木下姓の起源について
2005.11.26−28、07.1 補訂 木下秀人
(1) 祖父木下作太郎は、文久2年=1862年3月10日、信夫村(竜丘村、現在
小林家は長野原に古くから続く農家。もと越後で、上杉・武田の争いの頃に当地に住み
着いたという説がある。駄科の念通寺の古い檀家で、戒名には庵号がついて格式が高い。
明治10年、作太郎は
木下姓となった作太郎は、明治18年、田中アヤノと結婚し、同年長女コウ、23年長男信、28年3男保の誕生を見た。コウは母親松村テフと水神橋近くの家にいたから、作太郎は結婚前後には藤次郎家を出て、松村家に同居したと思われる。コウの父田中豊四郎は母子を残して横浜へ去り、母親は実家の姓に戻っていた。
この頃、
明治33年6月30日、作太郎は藤次郎と協議離縁、
アヤノとも離縁し、生家の甥小林鎌吉の籍に入り、
同 年9月7日、アヤノが飯田町681番地(追手町小学校近く)に木下アヤノ家を設立、そこが作太郎の店になる。
同日、作太郎はその籍に3人の子とともに入夫婚姻、戸主となる。この経緯はややこしいが、戸主の離縁独立に必要な手続きだったのかもしれない。
藤次郎と離縁した理由はハッキリしないが、藤次郎は、作太郎と離縁後の明治37年に長女に婿を迎え養子としたが大正12年8月分家、長男歌一は大正3年に結婚して家督相続は長女分家後12年12月となった。藤次郎には自分の子供への相続が、作太郎と離縁した理由だったろうし、作太郎には独立の強烈な意思があったと思われる。
(2) 木下作太郎は
@ 木下藤作―藤次郎―清―藤男とつながる家系を見つけた。
A 明治8年多智華学校(小学校)の世話人に藤次郎を見つけた。
と教えられ、当主籐男さんに聞き合わせたが関係なしとのこと。後述の土地台帳で、藤次郎3番地の隣、2番地の隣人とわかる。しかし明治8年の記述が、わが藤次郎である可能性はないとはいえない。
一計を案じて、土地台帳から攻めることにした。登記所は戦後の火事で焼けたが、税務署の土地台帳は残ったので、例えば仲之町306番地には、筆頭に「岡庭蕃、明治26年書き入、明治31年法律第32号によって」とある。31年の法律で26年のことを載せるのには疑問もあるが、岡庭蕃氏は当時飯田藩の有名人だからかもしれない。その後は、41年岡庭文雄=孫―同年大平豁郎=蕃氏妻の実家の主―44年木下作太郎と江戸期以後の由来を語って明白である。藤次郎家はそうなっているか。
(3)
ところが隣の2番に、木下清次郎―同清=昭和37年保存登記とあり、この人の住所が昭郎さん指摘の人と一致した。この土地=農地は39年鼎の加藤定吉さんに売り渡されているが、この番地、明治時代の記述がハッキリしない。謄本を取らなかったのを悔やむ。
現世代が昔を知らないことわが家族と同じとしても、藤次郎が大正12年家督を歌一に譲って3番地に戸籍があったことは明らかなのだから、藤次郎は、作太郎が離縁した明治33年までに、売却か競売か何らかの理由で所有権を失っていたと思われる。土地台帳の作成はその後だったから載せなかったのではないか。藤次郎一家のその後がわからない理由はそのあたりかもしれない。
長兄東一さんの話に、時々老人がやって来たが、それが藤次郎家の流れの人ではないかという。隣の2番の木下家は、関係があったかもしれないが、悪い話は消されてしまったのかもしれない。
長男歌一、後述、
長女フジエ(
次女ウシエ(竜丘村386番地中島伝助に嫁入り)、
次男清衛=夭折、
3家族のうち歌一家は松尾に見当たらない。農学校、商業学校、中学校の卒業者名簿にも載っていない。「松生」に上溝天満宮の日露戦役記念碑に木下歌一があるという。14年生まれだから出征した可能性はあるが、戦死者の顕彰碑だろうから、大正時代に結婚し家督相続したわが歌一ではなかろう。
なお、戸籍上の住所は実際の住所と一致する必要はないし(
問題の解決は07年1月4日、木下昭郎さん(飯田藩の侍医で、飯田城なき後、維新期の藩主親義を迎え晩年を看取った松尾の名家の当主)からの電話だった。遂に木下藤次郎・歌一の墓を見つけたという。刻んである年月は戸籍と一致した。間違いなし。年来の疑問が漸く晴れた。明治8年の藤次郎はわが藤次郎で、歌一さんは村会議員だった。もつれた原因は地番変更で旧地番がわからなくなったこと。もつべきものは友人である。松尾村3番地は今の上溝バス停=掘割。竜門寺へ行く時花を買ったりした雑貨屋前で、その店が3番地、藤次郎家の墓地は道を隔てた向かい側の奥にあり、江戸時代の墓石を含む立派なものだった。なお現在その店は無人で藤次郎の長男歌一に子がなく後を継いだ養子夫婦は
以上