GNP 378039254463477450134738 4991 6148 8592 1183915453 15896148861557314924   

貿易収支17- 13- 85  -111 –121  –21  173   385  573  265 –177 –500 -442 –336 –617     

註(1)大正軍拡の主役は海軍。(2)歳出増加・GNP増加に対し国債費の比重低下。(3)

国債残高における外債比重の低下=内国債比重の増大。

 

10 第2次西園寺内閣―明治44.8−45.12

 45年度予算――据え置き=陸軍104−海軍95百万円

 西園寺首相は蔵相に日銀総裁の山本達雄を迎え金融資本の意向を政策に反映させようとした。渋沢栄一と井上馨は銀行の代表者達と協議し、「この十数年わが国は2回の大戦争を経て国費は膨張・国民負担は甚だしく加重した。国債残高は26億円余に達しその過半は外債で、利払いが年6千万円を超えている上に輸入超過が続いていて、正貨流出が経済を乱す恐れが懸念される」ので財政整理と経済発達を期するため「国債償還計画維持、行政整理、税制負担是正、輸出入均衡」などの覚書を交付した。外債利払い・貿易赤字による正貨準備激減は外債利払いに支障=デフォールトを来たすほどになっていた。蔵相にはこの動きは追い風の筈だった。

 しかし中国における「資本輸出戦争」において、貧乏国日本は英・露・独・仏に対し明らかに劣勢であり、その劣勢を軍事力で取り返そうという動きがあった。財政負担の限界を超えた軍備拡張が再び唱えられた。議会は国防方針を開示しない「非立憲的陸海軍」を非難したが、それを意に介せず軍備拡張案が次々に提示され、陸軍の2個師団増設で議会の不満が爆発した。

 海軍は、山本権兵衛の後押しで斎藤海相が留任の条件として、桂内閣で認められた分に加え、保留された残額の計上を首相に諒承されていたので、戦艦7隻・装甲巡洋艦2隻=3億6千万円の7ヵ年計画を要求したが、財界に緊縮方針支持で拒否され、前年度の閣議決定に基づき5年継続費として9800万円、大正2年予算には1050万円を計上することが内定していた。(この数字、陸軍との対比において重要なのだが、日本海軍史によれば確認されてない。さらに海軍軍拡についての決定内容も不明という。)

 要するに軍拡予算は海軍は認められたが陸軍は認められなかった。             

11 大正政変 以降は「大正篇」                  以上