哲学の三つの伝統、野田又夫 1974筑摩書房
2003.7.9―04.12.6 木下秀人
野田又夫氏は、西田幾多郎・田邊元に連なる京都大学哲学科のフランス哲学の専門家。デカルト・パスカル論で知られる。この本は60代半ばの円熟した思想史家が「当の思想の真偽について自己の考えを言う用意がなくてはならず(序)」という覚悟の上で執筆された、西欧・インド・中国三つの文明の流れを鳥瞰する力作である。刊行当時に通読した筈だが、内容が記憶に残らなかったのは問題意識がなかったからだろう。ようやく定年退職で手が空いて仏教の「中論」に取り組み、インド・東洋の論理の西洋との差、イスラム・ユダヤとキリスト教問題を意識させられ、比較思想に関心が向くにつれ再読することになった。きっかけは桂紹隆「インド人の論理学」1988中公新書に「西洋哲学・中国哲学・インド哲学の比較論として、今でも有効な見取り図」として引用されたのを見たからである。改めて読んで感心し納得したので、論旨を要約する。
なお、野田氏が論じていないイスラムについては、随所に言及したほか「中東問題」については別稿の考察に譲る。
1 三つの文明にそれぞれの哲学
人類の文明がどこに生まれ発展し、それをどう数えるかには議論があり得て、NHKなどでは古代文明の起源を四大文明といっているが、野田氏は「明確な宗教・哲学」として、ギリシャ・インド・中国の三つを取り上げる。
2 神話から哲学への意識の移行
社会が形成され言葉が生まれ神話が生まれ、その社会や民族の興亡や個人の生死についての神話が洗練されて哲学となった。それが地域によってそれぞれ異なっていた。
ギリシャの哲学者の始めといわれるタレスは前6世紀前半、ソクラテスは5世紀後半に生きたが、前6−5世紀に北インドでブッダ(インドには歴史記録がないので推定による。生年前544=南伝、483=欧米、383=北伝)が、北中国で孔子(前552−479)が活躍し、彼らによってこの三つの場所で神話から哲学への移行が進められた。
ギリシャではポリスが生まれ発展し多くの植民市を生んだ時期,インドではアーリア人がインダス川上流からガンジス川中流域へ進出し幾つかの都市国家を作った時期、中国では春秋戦国時代であった。
哲学に先だって呪術と神話があり、神話的想像は人間の宇宙的運命に意味を与えようとしたが、同じことを哲学は、理性的反省によって果たそうとした。そして神話の含む問題のどの側面を継承発展させるかで、三つの哲学の伝統は異なる特色を示すことになる。
木下説 呪術神話から哲学・科学への移行は文明の発達に共通であったが、それで呪術や神話がなくなったわけではなかった。哲学や科学が人間・社会のすべてを説明できるはずがない。説明できない部分について納得のいく説明が必要だった。そこで哲学・科学の発達と同時に、それと整合するより合理的な新しい神話が創造され信仰された。それについても地域・文明・民衆の知的水準による差がありうる。
2−@ 中国の場合―呪術神話から道徳・政治哲学へ
中国では、呪術神話を道徳・政治哲学によって合理化し、神話の神々を歴史的人物につくりかえた。殷人は巫と亀卜によって示される非合理な天命に従ったが、周人は天命を専ら道徳的なものと解釈し政治革命を合理化した。周人の考えを論理的哲学に表現した孔子は、怪力乱神を語らず、鬼神は敬して遠ざけるべきであると考えた。
木下説 自然学は本草学のように経験的分類的段階にとどまり、分析的な科学に向かわなかった。歴史記述は綿密に行われた、記述の学は行われたが、論理学は発展しなかった。
2−A インドの場合―神話と連続した形而上学
インドでは、ヴェーダの神々が次第に一つの原理によって統一され,ウパニシャッドの神秘主義に到達した。神話から形而上学への道であったが、このとき新たな神話として業・輪廻の説が現れ、原始的な生死の考え方に道徳的意味付けが加えられ、それを出発点として仏教やジャイナ教などの哲学的反省が生まれた。中国における神話の消滅と反対に、神話と哲学との連続性が著しい特徴となった。
木下説 野田氏の言及していない仏教では、シャカは形而上学的質問には答えなかった(無記)が、後に大乗仏教は般若経・法華経など沢山の神話物語を仏説として創作した。それを論理的にまとめ上げる中論や唯識論などの哲学的作業も追随して行われ、その理論水準は現代哲学のウィトゲンシュタインや精神分析のフロイドの高さに達している。野田氏の言い方をすると、仏教はシャカの実践道徳哲学から神話とボサツ行という実践道徳を含む形而上学=大乗仏教にインドで転化し、中国も日本もそれを受け入れたことになる。
論理学は発展したが、論争術であって実体との検証を伴う自然科学としては発展せず、歴史記述も行われず、文字どおり神話物語と連続した形而上学が残された。
2−B ギリシャの場合―宇宙論から自然学へ
中国の哲学が道徳哲学、インドの哲学が形而上学に向かったのに対し、ギリシャでは、哲学はまず自然学に向かい、神統記・宇宙発生論の神話的想像は合理化されて宇宙論=自然学となった。ピタゴラスやプラトンに見られるような輪廻の神話も哲学の時代に現れてはいるが、インドと異なって神話的想像と理性的思考とがはっきり分けて考えられている点にその後の自然科学につながる特徴があった。イスラム経由で受け入れた西欧はそれを発展させたのに対し、当初文化的軍事的優位を誇ったイスラム世界は、西欧での自然科学の発展を受け入れなかった。
3 三つの哲学の発展
3−@ 中国の場合―治者の道徳・政治哲学と民衆の信仰
中国では,孔子の考え方が儒教となり終始有力であった。孔子は鬼神を遠ざけ、現世的道徳の原理を「仁」とした。「仁」の原理の外に現れた形が「礼」で、逆に「礼」に従うことが「仁」でもある。そこで孔子学派に内的道徳を重んずる孟子と、外的制度を重んじる筍子との対立が生まれた。
儒教の枠を破ろうとする動きは二つあったが,力を持ちつづけられなかった。一つは墨子の唱えた蒹愛の哲学で、仁の原理は家族関係に基づいた狭い不平等なものとし社会一般に及ぶ普遍的平等な愛の道徳を唱え、天命という運命論を排し有神論を唱え非戦論を説いた。いま一つは揚子の自然主義で、個人の生命を大切と考える利己主義や隠者の哲学が老子・荘子につながり、道徳的意味を除いた自然を基礎に考える点が筍子・韓非子につながった。
木下説 むしろ儒教の反対勢力としては、怪力乱神を排除せず民衆に親しまれた道教をいうべきで、老荘思想は純化された哲学であるのに対し,民衆信仰としての道教は哲学としては純化されない呪術的要素を濃厚に維持しつつ,永く中国民衆の心を捉え続けた。インドにおけるヒンズー教の神々も,仏教に取り入れられたのは呪術的側面=密教であって、中国でも日本でも同じであった。釈迦の仏教は哲学であったが、民衆の支持を獲得するためには呪術が必要だった。天台宗も曹洞宗も、密教受け入れで初めて民衆の信仰を集め得た。西欧では、キリスト教社会は(キリスト教は神話を含むが)、イスラムを通じてアリストテレスの論理学・自然学を学び、初めて呪術を排した哲学を成立させ、それが合理的思考を生み、自然科学を生み出した。
3−A インドの場合―神話の温存と抽象思考
ヴェーダの神話からウパニシャッドの哲学、さらに新たな神話というべき業・輪廻の思想が生まれ、それからの解脱が新たな問題となった。バラモン階級は「瞑想」による解脱を指向したが、他の階級では「禁欲=苦行」による解脱が説かれた。禁欲・苦行の典型はジャイナ教で、仏教はその中間であった。
木下説 三枝充悳氏の「仏教入門」によると、仏教は、現世に生きる苦をあるがままに認め、その消滅超克を自らの精進努力=執着からの解放によって、現世において実現しようとした。ブッダは形而上的な問題には答えず、怪力乱神も受け入れなかったが、やがて大乗仏教は現代思想にも通ずる縁起や空の思想とともに、利他行に励む在家のボサツという新しい宗教者像を含む新しい神話を造形し、密教ではヒンズー教の神々を守護神として受け入れ、呪術呪法が導入された。13世紀初め、侵入したイスラム勢力によって仏教はインドから消滅した。在家主義による利他の思想とボサツによる自力・他力の救済の思想と行を掲げる大乗仏教は、チベット・中国・韓国・日本に伝わり民衆の支持を得た。他方,南伝仏教は、初期仏教の姿を留めたまま、布施や戒律維持を中心に東南アジア諸国に厳存している。
ヴェーダ・ウパニシャッドに発し、仏教・ジャイナ教などの哲学思想を生みだし、古代から今日まで民衆を引きつける神話を包含するヒンズー教に至るインド思想の推移を簡単に語ることは困難だが、大乗仏教誕生時代の哲学論議を見ると、ブッダが神や形而上学を語らなかったにもかかわらず、過去七佛に加えて多数の佛・ボサツなどが諸経によって生み出され=神話化、煩瑣な哲学論が膨大な文献として蓄積されている。そしてその論理が、論争のための論理で実証によって自然科学に向かう類のものでなかった点に、ギリシャ・西欧における論理との違いを見ることができる。
中村元氏は、「東洋人の思惟方法」において、インド人の思惟の抽象化・普遍化的傾向、中国人の具象的知覚重視・現実主義的傾向、日本人の現世主義・人間関係重視・非合理主義的傾向を比較抽出した。
インド人は,抽象的思考によってゼロの観念を生み出し、現在もコンピューター・ソフトの面では抜群の成績を上げているが、自然科学や歴史・人文科学の応用分野では遅れを取り,英国の植民地として長い間苦杯をなめた。
3−B ギリシャの場合―自然学と道徳学と論理学
中国の哲学が道徳哲学にかたより、インドの哲学が神話を多分に保存した形而上学を作ったのに対し、ギリシャの哲学は客観的な宇宙論=自然学に向かった点に特徴がある。そして自然学から道徳学への移行はソクラテスにおいて認められ、プラトンの弟子アリストテレスによって自然学・道徳学を含む形而上学が体系化され、最後にストア派・エピキュロス派・新プラトン派によって道徳的宗教的世界観に至り、キリスト教神学と融合した。
インドとの比較で見ると,ピタゴラスは、「輪廻」を信じ「魂の浄化」による「解脱」を求めたが、同時にものの原理を「数」と考える形而上学を持っていた。輪廻の神話と数の哲学=存在論が後進によって、世界の多様性を説明する多元論=原子論まで発展させられた。この展開はインドにも中国にも見られないものであった。
4 ギリシャ思想における論理的思考の発展―修辞から論理へ
4−@ ソクラテスの問答における論理は、プラトンの記録によって見ることができる。長い演説全体でなく、一問一答による吟味は、命題の矛盾の有無、導出される帰結の妥当性の有無をめぐって帰謬法によって行われた。それはソフィストの弁論術=修辞法=レトリケとはっきり異なる問答法=ディアレクティケという論理的方法だった。
4−A プラトンは、ソクラテスの問答法を体系化して、幾つかの基本命題から他の諸命題が論理的に導き出されると考えた。この体系は数学において築かれつつあり、プラトンは、哲学にも数学と同じ論理性を要求し、それをディアレクティケとよんだ。ユークリッドの幾何学はプラトンのアカデミーにおいて実現された。
4−B アリストテレスは、プラトンのように哲学を厳格な論理体系にまとめようとは考えなかった。人間に関わる倫理学や政治学には数学的な厳密さは要求できない。そこでアリストテレスは、修辞法ではなく論理を、厳格な論証法と、蓋然的な推論法としての問答法=ディアレクティケに区別し、たいていの哲学論議には後者を用いることとし、三段論法を含む形式論理学を作り上げた。
4−C 中国では、「飛ぶ鳥は動かない」「白馬は馬ではない」といった逆説が論理意識の始まりとなったが、それは有限な区別が無限の全体から見ると意味を失うという形而上学的主張の表現であって、個物と一般、主語と術語などの論理問題ではあったが,論理的形式についての探求には進まず、名家において正名論=道徳論として名と実の関係が論じられるに止まった。