2005年の初めに           2005.1.5−11

                                  木下秀人

 昨年は災害の年だった。日本では大雨台風の異常来襲で西日本に地崩れ浸水の被害、新潟中越地震は国土・住民に大被害。国際的には年末のスマトラ沖大地震に続くインド洋大津波は、史上まれに見る大災害を周辺各国に及ぼし、復興に向かって国際的支援のネットワークが設定され、防災システムの立ち上げや、地球環境問題への関心が一層高められた。

 政治面では、夏の参議院選挙は、小泉改革に自民党の一部勢力が官僚と結託し依然抵抗路線を崩さないため、民主党の大幅な進出を許したが、連立内閣の過半数はゆるがなかった。民主党は、政権獲得近しとはいっても、肝心の公務員制度改革(その中心に公務員に不当に厚い年金制度改革がある。)に労組がらみで二の足を踏んだり、マキャべリスト小沢一郎の影の支配が続くようでは、国民の支持をさらに伸ばすことはできないだろう。

 「国際政治」では、アラファトの死が転機になってパレスチナ暫定自治政府議長に穏健派のアッバスが当選した。イスラエルのシャロンも穏健派の野党と連立政権を樹立し、和平問題に進展が期待される。ブッシュとライス新国務長官のこの問題への対応と、泥沼化したイラク情勢処理が注目されるが、テロ撲滅への武力依存の柔軟路線への転換は期待薄であろうか。別稿、「中東問題の歴史的起源について」、昨年は間に合わなかった。

 北朝鮮は、ブッシュ路線を注視しつつ、核兵器をちらつかせながら非人間的独裁政権の維持をはかっている。日本の迫る拉致問題は、それが金正日によってなされたと伝えられ、加担した部下が政権を構成している以上、金正日が死んで政権が転覆しない限り解決しないだろう。

 「日本経済は「踊り場」にあるといわれるが、民間部門は、不良債権問題を解決しグローバル化に対応して収益力を回復しつつある。問題は政府・官僚機構の改革。3月までに財政圧縮のめどが実現しないようでは、景気は下降線をとらざるを得ない。人口減少の今後は、一人当たりの所得水準が維持できる成長率=1−2%でよい」という経済同友会渡辺正太郎氏の意見(9日、10CH)に同調する。森永卓郎の「日本は階級社会になった。課税制度は金持ちに甘く、賃金水準は下がり続けで景気はぼろぼろ、一部の人だけが良い社会となった。景気回復には金融緩和が必要」という意見は、一面の現象をそれと対抗する事実を無視して声高に主張する典型的なデマゴギー。エコノミストは、たとえ面白話が好まれる場であっても、真実をゆがめてはならないであろう。

 「世界経済」では、米国の双子の赤字が焦点であるが、毎年100万人=0.5%の移民が入ってきて、彼らは確かに最貧層だが、故国にいるよりはるかに豊かな生活を送っているわけだから、政治的に宗教問題やテロへの恐怖を持ち出されると、金持ち優遇のブッシュ支持に回ってしまうことがありうる。民主党のケリーが負けた理由には、彼が民衆の好まない東部金持ち階級のエリートで、「イラク戦争でブッシュ反対」以外の積極的スローガンを打ち出せなかったことが響いている。中国やインドの経済的復権では、両国は国内に甚だしい格差のあることに注意。米国も同じであって、格差の存在こそ国際国内を問わず経済発展の条件の一つであることは、戦後の日本が都市と農村の格差と米国との賃金格差解消に向かって高度成長をしたことに明らかである。米国にはこの成長要因に加えて基準通貨ドルの威力がある。米国は世界経済の成長に必要な流動性供給のために、自国が必要とする以上のドルをばらまく責任がある。貯蓄を上回る過剰消費と非難されるが、それによって自然にドルが輸出国に流れ、米国に赤字がたまる。問題は赤字の限度であるが、とても大暴落が起きる状態とは思われない。また輸出国が低賃金国でない日本や西欧の場合、過度の輸出依存からの脱却が望まれる。中国のバブルは、都市と農村の格差が解消し投資資金の行先がなくなった日本の場合とは事情が違う点に注意しなければならない。

 日本経済・世界経済についての論説の当否を論じたいがとてもまとまらない。さしあたり、世界1月号に載った伊東光晴氏の「景気上昇はなぜ起きたか」から、その解説とバブル後の不況期になされた景気対策の評価を略記する。

(1)景気上昇は、民間企業のコスト削減=の損益分岐点低下と設備投資と輸出の増加による。勤労者所得が伸びなかったのは消費の増加という内需要因が乏しかったからである。(2)シュンペーターは、景気循環は資本主義が生きている証拠で、不況も意味があることを主張したがこれが正解。新古典派の貨幣数量説に基づく通貨増発を不況対策とする主張は誤りである。

(3)何回も繰り返された減税による消費拡大政策も、赤羽隆夫氏が「日本経済探偵術」で実証したように誤り。日本では30年間にわたって公的負担=課税が増えれば貯蓄が減り、その減少は貯蓄の増加をもたらす関係が継続していたので、米国流の減税は貯金されて消費拡大に回らず、財政赤字の拡大を招くばかりであった。

(4)不況時の低金利政策は米国では常識であるが、日本では実効がないことは伊東氏が1993世界12月号で主張した。消費者ローンによる消費が普及している米国と、借金による消費をしない日本人との消費行動の違い。(木下説、アジア金融危機時の韓国は、カードローンの解禁が消費拡大で経済危機突破に貢献したが、その付けが個人の借金地獄から個人破産となって今経済低迷原因となっていることに注意。消費行動は国によって異なる。)

(5)利子率低下は、新古典派では投資を刺激すると教科書に書いてあるが、英国のケインジアンは実証研究によって投資は将来の不確実な利潤率予測に依存するので、利子率のわずかな引き下げは投資に影響しないと立証した。日本でも同様な調査によって同じ結論が得られていた。にもかかわらず引き下げられた利子率は、投資に影響するはずがなく、家計から利子所得を奪って(その額は1993水準からの10年で累計154兆円と日銀総裁は128日衆院で証言)借金企業の金利負担軽減という所得配分の異変をもたらした。

(6)赤字公債による政府の公共投資は、在庫削減や資産償却などを含む社会全体の投資が減少する中で、不況期における所得減少と失業率拡大を食い止め、ビルトイン・スタビライザーの役割を果たした。

(7)構造改革はその意味が不明確で、景気対策になるかはわからない。道路公団や郵政民営化は政治問題であるに過ぎない。(木下説、伊東氏の小泉改革への評価が低いのは、改革が自民党・官僚支配という戦後政治の流れを断ち切る政治改革なのに、伊東氏の論点は経済改革のみという論点のずれに起因するかもしれない。)

(8)通貨政策、クルーグマンの主張するインフレ目標値が満たされるまで貨幣供給量を増加せよとの主張の理論的な誤りはいうまでもないが(2001年、「クルーグマンの小泉政権批判」参照)、事実としても政府要求に屈した日銀による貨幣供給量の増加は、銀行が保有する日銀当座預金口座残高を積み上げるだけで、市中への貸し出しには回らなかった。安心して貸し出せる貸出先がないから、銀行は多額の資金を国債購入に当てるばかりであった。量的緩和政策やインフレ目標設定は、不況の責任を日銀に押し付けて、政府の責任を逃れさせるために利用された。便乗して後押しした学者の責任は重い。

(9)経済政策に重要なことは、激しい不況を起こさせないこと。それには激しい投機を抑えなければならない。バブル期にそれに便乗した銀行行動は許しがたいが、土地と株式への投機は物価統計と通貨発行量統計によって把握できるから、政策当局は緊縮政策=利上げによって対抗すべきである。(木下説、しかしそれができなかったのが当時の日本であった。日銀の利上げ意思は当時の橋本蔵相によって踏みにじられた。)

(10)投機予防制度の整備。90年代不況の口火を切ったのは北海道拓殖銀行と山一證券の破綻であるが、両社を破綻に追い込んだ株式の「空売り」と「売り崩し」は、米国では違法であるのに、米国法を模したはずの日本では合法なので投機筋によって悪用された。政策当局も業界もこのことを銘記すべきである。

 伊東氏の所論はこれで終わる。社会科学の学説の当否は紙上では決着はつかない。声の大きいものが勝つとはいえないにしても、いつまでも主張をやめないしぶとい悪貨が良貨を駆逐することがあるのは政治の世界でも同じである。国民の知識水準の問題に還元されるのではさびしすぎるではないか。           おわり