中東問題の歴史的起源について    2004.2.2―05.1.5     

                                   木下秀人

 2003年の米国のイラク侵攻は、当初の目論みどおりには行かず、年末のフセイン拘束によって一段落のはずであった。しかし一向に収まらない米軍へのテロがもたらす治安悪化によって、日本自衛隊の復興支援の行方どころか、ブッシュ政権が強行した米国の侵攻の根拠すら問題となり、テロ制圧行動が米軍と政府への報復テロを招き、治安状況は悪化するばかり、051月末予定の暫定議会選挙が実施できるか注目されるに至っている。

 この問題は、欧州キリスト教国家の「ユダヤ人迫害」と第1次大戦後の中東イスラム国家の植民地化、本来多民族国家であったオーストリア・ハンガリーとオスマン・トルコの民族独立思想による分断の無理に起因する。ここまでは英国の責任。さらに第2時大戦後の米国の責任もある。アラビアの石油採掘に軍事基地供与と引き換えに関与した米国には、ソビエトが後押しするエジプトのナセルに対抗する思惑があった。そして中東戦争におけるイスラエルのエルサレムを含むパレスチナ占領という勝利は、米国の武器援助がなければ実現しなかった。

アラブ諸国から親米路線を非難されたサウジアラビア国王は、イスラエルのパレスチナでの建国には決して賛成していなかったから、米国に何度も善処を要望したが無視され続けた。オサマ・ビン・ラーデンに米国が目の敵にされ、9・11決行犯に11人ものアラビア人がいた理由はそこにある。

 近代におけるユダヤ人迫害はナチが最大であるが、19世紀にシオニズムを生み出した直接の原因はロシアにおけるユダヤ人迫害(屋根の上のヴァイオリン弾き)であって、エルサレムに自らの民族国家を建設しようとした。

 しかしそこはイスラム国であるオスマン帝国が、多種多様な宗教と言語と民族の人々を平和共存で統治していた場所で、ユダヤ教の聖地もキリスト教の聖地もイスラム教の聖地も近接して存在し、主たる住民はイスラム教徒であったが、少数のキリスト教徒もユダヤ教徒も共存していた。多数のユダヤ人の流入は、土地は購入したとはいえアラブ系住民との摩擦を生み出した。

イスラエル建国によって住む場所を追われ狭い土地に追い込まれたイスラム系住民には、パレスチナ人という名が与えられ自治政府は「暫定」に過ぎない。パレスチナという国はまだない。故郷を追われたパレスチナ人は難民キャンプと狭い地区に追い込まれ、帰るべき国はまだない。かつてユダヤ人がそうだったように。歴史家トインビーはユダヤ人のこの身勝手さを嘆いているが(歴史の研究サマヴィル圧縮版第31章)、小生も同感する。ユダヤ人の思想家は、この点に無関心でよいはずがない。

 第一次大戦でオスマン帝国は崩壊し、アラブ圏は英国が支配するパレスチナとヨルダン、フランスが支配するレバノンとシリアに分割された。パレスチナの住民=パレスチナ人にはかつてのユダヤ人同様、国が与えられなかった。そこへは19世紀からユダヤ人が、ユダヤ人の国を作るといってどっと押し寄せてきた。ユダヤ人の資金に目がくらんだ英国はこれを容認した。貧しいパレスチナ人はユダヤ人の金力に対抗できず、土地を追われ難民となってイスラエルに対する憎悪をテロで表現する以外になくなった。

 エルサレムは中世末期,十字軍に攻めこまれて荒廃したが、十字軍の実体は、宗教色は表面で権謀術数が本質、末期は略奪目的のならず者集団にすぎなかった。

 この西欧の恥部というべき古くて新しい問題は、NHKでは触れられなかった。そこでNHKの放映内容をまず要約し、次いで歴史上の「ユダヤ人問題」、その延長線上にある「パレスチナ問題」、さらに「イスラム教からキリスト教への文明の授受」、にもかかわらず「イスラムが敗退したのはなぜか」、「どうすれば脱出できるか」について考察する。

 

(1)NHK、04年21BS「エルサレム特集」―パレスチナ問題とは何か

@       西欧社会でユダヤ人は古くから差別迫害の対象となっていたが、19世紀末にシオニズム運動という、エルサレムにユダヤ人の国を建国しようという運動がおこって、パレスチナ入植が始まった。それまでエルサレムは、イスラム教・キリスト教・ユダヤ教それぞれの聖地(岩のドーム・聖墳墓教会・嘆きの壁)が隣接して存在するという問題を抱えつつ、オスマン・トルコ支配下で平和共存していた。そこへシオニズムで大量のユダヤ人が入植し,貧しいパレスチナ人から土地を買い取って開拓し、勢力を拡大した。

A       1次大戦中に英国が行った、(1)ユダヤ国家独立容認、(2)アラブ国家独立容認、(3)フランスとのトルコ分割協定という相互矛盾する外交密約がその後の混乱の原因となった。結局オスマン・トルコは解体され、英国はスエズ運河と石油利権を手に入れた。部族単位で国家意識は弱く結束力のなかったアラブは、約束を反故にされ英国の保護下に入った。エルサレムに住んでいるが国のない貧しい「パレスチナ住民」が、ユダヤ国家建設の犠牲になるという結果をもたらした。

B       大挙入植したユダヤ人は,すでにパレスチナ人の脅威であったが、1925年エルサレムにヘブライ大学校を、英国容認のもと、アラブの反対を抑えて開校し、眠っていたアラブの民族主義を刺激した。対抗組織としてアラブ高等委員会が組織された。

C 19298月、エルサレムのユダヤ教の聖地「嘆きの壁」で、ユダヤ・アラブが初めて衝突した。無力なパレスチナ人のテロが、この時から始まった。英国はパレスチナ・ユ

ダヤ両国の分立を説いたが,アラブ民族大同団結を主張するアラブ側を説得できなかった。この頃アラビアで油田が発見され、その開発に米系アラムコが関与、替わりにアラビアの基地使用協定が成立。しかしサウド国王はパレスチナでのユダヤ人国家建設は認めなかった。

D 第2次世界大戦後、ナチのユダヤ人虐殺でユダヤ人がパレスチナに殺到した。困った英国は委任統治をしていたが、裁定を国連に一任した。国連は既に米国主導であったが、1948年、パレスチナを分割し、ユダヤ人国家イスラエルを建設することを容認した。

E 平和に住んでいるところへユダヤ人がやってきて、国を作るからどけという。その結論に不満なアラブ・パレスチナ側は、大挙してイスラエルに侵攻した。第1次中東戦争194849である。しかし世界中のユダヤ人の援助を得たイスラエルの武力に敗退し、エルサレムは、パレスチナ難民の住む貧しい東側と、イスラエルの占領する豊かな西側に分断された。しかもパレスチナ人の住む地区はヨルダン領で、パレスチナ人の建国の意志は無視された。 

F 1956年、エジプトがスエズ運河国有化を断行、英国が介入して第2次中東戦争となったが、英国の敗退・譲歩で終わった。米国はサウドではナセルに対抗できないと息子ファイザルを国王に擁立、アラビアの近代化が始まった。1964年パレスチナ解放機構が結成された。

G 1967年、第3次中東戦争。武力を増強したイスラエルが、増大する入植者の居住地を広げるべく1967年、ヨルダン川西岸・ガザ地区・ゴラン高原・シナイ半島に侵入し、わずか6日でエルサレムを含むパレスチナを制圧占領した。その広さは当初地域の4倍に達した。国連は、占領地からのイスラエル軍の撤退、中東諸国の安全に生存する権利の尊重を掲げ「安保理決議242」を採択したが、イスラエルは履行していない。この国連無視は未だに放置されたままである。

H 1973年、第4次中東戦争。イスラエルの安保理決議不履行に対し、ソ連の援助で武器を整えたエジプト・アラブ側が攻撃した。窮地に立ったイスラエルに、米国は武器を空輸して援助した。安保理は「決議337」で再度履行を求めたが、今なお解決されずこの決議が、その後の和平交渉の基礎となっている。

I     親米路線のアラビアからのたびたびの警告を無視する米国に対し、アラビアは唯一の武器である「石油の生産縮小」をもって対抗した。石油危機の始まりである。ベトナム戦争中の米国は困ってキッシンジャーを派遣、善処を約束して米軍へはオイルが秘密供給されたが、約束はもちろん実行されなかった。米国の責任は重い。

 

(2)       ユダヤ人問題とはなにか

 西洋史やキリスト教史によれば、ユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は新約聖書、キリストをローマの役人に売ったのがユダヤ人のユダで、以来ことあるごとにキリスト教社会はユダヤ人を差別・迫害した。ユダヤ人には金融・芸術・学問の分野で能力を発揮する者も出たが、多数はゲットーに住むことを強制され、ロシアではポグロムという理由なき虐殺にあい、そのあげくがナチの大虐殺であった。なぜなのか、手許の聖書辞典、哲学思想辞典などによって、ユダヤ人問題をその起源から探ることにする。

 

(2)―A ユダヤ人とイスラエル

@       パレスチナとエルサレム―古代文明接触の通路 

 パレスチナは、メソポタミアとエジプトをつなぐ帯のように狭い中間地帯を指す地理上の名称で,聖書で「カナン」と呼ばれる名称が古く、後にぺリシテ人が住んでいることからギリシャ人によって、ぺリシテ人の地=「パレスチナ」という名称が生まれた。

 パレスチナは、チグリスとユウフラテス流域に生まれたメソポタミア文明、ナイル流域に生まれたエジプト文明、さらに地中海に面してギリシャ・ローマ文明交流の通路にあたり、古代文明接触交流の要地であった。死海・エルサレム・ガリラヤ湖などを含む。

 その中でエルサレムは,城壁に囲まれた都市であり、そこをめぐって古代から激しい攻防が繰り返された。バビロン捕囚(当時勝者は敗者を奴隷として連れ去るのが普通だった)から帰還したユダヤ人がそこに住んで、ペルシャ帝国のユダヤ州をなしたと旧約エズラ記にある。エルサレムはその中心にあった。

A       ヘブライ、イスラエルとユダヤ人

 今,イスラエルの公用語はヘブライ語であるが、「へブライ・へブル」という言葉は、BC16C頃にメソポタミアからカナンにやってきた遊牧民を、「エベル民族」の末裔「ユウフラテスから来た」で「ヘブル人」といったかららしい。その中に、アブラハムという今日ユダヤ民族の父といわれる部族長がいた。その息子がイサク、イサクの子のヤコブが、神と力比べをして「イスラエル(神の戦士・神は治める)」という名を与えられ、やがてそれが一族の名となりへブライ人の名となった。一族はエジプト・シリア・シナイ半島で半遊牧生活を送ったが、やがてエジプトに定住して世代を重ねた。その間多神教のエジプト人とは異なる民族信仰を保持したが、社会的には奴隷の状態まで落ち込んだ。

B       モーゼの十戒と選民思想

 この民族の救済者として現れたのがモーゼである。ファラオの宮殿で育ったモーゼは、へブライ民族を率いて「エジプト脱出」に成功し、シナイ山で神の顕現に接し、「十戒」を授かって唯一の神ヤーべとの間に契約を結び(旧約、選民思想はこれに由来する)、約束の地「カナン」に入り、一神教を奉ずる民族としての性格を明確にした。

C ヘブライ王国、バビロン捕囚で滅亡

 イスラエルは、ダビデとその末子のソロモン王時代に繁栄を謳歌したが、その死後に南王国=ユダヤと、北王国=イスラエルに分裂。BC722年、北王国はアッシリヤにより滅亡、捕囚は同化吸収された。BC587年、南王国ユダヤもバビロニヤにより滅亡、住民は捕囚(バビロン捕囚)となってバビロンに連れ去られたが、ユダヤの戒律は維持された。

 この後ヘブライ人は、イスラエルとも呼ばれるようになった。新約ではパウロが、キリストによる新しい神の民(教会)を神のイスラエルと呼んでいる。

 BC538年、ペルシャによって捕囚から解放され帰還した人々は神殿を再興し、エルサレムはローマ時代までユダヤ人の聖都となった。しかし全世界に離散したユダヤ人は、1948年のイスラエル建国まで、自らの国を持つことはなかった。

D 新約時代のエルサレム―イスラムの聖地にもなる

 キリスト教成立後のエルサレムは、「キリスト教の聖地」となったが、AD70年、ローマに対する反乱鎮圧で破壊された街は135年再建され、325年コンスタンティヌスはキリスト教を国教とした。613年ペルシャ軍に侵略され、673年イスラム教徒の占領と、マホメットがエルサレムから昇天した伝説によって、「イスラム教の聖地」ともなった。

ユダヤ教の聖地である「嘆きの壁」とは、11世紀に始まる十字軍とイスラム教徒の戦いによる破壊からわずかに残された神殿の西の壁のことである。

 

(2)―B キリスト教とユダヤ人

 キリストとは,ギリシャ語の「油を注がれし者=救世主」の意味で,旧約で出現が予言されたヘブライ語の「メシア」と同じ。イエスは、ヘブライ語のヨシュアのギリシャ音訳。その生誕から死に至る過程は省略し、ユダヤ人との関わりについてのみ要点を考察する。

@       イエスはユダヤ人

 イエスはユダヤ人によくある名であるが、父大工のヨセフはユダヤ人とは書かれてない。母マリヤは、聖霊により身ごもったとされている。ユダヤ人社会に生まれヘブライ語を話し育ったことは事実であろう。そしてメシア出現を予言するヨハネによって洗礼を受け,神の召命を感じて、ユダヤ教内の改革運動家として独自の伝道を始め、伝統的ユダヤ教の宗教家の反感を買い、彼等のローマへの告発によって死に追いやられた。

A       ユダの裏切り

 エルサレムでメシアとして歓呼で迎えられたイエス達は、神殿でユダヤ教の祭司長たちと争った。祭司長たちはイエスを、メシアを騙るものとしてローマ官憲に訴えた。死を悟ったイエスの最後の晩餐で、会計係をしていたイスカリオテのユダが、銀30枚でイエスを祭司長たちに売り、ゲッセマネの園で接吻を合図にイエスを彼らに引き渡した。祭司長たちはイエスをローマの官憲に引渡し,ローマの裁判によってイエスはゴルゴダの丘で十字架に掛けられた。

B       ペテロの立教宣言

 当時ユダヤ教にはいろいろな分派運動があった。イエスの一派はその一つに過ぎなかったし、イエス自身は自分がキリストであるとはいわず、弟子や人々がそういうのを認めなかった。

 イエスの遺骸を墓に運んで、翌日が安息日だったので三日目に行くと、遺骸がなくなっていた。それを復活と信じ、五旬節に集まった時ペテロが、イエスは実はキリストであるといいだした。このペテロの言葉によって初めて、イエスはキリストとなり、「キリスト教」が始まった。イエスが使っていた言葉はヘブライ語であったが、福音書がギリシャ語で書かれたのは、公に使われたのがギリシャ語だったからである。(三枝充悳、鶴見大学仏教文化研究所紀要20024

C       ペテロとパウロの宣教と反ユダヤ思想

 ペテロと共にパウロもキリスト教普及に力を尽くしたが、二人ともユダヤ人祭司長たちとイエスの死との関連を知っていた。したがって福音書の使徒行伝やロマ書に、「イスラエル人たちがイエスを十字架につけて殺した」、「ユダヤ人の陰謀によって私の身に及んだ数々の試練」、「イスラエル人の罪過」などという糾弾=反ユダヤ的宣伝の言葉が記録され、後世の「ユダヤ人迫害」に根拠を与えることになった。

D       キリスト教の排他性とユダヤ教

 ユダヤ教から生まれたキリスト教は、母体であるユダヤ教との差異を明確にしなければならなかった。325年コンスタンティヌスによってローマの国教になるまで、ローマやギリシャの多神教やユダヤ教と覇権をめぐって戦わねばならなかった。それが排他性となり、身内の異端排斥・不寛容のみならず、ユダヤ教・ユダヤ人排斥につながった。

ユダヤ教も厳しい宗教であるが、その厳しさは信徒にのみ強制される生活上の戒律である点がキリスト教と異なる。

E       迫害されたキリスト教

 キリスト教がローマ帝国の中で次第に勢力を伸ばすにつれて、皇帝崇拝をしないキリスト教徒に対するローマ官憲の目が厳しくなった。普通のローマ市民と価値観を共有せず、むしろ反体制の秘密結社とみられた。シェンキビッチの「クオバディス」(どこへ行く)という古い歴史小説に、ネロによってローマ大火の責任を転嫁されたキリスト教徒の迫害が描かれている。日本でのキリシタン禁制と迫害は、宗教にこと寄せて国を侵略する疑いを持たれたからであった。キリスト教は神の国での救済を求め、現世の価値を否定する信仰なので、多神教で皇帝崇拝を基調とするローマでは異端少数派であって、勢力が拡大するにつれて危険視され圧迫された。

F 国教となったカトリック教の異端排斥

 圧迫迫害にもかかわらずキリスト教は人々に受け入れられ、313年コンスタンティヌスの時ローマに公認された。教会は内部で論争を重ね三位一体説によって教義を統一し、それ以外の説は異端となった。ローマの国教となって権威を確立し内部を統一した教会は、一転して外部に向かい異端の糾弾審問を始めた。近代のソ連共産党・日本共産党に共通する異端排斥追放への情熱は、カトリックのそれと類比できるかもしれない。とにかく各国に伝わる民族信仰は,住民のカトリックへの改宗によって消滅していった。エラスムスが嘆いたように、キリスト教は,イスラム教と異なり寛容な宗教ではなかった。

G ユダヤ人―迫害から国家建設へ

 各地に離散したユダヤ教徒は、その地で独自のコミュニティーを形成して古くからの信仰を維持し続け、キリスト教徒の蔑視圧迫に耐えた。限定された職業領域の中で次第に頭角を現し勢力を拡大していった。シェイクスピアの「ベニスの商人」の金融業は顕著な例で、現代でも学者・研究者・ジャーナリストなどの知的領域にユダヤ系の人が多い。

為政者は往々にして社会的困難の責任をユダヤ人に転嫁して迫害した。近代ロシアにおけるポグロム、ナチの強制収容所など恐ろしい話ばかりだが、19世紀民族国家建設ブームの中で、シオニズムというユダヤ人国家建設運動が、次第に支持者を拡大していった。

H 英国の責任

1次大戦で軍事費に困った英国が、ユダヤ人の資金に目をつけシオニズムを支持したのが、パレスチナ問題の発端であった。しかも相互に矛盾する約束をユダヤ人、アラブ人、フランスと結び、履行できたのはフランスとのトルコ領分割だけだった。英国によってユダヤ人国家の予定地とされたパレスチナには、アラブ系のイスラム教を奉ずる貧しい住民がキリスト教徒、ユダヤ教徒と平和共存していた。そこへ金持ちのユダヤ人が土地を買占めどっと押し寄せた。

1次大戦に続く第2次大戦で、ナチによるユダヤ民族の受難が世界の同情を呼び、国連がパレスチナにユダヤ人国家建設を承認し、ユダヤ人指導者がパレスチナ人を無視してイスラエル建設を強行したので衝突が始まった。中東アラブ国家はエジプト、サウジアラビア、ヨルダン、シリアなどいずれも、植民地から解放されたばかりで、同じアラブ系イスラム教徒ではあるが、国を与えられるどころか今まで住んでいた土地から追い払われているパレスチナ住民を擁護する力はなく、英国は問題処理を国連に委ねて逃げ去った。そして米国が牛耳る国連は、イスラエルを押さえてパレスチナ住民と平和共存させることはできなかった。

I 米国の責任

 国連安保理事会による中東問題処理決議がイスラエルの拒否によって無視され続け、ソ連のアフガン侵攻に絡んでアルカイダに武器を供与し、イラン・イラク戦争ではサダム・フセインのイラクを援助し、そのイラクのレバノン侵攻を多国籍軍で阻み、一向に進展しないパレスチナ問題に業を煮やしたアルカイダの同時多発テロに対しては国連を無視してイラクに予防戦争を仕掛けるなど、米国の国連対策には国益追求のオポチュニズムばかりが目立ち、テロへの対策として必須のパレスチナ問題への真摯な取り組み姿勢が見られない。今日のアラブ中東世界の混迷の責任は米国にある。

 

(3)イスラム教とイスラム教国 

@ 起源とユダヤ教・キリスト教

 アラビア・メッカの商人であったムハンマドが、610年、神=アッラーの使徒・預言者としての啓示を受け創唱した。世界の終末が近づいていること、死者の復活と審判、天国と地獄における賞罰、唯一の神による万物の創造、神の慈愛と恩恵に感謝し、不正を正し弱者を救済することを説いた。迫害を逃れメディナに移り622年教団=信仰共同体を作った。

神=アッラーは、預言者=モーゼ=ユダヤ教やキリスト=キリスト教を使わしたが失敗し、ここにムハンマドによって始めて神の啓示を正しく生かす人間集団が地上に出現した。

A イスラム教の発展と特徴

 ムハンマド在世中にアラビア半島で受け入れられたイスラム教は、632年の死後、預言者の代理人=カリフの指導下で軍事的征服によって非アラブ民族をイスラム化し、アラブを支配階級とする帝国を実現した。その帝国支配は最盛時、中近東からアフリカ西岸、スペイン半島にまで及んだ。「カリフ」は当初宗教と政治双方の指導者であったが、やがて宗教的指導権=聖法の解釈権はカリフの手から離れ、「ウラマー」という学者=聖職者集団に引き継がれ、分業が成立した。

 ウラマーが解釈すべき聖法=「シャリーア」とは、アラビア語でかかれたコラーンとその伝承=ハディースである。それは「ウンマ」=信仰共同体の成員の生活のすべてを律する法律であり道徳律である。イスラムには教会組織も僧職も宣教師もいない。信者は直接アッラーに対する。

ウラマーの社会的地位は次第に上昇して宗教と法律に関わることを仕事とすることになった。政教一致であってイランでホメイニ師、イラクでサドル師などがそれにあたる。シーア派、スンニ派など教派ごとに多数存在し信者の日常の生活指導に当たる。イスラム原理主義がありうる所以である。いわゆる近代国家では政治と教会は別であることに注意しなければならない。

 信仰の柱は神、天使、経典、預言者、来世、天命=「六信」を信ずること。「五行」=信仰の告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼を実践すること。重要なのはイスラムが喜捨を義務付けることによって弱者救済を実践していること。イスラム原理主義のような復古主義思想の浸透する理由に、「ムスリム同胞団」などのイスラム思想に密着した弱者救済の福祉活動が見逃せない。

 マホメットの死後、帝国の目覚しい発展があり、マホメットに代わる宗教的権威と政治的権力を併せ持つ後継者が見出せなくなり、前者はウラマーたちに委ねられることになった。この時、権力から排除されたマホメットの血縁を重視する一派が反対勢力となり、シーア派といわれ、正統派=スンニ派との覇権をめぐる今日に続く闘争が始まった。闘争は苛烈な流血を伴い、その過程で「聖戦」や「殉教」という過激な思想がはぐくまれ実践された。

B イスラム教国とキリスト教国

 B−1 十字軍

 ブッシュは、イラク侵攻を十字軍になぞらえて顰蹙を買ったが、1956年のスエズ戦争は、アラブにとって英仏両国による十字軍と受けとめられた。1113世紀にわたるキリスト教徒のイスラム世界への侵攻が、イスラム世界に残した傷は深い。

 イスラムには聖地巡礼という風習があるが、キリスト教徒もローマ・エルサレムなどに巡礼していた。エルサレムがアラブ人の手にあっても平和的に行われていたが、巡礼は罪を洗い清めるとの俗信が生じ、巡礼者の数が増大するにつれて自衛のため武装した騎士が加わるようになった。

 他方、ゲルマン民族侵入や、スペインにおけるレコンキスタ運動による異教徒との戦いを経て、教会擁護の戦いを「正義の戦争」とする観念が生まれ,世俗領主の闘争本能を外部=異教徒に向ける努力がなされた。だから、セルジュクトルコの攻勢に悩むピザンツ皇帝から、1074年軍事援助の要請が来た時,かねてからの東西両教会再合同の狙いをこめて、異教徒に対する聖戦を名目に十字軍の引金がひかれた。イスラム勢力下のキリスト教徒は平穏に暮らしており、改宗の強要や迫害はなかったにもかかわらず。

 教会の公認する十字軍に先だって1096年、隠者ピエールの率いる「民衆十字軍」が先発し、破壊と略奪を行ったが、結局、散々に打ち破られた。続いて1097年、正規の十字軍が結成され、コンスタンティノープルで勢ぞろいした。しかしこれはビザンツ皇帝にとってはとんでもないことであった。彼の期待した軍事援助は小アジア奪回のための傭兵隊であって、4世紀にわたってアラブ下にあるパレスチナの解放などは論外だった。ビザンツ帝国では皇帝にも民衆にも異教排斥思想は全くなく、皇帝はむしろ西欧人がビザンツを奪うことを警戒した。恐れたとおり小アジアは奪回され、1099年、陥落したエルサレムのイスラムもユダヤ人も虐殺されるか奴隷として売り払われた。

 11世紀末に始まり、13世紀末に至る十字軍の経過は省略する。 要するにキリスト教徒はイスラム体制下で税金こそ高かったが平和に暮らしていたし、エルサレムを管轄する東方教会は,イスラムとのこの平和共存を覆す意思など全くなかった。にもかかわらずローマ教会の十字軍はその後もエルサレムに侵入し、イスラム・ユダヤ教徒を虐殺し財宝を奪い、またイスラムの反攻で20万人が全滅したり、地中海の商権掌握を目指すベニスに煽動されて、東方教会のコンスタンティノープルを占領略奪などの偽十字軍もあり、シチリアのフリードリッヒのように、イスラムと和解してエルサレムを平和的に統治した良き例外は法皇に破門された。

B−2 十字軍の結果―西欧の繁栄,イスラム文化を継承

 十字軍の最終は1244年、イスラムに奪還されたエルサレムを取り返そうと、1270年フランスのルイ9世が、せかされて独力で遠征したが途中で死に、1291年、パレスチナの最後の根拠地がイスラムに奪回され,200年に及ぶ侵略戦争は西欧側の敗北で終った。

 しかしイベリヤ半島ではイスラムが敗退した。レコンキスタによって1085年トレド、1236年コルドバ、1238年セビリヤなど,西方イスラム文化の中心都市が次々とキリスト教徒の手に落ちた。学術研究を担ったユダヤ人は、改宗してとどまるかエルサレムに逃れた。イベリヤ半島からのイスラムの全面撤退は1492年であるが、その間西欧は、そこのアラブの学校で高度なアラブ文化を学ぶことができた。

 西欧は十字軍時代の200年に,イスラムとの接触を通じてイスラムの高度な技術・文化とギリシャ古典文化を吸収し、その後のルネッサンスという社会文化改革の糸口とすることができた。 

B−3 文明開化しなかったイスラム

 エルサレムは、その後1917年、第1次大戦で英国が委任統治するまで、トルコの支配下にあった。イベリヤ半島で敗北したイスラムは、エルサレムは保持した。1453年にはビザンツ帝国を亡ぼした。1683年にはウィーンを包囲して西欧側を恐怖に陥れたなど、軍事的優越は誇示できたが、総合的に見てイスラムは、この異文化との接触を稔りあるものにすることはできなかった。むしろこのジハード=聖戦は、衰退と反開化主義の長い時代の幕開きとなった。

 その原因について、「アラブガ見た十字軍」のアミン・マアルーフ(ちくま学芸文庫)は次のように要約している。(1)予言者の民=アラブは既に9世紀以来、異国人を指導者に頂き、中にはアラビア語を話せない者もいた。アラブの軍事的指導者は草原の戦士に依存した。衰退は既に始まっていた。(2)アラブは君主の継承や領主の専制権力阻止について、今日まで、安定した法制を組み立てられなくて、それが商業経済の発達を阻害した。(3)十字軍時代を通じ、アラブは西欧思想に心を開かなかった。西欧は10世紀レコンキスタでスペイン奪回後、トレドに蓄積されたギリシャ古典やアラビア文化を、アラブ語を学んで吸収しルネッサンスにつなげたが、アラブは西欧を蔑視し続け、西欧の言葉を学ばずその科学技術すら吸収しようとしなかった。

トルコ軍がウィーンを包囲に失敗したのは1683年であるが、以後西欧諸国の軍事的優位はかわらなかった。

 伊東俊太郎氏は「西欧精神の探求」堀米庸三編1976において、中世にあれだけ優位を誇ったイスラムが衰退した理由として(1)イスラムが独占していた東西の中継ぎ貿易の利権が、アフリカ周りの海上貿易によって西欧に奪取され、富と知識の蓄積が途絶えたこと、(2)イスラムでもアリストテレスを背景とする合理主義哲学が盛んだったのに、ガザーリーの出現で伝統的神秘主義的神学の復活によってアヴィセンナやアヴェロエスの合理主義思想(それは西欧に受け継がれてデカルト哲学となり近代科学思想の母体となった)が排斥され、科学の開花どころか神学が中心という事態を招いてしまったことをあげている。         なお、トインビーが歴史の研究で、15世紀に西欧造船技術が在来の1本マストに対し、56枚帆の3本マストの遠洋航海型帆船を開発したことを,イスラムの挑戦に対する西欧の応戦の成功として記している。 

さらに付け加えれば、イスラム世界は、合理思想や自由な言論を封じ神秘思想に閉じこもることによって、宗教の政治に対する優位を打破できなかった=宗教改革の不存在。トルコやエジプトなどの世俗主義導入は、西欧との決定的格差の自覚からであり、たまたま石油という資源による一部地域・特定階級の豊かさはあるが、広い社会的政治的安定を基盤としてその差をつめる作業は未だに実現していない。

C 国連勧告―識字率向上

 2003年、国連の委員会は低開発国の貧困脱出について、識字率の向上による知識水準の向上(初等教育の普及が必要となる)を発展の基本要因としている。小生は行ったことがないが,エジプトのカイロに本屋は殆どなく、あっても本が極めて少ないという。イスラム原理主義で知識判断をウラマーに預けて平然としているようでは、民主主義や人権は論じられない。識字率の向上による国民の判断によって解消すべきであって、米国流の武力介入による政権交代でどうなるものではないであろう。

 

おわりに 中東紛争の解決とは

 正月のNHK「世界潮流」で加瀬みき女史は次のような観測を表明した。「ブッシュ2期政権はパウエルに代わって身内というべきライス女史を国務長官に指名した。これはブッシュが自ら外交にあたることではないか。だとするとパレスチナよりへの姿勢の転換は、イスラエルよりだったブッシュだけに国民に受け入れられるのではないか。」

 テロ問題の根本的解決はイスラム諸国の経済発展にかかり、パレスチナ問題がその中心にあり、それは米国の積極的関与なしには実現しないとは誰でも思うことであろう。ブッシュは、トインビーを嘆かせたユダヤ人の身勝手さを、シャロンという強硬派を抑えて矯正できるであろうか。

アラブ・イスラム諸国は、イスラエルというユダヤ人社会に対抗するために、ユダヤ人社会が世界において蓄積獲得した富もさることながら、さしあたり知識水準に追いつくこと、そのためにも平和実現が先決であろう。

フランスがイスラムのスカーフを宗教色排除で禁止したり、戦後西欧諸国に労働力として進出したイスラム諸国人が、特定地域に固まって母国の生活習慣を守って生活しているのが、あたかも犯罪の巣窟のように毛嫌いされる傾向がある。なかなか融合は難しいと内藤正典氏の「ヨーロッパとイスラーム」岩波新書にある。

他方1月8日の朝日新聞は、旧東欧圏でユダヤ人が、遠く身近でないイスラエルに移住することを避けて、それぞれの地でユダヤ人街を復活させていることを報じている。シオニズム運動はあの過酷な時代の産物で、もう古いのかもしれない。ユダヤ人はユダヤ人街に、イスラム人はイスラム街に、中国人やイタリア人が米国でそれぞれ固まって町を作って生活して、やがて受け入れられたように、同じことが西欧でも起こることが期待される。 

                               おわり