木越安綱と山本権兵衛―明治末・大正初期の陸海軍と政治の考察―大正篇

                2001.8.11−04.3.20  木下秀人

10 第2次西園寺内閣―明治44.8−45.12

 45年度予算――据え置き=陸軍104−海軍95百万円

 西園寺首相は蔵相に日銀総裁の山本達雄を迎え金融資本の意向を政策に反映させようとした。渋沢栄一と井上馨は銀行の代表者達と協議し、「この十数年わが国は2回の大戦争を経て国費は膨張・国民負担は甚だしく加重した。国債残高は26億円余に達しその過半は外債で、利払いが年6千万円を超えている上に輸入超過が続いていて、正貨流出が経済を乱す恐れが懸念される」ので財政整理と経済発達を期するため「国債償還計画維持、行政整理、税制負担是正、輸出入均衡」などの覚書を交付した。外債利払い・貿易赤字による正貨準備激減は外債利払いに支障=デフォールトを来たすほどになっていた。蔵相にはこの動きは追い風の筈だった。

 しかし中国における「資本輸出戦争」において、貧乏国日本は英・露・独・仏に対し明らかに劣勢であり、その劣勢を軍事力で取り返そうという動きがあった。財政負担の限界を超えた軍備拡張が再び唱えられた。議会は、国防方針を開示しない「非立憲的陸海軍」を非難したが、それを無視して軍備拡張案が次々に提示され、陸軍の2個師団増設で、軍備縮小による減税を期待していた「世論」が爆発した。

 海軍は、山本権兵衛の入知恵で斎藤海相留任の条件として、桂内閣で認められた分に加え、保留された残額の計上を諒承させていたので、戦艦7隻・装甲巡洋艦2隻=3億6千万円の7ヵ年計画を要求したが財界の緊縮方針支持で拒否され、前年度の閣議決定に基づき5年継続費として9800万円、大正2年予算には1050万円を計上することが内定していた。(この数字、陸軍との対比において重要なのだが、日本海軍史によれば確認されてない。さらに海軍軍拡についての決定内容も不明という。)要するに海軍は認められ陸軍は認められなかった。

 

11 大正政変(1)西園寺内閣、陸相辞任で桂内閣へ

 大正2年度予算――緊縮方針が陸相辞任でまとまらず

 陸軍は、39年第1次西園寺内閣のとき国防計画の1期分として4個師団の増設を提示し、2個師団=19個師団が認められていた。しかし今回は桂内閣で押さえられ、44年でも先送りとなっていた残り2個師団で、規定計画に基づく要求であると同時に、韓国併合による国防範囲拡大・辛亥革命後の中国情勢・ロシアの極東への輸送力増大などに対処する必要があった。海軍が認められたのになぜ陸軍は認められないのか。内部からの突き上げが激しくなった。しかし世論は増師に反対、政友会も反対、一部増加で妥協しようとしない陸軍、強硬な軍務局長田中義一との間に立って、規定計画遂行を義務付けられていた陸相石本は心労で病死し上原勇作に替わった。

 西園寺内閣は、「制度整理」=行政改革によって緊縮の実を挙げようとした。陸軍省は整理によって得た195万円を2個師団増設経費に当て、6年継続計1200万円、完成後の経費740万円から現在韓国駐留の経費220万円を差し引くと実際には500万円の増加に過ぎない、と主張した。しかし西園寺は陸軍の誠意を疑った。整理額として割り当てられたのは8千万円の経費中の700万円であったが、実際の節約額は200万円で、これは他省の9-15%に対し3%でしかない。しかもそれを勝手に使おうとは何事か。それでは反対論を説得できない。海軍とは従来からの行きがかりがあって行財政整理による新財源使用の優先権が与えられている。とても2個師団は無理であった。それでは陸軍に不公平ではないか。

 西園寺は山県と懇談した。上原陸相は山県に西園寺と上原で話を決める諒承を得、西園寺も諒承した。西園寺は山県に、上原陸相は強硬だが拒否するつもりを伝えた。山県は、海軍は認め陸軍がだめでは陸軍は不快であろうと、繰り延べ案で面目失墜を避けることを示唆した。しかし西園寺は原敬内相・松田正久法相と会談し断ることを決め、桂の調停も断った。

 11月30日、西園寺は閣議で上原に辞職勧告をし、後任が得られなければ総辞職と決定した。怒った上原は直接天皇に(違法であった)辞表を奉呈した。西園寺は桂・山県と会い、妥協せず辞表を提出した。

 原は、西園寺が留任するなら妥協の余地ありと思っていたが、西園寺には陸軍と妥協してまで政権維持の気持はなく、山県は妥協に向かって陸軍を押さえきれなかった。

 後継首班は難航した。明治天皇も伊藤博文も既に亡く、桂は前年宮中に入ったばかり。元老は西園寺の留任を決議したが拒否され、寺内正毅は山県・桂に次ぐ陸軍の指導者だからだめ、松方正義は体調不良で辞退、山県の智恵袋といわれた官僚派・枢密院の平田東助も辞退、海軍の山本権兵衛も辞退、結局、山県は自分か桂しかいないといい、元老は75歳の山県を推すにしのびず桂を推挙した。西園寺も桂に組閣を勧めた。そして「西洋に例がある」といって宮中に入ったり出たりの実例を教え、桂は組閣に踏み切った。しかしそれが騒ぎになった。桂が洋行に出たことが失策だった。公爵になったことも余計だった」という。留守の間に押さえていた陸軍が軍拡に動き出し、本人は政務・軍務から外され、公爵になったことで民衆の不必要な反感(一将功なり万骨枯る)の的、不満の捌け口となってしまった。徳富蘇峰によると、「そもそも桂は34年首相となったときは山県の下の武人に過ぎなかったが、日英同盟の功で伯爵、日露戦争の功で大勲位侯爵、日韓併合で公爵と目ざましい栄進がアンチ桂の空気を増長させた。明治天皇が亡くなって抜け目なく内大臣。内大臣といえば雲上人である。本人の意思ではなかったが世人はそう思わず、政敵はこれを攻撃材料に利用した」という。

 山県は桂に押し込められたといわれた。

 桂が44年、政友会との妥協で予算を通して辞任、後継首相に西園寺を推したとき、明治天皇は元老に諮問せずに西園寺を首相にした。翌年5月の選挙で政友会は絶対多数となっていた。桂はそのとき首相復帰はないと明言し欧州旅行に出たが、明治天皇死去で山県によって内大臣・侍従長に押し込まれた。予備役編入も意に添わなかった。桂は政党嫌いの山県と違って、西園寺と協調し、陸軍も押さえてきていた。桂は西園寺の示唆により桂園時代の持続を考え、原も反対ではなかった。

 

12 大正政変(2)第3次桂内閣―大正1.12―2.2―海軍のストライキ

 大正2年度予算―短命内閣でまとまらず

 天皇の優諚といっても大正天皇は若く、お手盛りであることは歴然であった。成立した桂内閣で陸相は腹心の木越、問題は海相であった。山本に操られる斎藤海相は留任条件として海軍予算成立を挙げた。桂は陸軍の予算と共に国防会議で決定することを提案したが黒幕の山本は納得せず、1年延期・年度短縮で一旦は留任を承諾した斎藤はそれを翌日取消し、万策尽きた桂は元老会議に訴え、天皇の名において海相留任を強制した。しかもなお斎藤は海軍予算が容れられなければ辞職すると通告し、桂はやむなく5年9千万円のうち初年度600万円を予算化することを約した。しかしこの二度にわたる天皇の利用が後に攻撃材料となった。

 山本率いる海軍は、陸軍が予算を盾に辞任騒ぎで世論の反感を巻き起こしている隙に、その陸軍の悪例を恥もなく堂々踏襲し、桂に海軍予算を承認させた。世上「海軍のストライキ」といわれた。

 原が陸軍の増師案に簡単に妥協できなかったのは、西園寺が山県と陸軍に反感を持ち、世論が増師反対に傾いていることを察知したからである。原は桂が政友会の名分の立つ妥協条件を持ち出せば桂内閣を支持するつもりだった。しかし桂にはもはや陸軍が押さえられなかった。健康をガンが蝕みつつあった。桂は政界での経験から政党の必要性を認識していた。西園寺政友会内閣に対する陸軍の離反、陸軍を押さえられない桂に対する政友会の不満、政友会が西園寺の思うように動かない実状に直面し、桂は政友会に替わる新党結成を模索した。しかしそれが失敗だった。妥協の余地のあった政友会を離反させ、その後の混乱の一因となった。

 

13 大正政変(3)閥族打破・憲政擁護―国民運動で桂内閣打倒

 話は交詢社(各界有力者の社交クラブ)での茶飲み話から始まったという。政友会の反主流派岡崎邦輔・左派の尾崎行雄・国民党左派の犬養毅・三田系の交詢社に集う新聞記者・実業家などは憲政擁護会を組織し、12月19日第一回の会合を歌舞伎座で開き3千人が集まった。閥族打破・憲政擁護が決議されたが、犬養は「日本に軍備は必要だが長閥が政権争奪に利用したのがいけない」と軍備の必要は否定せず、議会ルールの無視を問題とし、全国運動の展開によって議会を憲政擁護派で乗っ取ることを目標とした。(後に尾崎はこの時の憲政擁護が政治を混乱させただけで結局実を結ばなかったことを反省したという。)

 桂はずっと野党であった憲政本党=国民党の右派(大石・河野・島田・武富・箕浦)と山県・桂系の官僚(大浦兼武の中央倶楽部)を糾合し立憲同志会を結成し、それによって政友会が敵に回った議会を乗り切ろうとした。しかし政友会は絶対多数を擁し、しかも桂は貴族院における山県の勢力(平田東助が代表)を掌握するのにも失敗した。伊藤・山県・桂、共に長州で、伊藤が政友会を作って政党嫌いの山県を離れ、桂は軍人として山県の下にあったが首相として政友会の支援を得て山県の支配から脱した。しかし今や政友会は敵となり、山県=陸軍勢力との関係も微妙となった。

 長年にわたって政友会と提携し、むしろ陸軍閥を押さえてきた桂の登場は、陸相上原の暴走を押さえられず発生した混乱の収拾であったはずだが、桂の短期間の栄進に対する世人の反感もあり、その登場の仕方の不手際=「非立憲的行動」もあり、憲政=議会主義をスローガンに世論を最大限利用する政敵の乗ずるところとなった。

 政友会は長年政権と妥協・抱合し桂とも親密な関係にあったから、原や松田は憲政擁護運動に深入りせず、桂の出方を待っていた。その桂が新党樹立によって政友会を敵に回してしまった。

 1月21日からの議会を桂は2月4日まで停会させた。2月5日再開された議会で内閣不信任案が上程され、尾崎の「宮中府中の別をみだり、玉座を胸壁とし、詔勅を弾丸とし、政敵を倒さんとする」という弾劾演説がなされた。8日、桂は西園寺と会見し不信任案撤回を申し入れ、西園寺は原・松田と協議しできないと答え、9日天皇の詔勅があり、西園寺は天皇に従うしかない。しかし政友会の意見は割れ、10日の開会前に決めることになった。この9日国技館で憲政擁護第3回大会が万人を集めて気勢を挙げた。停会戦術が運動を刺激した。

 10日朝、山本権兵衛は桂邸を訪れ、西園寺に首相を譲れと勧告した。立腹した桂は「わが心事は君も知っているではないか。いまさら地位に恋々しない。西園寺さえその気ならいつでも辞職する」と失言した。山本はすぐ政友会にそれを伝え、辞意=解散がないことを知った反主流派は西園寺の「慎重行動勧告」を無視し予定どおり突進を決議した。貴重な情報だった。山本が桂邸に再来「必ず西園寺を立たせる」、桂「西園寺は勅諚を受け党内を鎮撫中なのだ。ここで結論をださせようとするのは、火事場に来て漁夫の利を得ようとするのか。」山本「わかった。西園寺に対し前言を取消したいので使者を出してほしい。」伝言を聞いた西園寺は「取消すとは全部の意味か」と聞いた。使者答えられず帰ると山本の姿なし。「山本のこの行動は陸軍の増師問題が立ち消えになる見とおしをつけ、自ら政権について八八艦隊建設を完遂したいと考えたのではないか」と舟木氏は記している。政友会は突進を決定した。

 桂は西園寺を信じ、もし党内鎮撫がならなければ解散するつもりであった。大岡議長と開会を待つ間に政友会の事情が聞こえてきた。議事堂周辺は群集で埋まっていた。大岡議長は興奮して、解散では血を見ることになる、内乱になるかも知れぬと桂を説得した。桂が「よろしい」と席を立ったので大岡は退席。桂は皆を集めて辞職を明言したので皆は驚いた。解散方針が一転して辞職になり、第3次桂内閣は11日、わずか50余日をもって辞職した。解散しても勝算はなかったであろう。西園寺は政友会をまとめられなかった責任をとって政友会総裁を辞任、原敬に譲った。

 議事堂を囲む群衆は警備の警官と衝突し騒ぎが広がっていた。そこへ辞職でなく停会の報が伝えられた.激昂した群集は警視庁・派出所・政府系新聞社に殺到し投石焼き討ちが始まり軍隊が出動する騒ぎとなった。ポーツマス条約反対騒ぎ以来で、そのときも桂首相であった。東京の騒擾は大阪・神戸・広島・京都など地方に飛び火し、しかし中央で政治的に決着すると、全国的高潮を見せていた運動は砂地に潮が吸い込まれるように消えていった。憲政擁護会の院外運動の高揚は、わずか3ヶ月で国論を沸騰させ、大正政変を引き起こした。

 政治は空転して桂は横暴な陸軍の象徴となってしまった。桂は国防会議による軍事費の調整を提案していた。護憲派は桂を葬ることによって、陸軍と海軍が国防という大義のもとで協議し譲歩し合う枠組み作りを破壊し、陸軍側でそれが可能な唯一の人物を抹殺してしまった。すでに胃がんを病んでいた桂は、1010日死んだ。

 

14 大正政変(4)山本内閣の登場―大正2.2―3.3

 元老山県は西園寺を推薦したが西園寺は拒否、山県も松方も発言しないこと20分、西園寺が山本を推薦し山県も異議を唱えず山本も承諾した。山本にとって多数党である政友会の支持は絶対条件だった。政友会内部では薩摩の巨頭である山本を支持するのは藩閥打倒に反するので山本の政友会入会を求めたが、それは拒否され、政友会の主義・綱領に従って、山本と外務・陸海軍大臣以外は政友会員で組閣することを条件に2月20日山本内閣は成立した。この幹部の妥協論に反発し、憲政擁護派の尾崎行雄や岡崎邦輔など29名が脱党し政友倶楽部を組織したので、政友会は絶対多数を失った。犬養も入閣を断り、国民党は「山本内閣は政党内閣でなく実質は薩閥ではないか」として政友会との連携を断絶した。

手のひらを返したような政友会の与党化に群衆は反発した。本部は何回も群集に襲撃され壮士が撃退した。

 徳富蘇峰は「憲政擁護運動は長閥を退治し薩閥を歓迎、桂を倒し山本を興したに過ぎない」と要約した。憲政擁護運動から政友会が脱落し、陸軍と海軍の対立が鮮明になった。

 大正2年度予算―陸軍減少95−海軍やや増96百万円

 議会は2月27日再開、前内閣の予算案を提出186対181の5票差で可決、海軍造艦費は740万円増額されていた。木越の期待した陸軍の増師案は山本に完全に無視され、海軍拡張費は前年承認の8400万円に新規7000万円を加え、1億5400万円になっていた。

 12月議会開会の前日、桂が結成しかけた立憲同志会91名は加藤高明総裁で結党した。政友会には脱党組から岡崎ら12名が復帰し再び絶対多数205名となり、尾崎らは亦楽会と合流し中正会39名を組織し、犬養の国民党は41名、無所属5名となった。

 

15 木越陸相の苦悩―軍部大臣現役将官制改正と増師

 大正元年12月第3次桂内閣で陸相になった木越は石川県出身で長州ではなかったが、桂に引き立てられて陸相になった。桂内閣で憲政擁護派は、西園寺内閣辞職の原因となった「陸海軍大臣現役将官制」について見解を求め、桂は「憲政運用上別に支障なし」と回答していた。しかし桂は新党を結成して政友会以上の世論の支持を得るには、現役武官制の廃止も視野に入れていた。桂自身も海軍によって予算編成を妨害された被害者だった。 桂はまた師団増設について今議会に提出の意なしと回答していた。しかし桂のこの方針は長州閥の陸軍の意向に反するものだった。新政党設立に参謀総長長谷川好道は反対であり、次長田中義一も解散せず辞職したことを遺憾とした。

 木越はこの派閥外にあった。政友会主導の山本内閣となって木越は山本の留任要請を受け桂と相談し、「陸海軍大臣が内閣更迭と共に辞職しない良慣習を維持するため留任した。増師問題を留任の条件として山本内閣の成立を妨害するのは、陸軍の為にもならず桂閣下の迷惑ともなるので閣下を煩わさず解決したい。」と考えた。

 大正2年2月27日、最初の議会で野党の国民党犬養が2個師団増設と軍部大臣官制を聞いてきた。山本はまず陸海両相に官制改正問題を諮った。この問題について山本は原・松田との懇談で、現役に限る規定を改正するのは世論緩和にまた政友会の為にも必要との結論に達していた。斎藤海相に異議あるはずなし、木越は参謀総長・教育総監とも協議したいと即答しなかった。

 3月8日政友倶楽部の林が同じことを質問し、山本はもはやこの問題を避けられないとして原に尻を叩かれ、木越に決断を迫った。木越は「この問題で政府と争い内閣更迭の原因となれば増師問題解決の支障となる恐れがある」と、参謀総長・教育総監に相談せず、自らの責任において同意した。部内に相談したなら反対に決まっていた。仮に認めるなら増師確約との条件闘争しかない。それを避けたいがために相談しなかった。二律背反である。しかしこれが後に木越の立場を決定的に悪くした。海千山千の山本は、木越の苦衷を知りつつ、木越・陸軍期待の増師を無視した。陸海の対立に火をつける危険より当面海軍政権の維持策を選んだ。この一点を小生は山本が歴史に残した最大の汚点と思う。

 3月11日山本は「軍部大臣現役の現行制度は憲政の運用上支障なきを保し難い」さらに「陸軍2個師団の増設は財政上その他の事情に鑑みて決定すべきもの」と答えて、現役制の改正を認めしかし2個師団増設は先送りした。

 陸軍は承知しなかった。参謀総長が絶対反対。木越は山本にそれを伝え不同意という。山本、これは統帥事項でなく参謀総長の容喙することではない。木越、3長官で決するのが陸軍の慣習である。山本、憲法と陸軍の慣習といずれが優先するのか。木越、私には陸軍はまとめられない、山県元帥と相談して進退を決めたい。

 山県は意見を明らかにしなかった。大山元帥=薩摩はそうかといっただけだったという。

20日の軍事参議官会議も「改正には不同意。このため将来増師ができず陸軍が非難されても止むをえない」であった。参謀本部の宇都宮少将が同じく薩摩出身で西園寺内閣を倒した上原中将に「権兵衛勝つか陸軍否長閥勝つかちょっと観物」と書いた手紙が残っている。陸軍も一本にまとまっていたのではない。それに木越の立場は弱かった。山本はそれを知りつつ援護せず利用した。山本なら抑えられる海軍を抑えなかった。

 22日長谷川参謀総長は木越と共に山本首相と会談、不同意だが決行せられて可ならんと退席したので、木越はついに同意した(原敬日記)。長谷川参謀総長は24日直接天皇に上奏した。しかし既に山本が先に上奏し承認されていた。

 陸軍は大混乱に陥った。上層部の反対運動に併行して、陸軍省内部が抵抗した。大臣直属の軍務局が稟議書の起案を拒否した。舟木氏によると、稟議書は主務課である軍事課では起案されず課長欄は認印が押され消された跡。関係課長は「本案は不同意なり」という付箋をつけ、軍務局長は認印はあるが「本案は不同意なれども特に大臣の命により提出す」「参謀総長の回答を得たる後に非れば内閣に提出すべからざるものとす」と2枚の付箋。次官は岡と墨書。大臣欄は木越の花押。決済欄に「参謀本部の回答を得ることなく直ちに決行のこと」と墨書。軍務局のストライキによる軍部大臣現役制改正の異常の稟議書は5月2日閣議決定された。

 木越の、いまさら増師を持ち出せば内閣不統一で陸軍の立場を悪くするばかり、この際忍の一字しかないという政治姿勢は陸軍部内では誰にも理解されない。5月7日岡次官辞任。田中義一参謀次長も木越のやり方を非難した親書を朝鮮の寺内に送った。27日「今回の改正は政党政派の闘争を軍隊内に持ちこむ」と強く非難した怪文書が将官・枢密顧問官にまかれた。執筆者は宇垣軍事課長であった。田中も宇垣も後に陸軍から痛烈なしっぺ返しを受けるのは知る由もない。

 舟木氏が描くこのときの木越の心境を要約すると、(1)陸軍はごり押しによってこれ以上国民世論を敵に回してはいけない。現役に固執する必要はない。(2)現行官制は長閥が陸軍を支配するための絶対条件と見られているのはよくない。(3)官制や国防問題=師団増設という政治問題が山本海軍・政友会対陸軍・長閥の対立関係に組みこまれてしまっている。国政を派閥の利害で律してはならない。(4)とすれば長閥に立ち向かう山本に組し閣議決定に従う。ということであったろうか。穏健・常識的な判断であったが肝腎の山本が海軍で凝り固まって大局的判断できず受け入れられなかった。

 官制改革が6月13日公布されると、24日木越は辞任し後任に山本は独断で同じ薩摩の楠瀬中将を起用し世人を驚かせた。陸軍はこの官制改革に反発し、反主流派大臣が就任する事態を想定して分限規定を改正、シビル・コントロールどころか陸軍省の分限を縮小して参謀本部に移す改悪を行い、さらに後に大臣は参謀総長・教育総監を加えた三長官の推挙という慣習を確立したので,昭和11年の現役制復帰まで現実には陸海大臣は現役勢ばかりで推移した。統帥権=首相も陸相も関与できない参謀本部の力が強くなり、現地部隊では参謀の統制逸脱=下克上が見過ごされるようになり、意図とは逆の効果がもたらされ、さらに陸海対立という国防上の大問題が激しくなってしまった。責任は木越の心情を知りつつ無視した山本にあった。

 昭和11年5月、この官制は現役大中将制に再び改正された。2.26事件後で首謀者は石原莞爾参謀本部作戦課長。既に予備役の宇垣や、3月予備役になった荒木貞夫・真崎甚三郎の復活阻止が狙いだった。翌年の宇垣内閣流産は、現役制をてことする石原の策動で陸相が得られなかったからであった。それより先、田中義一は政友会総裁として首相となったが、満州における陸軍参謀の暴走=張作霖爆殺事件で、天皇に約束した厳正処罰が陸軍や閣僚の反対でできず、天皇に食言を指摘され失脚した。木越大臣時代、上官の命令を無視し下克上を許容した田中は、命に従わない陸軍に首相の座をおろされ、その下克上の陸軍の暴走が国運を傾けた。

 

16 山本内閣のその後――シーメンス事件

 大正3年度予算――海軍造艦予算否決で内閣辞職

 山本内閣で楠瀬陸相の下陸軍の期待する増師案は再び無視され、逆に海軍拡張費は前年承認の8400万円のほかに7000万円を計上し、1億5400万円に達した。山本には上々の結果だった。

 しかし思わぬ障害が発生した。汚職事件である。1月23日の時事新報にシーメンス社の東京支社の解雇された独人タイピストが脅迫目的で盗みだした書類に、日本海軍高官に贈賄した関係書類が少なくないという外電が報道された。シーメンス事件である。野党3党は政府問責決議案を上程、院外では海軍廓正運動を起こして世論を煽動、日比谷の国民大会には数万の群集が参集し、警官隊と衝突し、政友会本部・中央新聞社などを襲撃、軍隊が出る騒ぎとなった。

 2月10日問責決議案は否決されたが、海軍拡張の新規計画中大正5年度に起工すべき戦艦の3000万円は延期という政友会案が衆議院は通過したが、山県支配の貴族院では海軍偏重・陸軍無視の国防計画に対する反発は強く、新規計画全額7000万円が削除された。両院議員総会では衆議院案が1票差で可決されたが、貴族院は再び否決し山本内閣はお膝もとの海軍の不祥事で324日予算不成立を理由に辞職した。

 

17 大隈内閣再登場―大正3.4―5.10―欧州大戦と四国同盟・対中21か条

 次を誰にするか、山県・松方・大山で話し合った。山県は、「こうなったのは社会人心の変化・民主主義の思潮が一般に波及したのと薩長の乖離にある。薩長・陸海の争いと誤解の恐れがあるので長州人は出せない。互いに協力して難局に当たりたい」と発言。しかし松方辞退、山県辞退、徳川貴族院議長辞退。

 肥後出身で地方の役人から身を起こした山県系の清浦奎吾が指名され,貴族院に押されて組閣を始めたが、予算にこだわる「海軍のストライキ」によって海相が得られず流産させられた。C浦は海相候補者加藤友三郎から「臨時議会を開いて海軍予算承認」という飲めない条件を突きつけられた。もちろん黒幕は山本であった。

 西園寺辞退。井上が協議に参加して山県から遂に「大隈か加藤高明(尾張出身外交官三菱の女婿・同志会総裁)か」と政党内閣許容の発言あり、井上が大隈を説得することになった。明治31年板垣との連立政権を4ヶ月でつぶされた大隈はすでに77歳であったが放言癖で人気があった。山県・井上は大隈に同志会を与党として、薩摩・山本に鞍替えした政友会への対抗勢力たることを期待した。(この大隈・桂・加藤とつながった同志会が憲政会となり後に民生党となって,昭和初期に政友会と政権をやり取りすることになる。)

 4月成立した大隈内閣は、桂・山本内閣で外相だった加藤高明外相が、海軍の推薦を待たず友人の八代中将を海相とした。陸相は岡,蔵相は若槻,法相は尾崎であった。さらに山県は選挙と議員操縦に辣腕の大浦兼武を農相(解散で内相)に送りこんで、政友会の勢力削減と海軍への反撃を策した。政友会の原は陸海軍=長州薩摩のこの争いを源平のそれにたとえて嘆じたが、「山本のやり過ぎ」は,元老にまで対立感情を植付けた。

 大隈内閣には神風が吹いた。6月下旬欧州大戦の勃発である。8月日英同盟に基づいて英国が参戦を求めてきた。かつて日英同盟の推進者であった加藤外相は、元老たちに相談せず慎重論を押しきって即時参戦に踏みきった。

 この頃フランスからインドシナを睨んで日仏同盟締結、ロシアから日英同盟に加盟したいという申し込みがあった。井上・山県はそれに賛成で推進を求めたが、加藤は日英同盟一本槍でその必要を認めず元老の意見を無視し、話は日・英・仏・露四国同盟まで発展したが、英国の「既に日本は参戦して同盟国側ではないか。露仏英参国の抜け駆け講和はしない条約に加盟で当面いいではないか」との意見もあり、頑として受けつけなかった。元老たちは加藤の独断的な外交姿勢に不快を感じていた。しかし加藤は同志会という大隈政権を支える政党の総裁であり、それは桂が作った政党でもあった。大隈は元老の意見に同意したが,加藤を思うようには動かせなかった。(大正政治史、外務省調査部編・日英外交史)

 加藤は自信家で、四国同盟排除後の日本の大陸政策を西欧3国が注視する中で、中国との条約改定作業に着手した。中国が内容を意図的にリークした結果、悪名高い対支21ヶ条となってもつれた交渉経過も元老には報告せず、元老の機嫌を損じた。残ったのは日露同盟で、元老たちはロシアの脅威を除くため締結に熱心であったが、加藤はこれにも熱意を示さず、元老たちは大隈内閣に期待を失った。

 元老たちは中国に対する帝国主義政策を、欧州列強との協調・了解のもとで行おうした。帝国主義に変わりはなかったからそのまま中国に受け入れられる保証はないが、その後の中国との関係は別なものになっていたであろう。歴史にイフはないけれども。岡崎久彦氏の歴代外相論に加藤は、幣原喜重郎篇の副登場人物でしかなく、その元老を排する姿勢と21ヶ条問題の不手際が批判されている。幣原は21ヶ条問題では反対の意見具申をしたというし、後に加藤内閣の外相となったが親米英主義の所信を貫いた。

 大正4年度、大隈内閣の初予算は、山県の意を汲み海軍拡張は押さえ、陸軍2個師団増設を組みこんだが、大隈の強腰が多数党の政友会を硬化させ148対213で否決された。大浦の買収工作は効かなかった。原は山県と増師の1年延期を会談したが陸軍は納得せず,予算は解散で不成立。解散後内相となった大浦の指揮で大規模の選挙干渉が行われた。地方官は大幅更迭、閣僚は大挙して地方遊説にでかけ、金権選挙で政友会は大幅減、大隈には個人人気があったから同志会は大幅増となった。転落した政友会の政府攻撃は失敗に終わり46月、2個師団増設とあわせ軍艦建造も含む追加予算は与党多数で可決承認された。陸海軍の予算獲得と政友会議席の大幅削減で山県・井上の大隈内閣に期待した役割は達成され、八代海相は悲劇の人にならずに済んだ。大隈には海軍を押さえる義理はなかった。大浦を送った山県勢力は打撃を受けた。

 総選挙でやりすぎた大浦は収賄・買収事件を告発され、買収では代議士17名・内閣書記官長が拘引され,7月大浦は引責辞職。内閣も辞職。元老たちにとって大隈内閣の使命はもう終わっていた。

 それでも大隈が留任したのは,次の準備ができていなかったからに過ぎなかった。加藤・若槻と目的を果たした八代が消え,総選挙で博した大隈内閣の人気は日に衰えた。

 政府攻撃は貴族院で始まった。

 陸海軍の予算問題を解決した大隈改造内閣の課題は、「対支21か条」で火がついた中国問題であった。対支21か条は、木村時夫氏の「知られざる大隈重信」2000.12集英社新書によると、加藤が英国大使時代に南満州鉄道・旅順・大連を含む関東州の租借期限を英・独の租借地と同じく99年にすることで,英国の了解をとり、桂内閣時代から準備し,中国の体制が落着くのを待っていた。欧州大戦中を選んだ是非はあるが21ヶ条まで膨らんだのは,山県など元老たちの要求であり,また中国側の交渉術にしてやられて,希望事項であった項目を要求事項の如く,しかも交渉途中で発表されてこじれ、当初の趣意から離れてしまったという。(木村氏はそれに先立つ四国同盟と加藤の独走を押さえられず、元老を怒らせた大隈に触れていない。)陸軍参謀本部は、中国の混乱に対応して各地に情報将校を配置し,外務省と別の動きを始めていた。その後の展開は本稿の範囲外であるが、内閣が関与し得ない陸軍の独走がその後の日本を誤った。

 

18 国防会議・防務会議・外交調査会―統帥権の規制

 陸海軍をとりわけ予算を財政の見地を含め総合的に検討調整するために、第3次桂内閣は国防会議を提起したが短命内閣でものにならなかった。大隈内閣の防務会議はこれを継承したもので,首相・外相・蔵相・陸海相・参謀総長・軍令部長で軍備・財政・外交相互の調整を目的に設置された。国防が防務となったのは陸軍が国防政策への部外者の関与を嫌ったからで、検討対象は軍備に限定され軍拡予算を容認するに留まり,その後機能を停止した。

寺内内閣のときにできた外交調査会はこの流れを汲むもので、天皇のもと宮中に置かれ、首相を総裁とし委員は現職大臣と大臣経験者=原敬・犬養毅が選出され、軍事・外交を国策の見地から審議・検討するものであった。シベリア出兵で陸軍を牽制することがあったが、上原参謀総長は統帥権の侵犯として辞表を出すといって抵抗した。当時参謀本部の作戦部長だった宇垣は「兵を知らざるやからの無意味な介入で言語道断」とうそぶいたという。宇垣ですらか宇垣だからかは知らないが、当時のエリート軍人の認識水準が知られる。陸軍を押さええた唯一の政治家=桂の短命が惜しまれる所以である。原内閣でシベリア撤兵が問題になったとき,田中陸相は外交調査会をうまく利用し、政府の方針を参謀本部に押しつけたという。分限規定の変更で参謀本部は陸相すら介入できない権限を持つようになっており、その改正をしたのは田中自身だった。皮肉なことであった。

 大正5年度予算は貴族院の反対を山県が調停して成立、10月,大隈内閣辞職,寺内内閣が成立した。これに先立つ6月,加藤・原・犬養会談で元老政治排斥・政党政治確立が誓約されていたが,寺内内閣は政党に立脚せず超然内閣と称せられた。寺内内閣が米騒動と首相の健康によって辞職し後継に政友会の原を推薦したとき山県は容認するしかなかった。

 

おわりに

 陸海軍・外務以外の閣僚は政友会員で占めた原敬による政党内閣の誕生は、大正7年9月である。山県と大隈の評価、寺内内閣の功罪,原敬内閣によってもたらされた官僚と政党との政治資金をめぐっての癒着などについては議論がありうる。小生は本稿の考察で、山県はもっと評価されて良い、大隈は人気で評価されすぎ、寺内内閣は超然内閣といってけなされすぎ、原敬については政治資金についての影と表が未解決など、この時代についてまだ論述・評価が固まっていない感じを強くした。わが木越についても、「軍閥興亡史」で伊藤正徳氏の評価や、岡崎氏が渡部昇一氏とともに「大勇の人」と誉めているのはまだ少数派である。歴史を考察しないで歴史意識が生まれるはずはなく、歴史の認識なくして将来設計もあり得ない。わが屁理屈がこねられる所以である。

 04218日、NHKは「その時歴史が動いた」で日露戦争に向かっての山本権兵衛の組織・軍備双方における活躍を称えた。しかし小生が力説する、その後の陸海対立の原因が大正時代の山本にある点には触れなかった。山本はロシア海軍を打ち破ったのみならず、ともに国防をになうべき日本陸軍まで打ちのめしてしまった。国の政治を統率する首相の職にあり、海軍を抑え得る最適の人が、党派的行動で陸海のバランスを崩し統制を乱した。以後、陸海軍は下位者の独断先行や外部の雑音に対し、上位者が歯止めを掛けることができず、海軍と相互協調することもなくなった。軍閥によって政治が乱れ始めた。

以上