木田元 「マッハとニーチェ―世紀転換思想史」02.2 新書館
02.8.24−04.8.5 木下秀人
反哲学史に続いて、19世紀から20世紀に向かっての哲学の変貌をみる。物理学者マッハによる古典物理学体系の力学的自然観批判、ダーウィンの進化論、ニーチェによる形而上学批判、レーニンの「唯物論と経験批判論」によるマッハ批判の誤り=素朴唯物論擁護、フッサールによる現象学の創始,ゲシュタルト心理学の登場、構造主義による物理・人文世界共通の新しい物の見方の成立と続く知的革新の推移。西洋哲学は神や実体中心の思想から離れ、無あるいは無常の東洋思想へ接近するように見える。これをどう理解するか。木田元「マッハとニーチェ」によってその推移を辿る。
1 19世紀の捉え方
ハイデガーによると,19世紀の前半三分の一は十八世紀の下流であり、後半は20世紀の三分の一の上流としてみる必要があるという。1781年カント『純粋理性批判』、1789年フランス革命、ナポレオン戦争が続いて,ウイーン会議=旧体制復活から1830年7月革命までが十八世紀からの流れ。ドイツではフランス革命に反応しつつ『ドイツ観念論』が展開され、1830年ヘーゲル死去、1848共産党宣言。食いこんでいる20世紀は、1918年の第一次世界大戦終決,ロシア革命,ドイツのワイマール時代から1933年ナチ政権成立まで。英国に発した産業革命がョーロッパに波及し,技術革新の成果を誇示する万国博覧会が繰り返し開催され、科学主義的世界観が形成された時代である。
2 産業革命と古典物理学の完成
17世紀英国で発明された蒸気機関は、19世紀には船や機関車用に改良されたが、ワットなどの発明者は徒弟制度で育った職人で科学者と関係はなかった。その発明に科学的考察を加えたのはフランスのエコール・ポリテクニーク育ちのカルノー1824年で,それが熱力学につながった。ニュートンの『プリンキピア』1687年には、まだ神学による補完が必要だったが、それを100%説明する力学法則=『ニュートン力学』の定立には,ラプラス,オイラー,ラグランジュなどフランスの数学・物理学者の努力があった。ラグランジュの『解析力学』は、力学を教育可能なマニュアル化=科学者集団の共有物とした。科学と産業技術の統合を目指す教育機関=エコール・ポリテクニークが設立された。
1789年ラヴォアジェ『化学原論』,1800年ヴォルタの電池研究、カルノーの熱理論、19世紀に入ると1820年エルステッドの電流の磁気作用発見、電磁石による電気エネルギーの機械的エネルギーへの変換が実証され、1831年ファラデーの電磁誘導現象の発見は,機械・化学的エネルギーの電気的エネルギーへの変換、さらにその相互変換を可能にした。通信機、モーター,発電機が発明・実用化され,科学は産業と直結するようになった。
1847年ヘルムホルツは、機械・化学・電気・磁気・熱などのエネルギーはその形態にかかわらず総量は一定である=『エネルギー保存の法則』を発表した。生理現象も含むすべての自然現象は力学モデルに還元されうるという決定論的な『力学的自然観』が確立され,『古典物理学』が完成した。
1851年高度産業技術を展示する万国博覧会がロンドンで開催され、ガラスで作った水晶宮が話題になった。しかし労働者は貧しく社会は不安定で革命騒ぎが絶えず、人心はゆれていた。
3 実証主義―人間諸科学の成立
力学的自然観の成立を背景にして、人間諸科学が成立した。
心理学では、フェヒナーが精神と物質を同じ実在の二面と捉え、両者の関係を実験的に測定・把握しようとする『実験心理学』を創始した。受け継いだヴントは、物理的刺激と感覚との間の一対一の恒常関係を見出した。しかしこの実験は「@ 複雑な現象から単純な要素だけを切り取って材料とする。A その要素=感覚と物理的刺激との因果関係を見る。B 感覚は刺激と一対一の恒常的な対応関係によって客観世界に定位される。」という暗黙の前提=「要素還元主義」「因果的説明」「物理的世界の究極的実在を想定する」を内包していた。
歴史学では、ヘーゲルやマルクスの世界史展開の根本法則を把握しようとする歴史哲学に対し、厳密な資料批判によって歴史的事実を確証しようとする『実証史学』がランケによって提唱された。瑣末な事実の確認が歴史家の仕事と誤認され,実証的枠組で捉えられた特定の歴史状況における必然的帰結の叙述が主体となり、歴史的事件の意味の追求がおろそかになった。価値の無政府状態が出現し,政治活動を導く基準が失われることになった。
社会学では,ヘーゲルの社会的事象を『客観的精神』として考察する社会哲学から、実証主義の創唱者コントを受け継いだデュルケームによって、社会的事象は「物」として客観的に扱うべきだと主張され、単純な構造を持つ「未開社会」の構造分析が行われた。ヨーロッパをモデルに形成されたカテゴリーに依る分析であった。その結果、空間・時間・因果律といったカテゴリーが社会的起源を持ち,特定の社会構造に対応すると主張し,カントのアプリオリズムを批判した。ダーウィンの進化論に刺激されて,自然淘汰や適者生存原理を人間社会に適用しようとするスペンサーの社会進化論,それに基礎を置く倫理学説=功利主義は英米の思想界を長く支配した。エンゲルスの『科学的社会主義』も社会理論への科学主義の浸透の顕著な例であった。
言語学では、1786年インドに赴任していた判事ジョーンズによる「サンスクリットの発見」以後、インド=ヨーロッパ語族というカテゴリーが成立し、語族内の諸言語の音韻組織や語彙や文法構造の科学的研究=近代言語学が成立した。
文学では、フランスのテーヌが民族・環境・時代という要素によって文学作品を説明する文学史の新しい方法を提唱し,イギリス文学史を書いた。ゾラはテーヌとベルナールの『実験医学序説』に刺激され、小説家は試験管の中の反応を見る科学者のように,社会環境という試験管に投込まれた人間の変化を観察する自然研究家であるべきだと主張した。『自然主義』という名の由来である。
哲学では、このような自然科学の方法を模倣して人間的諸事象を論じる傾向を『実証主義』と称した。これには積極的・蔑称的二つの意味があった。フッサールの徹底した実証主義やウイーン学団の論理実証主義などは前者であった。
アカデミックな哲学者はこの頃ドイツでは新カント派に支配されていた。自然科学や実証主義的人間諸科学の台頭で,へーゲルなどの思弁哲学は力を失い,ショーペンハウアーのペシミズムやフォイエルバッハの人間主義的唯物論がもてはやされたりしたが、ヘルムホルツのような生理学・物理学者がカントの認識論によって生理学を基礎付けているのに力を得て、カント哲学を認識論的側面に限定し、それによって経験諸科学の方法論を認識批判的に基礎付けようとした。カントを始めとする近代哲学の学説史が書かれた。新カント派としては、コーエン,カッシーラーなどマールブルク学派は自然科学の認識論的基礎付けを目指し,ヴィンデルバント、リッケルトなどの西南学派は個性記述的な文化科学に方法論的基礎付けを与えようとした。これも時代の流れに沿うものだった。
こうして1860―90年にかけて、人間諸科学が哲学から離脱し,それぞれ科学として自立するようになり、その研究対象は客観世界の事実に限定され、方法の根底には要素還元主義と因果的説明とが暗黙の前提としてあった。そして諸科学の成立は『心理学主義』『歴史主義』『社会学主義』といったイデオロギーの提唱を促した。しかしその主張は科学的認識ではなく哲学的主張に過ぎなかった。
4 エルンスト・マッハの哲学
その生涯 1838年貴族の家庭教師の子としてオーストリア領モラビアの田舎で生まれ、父に教えられて実験や数学に興味を持ったが、ギムナジウムの教育にはなじめず退学,父に教えられつつ指物師の修行をしたりしたが15才ころ父の書斎のカント『プロレゴメナ』を読んで感銘を受けた。再びギムナジウムを経てウイ―ン大学で1860年学位を取得し私講師となり、生理学や心理学への物理学の応用に関心を持った。グラーツ大学・ライプツィヒ大学を経てプラーハ大学で実験物理学(衝撃波の写真撮影で超音速研究に先鞭をつけマッハの名を残した)を担当、ここで主要な論文(『力学の発達,その批判的・歴史的叙述』=力学史1883、『感覚の分析』1886)を書き、学長にもなったが、その頃チェコ人の民族運動が盛んで悩まされたらしい。
交友 1870年生理・心理学領域で現象学を提唱しヘルムホルツと争ったE.へーリングがプラーハ大学へ赴任、マッハと共同戦線をはる。1882年には心理学のW.ジェイムズと親しくなった。1883年チューリッヒ大学のR.アヴェナリウスの著作を読み見解が甚だ近いことを知る。マッハ/アヴェナリウスといつもセットにして挙げられるが、二人は生前一度も会ったことがない。1898年脳卒中で右半身不自由となったが論文集は出版を続け、1916年ウイーンで死去。
思想 プロレゴメナを読んで2―3年後にはそこで『物自体』が果たしている「なくもがなの役割」に気付いた。「カント哲学から物自体をマイナスするとヒュームの現象主義」という哲学史の常識どおり,マッハは独力でヒュームと同じ見解に達していた。「突如として,私の自我をも含めた世界は連関しあった感覚の一集団である、ただ自我においてはいっそう強く連関しあっているだけだ,と思えた。」この感じが力学的自然観の批判,現象学的物理学の提唱,感性的要素一元論の形成というマッハ終世の思想の方向を決定した。
力学的自然観の批判 物理学者としてのマッハの仕事は,科学史三部作=『力学の発達,その批判的・歴史的叙述』『熱学の原理』『物理光学の諸原理』である。そのうち力学史は、歴史的考察と認識論的省察が渾然一体をなしており、認識論的省察の主眼が力学的自然観の批判となっている。
ヘルムホルツは1847年の「力の保存について」で力学的自然観を次のように定式化した。「理論的自然科学の仕事は,諸現象の単純な力(=相互に作用しあっている引力と斥力)への還元が,それがその現象に許される唯一可能な還元であるならば完成する。その時その還元が自然把握の必然的な概念形式であることが証明され,客観的真理性も与えられる。」
ヘルムホルツは力学法則を,アプリオリな根拠から導出される必然的真理と考えている。
ヴントもまた1866年「物理学の公理とその因果律との関係」で、力学的自然観の必然性を認識論的に基礎付けようとした。力学の原理や法則が単なる経験的事実的な法則ではなく,幾何学の公理や定理のようにアプリオリな真理と思われたからである。
こうして物理学の体系の中で,力学が特権的な位置を占めるようになった。すべての自然現象は,時間・空間内の質点の運動という力学モデルに還元されて初めて理解されたことになる。これが,『力学主義的な古典物理学の体系』であった。
マッハは,へルムホルツやヴントの力学的自然観にひそむアプリオリズム=形而上学的諸契機を暴露・批判した。それは当時の物理学が究極の実在としていた『力学的世界』=絶対的な時空間の中で恒常不変な実体=質点が運動していることを否定し、世界はわれわれ人間の感覚機関への単なる現れに過ぎない,物理学の対象もこの『単なる現象』として現れた感性的世界以外にはない、という革命的宣言であった。
『自然は感官を通して与えられる諸要素から成り立つ。』『世界に固有の要素は物体ではなく、色・音・圧・空間・時間,われわれが通常感覚と呼んでいるものである。』『現象界』とは,こうした「感性的諸要素」が相互に関数的に関連しあいながら,絶えず離合集散している世界にほかならない。かくて1894年現象学的物理学が提唱された。(フッサールはマッハのこの提唱にしたがって『現象学』という言葉を自己の哲学的立場を表すために使うようになった。)科学の仕事は,これら感性的諸要素の関数的関係を『最小の思考出費でできるだけ完全に記述すること』(=思考経済の原則)となり、すべての物理現象は力学的に説明されるべきだといった見方は否定された。思考経済説は、科学的認識も人間の環境への生物的適合の一様式として進化論的照明(マッハは進化論を自然科学上の作業仮説として評価した)を与えられ、そこで発見される自然法則も、自然の中で正しい道を見出そうとするわれわれの心理的欲求の所産となり、真偽の絶対的区別などなく、あるのは有効性の相対的区別だけとなった。マッハにとって,数学的真理や論理学的真理でさえ永遠の真理ではあり得ず、時間の中で発生・生成してきたものに過ぎない。したがって『真理と虚偽』という絶対的区別にかわって、『認識と誤謬』という相対的区別が採用された。『認識』とは生物学的に有益な心的体験であり、そうでないことが確認される判断が『誤謬』、意図的に誤謬へ導こうという悪質な場合が『虚偽』である。
アインシュタインは,マッハの力学史を読み「マクスウエルやヘルツでさえ,力学こそ物理学の確実な基盤だと見なしていたのに、マッハはこの独断を揺るがした。」と友人に書き、「私の研究に,マッハとヒュームの研究が助けになった。――マッハが若く頭脳が柔軟な時期に,物理学で光速の一定性が問題にされていたなら,マッハこそが相対性理論を発見したであろう。」と追悼文で述べた。
マッハは、当時物理学会を二分した『アトミスティーク』対『エネルゲティーク』の議論については、そのどちらも現象を超えた実在と見ることには反対であった。『感覚の分析』において、マッハは、マッハ哲学は存在せず、あるのは自然科学方法論と認識心理学であると主張し、形而上的なものは一切不要、世界についてわれわれが知りうることは、必ず感官の感覚に現れる。しかもこの感覚は、観察者の個人的影響から解放されうるものという事を示すのが自分の狙いだと主張した。
『感性的要素一元論』といわれるマッハの思想は、世界に固有の要素は物ではなく、色・音・圧・空間・・時間=通常われわれが感覚といっているものである。これらの要素は、感覚器官の進化の現段階においてはそれ以上分割できない究極的な構成分であって、相互に関数的に多様に関連しあって、さまざまな『複合体』を形作る。『物体』というのは恒常的に現れる複合体に与えられる名称・記号である。「物体が感覚を産出するのでなく、要素複合体=感覚複合体が物体を形作る。」私がローソクの炎を見ている。手を炎にかざす時、熱いのはわが手か炎か。炎が赤いのはわが網膜が感じているだけなのか。マッハは『熱さ』『赤さ』という『感性的要素』が直接現前しているだけ、彼にとっては関数的相互関係に現れる『感性的要素』だけで十分で、それを担う実態的『物体』は必要ではない。『中性的一元論』といわれる所以である。
しかしそれを感じるのは『自我』ではないか。マッハは『自我』も、身体と結びついて記憶・気分・感情などの諸要素が関連しあって作られる複合体に与えられる名称に過ぎないとし、一見恒常性を持つように見えるのはその変化が緩やかだからであって、絶対の同一性を備えた実体ではない主張する。
こうして唯物論・実在論がよりどころにして来た『物体』『物質』も、『唯心論』『観念論』が支える起点としてきた『自我』も、『感性的諸要素』に解体された。もはや物体と自我,外界と内界、物質界と精神界を区別する理由はない。実体的な意味での物体も自我も解消され、残るのは感性的諸要素が多様な関数的関連において現れ,絶えず離合集散を繰り返している『現象』の世界。そこには『物体』と呼ばれる複合体も『自我』と呼ばれる複合体も現れうるが、絶対的恒常性を持つものは一つもないような世界である。数学的真理も幾何学的空間も感性的要素の離合集散=経験に起源を持ち、そこから生成してきた。したがって絶対のアプリオリではあり得ないという。
現実と仮象・実在と現象・現実と夢の区別も無意味となる。それぞれ条件の異なった要素関連だからである。
木下説 ギリシャ以来の形而上学的なものを否定に否定した挙句,遂に東洋思想=インドの仏教哲学者竜樹がはるか昔に発見していた『因縁』『縁起』『無』や『所行無常』の世界とあい通じるところへ到達した。マッハの『関数的相互依存関係』という概念は,インドの竜樹による『相互依存』に近い。マッハからは分析によって諸科学が建設されたが、竜樹の思想が遂に自然科学に発展できなかった所以は別稿で考察する。
経験批判論 レーニンは,マッハとアヴェナリウスの思想を,『経験批判論』として一括したが、マッハがそう呼んだことはない。アヴェナリウスは、『純粋理性批判』『人間的世界概念』などにおいて、「物理的事象と心理的事象、主観と客観、意識と存在といった二元論的仮定や,実体・因果関係といった形而上学的カテゴリーは、思考・感情・意思の投入作用によってわれわれの経験に持ちこまれた夾雑物に過ぎないから、これを完全に除去してその入り込む前の『純粋経験』を回復する必要があると主張した。回復した純粋経験によって、自然的世界概念を最小力量の原理にしたがって=手際良く記述するのが哲学の任務となる。この純粋経験はマッハの現象の世界に当たり、最小力量の原理は思考経済の原理に近いことが明らかで,彼らもそれを認め合っていた。
W.ジェームズの『根本的経験論』もアヴェナリウスの純粋経験に近い。ジェームズはマッハに感銘し,フッサールはジェームズの『心理学原理』の影響を受けた。さらにジェームズ=『プラグマティズム』とベルグソン=『創造的進化』とは相互に褒めあっているという。ベルグソンの『物質と記憶』における『イマージュ』という概念に託して展開している『純粋知覚』の理論は、純粋経験に近いという。
純粋経験は,西田哲学『善の研究』の中心概念である。西田もジェームズやマッハ/アヴェナリウスから学んだけれども、西田はさらに禅の思想に深く影響され,東洋思想の西洋哲学的に依る解明に重点があり、その展開は欧米の思想家と同じではない。
5 ゲシュタルト理論の成立
ゲシュタルトとは、形・形態を意味するドイツ語である。マッハの『感覚の分析』における『感性的要素一元論』が、エーレンフェルスを刺激し『ゲシュタルト質について』を書かせ、『ゲシュタルト心理学』の出発点となった。
マッハにおいて,感性的要素は孤立した断片ではなく、常に他の要素と『結合・連関』=『関数的相互依存関係』にあって,マッハの目は依存連関しあう要素の塊の『全体』に向けられている点で、ヴントの要素主義的・分析主義的心理学と異なる。
ゲシュタルト質とは、メロディーのように『要素に分解したのでは消えてしまうそれ自体が一つの全体であるような性質』のことで、エーレンフェルスが1890年命名した。これをヴェルトハイマーやケーラーが『所与の全体特性が、部分の総和に還元され得ないなにものか』と定義しなおし、1912年運動視の実験によって明示した。一定の距離に置かれた二つの光点を適当な間隔で点滅すると、一方から他方への見かけの運動が知覚されるという現象である。間隔の長短で二つの光点は交代に光ったり,同時に光ったり、光点は知覚されず運動体のない運動が知覚される。刺激と知覚の関係の異常現象の発見であった。ゲシュタルト質の発見は、当時の心理学の大前提であってフッサールでさえ簡単に否定できなかった『刺激と感覚は一対一の対応』=『恒常仮定説』を打ち破る革命的な業績であった。
6 マッハと現象学の系譜
エーレンフェルスがゲシュタルト理論形成の頃、フッサールもマッハの『感覚の分析』に促されて,『算術の哲学』1891年において、ゲシュタルト質に良く似た「瞬間的に集合を集合として捉える」現象(大勢の人,鳥の群れ)において、集合がシンボル的に捉えられている点に注目し『図形的契機』、さらにシンボル的な捉え方が二次的な点で『準質的契機』という概念を提唱して『現象学』への第一歩を踏み出した。
フッサールは『第一次的な直観的諸内容とその統一的契機』という考え方において、『第一次的内容』=基礎となる諸要素はたがいに融合はしても『独立的部分』=『ヒュレー』として同一性は保持するとした。この『ヒュレー』の概念はやがてサルトルによって、19世紀の要素心理学の概念に引きずられた不要なものとして捨てられた。
マッハは1894年、講演において『すべての領域を包括する物理学的現象学』を提唱した。われわれは言語による伝達によって、他者の経験と比較して抽象的概念を形成し、事実の「直接的記述」を行う。「直接的記述」とは純粋に概念的手段による言語的伝達を意味する。無限に豊な事実をすべて直接的記述するのは大変だから,未知のことを既知の事実に結びつける「間接的記述」=理論やより抽象度の高い観念が形成される。段階的に抽象度の高い概念を形成することによって、すべての領域を包括する普遍的な理論が形成され、こうした記述に限定することによって呪物崇拝に類する概念を物理学から除去しよう。それが『物理学的現象学』なのであった。このような『現象学』を継承したフッサールは,マッハに含まれる進化論や自然主義は受け継がなかった。十九世紀後半ダーウィニズムによって励起された自然主義的風潮に対し,世紀転換期にはそれへの過激な反動として、「純粋」という言葉が流行した。この言葉は、経験的・自然主義的・功利主義的などの、生や生活についての相対主義的考え方に対して、一種の絶対性を求めようとする志向の現れであった。フッサールにもその影響があった。
7 レーニンとマッハ主義
レーニンはロシアのマッハ主義者を『唯物論と経験批判論』で攻撃したが、ロシアマルクス主義者におけるマッハ主義をめぐる状況を概説する。
マッハ/アヴェナリウスの『経験批判論』とは、われわれの経験に思考・感情・意思によって持ちこまれた実体・因果関係のような形而上学的カテゴリーと、主観―客観、物―心、物自体―現象といった二元論的世界解釈を排除して得られる『純粋経験』。それによって『自然的世界概念』を回復し、それを思考経済の原理にしたがって記述する事を課題とする。 レーニンはこれをバークリー/ヒュームの主観的観念論と批判・攻撃した。ロシア社会民主労働党に、この主観的観念論によってマルクス主義革新を企てるボグダーノフなどが現れたからである。ロシアマッハ主義の先頭となったボグダーノフは,モスクワ大学の自然科学科在学中に学生運動で流刑され、ナロードニキからマルクス主義に転じ、ハリコフ大学で精神医学を学んだ。社会民主労働党に参加し,逮捕・流刑を繰り返し,次第にボルシェヴィキの理論家として知られるようになった。1904年夏ジュネーブでレーニンに会う。(2月に日露戦争が始まっていた。)トロツキーに依ればレーニンも当時はボグダーノフの理論を正しいと考えていた。しかしレーニンのゴリキー宛の手紙によると、二人はボリシェヴィキとして意見一致し,革命の間は哲学を遠ざける=分派闘争をしない黙契を交わした。1906年ボグダーノフは『経験一元論』の第三分冊を獄中で書き、レーニンに送った。これを読んだレーニンは、自分は平のマルクス主義者であるが、プレハーノフが正しく、ボグダーノフが間違っていることを書き綴り、すぐ公表されなかったがこれが後に『唯物論と経験批判論』の母体となった。
この間マッハ主義への共鳴者は,バザーロフ,ルナチャルスキーなど、ボリシェヴィキ陣営にもメンシェヴィキ陣営にもナロードニキにもどんどん増えて、共同で1908年『マルクス主義哲学概説』という論文集が出されたが、これがレーニンを怒らせた。結局同じボリシェヴィキ内でレーニンとボグダーノフは決裂し、ボグダーノフはボリシェヴィキから除名され、1911年以降革命運動から身を引いた。
ボグダーノフによれば、心理的経験は人間の内部で個人的に組織されたものであるのに対し、物理的経験は社会的に組織された経験だから普遍性・客観性を持つ。しかしいずれも経験に違いはないという『経験一元論』で、経験の組織化の形式はアプリオリではなく社会的なものである。新しい技術・新しい社会形態に対応して、新しい科学的真理=経験を組織する新しい社会形式が現れてくる。だからマッハ主義はマルクス主義に全く矛盾しない。むしろこの立場こそが正統であって,プレハーノフはマルクスをカント主義的ないし十八世紀唯物論の方向へ歪曲している。エンゲルス/プレハーノフ流の、意識を物質に還元しようとする粗雑な唯物論からは、資本主義社会を変革しようとする革命主体の意識は出てこないと主張した。これに対し経験一元論が可能なのは、認識が経験の無数の矛盾を取り除き,経験のために普遍的な組織化をする形式を作りだし、一次的な混沌とした要素の世界を,派生的な秩序だてられた関係の世界と取りかえることにより,経験を能動的に調和させるからである。この立場で一貫した方法論で集団の力によって,相互に矛盾のない統一的な経験の組織化ができた時プロレタリア文化が実現されると考えた。
政治の世界は大衆相手だから、わかりやすい話でなければならないのは今の日本も同じである。小泉改革において、わかりやすい筈の金融問題すら学者間で意見が一致せず、背後にためにする政治家の策動が見える。レーニンが、当時まだインテリにすら浸透していない革新学説=マッハ主義を排し、旧態依然だが俗耳に入りやすい素朴唯物論を採用した理由は「わかりやすさ」で、学術理論的には誤りであったが当面の政治では圧勝できた。しかしこの誤りが事大思想の下地を形成し、言論の自由を封殺し、スターリン支配という専制主義を許し、ロシア共産主義を誤らせたといえるかもしれない。
8 ウィトゲンシュタイン・ウイ―ン学団・ケルゼン
記号論理学の創始者ウィトゲンシュタインは、ヘルツとボルツマンが理論物理学の言語について行ったことを言語一般について行おうと企て,「語りうるもの」すべてを一義的に明晰に語ることのできる記号体系の構築を目指した。その結果,「語りえないもの」=倫理の問題を内側から間接に示しうるであろう。『論理哲学論考』1922年はその達成であった。この「語りうるもの」と「語りえないもの」の区別、「語りうるもの」をすべて一義的に語り尽くす理想言語の構想は、自然主義的な相対主義をはっきり超えでた超越論的立場に立ってのみ可能だったはずで、マッハの関わる余地はなかった。
しかし後期思想の「文法的考察」や「言語ゲーム理論」でマッハの現象学につながってくる。「自然史」への固執、「生活形式」という概念も、マッハの現象学の思想動機を受け継ぐものらしい。
1924年ウイーンで、哲学者と科学者による討論サークルが結成された。ハンス・ハーン、フィリップ・フランク、オットー・ノイラート、ルドルフ・カルナップ,カール・ポッパー、クルト・ゲーデルなどであった。このグループが1928年エルンスト・マッハ協会を設立し、マッハの現象学をさらに厳密にするためにウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を討論テキストに選んだ。この会が翌年、「ウイ―ン学団」と名を変え、ベルリンの「経験哲学協会」と協力しつつ雑誌「認識」を発行した。ウイ―ン学団は,マッハの生物学的・心理学的実証主義を捨て,ラッセルとウィトゲンシュタインの「論理的原子論」を根底に据えた「論理実証主義」をとった。1933年ナチ政権成立後は、論理実証主義はカルナップらの亡命と共にアメリカに移り,シカゴ大学中心に独自の展開を遂げ,1938年ナチのオーストリア併合と共に学団の活動は停止した。
ハンス・ケルゼンは「純粋法学」で名高い。それは自然法理論を形而上学的理論として退け、実定法規範の純粋な理論体系を構築しようとした。「純粋」とは一方では政治的なイデオロギーや政策の混入を排斥する=政治的純粋性であり、他方では存在と当為を峻別する新カント派的見地から社会学的方法を拒否する=方法の純粋性である。(存在から当為は導かれないから,規範の学=解釈法学に社会学=因果関係の学は無用だ。)自然法則を中心に展開される自然科学の方法と対比しつつ,法命題を自然法則に対応する法学上の中心概念に据えて、法の一般理論を再構成しようとした。その場合、自然法則も法命題も「思考上の定義」にすぎず、対象に内在すると見なさないという特殊な認識論=マッハの「認識と誤謬」が前提されている。純粋法学とは法学におけるマッハ主義であるという。第一次大戦後ケルゼンが、この思想によって起草したオーストリア共和国憲法はケルゼン自身が運用に当たり、第二次大戦後復活された。
9 ニーチェの「力への意思」の哲学とマッハ
ニーチェは、1864年20歳でボン大学に入学し、神学と古典学を学ぶ。ライプツィヒ大学に転じてショーペンハウアーの「意思と表象としての世界」に影響され,その縁で音楽家ワーグナーと交友を深めた。バーゼル大学に職を得て1872年「悲劇の誕生」を出版するが学界からは黙殺された。ワーグナーとは1878年決裂、ショーペンハウアーの影響からも次第に脱し、1879年退職後の80年代に在野の哲学者として著作活動に専念,89年トリノの街頭で精神錯乱し1900年死去。彼の哲学の概要については別稿「木田元、反哲学史」に述べたので省略し、ここではマッハとのつながりだけ略説する。
9−1 ダーウィニズム 物理学者マッハと,古典文献学・哲学者ニーチェをつなぐ糸は、ドイツ語圏にダーウィニズムを紹介したヘッケルの「ゲーテ,ラマルク,ダーウィンの自然観」1882年で、両者ともすぐ読んだという。ヘッケルと親交のあったマッハは進化論を作業仮説として採用し、真理といえども永遠の真理ではあり得ず,時間の中で発生・生成するものに過ぎないと主張した。ニーチェはその影響としか思えない仕方で「生」の概念に大きな変更を加え、ギリシャ以来の形而上学的原理=ニヒリズムの克服には根源的自然の回復が必要として、より強くより大きく成長しようとする「力への意思」という概念を中心に据えて、「生」を肯定する最後期の思想を構築した。両者の描く極めて似た世界像に注目し、両者を結びつけて考えたのはホフマンスタールなどの世紀末ウィーンの詩人・芸術家達で、また「特性のない男」の作家ムージルもその一人であった。
9−2 世界 ニーチェにとって世界とは、生成する生のまわりに,遠近法的に配置されたものとして現れる現象の総体であって、かつて「真の世界」に対し「仮象の世界」と呼ばれていたもの、まさにマッハの「現象界」と重なるものであった。
認識と真理とニヒリズム 現象の背後に真実在は存在しないから、現象を通して背後の真実在を「認識」するのではなく、「図式化する」、「われわれの実践的要求を満たすにたるだけの規則性や諸形式を混沌に課すのだ」という。混沌=カオスとは絶えず生成変化しつつあるもの。混沌に、到達した段階を確保するための「図式化」を施して思い込もうとするのが「認識」の働きなのであった。真理は実在しない。「真と思い込まれねばならないもの」「私はこう信ずる」という価値評価は、とりあえずおのれを安定させるために「真理」と信じられているに過ぎない。「真理とは,一種の誤謬である。」これまで最高の価値と信じられてきた形而上学的諸価値の存在は否定され(=マッハと重なる),その状態をニーチェは「神は死せり」といい、「ヨーロッパのニヒリズム」と称した。
9−3 新たな価値体系―芸術の尊重 超感性的な価値が否定された後に残るのは感性的世界=生きた自然でしかない。ニーチェは新たな価値定立の原理をこの生きた自然=感性的世界=「生」に求め、これを「力への意思」と称した。そして「認識」よりも本質的な機能として生命感情を高め刺激する「芸術」の機能を認めた。芸術の価値を高く評価したニーチェと共にマッハを認めたホフマンスタールにとって、「詩の目標は自我と世界との間に統一を創り出すこと」であったが、「世界はわれわれの感覚だけで成り立っている」というマッハの認識論は、彼の「詩的体験を完全に裏付ける」ものであった。ホフマンスタールは受身的な印象主義に代わって,能動的な「表現主義」の芸術運動をドイツに創始した。それは「生命のほとばしり」を表現しようとするまさにニーチェ/マッハ的な芸術運動であった。そして世界の中で豊な体験を語るには、高次の言葉ならぬ言葉=世界と一体化できる姿勢への変化=対象への同化が必要なのであった。それは「幻視の体験」「法悦の体験」であり、マッハの「現象学的世界」と重なるものであった。
9−4 自我の解体 この時期の文学では、「救いがたい自我」という言葉が合言葉になっていたという。マッハにとって自我は,「比較的強固に連関しあっている要素群」にすぎず、ニーチェにとっての自我は「迷妄・思い込み」に過ぎなかった。デカルトの「我思う」についてニーチェは、「主語=われが術語=思うの条件とするのは誤り。「それは思う」ならよいが、「それ」=「われ」とするのは一つの仮説・主張に過ぎないという。マッハも「感覚の条件」で、「われ思う」は単に「思う」=エス・デンクトというべきで,「われを仮定し要請するのは実用上の必要に過ぎない」という。両者の主張は全く重なっている。
10 ヴァレリーとマッハ
マッハの影響はドイツ語圏に止まらなかった。パリで心的現象の観察と分析のためのノートを書いていたヴァレリーは、同時代の数学・化学・生物学・医学・神経学を消化し、人間の精神的機能の科学的体系的解明を企てた。そしてマッハの「認識と誤謬」の仏訳を読んで、自分が散々苦労して手に入れたもっとも貴重で独創的で核心的な思想が、マッハによって見事に発見記述されていることを知って深刻な打撃を受けたという。ヴァレリーがその打撃から立ち直って,明晰な知性による自己支配=近代的自我を目指すのでなく、精神とエロスとの一体化による「明確に輪郭付けられる実体でなく、中にいりこむものの多様性に従って姿を変える潜勢的な精神のありよう」(清水徹 ヴァレリーの肖像)を示す自己の全的な探求への転換が明らかになったのは、死後書きつづけられたノートの公表によってであった。わが小林秀雄はじめ仏文の人達にこの認識があったか興味があるが,それは別稿に委ねるしかない。またデリダは,ヴァレリーがニーチェを読もうとせず,自分の思想的源泉と認めようとしなかったことを、フロイドと同様にあまりに強い親近性の故に拒否した=「斥けられた源泉」といっているという。20世紀における哲学思想の変遷については,木田元、「現代の哲学」=別稿。 おわり