哲学の三つの伝統、野田又夫 1974筑摩書房

                 2003.7.9―04.12.6  木下秀人

野田又夫氏は、西田幾多郎・田邊元に連なる京都大学哲学科のフランス哲学の専門家。デカルト・パスカル論で知られる。この本は60代半ばの円熟した思想史家が「当の思想の真偽について自己の考えを言う用意がなくてはならず(序)」という覚悟の上で執筆された、西欧・インド・中国三つの文明の流れを鳥瞰する力作である。刊行当時に通読した筈だが、内容が記憶に残らなかったのは問題意識がなかったからだろう。ようやく定年退職で手が空いて仏教の「中論」に取り組み、インド・東洋の論理の西洋との差、イスラム・ユダヤとキリスト教問題を意識させられ、比較思想に関心が向くにつれ再読することになった。きっかけは桂紹隆「インド人の論理学」1988中公新書に「西洋哲学・中国哲学・インド哲学の比較論として、今でも有効な見取り図」として引用されたのを見たからである。改めて読んで感心し納得したので、論旨を要約する。

 なお、野田氏が論じていないイスラムについては、随所に言及したほか「中東問題」については別稿の考察に譲る。

 

1 三つの文明にそれぞれの哲学

人類の文明がどこに生まれ発展し、それをどう数えるかには議論があり得て、NHKなどでは古代文明の起源を四大文明といっているが、野田氏は「明確な宗教・哲学」として、ギリシャ・インド・中国の三つを取り上げる。

 

2 神話から哲学への意識の移行

社会が形成され言葉が生まれ神話が生まれ、その社会や民族の興亡や個人の生死についての神話が洗練されて哲学となった。それが地域によってそれぞれ異なっていた。

ギリシャの哲学者の始めといわれるタレスは前6世紀前半、ソクラテスは5世紀後半に生きたが、前6−5世紀に北インドでブッダ(インドには歴史記録がないので推定による。生年前544=南伝、483=欧米、383=北伝)が、北中国で孔子(前552−479)が活躍し、彼らによってこの三つの場所で神話から哲学への移行が進められた。

ギリシャではポリスが生まれ発展し多くの植民市を生んだ時期,インドではアーリア人がインダス川上流からガンジス川中流域へ進出し幾つかの都市国家を作った時期、中国では春秋戦国時代であった。

哲学に先だって呪術と神話があり、神話的想像は人間の宇宙的運命に意味を与えようとしたが、同じことを哲学は、理性的反省によって果たそうとした。そして神話の含む問題のどの側面を継承発展させるかで、三つの哲学の伝統は異なる特色を示すことになる。

木下説 呪術神話から哲学・科学への移行は文明の発達に共通であったが、それで呪術や神話がなくなったわけではなかった。哲学や科学が人間・社会のすべてを説明できるはずがない。説明できない部分について納得のいく説明が必要だった。そこで哲学・科学の発達と同時に、それと整合するより合理的な新しい神話が創造され信仰された。それについても地域・文明・民衆の知的水準による差がありうる。

2−@ 中国の場合―呪術神話から道徳・政治哲学へ

中国では、呪術神話を道徳・政治哲学によって合理化し、神話の神々を歴史的人物につくりかえた。殷人は巫と亀卜によって示される非合理な天命に従ったが、周人は天命を専ら道徳的なものと解釈し政治革命を合理化した。周人の考えを論理的哲学に表現した孔子は、怪力乱神を語らず、鬼神は敬して遠ざけるべきであると考えた。

木下説 自然学は本草学のように経験的分類的段階にとどまり、分析的な科学に向かわなかった。歴史記述は綿密に行われた、記述の学は行われたが、論理学は発展しなかった。

 

2−A インドの場合―神話と連続した形而上学

インドでは、ヴェーダの神々が次第に一つの原理によって統一され,ウパニシャッドの神秘主義に到達した。神話から形而上学への道であったが、このとき新たな神話として業・輪廻の説が現れ、原始的な生死の考え方に道徳的意味付けが加えられ、それを出発点として仏教やジャイナ教などの哲学的反省が生まれた。中国における神話の消滅と反対に、神話と哲学との連続性が著しい特徴となった。

木下説 野田氏の言及していない仏教では、シャカは形而上学的質問には答えなかった(無記)が、後に大乗仏教は般若経・法華経など沢山の神話物語を仏説として創作した。それを論理的にまとめ上げる中論や唯識論などの哲学的作業も追随して行われ、その理論水準は現代哲学のウィトゲンシュタインや精神分析のフロイドの高さに達している。野田氏の言い方をすると、仏教はシャカの実践道徳哲学から神話とボサツ行という実践道徳を含む形而上学=大乗仏教にインドで転化し、中国も日本もそれを受け入れたことになる。

論理学は発展したが、論争術であって実体との検証を伴う自然科学としては発展せず、歴史記述も行われず、文字どおり神話物語と連続した形而上学が残された。

2−B ギリシャの場合―宇宙論から自然学へ

中国の哲学が道徳哲学、インドの哲学が形而上学に向かったのに対し、ギリシャでは、哲学はまず自然学に向かい、神統記・宇宙発生論の神話的想像は合理化されて宇宙論=自然学となった。ピタゴラスやプラトンに見られるような輪廻の神話も哲学の時代に現れてはいるが、インドと異なって神話的想像と理性的思考とがはっきり分けて考えられている点にその後の自然科学につながる特徴があった。イスラム経由で受け入れた西欧はそれを発展させたのに対し、当初文化的軍事的優位を誇ったイスラム世界は、西欧での自然科学の発展を受け入れなかった。

 

3 三つの哲学の発展

3−@ 中国の場合―治者の道徳・政治哲学と民衆の信仰

中国では,孔子の考え方が儒教となり終始有力であった。孔子は鬼神を遠ざけ、現世的道徳の原理を「仁」とした。「仁」の原理の外に現れた形が「礼」で、逆に「礼」に従うことが「仁」でもある。そこで孔子学派に内的道徳を重んずる孟子と、外的制度を重んじる筍子との対立が生まれた。

儒教の枠を破ろうとする動きは二つあったが,力を持ちつづけられなかった。一つは墨子の唱えた蒹愛の哲学で、仁の原理は家族関係に基づいた狭い不平等なものとし社会一般に及ぶ普遍的平等な愛の道徳を唱え、天命という運命論を排し有神論を唱え非戦論を説いた。いま一つは揚子の自然主義で、個人の生命を大切と考える利己主義や隠者の哲学が老子・荘子につながり、道徳的意味を除いた自然を基礎に考える点が筍子・韓非子につながった。

木下説 むしろ儒教の反対勢力としては、怪力乱神を排除せず民衆に親しまれた道教をいうべきで、老荘思想は純化された哲学であるのに対し,民衆信仰としての道教は哲学としては純化されない呪術的要素を濃厚に維持しつつ,永く中国民衆の心を捉え続けた。インドにおけるヒンズー教の神々も,仏教に取り入れられたのは呪術的側面=密教であって、中国でも日本でも同じであった。釈迦の仏教は哲学であったが、民衆の支持を獲得するためには呪術が必要だった。天台宗も曹洞宗も、密教受け入れで初めて民衆の信仰を集め得た。西欧では、キリスト教社会は(キリスト教は神話を含むが)、イスラムを通じてアリストテレスの論理学・自然学を学び、初めて呪術を排した哲学を成立させ、それが合理的思考を生み、自然科学を生み出した。

3−A インドの場合―神話の温存と抽象思考

ヴェーダの神話からウパニシャッドの哲学、さらに新たな神話というべき業・輪廻の思想が生まれ、それからの解脱が新たな問題となった。バラモン階級は「瞑想」による解脱を指向したが、他の階級では「禁欲=苦行」による解脱が説かれた。禁欲・苦行の典型はジャイナ教で、仏教はその中間であった。

木下説 三枝充悳氏の「仏教入門」によると、仏教は、現世に生きる苦をあるがままに認め、その消滅超克を自らの精進努力=執着からの解放によって、現世において実現しようとした。ブッダは形而上的な問題には答えず、怪力乱神も受け入れなかったが、やがて大乗仏教は現代思想にも通ずる縁起や空の思想とともに、利他行に励む在家のボサツという新しい宗教者像を含む新しい神話を造形し、密教ではヒンズー教の神々を守護神として受け入れ、呪術呪法が導入された。13世紀初め、侵入したイスラム勢力によって仏教はインドから消滅した。在家主義による利他の思想とボサツによる自力・他力の救済の思想と行を掲げる大乗仏教は、チベット・中国・韓国・日本に伝わり民衆の支持を得た。他方,南伝仏教は、初期仏教の姿を留めたまま、布施や戒律維持を中心に東南アジア諸国に厳存している。

ヴェーダ・ウパニシャッドに発し、仏教・ジャイナ教などの哲学思想を生みだし、古代から今日まで民衆を引きつける神話を包含するヒンズー教に至るインド思想の推移を簡単に語ることは困難だが、大乗仏教誕生時代の哲学論議を見ると、ブッダが神や形而上学を語らなかったにもかかわらず、過去七佛に加えて多数の佛・ボサツなどが諸経によって生み出され=神話化、煩瑣な哲学論が膨大な文献として蓄積されている。そしてその論理が、論争のための論理で実証によって自然科学に向かう類のものでなかった点に、ギリシャ・西欧における論理との違いを見ることができる。

中村元氏は、「東洋人の思惟方法」において、インド人の思惟の抽象化・普遍化的傾向、中国人の具象的知覚重視・現実主義的傾向、日本人の現世主義・人間関係重視・非合理主義的傾向を比較抽出した。

インド人は,抽象的思考によってゼロの観念を生み出し、現在もコンピューター・ソフトの面では抜群の成績を上げているが、自然科学や歴史・人文科学の応用分野では遅れを取り,英国の植民地として長い間苦杯をなめた。

3−B ギリシャの場合―自然学と道徳学と論理学

中国の哲学が道徳哲学にかたより、インドの哲学が神話を多分に保存した形而上学を作ったのに対し、ギリシャの哲学は客観的な宇宙論=自然学に向かった点に特徴がある。そして自然学から道徳学への移行はソクラテスにおいて認められ、プラトンの弟子アリストテレスによって自然学・道徳学を含む形而上学が体系化され、最後にストア派・エピキュロス派・新プラトン派によって道徳的宗教的世界観に至り、キリスト教神学と融合した。

インドとの比較で見ると,ピタゴラスは、「輪廻」を信じ「魂の浄化」による「解脱」を求めたが、同時にものの原理を「数」と考える形而上学を持っていた。輪廻の神話と数の哲学=存在論が後進によって、世界の多様性を説明する多元論=原子論まで発展させられた。この展開はインドにも中国にも見られないものであった。

 

4 ギリシャ思想における論理的思考の発展―修辞から論理へ

4−@ ソクラテスの問答における論理は、プラトンの記録によって見ることができる。長い演説全体でなく、一問一答による吟味は、命題の矛盾の有無、導出される帰結の妥当性の有無をめぐって帰謬法によって行われた。それはソフィストの弁論術=修辞法=レトリケとはっきり異なる問答法=ディアレクティケという論理的方法だった。

 

4−A プラトンは、ソクラテスの問答法を体系化して、幾つかの基本命題から他の諸命題が論理的に導き出されると考えた。この体系は数学において築かれつつあり、プラトンは、哲学にも数学と同じ論理性を要求し、それをディアレクティケとよんだ。ユークリッドの幾何学はプラトンのアカデミーにおいて実現された。

 

4−B アリストテレスは、プラトンのように哲学を厳格な論理体系にまとめようとは考えなかった。人間に関わる倫理学や政治学には数学的な厳密さは要求できない。そこでアリストテレスは、修辞法ではなく論理を、厳格な論証法と、蓋然的な推論法としての問答法=ディアレクティケに区別し、たいていの哲学論議には後者を用いることとし、三段論法を含む形式論理学を作り上げた。

 

4−C 中国では、「飛ぶ鳥は動かない」「白馬は馬ではない」といった逆説が論理意識の始まりとなったが、それは有限な区別が無限の全体から見ると意味を失うという形而上学的主張の表現であって、個物と一般、主語と術語などの論理問題ではあったが,論理的形式についての探求には進まず、名家において正名論=道徳論として名と実の関係が論じられるに止まった。

中国では、論理の鋭さより修辞の洗練が重んじられる文化的伝統があった。逆説に同感する荘子は、議論はしないで比喩的文章で表現し、その真理を自ら生きる道を選択した。  中村元氏の「シナ人の思惟方法」にある「中国語自体が非論理的である」という説には、加地伸行氏「中国人の論理学」が、中国語にはサンスクリットと異なる論理があると反論しているが、中村氏は、インド仏教の論理学たる因明の導入において、チベット人はきちんと翻訳したが中国人は簡単なものしか翻訳しなかったのは、推論の意義がわかっていなかったのではないかという。鋭い指摘である。

禅宗において、その問答に初期には存在した論理的傾向が次第に薄れて、ギリシャ的対話とは著しく異なった非論理的傾向が顕著になり、問いと答えとが「対話」のように展開しない「禅問答」となってしまった。だから禅僧の思惟方法はインド仏教徒と正反対で、普遍的真理である「法」は他人と共に理解さるべきものでなく、個別の直接的な体験として把握すべきものとされた。中国人は禅問答を論理的に解釈することを好まず、具象的・直感的説明で対応しようとした。

現代中国の大学入試について小生がNHKTV036月に聞いたところでは、特定の題に対する作文があり、そこで競われるのは論理の明快さというより文章構成の優劣で、一番となった作品はインターネットで見られるらしい。

 

4−D インドでは、非正統の哲学の属する勝論派の多元論と結びついて、正理派の論理研究が生まれた。認識論においては直接的知覚を超えた間接的推理による認識方法として、5句からなる推理形式が生み出された。アリストテレスの三段論法の結論をまず述べ、小前提と大前提,終わりにもう一度小前提と結論を繰り返す。論争の場合の修辞的形式であって、論理的には終わりの二句は必要ない。また三段論法の小前提は肯定で大前提は全称でなければならぬという条件,特に後者が満たされておらず,したがって推理は演繹とはいえず,類推に過ぎなかった。

そこで5世紀の陳那=ディクナーガが考え直して三句からなる演繹推理形式を作り上げ、これがインドにおける論理学の成立となった。しかしそこにはギリシャ人が幾何学で実現したような厳密な論理体系への志向はなく、中国に比べれば進んでいたが、アリストテレスの「論証法的」体系には至らなかった。

木下説 桂紹隆氏の「インド人の論理学」によると、インド論理学はそのもっとも発達した形態においても基本的に「帰納的論証」であって、陳那が演繹推理を作り上げたというのは当たらないという。また小生が三枝先生の指導で、竜樹=ナーガーリュジュナの「中論」を読んだ限りでは、相手の議論を打ち破ることに重点があって詭弁的で、レトリックはあるが概念の外縁・内包といった基本的な定義なしの論争で、延々と続くが論理の蓄積=科学は積み上げられない性格のものであった。

 

5 古典哲学の発展と継承

5−@ 中国では、魏・晋・南北朝の四百年近い分裂時代の間に異民族の流入と仏教の伝来があり、しかし漢民族が依然として文化の主な担い手であった。

唐代には南朝思想が受け継がれ、仏教と道教が盛んであって儒教はそれと並ぶ一つの学派の如くであった。しかし儒教の正統を内面的道徳の系統へ復古・革新する動きが晩唐に現れた。それが宋代に朱子(11301200)の宋学となって結実した、仏教や道教から形而上学的・自然哲学的思弁を取り入れ、理学といわれ論理的体系的となった儒教であった。

それは同じ頃ヨーロッパで成立したスコラ哲学に似ていた。朱子における理と気の二原理は、アリストテレス・トマスにおける形相と質料に似た機能を持っている。しかし儒学である宋学には、理性を超えた神学への顧慮の必要はなかった。

神話を理性より低いものと見る中国哲学の伝統は、仏教に対しても維持された。汎神論的宗教である仏教は、形而上学的理性と衝突しなかった。人間が天理に合一するという聖人の境地=人間は努力によって聖人の域に到達し得る=「聖人は学んで至るべし」という宋学の根本にあった思想は、「人に佛性あり、修行によって仏になりうる」という大乗仏教思想に対応するものであった。

朱子においては、儒教の倫理は形而上学と自然学に裏打ちされており、聖に達する道は、心の散乱を防いで集中する「居敬」と、客観的に事物の理を知る「究理」を含んでいた。しかし中国哲学の伝統では、理性的客観的世界は常に人間的世界であって、自然界も人間界と根本的に違った世界ではない。そこで倫理の客観知=居敬と究理は一つ,自己認識ということになり、聖に至るには真の自知で足りることになった。

三百年後、明の王陽明(14721528)がその思想を徹底し,朱子が否定すべきものとした欲望を、自己の自然=人間的生命として肯定するに至った。陽明の弟子は儒教も道教も仏教も結局は一つであるという考えに至った。

西洋の年代に当てると朱子は中世末期,陽明は近世初めに該当し、朱子がすでにヒューマニズムに立ち、陽明がそれを徹底した。中国哲学の伝統、神話を消して道徳世界の問題=人間の問題に専心するという特色は保存されたが、自然学の論理的展開は欠落していた。

 

5−A インドでは、古代哲学の開花後に新たな展開は認められなかった。2世紀に、仏教やジャイナ教と並んで六派の思想が現れ、大乗仏教が生まれ、ヴェーダンタ派はシャンカラのような哲学者を生んだけれども、8世紀に至って古代哲学の活力は全く消える。哲学は再び神話に埋没し,ヒンドゥー教がインド思想を支配した。

ヒンドゥー教はある意味で古代のブラーフマニズムの再生であって、仏教やジャイナ教のような普遍性を持たぬ民族宗教であり、カースト制度による社会の階層差別が維持された。そこで神の前の平等を説くイスラムが侵入して来た時、多くの下層カーストはそれに改宗し、かくて生じた思想的分裂が植民地支配に悪用され、現在までインドの政治に決定的な影響を及ぼした。

木下説 イスラム侵攻によって滅亡となった仏教は、その平等思想によって現代に復帰したが、まだ影響力は小さい。独立後多民族多言語の民主国家となったインドは、カースト差別を禁止する憲法を持っているが、土地所有など富の不平等と社会的差別が解消されていない。当初の社会主義傾斜から自由経済指向となって今後どうなるか。

 

5−B ギリシャ古代哲学をヨーロッパ人にもたらしたのはスペインに進出していたイスラム(ユダヤ人学者が主流)であった。ローマの没落期にヨーロッパに進出したゲルマン民族は、王国を建てキリスト教を受け入れ、イスラムがスペインに蓄積したギリシャ哲学の学習から中世末期に初期ルネッサンスが始まった。西欧におけるルネサンスは、古代と断絶した中世において、ギリシャの学問が何回も学び直される過程であって、近世156世紀のルネサンスは何度目かのそれなのであった。

古代との断絶がインド・中国と異なる特徴である。西欧に対するイスラム圏の優位は17世紀末頃までで、以後のイスラム世界はルネッサンスに始まる西欧の科学技術の発展に追随することができなかった。

7世紀にアラビアに起こったイスラムは、ペルシャ・北アフリカを経てイベリア半島に達し,その地の文化を受け入れ、知識人を活用することによって西欧に先だってギリシャ哲学を受容・消化した。西欧の学者は、ギリシャ哲学の古典を、12世紀にはアラビア語からラテン語に重訳して読み、13世紀に初めてアリストテレスをギリシャ語からのラテン語訳で読むことになった。

アリストテレス哲学の全貌が伝えられて初めて、西欧は,神学と同格の論理的哲学を知った。キリスト教を受け入れた西欧が、中世初期に受け入れたギリシャ哲学はプラトン哲学の一面だけであって、それは論理的というより修辞的で、キリスト教的世界観に従属的であったが、アリストテレスの哲学は、キリスト教神学から独立な,論理的な哲学であった。西欧はこれによって初めて、体系的な自然学や政治学を持つことになった。同時に学者のラテン文は美文でなく粗野になったという。文章の重点が修辞から論理になったからである。

17世紀デカルトによって、厳密な論理による哲学が現れるに至って、西欧哲学はギリシャ哲学を超え、中国哲学もインド哲学も追随を許さぬ特色を持つことになる。近代科学の始まりである。

 

6 近代科学の創始

6−@ 神話への信仰と理性とをいかに調和させるか

中世スコラ哲学の中心課題は、信仰=神学と理性=哲学とをいかに調和させるかであり、キリスト教とギリシャ哲学との間の緊張関係が問題であった。西欧は哲学を学ぶ前にキリスト教を受け入れたが,キリスト教は単なる民族神話ではなく、哲学に対抗しつつ形成された高次の神話であった。中国で仏教と儒教が接触したときには,仏教は汎神論で殆ど哲学であったから、儒教のヒューマニズムに吸収され、儒教は宋学となった。しかしキリスト教の、人格神論を含む神話への信仰を、合理的論理的な哲学と整合させることは容易ではなかった。信仰と理性の問題は、キリスト教世界・イスラム世界に特有な問題として長く残った。

 

6−A 信仰と理性―3つの解決法

(1)信仰を理性の下に置く。信仰の真理は予言者が想像力の言語で語ったものだから,理性の真理に達しない不完全なものという、哲学にとっては当然な主張であったが、キリスト教やイスラム教にとっては異端的な主張であった。

(2)理性を信仰の下に置く。信仰の真理は、神の啓示によって与えられたもの、単なる人間理性の達し得ぬ高次な真理、神は完全な存在者=理性的な神学の命題をはるかに超えた真理とする。キリスト教やイスラム教の正統的な考え方である。

(3)信仰と理性をどちらかに従属させるのでなく、両者の根底を探ってそこに啓示の神と理性の神との直接な合一の経験=神性の象徴を見出そうとする神秘主義。これは人格神への信仰を、非人格的な絶対の経験に解消する傾向がある点で,異端と認められることが多かった。

正統のスコラ哲学者がとったのは、(2)の信仰を理性の上位に置くものであったが、この考えでも、両者の調和・総合を求める考えと、両者はそれぞれ特色を発揮して独立を保つ考えとがありうる。アルベルトゥスやトマスは調和総合型であったが、アリストテレス哲学の自然主義的性格を嫌うプラトン主義者は両者独立型に傾いた。13世紀後半にトマスが目覚しい総合を示した後、ドゥンス・スコトゥスやオッカムが後者によって信仰と理性の分離を促進することになった。

 

6−B キリスト教神学と理性的哲学

こうしてキリスト教神学は、形而上学的考察より倫理宗教的問題に没頭するようになり、神の恩寵と人間の自由意思の問題を熱心に問うことになり、他方理性的哲学は神学から独立に客観的世界認識を追及し始めた。アリストテレスの目的論的自然学を超えて,より客観的な数学的力学的自然学に向かおうとする傾向が、14世紀後半のオッカム派の自然学に認められ、信仰と理性のこのような分極過程が,ルネサンスと絡み合いつつ167世紀にプロテスタントの宗教改革=信仰の個人内面化と新自然学とを生み出す。

木下説 野田氏は言及していないが、イスラム社会は、個人と神の関係においてに西欧流の「宗教改革」=信仰の内面化・個人化や、政治と宗教の分離がなされないで、神学者がアラビア語で書かれた聖典の解釈を独占し、政治・社会問題にも大きな発言力を保持している。神学と哲学、信仰と世俗生活が分離されていない。トルコのイスラムの世俗主義改革といえども経済発展に結びついていない点に問題がある。歴史を無視していきなり個人の人権尊重を謳う米国流の民主主義の定着が難しい所以であろう。

 

6−C アリストテレス自然学からニュートンの数学的自然学へ

アリストテレスの自然学は、西欧が初めて持ちえた体系的な自然学であった。知覚世界は宇宙全体に広がり、中国の朱子による陰陽五行説に比べればはるかに客観的合理的なものであった。その後のヨーロッパは,人間の知覚領域を拡大し、数学的構成によって客観的実在を考える科学的世界認識を追求することになった。

16世紀半ばのコペルニクスの地動説という天文学の革新は、プトレマイオスの天動説による遊星運動を数学的に単純化するために考えられた仮説であったが、同時に知覚の宇宙への超出なのであった。コペルニクスを踏まえ遊星運動の正確な記述をもたらしたのはケプラーであった。それはさらにガリレイによって17世紀に、投射体の運動として捉えられ、デカルトとホイヘンスを経て、ニュートンによって「力学体系」にまとめ上げられた。

 

6−D デカルトの哲学

このような数学的自然学の意義は,デカルトの哲学によく表現された。(1)自然を目的論的に見ることは、神の意志を推測しようとする人間の傲慢であって、自然の真実を知るためには人間的な知覚や評価を超えて、自然を機械的・力学的に見なければならない。それが全能の神への帰依の態度である。(2)哲学は明白な論証的知識であるべきだ。真理は幾何学の推理のように、スコラ哲学の蓋然的論理でなく、数学的な論証によって証明されねばならない。

こうして理性が論理性の基準として数学的厳密性を求めるに至ったとき、真に客観的な科学的世界知が得られることになった。

 

7 哲学の世俗化、神話への信仰と理性

デカルト・スピノザ・ライプニッツを生んだ17世紀は、まだ思想に宗教性が残存していたが、この時代に確立した新自然学が18世紀に科学的自然主義を生み出し、哲学の世俗化が進んだ。デカルトは形而上学=自然神学を哲学の基礎としていたが、後にカントは純粋理性批判において形而上学の学問性を否定し、世界観の基礎に世俗的理性道徳を置いた。

178世紀の理性・啓蒙の時代の後に、189世紀のロマン主義の反動がくる。フィヒテ・シェリング・ヘーゲル・ショーペンハウエルなどドイツ観念論者の形而上学=神話である。

7−@ 世俗化と信仰・理性

哲学の世俗化の結果、中世における信仰と理性についての三つの考え方が、異端を含めてすべて陽の目を見ることになった。(1)理性を信仰の上に置く自然主義は、科学的自然主義として公認された。(2)信仰を理性の上に置くキリスト教正統派の考え方は、両者を明確に区別しつつ理性と領域を異にする道徳律の尊重を説くカントの哲学によって維持された。(3)理性と信仰との融合を説く神秘主義は、啓蒙・合理主義思想に続いてやって来たロマン主義思想によって諸外国の神話伝説と共に汎神論として受け入れられた。

 

7−A 中国・インド思想のヨーロッパへの影響

フランスのヴォルテールなどの啓蒙主義者は、中国人が神話や宗教に冷淡で世俗的道徳や政治に専念する伝統に同感し、中国の哲学的伝統の理解に道を開いた。

ドイツのシュレーゲル兄弟やショーペンハウエルなどのロマン主義の思想家は、インド哲学の汎神論に関心を持ち、インド思想の哲学的文学的理解に道を開いた。インドのサンスクリットが欧州の言語と共通の祖先を持つことが発見され、その面からの研究も盛んに行われた。しかし長年の植民地経営がもたらした西欧優位思想からまだ脱却できたとはいえない。

 

7−B 世界観の相対性―ニヒリズムの誕生

キリスト教中世で異端であった思想の世俗世界への登場は、キリスト教の権威の喪失であり、中国やインドからの未知の世界観・哲学の導入は、世界観の歴史的相対化を帰結した。その行きつく先に生まれたのがニヒリズムという鬼子であった。

神は死んだと説いたニーチェ、神がいないなら人は何をしても許されると殺人を犯すドストイエフスキーの小説の主人公たち、ヒトラーやスターリンの根底にあったのはニヒリズムであった。19世紀に哲学思想として生まれ、文学として形象化されたニヒリズムは、20世紀にファシズムという政治思想として具体化され、世界を戦争の嵐に巻き込んだが、21世紀の今も世界は、キリスト教世界とイスラム世界という歴史的政治的宗教的対立を克復し得たとはいえない。

そして未だに西欧の学者には仏教をニヒリズムとしか理解できない人がいる。困ったものである。

 

8        東洋思想―包容から改革へ

インドでは各宗教は共存し、中国でも同じだった。イスラムもユダヤ教徒やキリスト教徒を排斥しなかった。だからエルサレムでキリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も平和共存してきた。インドではムガールのイスラム時代でもヒンズー教徒は排斥されなかった。中国では諸子百家に象徴される言論自由の時代が主であったが、王朝交代にからんで焚書坑儒や排仏や批林批孔などという思想弾圧時代もあった。日本は外来思想を重んじて神仏習合が長い伝統となり、近代思想受け入れによる社会改革と経済発展は世界の模範例となった。しかしその文化の思想としての結晶度については疑問無きにしも非ずであろう。

東洋諸国は長く西欧植民地政策下で(日本も侵略者となったが)今や社会改革から経済発展に進もうとしている。イスラムについては米国の介入が是か非か、明るい展望が開けないのは遺憾である。中東問題については別稿で考察した。

                おわり