呪術・宗教と哲学・理性−わからないことの処理

                 2004.7.2−05.1.14  木下秀人

1 本居宣長の二つの墓

小金井成人大学でICU小島康敬先生の「本居宣長」を聞いているなかで、彼の遺書と葬式のあり方が話題となった。宣長は浄土宗の菩提寺である樹敬寺で若いころ修行をし資格を取得しているし、日々読経を欠かさなかったらしいが、自分の葬儀と墓については詳しい遺言状によって遺体は菩提寺でなく眺めのよい妙楽寺にかねて用意の墓に夜ひそかに葬り、菩提寺では遺体なしでしきたりどおりの葬式を営み墓も作るなど、墓を二つ作ることと以後の祭式を詳しく指定した。妙楽寺の墓には「本居宣長之奥津紀」と刻み桜を植えること、樹敬寺の墓には「高岳院石上道啓居士」と刻み、やがて夫人もそこへ葬ることが指定された。

なぜ墓を二つ作るのか、古事記研究で唱えた儒教・仏教排斥を一貫するなら妙楽寺の墓だけでいいではないかという問いに対する答えは必ずしも明確ではない。小生の意見は次のとおり。宣長は思想家としては儒教仏教を外来として排斥し、わが国の優越性を比類なきものとして讃える過激思想の唱導者であったが、生活者としては政治思想に見られるごとくすこぶる保守的であった。寺請制度からしても樹敬寺を抜くわけにはいかないから樹敬寺にはしきたりどおり墓も作り葬祭も続ける、しかし長年の付き合いと宣長の名声に免じて妙楽寺の宣長思想による墓を見逃してもらったというのが真相で、遺体は妙楽寺に収めたが、宣長にとって先祖から子孫に向かって連綿と続く生命の流れ以外の死後の世界など思考の外だったのではないか。

2 死後の世界―「わからない」が葬礼は欠かせない

 仏教の創始者釈迦は、死後人はどうなるかなどの形而上的質問については黙って答えなかった。これを「無記」という。儒教の古典論語の哲人孔子は、「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」と釈迦と同じような答え方をした。意識としては知らない・答えられないですむ。しかし葬礼は行わなければならない。釈迦の遺体は弟子たちによって火葬され、遺骨は8分割されてそれぞれ丁重にストゥーパ=塔を立てて葬られた。孔子の遺体は丁重に葬られ孔子廟として残っているが、そもそも孔子たちは葬式儀礼の専門家集団だったという説もある。

3 近代哲学と「わからないこと」の処理

 近代哲学の創始者の一人デカルトは、「われ思うゆえにわれあり」で有名な「方法序説」で、個人=我を出発点とする新しい考え方の原理を発見したが、それで律し得ない事柄については、現在世に行われている習慣に従うべきであると説いた。宣長の方法はこれに準じているといえるであろう。

 「純粋理性批判」において理性による認識の限界を立証したカントは、わからないにもかかわらず行動=実践しなければならない人間を支える道徳的確信=実践理性の基盤として、「意思の自由」「魂の不死」「神の存在」の三つを挙げ、「君のやり方で誰がやってもおかしくないように行動せよ」とまとめた。「定言命令」という。

4 学者の年代比べ

デカルトは15961650、カントは128年後の17241804、宣長は17301801だから、宣長はカントの同時代人であり、荻生徂徠166617281世代先行。デカルトに対しては、藤原惺窩15611619が1世先行、林羅山1583165713才上、伊藤仁斎162717051世代遅れということになる。

5 仏教・儒教のつつましさとキリスト教の押し付け

釈迦の言行をまとめたといわれるダンマ・パダ=法句経に、カントと似た有名な言葉がある。「悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を清める、それが諸仏の教え」という言葉である。「諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸仏教」と漢字で書く。「七仏通誡ゲ」といって、一休さんの書でも有名な句である。カントの定言命令と同じといえるであろう。

儒教では論語に「己の欲せざるところを、人に施すことなかれ」と消極的である。これに対し聖書のマタイ伝「人にせられんと思うことは、人にもまたそのごとくせよ。これは律法なり預言者なり」は積極的で、論語と裏表の関係になる。法句経や論語の慎ましさに対し、聖書はお節介どころか、伝道に名を借りて植民地を拡大した歴史がある。21世紀の今日、「民主主義」という抽象的政治原理を、歴史を無視して強制される中東諸国は迷惑だが、ブッシュの「キリスト教原理主義」は植民地主義をはらんでいないであろうか。

6 西欧哲学の東洋哲学への接近

20世紀西欧哲学の代表というべきウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」を要約して「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」といった。論語にある孔子の「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という言葉そのものではないか。

同じウィーン育ちで13歳下の、カール・ポパーは、「科学的真理とは反証に耐えて積み上げられた仮説・推測=暫定的回答であって、その推測は厳しい批判的なテストを含む反証の試みによって支えられている。そしてこの反証がわれわれを真理へ近づける。われわれが自己の過誤から学びうることの意味はそこにある」、「真理の探求は果てしなく続く」といった。

仏教哲学では抽象的に苦や無や因縁をいうだけで、具体的社会や自然の解析には向かわなかったが、諸行無常は今日もなお真理であって、悠然たる歴史の流れがそこにある気がする。

自我を主体とし、自然を対象として膨大な解明の言葉を築き上げてきた西欧近代哲学は、明確であったはずの自我が深層心理や大脳生理による揺らぎをまぬかれず、真理であったはずのニュートン物理学が量子力学によって解体され、それらを動かしている力の統一理論が見出されていないという不完全・不安定な状況に追い込まれてしまった。さらに科学に基礎付けられた産業文明は、人類に史上まれにみる大量殺戮をもたらしてしまった。西欧哲学は、同じ啓典に属するイスラムの共生思想すら理解していないが、インド・中国などの東洋思想といかに折り合うのであろうか。それぞれ独自のコミュニティーを作って、平和共存するのであろうか。別稿「哲学の三つの伝統」参照。             

7 日本の仏教・儒教思想

本居宣長と同時代の大阪の富永仲基は、30そこそこの若年で仏教・儒教を深く研究し、「聖人の教えは善のみ、聖人の道は正につきる。僧侶や儒者でなくともよい。」「諸法相万すといえどもその要は善をなすに帰す」と鋭く論じた=「出定後語」。その心は、「シャカに帰れ」であろう。

 宣長より100年前の京都の学者伊藤仁斎は、朱子学全盛時代に、論語を「最上至極宇宙第一の書」と賞賛し、「童子問」に「文が武に勝つときは、国の礎が修まる。武が文に勝つときは国脈がちじまる」と激しい言葉を書き付けた。

 仏教は、聖徳太子の時代に、自らの悟りへの修行と利他=菩薩行を基本とする大乗仏教が輸入された。すでにインド・中国において理論的にほとんど完成された状態であって、必要な経典が適切に選択されていた。

その後は社会の状況にあわせて古来の神道との融合、国家鎮護=奈良仏教・加持祈祷=平安仏教から個人の念仏往生=源信などへの祈りの変化、日本独特の戒律の確立=最澄、それからの脱皮=親鸞、国家危急時の仏教者あり方の反省=日蓮、他を省みずひたすらの自己完成=道元など、さまざまな変化を伴いながら社会民衆に浸透していった。戦国時代における一向一揆や法華一揆は、仏教の民衆への浸透の一例である。

 江戸時代における寺請制度は、仏教の国家的強制であると同時に保護でもあった。仏教と習合しているといっても本来理論のない神道は、僧侶に従属せざるを得なかった。国学が偏向して皇国思想となり明治維新を迎えたとき、廃仏毀釈という仏教排撃がなされた深層に、神道側の上述のようなコンプレクスを認めることができよう。

 まとまらない話になってしまったが、小生がここで言いたいのは、(1)仏教思想は日本にもたらされた時、既にインドで大乗仏教として理論的に完成されていた、(2)したがって後の諸仏教の展開は、それぞれの時代における問題を処理するために、それぞれの仏教者の理解に応じてなされ、(3)それによって仏教が日本社会に浸透していった、という仮説である。自分をその時代においてみると、昔の人は立派であって、その後、文明開化と産業開発で便利贅沢な暮らしをしている今の自分が優れているとはとても思えない。地球資源を無駄遣いして後世に付けを回しているばかりという反省がある。

             おわり