木田元 反哲学史 95.1 講談社学術文庫(00.4) 

                    02.8.14−04.8.4 木下秀人

 旧来の哲学は、ヨーロッパ文化中心の進歩史観と西欧中華思想で描かれた楽天的なものだった。既にニーチェはその欺慢性を見ぬいており、ハイデッガーやメルロ=ポンティ―がその見方を継承した。

1 ソクラテスの哲学

 フィロソフィー=哲学は、フィロ=愛とソフィア=知の合成である。当時アテナイには民主制のもと、ソフィストという詭弁術をもてあそぶ人々が横行し、政治を歪めていた。中には彼の弟子もいた。危機感を抱いたソクラテスはソフィストを論破する為の論争術として、自ら無智を装う無限否定のアイロニーの立場を案出した。

 フュシス=自然にはそれを支配するロゴスが厳然とあり、それに対する人為・制度・法=ノモスは仮象に過ぎない。しかるに、その間にあるべき緊張関係が失われて詭弁によって誤ったノモスが横行して,何が正しいか善いかが見失われてしまっている。ソクラテスは否定の論理によって詭弁を打ち破り、自らの死によって市民とノモスのあり方に警鐘を鳴らそうとした。ソクラテスを死に追いやった古い存在論に替わって、新しい原理・存在論を打ち立てたのは弟子のプラトンであった。

2 プラトンのイデア論

 プラトンは、ノモス=仮象とフュシス=自然というそれまでの存在論に対し、感覚的個物からなり生成変化する現実世界と、それを越え永遠に変わらないイデアの世界を想定し、われわれは目を外界から魂の内面に向け直し、かつて見ていたイデアを「想起」し真の認識に到達しなければならないと主張した。

 個物はイデアから借りてきた「エイドス=形相」と「ヒュレー=質料」から構成されるが、本質存在を決定するのはイデアを内包する「形相」であって「質料」ではないという。この考え方が当てはまるのは制作物についてであるから、プラトンは「自然は生成する」=「なる」という観点からのみ構成されていた古い存在構造に、「イデア」にしたがって「つくる」という新しい観点を導入した。イデアは制作のための設計図・作り方に他ならなかった。この考え方は、万物を「なる」ものと見ていたそれまでのギリシャ人の考え方とは異質で、ピュタゴラス教団に由来し、アリストテレスによって「形而上学」で「異国風」と指摘されているように革新的な考え方であった。

この結果、かつて「存在」のすべてを包括するものであった「自然」は、制作の単なる質料・材料の位置に成り下げられてしまった。ヒュレー=質料はラテン語のマテーリア=材料となり、ここに自然を物質と見る自然観が成立した。同時に「存在」は、イデアを含む「本質存在」=「である」と「事実存在」=「がある」とに区別され、本質存在の絶対的優位が確立した。

ハイデガーは,この区別によって物質的自然観=制作的存在論が確立し,哲学が始まったという。プラトンにとってポリスは、成り行き任せでなく、正義の理念によって作り上げられるべきで,人間のイデアを目指しての自己形成と同じで、その実践哲学の基礎付けにはこの存在論が必要であった。

このイデアが理想となりやがて神となっていくが、それにはプラトンの開いたアカデメイアで二十年学んだ、アリストテレスの登場が必要であった。                             

3 アリストテレスの形而上学

 アリストテレスはプラトンの思想を批判的に修正しながら継承しようとした。彼は制作物にしか適用できないプラトンの存在論の「形相」「質料」というカテゴリーを修正して、自然的存在者にも適用できるようにしようとした。質料には何らかの形相が可能性として含まれている「可能態」と、それが実現された「現実態」があると考えることによって、このカテゴリーが「自然物」にも「制作物」にも適用できることを主張した。可能態を現実態に変換するキーは、自然物では自然であり、制作物では技術であった。

   こうしてすべての存在者は潜在する可能性を次々と現実化する目的論的運動のうちにあることになり、その目指している終着点=「それ以上動くことのない存在」をアリストテレスは「純粋形相」とか「神」と呼んだ。これはプラトンのイデアと同質と見なすことができよう。アリストテレスはまた、プラトンが区別した、形相によって規定される存在=「である」と、質料によって規定される=「がある」とを概念化し,これが後にスコラ学者によって「本質存在=エッセンシア」と「事実存在=エクステンシア」に定着された。しかしアリストテレスはプラトンのように本質存在を事実存在に優越させることなく、可能態から現実態へ運動していく個物の事実存在を第一義としたものの、2つの存在の区別は変わらなかった。

アリストテレスの書物は講義ノートとして残されているが、弟子が編纂に当たって「第一哲学」のノートを「自然学=フィジカ」の次(=メタ)に配し、これがラテン語でメタフィジカとなり、メタには「超えて」の意味もあるので形而上学となった。

プラトンのイデアは、生成流転する自然を超えて立てられたまさに形而上学的原理に他ならなかった。プラトンは、ポリスや市民は一定の理念を目指して形成さるべきだという実践的要請から制作的存在論を構成したが、アリストテレスを経由することによってはからずも「形而上学的思考様式」という東洋に見られない思考様式を西洋文化圏に持ち込むことになった。

4 形而上学的思考様式と物質的自然観

 この思考様式のもとでは,自然とは制作のための材料にすぎず、自然は超自然的原理によって形成され構造化されることによってはじめて存在者となる。形而上学的思考とは,自然に背を向け自然からの離脱をよしとする反自然的思考であった。

ギリシャ古典時代の三人の思想家が生み出したものは、不自然な思考様式であったが、その超自然的原理は、イデア・純粋形相・神・理性・精神と呼び名は変わっていくが,思考様式そのものは一貫して受け継がれ、近代ヨーロッパ文化形成の基盤をなすことになった。この思考様式によって築かれた文化への反省が始まるのは19世紀になってからであり、またこの思考様式が現実に有効性を発揮するには、西欧によるイスラム経由のギリシャ思想の受容とキリスト教との結合が必要であった。

プラトン自身,当時のアテナイで季節はずれの人だった。アカデメイアは、ヘレニズムからローマ時代を経て6世紀半ば、すでにキリスト教化していたローマでユスチニアヌスの異学の禁によって閉鎖されるまで900年間続いた。そしてこの間プロチノスによってユダヤ思想の影響のもとで神秘的色彩の濃い新プラトン主義に改造され、キリスト教神学に取り入れられ,ここに初めて多数の人に共有され現実に有効な思想となった。

古代末期ローマ帝国で布教を始めたキリスト教は、313年ローマに公認される過程で、数々の教義論争を通じて異端思想を排除し正統教義体系を整備した。それはギリシャ哲学=プラトン・アリストテレスやストア派を下敷きにしての作業であって、アウグスチヌスが,プラトンの二世界説を「神の国」=神の恩寵の秩序=カトリック教会と、「地の国」=世俗の秩序=ローマ帝国との共存として受け入れた。それは制作的存在論を神の世界創造論に結びつけ、イデアに替わって「三位一体」のキリスト教的人格神を形而上学的原理として立てるものであった。

5 アリストテレス―トマス主義的教義体系

 ゲルマン民族の大移動によって、古代地中海世界に展開されていたギリシャ・ローマ文化は姿を消した。数世紀にわたるいわゆる中世の暗黒時代に、ユスチニアヌスの異学禁止令によってローマ帝国領から逃れたギリシャ哲学研究者達はイスラム世界に逃れた。イスラム文化は異教・異民族を排斥しなかったから、そこでギリシャ文化は継承され、12世紀スペインにあったイスラム勢力の駆逐=レコンキスタや、十字軍によるイスラム世界との交流を契機に、アリストテレス哲学は西欧に還流、教会・修道院付属の学校=スコラにおいて研究されていた教義哲学=スコラ哲学とともに、キリスト教教義の再編成に使われるようになった。

 アリストテレス哲学にあっては、プラトンのイデアにあたる純粋形相は、現実界を超越したところでなく現実界との連続のうちにあるとされた。したがって、神の国と地の国、恩寵の秩序と自然の秩序,教会と国家などはアウグスチヌスと異なり,連続するものとなったから、教会の国家や世俗政治への介入が是認されることになった。

各地に建設されたゲルマン民族国家をキリスト教化し、教権を世俗に拡大して国王の加冠権まで掌中にしたローマ教会にとって都合の良い、このアリストテレス―トマス主義的教義は、以後中世を通じての正統教義となり、反面教会や聖職者の腐敗堕落の一因ともなった。

そこで中世末期に教会に世俗政治から手を引かせ,浄化を図ろうとする運動が,プラトン―アウグスチヌス主義復興として起こり、ルネッサンス時代には人文主義によるプラトン復興運動ともなって、やがて16世紀、ルターによる宗教改革運動にまで高まっていった。

この運動は,ローマ教会の支配を脱して近代国民国家建設の運動と連動し、領主の保護・後援を受け宗教戦争・紛争を引き起こしつつ推進された。デカルトの哲学もこのプラトン―アウグスチヌス復興運動の一環として登場した。

6 ルネッサンスの哲学

 ルネサンス時代に再発見されたギリシャ・ローマの古典にはピュタゴラスの自然学もアルキメデスの数学も含まれ、アレクサンドリアのプトレマイオスの天文学もアラビアの科学と共に輸入された。しかし雑然とあらゆる面にわたって導入されたルネサンス時代の哲学は、大体において有機体的自然観であった。またアリストテレスの存在論は生物主義的で,それを下敷きに作られたトマスの哲学やスコラ哲学の自然観は、生命的原理を軸に組み立てられた生物主義的性格のものであり、自然を数量的でなく質的に見ていこうとするものであった。それが教会の教義であった。したがってコペルニクス、ケプラー、ダ・ヴィンチ,ガリレイのように「自然という書物」に書かれている数学的記号を読み解いて、数学的に表現可能な量的関係を求めようとする傾向は例外に属した。それには受動的観察だけでなく能動的働き=実験が必要となった。分析と総合というガリレイの方法、デカルトはその考え方を受け継ぎ、それに存在論的基礎を与えることによって,有機体的自然観と対照的な近代の機械論的自然観、さらに数学的自然科学の方法論的基礎を確立した。

8 デカルト哲学における認識の確実性と神

「自然」はわれわれの外にあって感覚によってわれわれに与えられるもの=外的経験の対象である。ところが数学的諸観念=数・図形などは、われわれの精神に生まれつき備わっている「生得観念」=神によって植えつけられたものと考えられていた。では経験的認識に過ぎない自然認識に、いかにして生得観念=数学的諸観念が適用され、経験的認識の持ち得ない普遍性・確実性を与えうるのか。それが17世紀、数学的認識の確実性を深く信頼していたデカルトの課題であった。

ピュタゴラス以来、数学には算術・幾何・天文・音楽の4学科があり、デカルト時代にはさらに代数・光学・力学が加わっていた。デカルトはこれら対象領域を異にする学問の数・図形・量・音などの順序と量的関係だけに関わる学問=普遍学=普遍数学の探求を指向し、そのためには数学的認識に共通する方法を抽出し、それを人間の認識一般に適用することを構想した。彼が理念化し抽出した「確実な認識の方法」は次の4点であった。@ 私が明証的に真であると認めない限りいかなるものも真と認めない。A 私が吟味する問題の各々をできる限り多くの,解くために必要な小部分に分かつこと。B 私の思想を順序にしたがって導くこと。もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて,少しずつ段階を踏んで複雑なものの認識にまで昇って行き、かつ順序を想定して進むこと。C 何ものも見落とすことがなかったと確信しうるほどに,完全な枚挙と全体にわたる通覧を、あらゆる場合に行うこと。

ついでデカルトは数学的自然科学の存在論的基礎付けの考察に向かった。自然研究と数学との結びつきの必然的であることの論証とそれが決してキリスト教の信仰に抵触しないことの論証、さらに、われわれの感覚器官に与えられる「質的自然」は真に実在するものでなく、それを超え精神が洞察するものこそ自然の真の姿なのだということの論証が必要であり、そのためには肉体から区別された精神=霊魂こそわれわれの実体であることの論証が必要となった。

この論証のため彼は一切を疑い、しかし疑いつつある私は存在している=「私は考える故に私は存在する」という原理に辿りついた。この「私」とは身体と区別された「心・精神」としての私であって、その確認は直覚的で、「明晰判明な認識」によっているから真理と見なしうるのであった。そこから「純粋な精神としての私が、同じように明晰判明に認識することは真理と見なしうる」という基準が抽出された。次いで彼は「観念」を、@感覚を通じ外から得られる「外来観念」、A外来観念からわれわれが作り上げた「作為観念」、B数学的諸観念や神のような「生得観念」に区分した。しかし「生得観念」を精神は明晰判明に知覚できるといっても、「明晰判明」というのは主観的であって「客観的確実性」を保証するものではない。そこに神の存在とその誠実性の証明が必要となった。

キリスト教では世界は神によって創造されたもの,したがって最高の理性的存在者としての神の意図=摂理=理性的法則が世界を支配している。人間は神によって創造され理性を与えられている。人間の理性は神の理性のミニアチュアであり、理性が持つ生得的観念は神の諸観念の部分的写しである。人間理性の生得的観念は,神を媒介にして,世界を貫く理性法則と対応しあっている。デカルトはこうして、数学的諸観念のように経験と無関係な生得的観念が客観に適合しうることを証明した。ただ、神を持ち出さないではこの証明はできなかった。

7 デカルトによる精神=理性と物体の分離

 神の存在とその誠実性が保証された以上,「精神が明晰判明な観念を持ちうる限りでの物体」の存在は信じ得る。しかしその物体に「肉体的感覚器官を通じてえられる感覚的諸性質」はあるのか。デカルトはないという。純粋な精神が洞察しうるのは、空間的広がりに還元された物体とその位置の変化としての運動だけ。スコラ的「質的自然観」においては,物体の感覚的性質は実体形相という生命的原理が外に発現したもの=自然の実質的構成要素であったが、デカルトにあっては,「感覚的諸性質」は物体そのものに属するものでなく、われわれの肉体的感覚に現れるだけで、自然を実質的に構成するものではない。物体そのものに属する性質は空間的量=延長と機械的な運動(彼は力学を理解せず自然から排除した)だけ。生命や質は存在しないという。しかしスコラ的観念とはっきり対立するこのような量的自然観がキリスト教の信仰に背馳しないか。プラトン主義復興運動のもと方法的懐疑によって精神を肉体から浄化することは信仰の道にかなったことであり、スコラ的に自然を生物主義的・目的論的に見ることは、神の世界創造の意図を人間知性レベルで忖度し,神の意志の自由を制限する恐れがある。むしろ機械的自然観が望ましいと解釈された。

こうして、人間理性がその本質存在を明確に認識しうるものだけが、その現実存在を保証されることになった。「存在する」という言葉に「理性の明確な対象であること」という一義的な意味が与えられることになった。世界に何が存在し何が存在しないかを決定するのは人間理性である。こうして人間理性は、世界を超越し世界をあらしめている形而上学的原理の座、かつてイデアが,純粋形相が、人格神が占めていた座を占めることになった。その証明には神の後見が必要であるとはいえ、この重大な転回の故にデカルトは近代哲学の創建者といわれる。人間理性は一切の存在者の存在を基礎付ける「基体」=スプイェクテゥム=サブジェクトとなり,この言葉はその後、認識の「主観」の意味に変じた。デカルトによって超越論的な理性=「主観」と,それによって存在を基礎付けられる「客観」的世界という近代哲学の基本構造が明確になった。「理性が存在すると明確に認識できるものだけが存在する」というこの認識構造の問題は、それが理性の身勝手な独断であり循環論ではないかという点にあった。しかしとにかくそこから近代哲学は出発した。

方向は2つあった。@ 客観的世界の合理的構造を明らかにすること=ニュートンなど数学的自然科学の方向。A 超越論的主観の主観性を追求すること=神的理性の媒介なしで主観・客観の対応関係を基礎付けることであった。こうして基礎付けられた17世紀の古典的理性は、啓蒙思想によって人間理性が神的理性から独立しようとする動きにつれて、十八世紀に大きな展開をした。

8 啓蒙と理性の行方

「啓蒙とは、人間が未成年状態から抜け出ることであり、未成年とは、他人の指導がなければ自分自身の悟性を使用し得ない状態である。自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」と1784年カントは力説した。既に「純粋理性批判」を公刊していたカントは,啓蒙的君主フリードリッヒ治下のプロシャで、人間の未成年状態を支配・指導している後見人からの離脱の必要を説いた。

既にフランスでは、ディドロー始め無神論・唯物論など急進思想が広がり,百科全書を刊行する一方、批判の鉾先は外なる権威に向けられ,やがてフランス革命をもたらした。フランスの理性・合理主義に対し、名誉革命を終え責任内閣制度下の英国では、ロック、バークリー,ヒュームなどによる経験主義哲学が、生得観念や理性的認識を否定し、すべての認識は感覚的経験を通じて得られるもので,普遍的妥当性や絶対的確実性は持ち得ない、有限な人間には絶対的真理を手に入れることはできない、蓋然的・相対的真理でがまんするしかないと主張した。これは独断的理性主義形而上学を否定はしたが,同時にすでに確固として成立していた数学や数学的自然科学の確実性を否認する結果ともなり、それがカントの課題となった。

9 カントの純粋理性批判―コペルニクス的転回 

 神的理性による調和を排除しているにもかかわらず、なぜわれわれの理性的認識は、世界の存在構造に適合していると主張できるのか。それは数学や自然科学が確実な知識として成り立っている世界が、われわれの理性によって作られた世界だからではないか。われわれの認識が、対象に依存しているのでなく、逆に対象が、われわれの認識によって初めて対象として現れているのではないのか。カントはこの思考における対象と認識=主客の転回を、天動説から地動説へのコペルニクスの転回に比した。

10       物自体と現象の直観と思考のカテゴリー   

 人間理性の見るものは「物自体」ではなく、ものがわれわれの認識能力において現れる「現象」でしかない。われわれに現れる世界=現象界は、物自体に由来する材料と,それを受け入れ整理するため理性に備わっている形式によって成り立っている。その形式には2つある。@は材料を受け入れる直観の形式=空間・時間であって、幾何学と数論はこの形式による先天的認識の体系であり、Aは受け入れた材料を整理するための論理的思考形式であるとしたカントは、伝統的な形式論理学の判断形式から12の基本的な思考のカテゴリーを抽出した。量について単称・特称・全称、質について肯定・否定・無限、関係について実体と属性・原因と結果・相互作用、様相について可能性・現実性・必然性である。

こうして理論物理学は、直観の形式と思考のカテゴリーとの組み合わせによって生ずる現象界の形式的構造に関する先天的認識の体系として確実性が基礎付けられ、独断論に陥った古い理性の形而上学は否認された。カントは神・世界・不滅の霊魂といった現象として現われ得ないものは、われわれの認識の対象にはなり得ないから,それを議論しても始まらないといった。ハイネはこれを,「カントは神の首を切り落とした」といったが、カントは「信仰に席を空けるために」神を理論的認識の対象として扱うことを否定しただけであって、信仰自体を否定したのではなく,信仰を純粋に信仰として生かすために,知識の及ぶ範囲を限定したのであった。実践理性批判においてカントは、道徳的実践の主体は現象界の因果律に縛られないとし、人格としての他者に自由意思によって関わる実践哲学を主張している。

11       カントからヘーゲルへ 

 カント以後,フィヒテ,シェリング,ヘーゲルと展開されたドイツ観念論の課題は、カントによって超越論的主観として完全な自覚に達した人間理性を、「絶対精神」にまで高めることであった。カントでは現象と物自体,認識と実践、理論理性と実践理性などが二元的に対置されていたが、それを一元化し、同時に人間理性をその有限性から脱却させようとした。人間理性は現象界の形式的側面=カテゴリーによってしか物自体に肉薄できないが、カテゴリーを固定的に考えず、精神の成長に応じて新しいカテゴリーが発動・増殖されるとすれば、物自体のような人間精神に対立するものが次々に精神のうちに取りこまれて、ついには人間精神が一種の絶対的創造者となりうるであろう。

こうしてカントにあった二元性は自由な実践理性の下に一元化され、カテゴリーも、認識のためだけの思考形式ではなく、主観の活動一般のカテゴリーとして、自然界だけでなく歴史的世界に及ぶことになる。民族の歴史的個性を重んじるドイツロマン主義運動下で思想形成したヘーゲルにはこの歴史的世界観が素直に受け入れられた。主観も個体の意識でなく、歴史を形成する民族精神・世界史を形成する人類の精神にまで高められ、やがて主観としての人間精神が歴史的世界を創造するまでに高められた。

12       ヘーゲルの哲学 

 ヘーゲルによれば、精神が精神たる所以は自己意識=自覚にある。未成年の可能性としての自己意識を目覚めさせ現実化して行く=生成の運動にこそ精神の本質がある。精神のこの自覚は自己に閉じこもり反省するだけでは果たされない。むしろ自己自身を抜け出て外的世界に働きかけ,そこに写し出される自己を見るより道はない。ヘーゲルはカントの「実践」という概念に不満で、英国古典経済学から「労働」という概念を借りてきて、労働の主体が対立する物に働きかけ、おのれの望む形に変える=対象のうちに自己を移し入れ「自己を外化」することを労働とした。対象の変形には、対象の本性の深い認識と働きかけ方=技術の練磨、さらに技術の練磨には強い意思によるおのれの制御が必要であった。ヘーゲルのいう自覚とは労働を通じての自己実現で、その時自己はより大きな自由を享受しうるのであった。かくて精神の本質は自覚にあり,自覚は労働=自己外化によって達成され,それは自由の実現であることになった。その過程は1回限りでなく何次にもわたって繰り返されなくてはならない。ヘーゲルはこの対象への働きの運動を正=直接統一、反=矛盾対立、合=再度統一という「弁証法」として提示し,それが歴史の論理であると主張した。

13       絶対精神の形而上学 

 精神の弁証法的な生成によって,外界に自己以外の力として精神に対立するものが全くなくなり、精神がすべてのもののうちに自己自身を見、すべてのものにおいて自己自身であり得るようになった時、精神は絶対の自由を獲得し「絶対精神」となり、歴史が完結するとヘーゲルは考えた。フランス革命当時学生だったヘーゲルは,その後皇帝になったナポレオンがイエナに入城した時、「皇帝―この世界精神―が馬上豊かに歩むのを見た」と興奮して書いた。フランス革命はヘーゲルにとって、人間精神が社会を理性の命ずるままに自ら形成しようとした決意の現われであり、人間精神が真の精神に生成しようとする苦難の歴史の前史の終幕を意味し、そこに立ち会った自分の哲学こそ絶対精神の顕現の場と考えた。この精神の前史を描いたともいえるのが、ナポレオン入城前夜完成の彼の処女作「精神現象学」であるという。彼の皇帝就任を怒り,楽譜献呈を止めたベートーヴェンとの差を見るべきか。    

 とにかく人間理性は,ヘーゲルによって社会の合理的形成の可能性を約束され,自然的・社会的世界に対する超越論的主観としての位置を保証された。「理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である」というテーゼは、近代ヨーロッパ文化形成を主導した理性主義=プラトン以来の形而上学的思考様式の完成を告げる凱歌であった。ここにヘーゲルによる近代哲学が完成した。ヘーゲルが没した1830年代以降、産業革命の波がヨーロッパを覆い、工業化,都市化が進められ、技術文明が成立した。技術文明を生み出した科学的思考は、機械論的自然観の上に成り立ち、機械論的自然観は、形而上学的思考様式のもとで可能になった物質的自然観のヴァリエーションに過ぎないのであった。しかし技術文明によってヨーロッパ諸国は,アフリカを.中南米を,アジアを植民地化し、国内にも貧困と階級対立などの問題を生み出し、戦争と大量殺人の二十世紀が始まる。

14       ヘーゲル哲学批判 

 ヘーゲルが自由の実現と評価したフランス革命は、自由・平等の実現どころか以前にもまして社会的不平等を生みだし、歴史の合理的進行を信じるヘーゲル流の楽観論に疑いが生じた。ナポレオン戦争後のウイーン会議では旧体制が復活し、近代化を求める青年達は深い挫折感を味わい、現実が理性的でないことを実感させられた。ヘーゲル哲学批判がここに生じ,それは近代理性主義批判であり、プラトン以来の形而上学的思考様式への批判でもあった。シェリング,マルクス,ニーチェの思想がそれであった。

15       後期シェリングと実存哲学 

 ヘーゲルをイエナ大学に招いたが「精神現象学」序文で批判されたシェリングは、その後沈黙していたがヘーゲル没後、そのヘーゲル批判の後期哲学が評価されるようになった。シェリングによると近代の理性主義哲学は「本質存在」だけを問題にし,「事実存在」を無視しているではないか。デカルトは事実存在を本質存在に還元し、還元できないような非合理な事実存在は無視した。ヘーゲルは「現実的なもの」=「理性的なもの」として非合理な現実は無視した。しかしこの世界には理性によって理解も説明もできないような悪や悲惨な事実が存在する。

   シェリングは非合理な事実存在を敢えて問おうとする自分の後期哲学を「積極哲学」=ポジティヴと呼び,従来の近代哲学を「消極哲学」=ネガティヴと称した。このポジティヴには「理性によって理解できない事実を問題にする」という意味と「積極的」という意味を重ね、「消極哲学」=近代哲学という言葉遊びを交え、自らの哲学を「実存哲学」とも称したという。この現実の非合理性を説くシェリングの哲学は時代状況にマッチしたので、その講義が若い世代の共感を呼び、シェリングはヘーゲル没後空席だったベルリン大学の主任教授に招かれた。

その就任講義を聞いたキルケゴールは、「現実」という言葉に感激したというが、シェリングの説明は神学的思弁に終始した。合理的事物の本質存在は神に由来するが、非合理な事実存在は神よりもっと根源的な根底=「神の内なる自然」に由来するという。シェリングは神=理性を究極的と考えず、神=理性が立ち現れてくるもっと「根源的な自然」を想定し、それは生きて生成する自然,意欲を本領としそれによって生動する自然、それこそ究極的存在と考えた。生きた自然の復権によって近代の物質的自然観を克服し、事実存在に対する本質存在の優位を覆し、形而上学を克服しようとした。これはサルトルの「実存は本質に先立つ」という実存主義宣言のテーゼに対応する。またキルケゴールの実存は、自分の事実存在を指すのに対し,シェリングはすべての事物の事実存在を意味している点に相違がある。矮小化されたり先鋭化されたりしつつ、シェリングの思想は二十世紀に受け継がれた。

16       マルクスの自然主義―経済学・哲学草稿 

マルクスは26歳でこの草稿を書いたが、1920年代まで埋もれていたので、エンゲルスの手もレーニンの手も加わらない彼の哲学的基盤をうかがうことができる。彼はヘーゲルの精神現象学の「主人と奴隷」の章に展開された「労働の弁証法」に注目し、ヘーゲルの観念論とディドローやフォイエルバッハの唯物論を統一する「自然主義=人間主義」の立場を明らかにした。これまでの唯物論はすべてを物質と見るので、人間活動・実践が主体的に捉えられないで、動的な面は観念論によって抽象的に捉えられるに止まった。そこでヘーゲルでは抽象的精神でしかなかった「労働の主体」を、現実的な肉体を備えた人間に置き換え、その人間が外なる自然に働きかけ、自己の内的本質を注ぎ込み、交流する過程こそ「労働過程」である。この過程を通じて人間も自然もその本質を完成する。この労働を通じての自然との交流は,人間の内的本質である。人間はもともと自然の一部だからという。

 しかし現実に展開されている資本主義社会では労働者は自己の労働から疎外され、生産物である商品から疎外され、自己の自然との関係からも疎外されている。自然も人間の労働によって破壊され荒廃して行く。マルクスはこれを労働そのものが労働の本質から疎外されているからだと考えた。マルクスはヘーゲルを労働の肯定面だけ見て否定面を見ないと批判し、労働の疎外は私有財産制の結果であるから、私有性を廃棄して共産主義社会を作れば,労働は再び己の本質を回復し、人間も自然もそれぞれの本質を完成できる。人間の自己疎外としての私有財産制の積極的止揚としての共産主義。これこそ人間と自然との敵対関係の真の解決であり、事実存在と本質存在との,自由と必然との対立の真の解決,歴史の謎の解決であるとマルクスは主張し、資本主義社会の経済機構分析から「万国の労働者の団結による共産主義社会実現」に向かっての政治活動を始めた。

「ドイツ・イデオロギー」以降,唯物論を標榜したが、その唯物論も単なる制作・労働の素材におとしめられた自然の権利を回復し、自然と人間との正しい弁証法的関係を指向するもの=「生きた自然」概念による形而上学克服の試みと見ることができる。

17       ニーチェと「力への意思」の哲学 

 「生きた自然」概念の復権による形而上学的思考様式の克服を,壮大なスケールで展開したのはニーチェであった。ニーチェはショーペンハウアーの「意思と表象としての世界」に深刻な影響を受け,この哲学への共感を媒介にしてワグナーと親交を深めた。ニーチェの「音楽の精神からの悲劇の誕生」は、古代ギリシャ民族の魂の奥底には酒と性的放縦の神=ディオニュソスに象徴される激情と暗いペシミズムが潜んでおり、ギリシャ人はそれを克服するためにアポロンに象徴されるオリュンポスの神々や美しい造形芸術を創造した、そしてこの二つの原理が調和した時「悲劇」という様式が成立したと主張した。二つの原理はショーペンハウアーの「意思」と「表象」の捉えなおしであった。しかしこの本は認められず、やがて彼は「ツァラストラはこう語った」を完成,さらに「力への意思」は未完のまま発狂した。

 ショーペンハウアーの「意思の世界」「表象の世界」はカントの「物自体の世界」「現象界」に対応し、カントが物自体の世界に関わる能力と考えた「意思」と、現象界に関わると見た「認識作用」とは、ライプニッツが「単子=モナド」の属性と見なした「意欲」と「表象」に由来する。ニーチェはこの伝統を踏まえ、それを乗り越える形で自分の哲学を形成、膨大な草稿を残した。死後この草稿は妹の手で編集され「力への意思」として出版された。しかしその編集に異議があり,今は年代順に並べ替えられている。

ニーチェは,ヨーロッパの形而上学の歴史をニヒリズムとして捉えようとした。プラトン以来、ヨーロッパの哲学は道徳も宗教も本質的にプラトン主義で、現実の外に超自然的原理=イデア・純粋形相・人格神・理性などを設定し、それとの関連においてのみ自然界の存在を意味付けてきた。自然的存在者はイデア分有により・神に創造され・理性に認識されて初めて存在の資格を与えられるのであって,それ自体では非存在である。文化形成力は形而上学的原理に依存するというが、形而上学的原理とは人間の願望の外に投射されたものに過ぎず、実在するものではない。ヨーロッパ文化が求めた指導原理形成への努力は、結局空しいものではなかったか。「神は死んだ」に集約される19世紀の「心理状態としてのニヒリズム」はこうして生まれ、ニーチェはその原因を探り、それを克服しようとした。そもそもありもしない形而上学的原理を設定しようとしたのが間違っていた。プラトン以来のヨーロッパの形而上学のすべて,それに基づく西洋文化のすべてがニヒリズムではないか。しかもその克服は、ニヒリズムをただ嘆くだけの「消極的ニヒリズム」ではなく、一切の原理を徹底的に否定して行く「積極的ニヒリズム」によってしか克服できない。かくてニーチェは,「最高価値の批判」において、伝統的な哲学・道徳・宗教を徹底に批判し、それらの原理に依らない根源的自然・生きた自然の回復を志向した。

マルクスがヘーゲル哲学との対決から「自然の復権」を提唱したのに対し、ニーチェはギリシャ以来の形而上学的原理=ニヒリズムの克服には根源的自然概念の回復が必要と考えた。「力への意思」という概念も,生の一つの発現形態である「力」は、より強く大きく成長しようとする運動において力たりうるのであり、「意思」もより強い意思たらんとするものであって、「力への意思」という概念によって、無方向な衝動の渦巻く弱肉強食でなく、ハッキリした方向に向かって絶えず生成し続ける、自然の生の構造的特性を捉えようとした。この「生」の概念を進化論的方向で考えなおすきっかけはヘッケルのダーウィニズム紹介だったという。

18       永劫回帰と生の機能としての芸術 

 生成しつづけながら形而上学的目標は拒否されているので、世界は永劫に生成しながら自分自身に回帰するしかない。「等しきものの永劫回帰」する、それが「力への意思」のありかたであった。また生の実践的欲求・本質的機能の一つに「認識」がある。生はその本質の内に価値定立作用や評価作用を含んでいる。より大きく強くなるには現状と目標と二重の価値定立作用が欠かせない。「認識」とはこの現状確保のための価値定立作用であり、「真理」も「これはこうであると私は信ずる」という一つの目安に過ぎず、「なにものかが真である」ということではない。しかるに伝統的な形而上学は,生が自己確保のために目安として設定したに過ぎない価値を超越的存在として実体化し,生をそれに隷従させ、その欺瞞からニヒリズムが生まれた。

   生の価値定立作用の今一つに、より高い可能性へ生命感情を高めるための「生の偉大な刺激剤」=芸術がある。(これはショーペンハウアーが芸術を「荒れ狂う生命衝動の鎮静剤」といったのに逆対している。) 芸術は、生成しつつある存在者にとって,「真理にも増して価値が高い」機能である。 そして本質的なことは肉体から出発しそれを利用すること、肉体に方法的優先権を与えることを主張し、肉体に存在論的機能を認めた。芸術は肉体の機能の最高の表現であり、その芸術を認識の圧制から解放・復権させるのがニーチェのニヒリズム克服の決定的方策だった。「われわれの宗教・道徳・哲学は,人間のデカダンスの形式であって、その反対運動が芸術」であり、「芸術は,生の否定へのすべての意思に対する卓越した対抗力、すぐれて反キリスト教的・反仏教的・反ニヒリズム的なものにほかならない。」

このようなニーチェの「生きて生成するものとして見る自然観」の復権,形而上学的思考様式やそれと連動する物質的自然観の克服への試みは、二十世紀の思想家に引き継がれた。木田氏はつづけて「しかし形而上学的思考様式の正嫡ともいうべき技術文明は、二十世紀に益々猛威を振るい」,「知識の分野でも実証主義・科学主義の考え方が依然として支配し続けている」として技術文明と実証主義・科学主義に問題がある如き記述を残しているが、いかがであろうか。確かにそれらは歴史的には形而上学的思考様式によって生み出されたものであるが、思考様式としての形而上学とは別ではないか。考察の要あり。

19       19世紀から20世紀へ 

 ハイデガーは19世紀を「形而上学が技術として猛威を振るい始める」時代と指摘した。17世紀末に成立したニュートンの力学体系が整備されて,すべての力学法則が常微分方程式の形で書き表され、適用範囲の広い数理体系に形成された。熱力学・電磁気学・化学といった新しい分野が加わり、古典物理学体系が完成し「力学的自然観」が成立した。科学と技術が結合して産業革命がもたらされ、19世紀半ばにはヨーロッパ全域にわたって工業化・都市化が進行し,都市を中心に大衆社会・文化が成立,二十世紀につながる技術文明の時代に入った。その象徴が1851年ロンドンに始まる万国博覧会であった。生体内部の化学過程の研究が進み,機械論的因果法則によって人間の意識を含む一切を説明しようとする唯物論的世界観が現れ、さらに心理学・歴史学・社会学・言語学などの人間諸科学が、自然科学的方法=「実証主義」をとりいれた科学として登場した。 

   しかしこの自然科学の方法を取り入れた実証主義は、人間諸科学を袋小路に追い込み、やがて諸科学は方法論的反省・改革を強いられるようになった。ゲシュタルト心理学・精神分析・アナール派の社会史・ウェーバーの社会学・構造言語学・構造人類学などがそれであった。物理学においてさえも、すべての物理現象は結局力学過程に還元されるという「力学主義」に対し、物理学の諸学科はエネルギーが相互に転換しあう現象を記述する仕方で、力学だけに特権は認められないというマッハの「現象学的物理学」が生み出され、これに刺激されてフッサールは「現象学」を構想した。この最終章を含む「マッハとニーチェ」の詳細は、木田元氏の同名の書物の要約=別稿参照。

                 おわり