木田元 「現代の哲学」 69.8日本放送出版協会 91.2講談社学術文庫(上)          

               2002.11.2−2004.8.6  木下秀人

まえがき

 この本は1969年、NHKの市民大学叢書として出版されて25刷。1991年講談社学術文庫に入れるに際し改訂があり、小生が手にしたのは2000年10月の改訂版16刷である。広汎な読者に支えられた著作だけに、読みやすく,判りやすい。小生などはこの本によって初めて、欧米の現代哲学思想,特に戦後フランスにおける展開(ポスト構造主義は入っていないが)のおおよその状況を理解することができた。

 そのあらましは目次で概観できる。宗教の過大な支配から脱し、人間を「自己=自我」として捉え、自然を科学によって分析することが始まった。しかしその自己として捉えた人間の真実と、人間を含めた自然の科学分析の基礎となるべき思考の枠組みが揺らいできた。西欧哲学はそれをどう解決しようとしてきたか=(上)。続く(下9では、ヘレン・ケラーやソシュールを題材に言語と社会の関係、マルクス主義を題材に政治社会とイデオロギーの問題が追及される。本書が書かれた時代背景がうかがわれるが、内容は古びていない。現代では、心と体の問題が脳科学の進歩を反映してより鋭く追及されているが、原理的には本書の内容を超えていないのではないか。

仏教に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という概念がある。心とそれを支える知覚=情報源の表現に他ならない。分析的自然科学は東洋には生まれなかったが、人間と自然との関係について今も通用する哲学はあった。

著者の専門は西欧の哲学であって、東洋の儒教、仏教、イスラム、ヒンズーなどによる問題への接近が対象外なのは残念だがやむをえない。概説の概説であるが、理解を確かにするために概要を上下に分けて記述する。

(上)目次

1 序

2 20世紀初期の知的状況

@       科学の危機

A       人間諸科学をめぐる問題

B       現代哲学の課題

 3 人間存在の基礎構造

@       事象そのものへ―生活世界への還帰

A       生活世界の物理的構造と有機的構造

B       シグナル行動とシンボル行動―チンパンジーの行動研究

C       世界内存在―フッサールの場合

D       世界内存在―ハイデガーの場合

E       情動という現象―サルトル

 4 心と身体の問題

@       幻影肢―心と絡み合った身体

A       疾病失認―心身の区別と統一

B       精神盲―運動障害とシンボル機能

C       行動を支配する無意識の発見―フロイト

以下、(下)

 

1 序

 ヨーロッパにニヒリズムの到来を予言したニーチェは、トリノで1889年倒れたが、今日われわれは彼の洞察の正しさを認めざるを得ない。

 ニヒリズムという言葉によって彼は、それまで西洋=近代ヨーロッパの文化形成を支えてきた指導原理の失効を主張した。近代文化形成の指導原理とは「理性」であり、「神が死んだ」という言い方でニーチェが説くニヒリズムとは、理性の崩壊・理性の破産といっても大きな間違いではない。

 17世紀の哲学者にとって理性とは「神のロゴス」であり、「神によって創造された自然の摂理」であり、「人間も神の似姿である限りその理性を分有」している。その理性概念は存在と認識を基礎付け、そこに調和を予定するものであった。理性への信頼=「理性主義」を原理としてデカルト哲学は生まれ、「われ」=身体から切り離された「純粋な精神」=理性としての自我と、その認識の対象=客観としての空間的広がりを持つ「物体」とその運動という二元論が形成された。このとき彼の「思うわれ」=「理性」は,何が存在し存在しないかを決定する「超越論的主観」であり、世界とは「理性によって認識される限りで存在する」ものなのであった。

 デカルト哲学はフッサールによれば、「物理学的客観主義」(唯物論)と、「超越論的主観主義」(唯心論)の二路線で発展した。ニュートン物理学はその一つの到達点であったが、その核心である「自然の理性的秩序への素朴な信頼」は永続しなかった。 市民革命に象徴される理性的秩序への信頼は、ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である」という言葉を生み出したが、その信頼はそれ以後の混乱を極めた歴史の展開によって失われた。

 20世紀西洋哲学思想の歩みは、何らかの意味でニヒリズムからの理性回復にかかわる試みであった。サルトルと共にフランス思想界を指導したメルロ=ポンティは、現代思想は「偶然性を意識することから始まる」という言葉でこの事態を捉えようとした。本書では人間存在の問題を中心に現代哲学の基本問題を取り上げ、その共通志向を浮かび上がらせようとする。

2 20世紀初頭の知的状況

@       科学の危機

 数学の危機=非ユークリッド幾何学の樹立。19世紀前半に、ロバチェフスキーとボーヤイ、及びリーマンによって、二つの非ユークリッド幾何学が発見された。今まで真理とされてきたユークリッド幾何学の公理は、「ある要請を前提とする仮説」にすぎないことが,アインシュタインによって明らかになった。幾何学は真なる認識の体系ではなく、一群の仮説的原理からの整合的な推論の体系に過ぎないことになった。 

 19世紀後半に,記号論理学が確立され、数学の体系とは、幾つかの公理群を幾つかの規則に従って変形して得られる定理の群であることが明らかになり、フレーゲ,ホワイトヘッド,ラッセルなどがそれを実践した。数学は「数と空間」から解放され、カントールは、集合論によって無限を超えた超限数学という新しい分野を切り開き、ゲーデルの「不完全性定理」は、数学の諸理論が一つの公理論体系に組織されることは不可能であることを証明した。

数学といえども、全知の存在者=神による絶対的真理の体系とは想定できないことが明らかになった。

 物理学においては、X線と放射能の発見によって不変不可分な原子の仮定が崩れ、アインシュタインの相対性原理は、ニュートン物理学の絶対空間・絶対時間という基本概念を破壊した。プランクの量子論、ハイゼンベルクの不確定性原理は、どんな粒子もその位置と速度をある程度以上正確には決定され得ないことを明らかにした。自然を物理学的に測定した結果は絶対化できないのみならず、そうした自然の存在そのものも疑わしくなった。

 これらの変革は、科学的認識の客観性や価値の問題としてポアンカレなどによって提起され、科学の相対主義的・実用主義的な見方が提唱された。

心理学ではゲシュタルト学説が、われわれの経験に与えられるものが客観的世界ではないことを明らかにした。

A       人間諸科学をめぐる問題

 精神科学・人間諸科学も危機にさらされた。

 心理学は、19世紀に内観的・哲学的方法を捨てて、自然科学に範をとった実験的方法が導入され,論理法則まで包含する一切の精神科学の基礎学としての「科学的心理学」が標榜されたが、思考作用が経験的個人的事実である限り、相対的個人的主張でしかあり得ず、この立場による普遍的学問的認識は原理的に不可能であった。

 社会学は、コントの実証主義の後継者としてデュルケームが、社会現象を物として扱うことによって社会学を独立の科学とすべく、宗教・空間・時間・因果律などという認識のカテゴリーが社会的起源を有することから、あらゆる科学を社会学の分科として考えようと強論した。ディルタイやジンメルの歴史主義は、思想を歴史状況に規定されたものと見る立場で、十八世紀の合理主義への反動として台頭したドイツロマン主義や歴史学派を源流とし、普遍的なものに対し歴史的個性を重視する立場で、イギリス・フランスの実証主義と結びついてから、細かい特殊な狭い枠の歴史状況にとらわれることにより、価値相対主義や政治的非合理主義など価値の無政府状態に陥った。

 要するに、当時精神科学の諸領域を襲った実証主義的傾向は、思考や思想が本来もつ内的真理を認めず、それをなんらかの外的・偶然的要因による結果と見ることによって、学問的認識の可能性を否定せざるをえないという自己矛盾をもたらした。ここでも理性・真理は危機に瀕した。相対主義をいかに乗り越え,矛盾しないように認めていくかが次の問題となった。

B       現代哲学の課題

 自然法則が人間理性でうまく捉えられるとか、人間理性が自然の構造把握に適合するようにできているというのをどう説明すればよいか。デカルトやスピノザやライプニッツなどはこの説明のために、何らかの形而上学的基礎付けを考えた。キリスト教的世界創造論による機械原因論や予定調和説であって、カントの超越論的問題設定もその試みに他ならなかった。

 ところがカントの「批判」によって、形而上学=理性の学問的基礎付けが否定された結果、形而上学でない科学的合理主義に対しては楽観主義が生まれ、人間理性は一切の制約から解放されて認識から実践まで領域を広げ、ヘーゲルの絶対精神まで高められていった。しかし科学の基本的前提たる客観的世界という想定が破られたのに対応し、主観性の哲学でも絶対的理性が否認され、ヘーゲルの抽象的理性主観に対し「具体的な人間存在」を回復させようとするキルケゴールの実存主義やマルクス主義が現れた。

 こうした理性への反逆は、19世紀の末から20世紀初頭にかけて、ニーチェ,ベルグソン、ディルタイなどにおいて、主観か客観か精神か物質かという近代的思考の枠組を超えて、生を人間存在の根本的事実と考える方向に結実した。

 現代哲学はこの傾向を受け継ぎ、科学、特に人間を対象とする精神科学や社会科学の領域において,人間をその具体性と全体性において捉えようとする動きが顕著になった。人類学・社会学・心理学・言語学などは「人間の科学」の名において統合が試みられた。哲学においても、現象学を方法的な立場とするフッサール,ハイデガー,サルトル,メルロ=ポンティなどの試みが共通な方向を目指すものとして注目される。

 

3 人間存在の基礎構造

@       事象そのものへ―生活世界への還帰

 近代思想に対する、現代哲学・科学思想の共通の方法論的特徴は、「具体的経験に即して物を見、考えよう」とする態度である。

 近代科学の前提とする「客観的世界」は、「真に実在する」と想定されていた。ニュートン物理学は,その客観的世界の因果関係を、空間・時間の全領域で明らかにしようとし、諸科学は,それぞれの対象を物理現象=客観世界に位置付けることによって科学であろうとした。

 心理学では、客観的に測定可能な「刺激」「感覚」「反射」を想定することによって知覚や行動を説明しようとしたが、それらの概念はわれわれの知覚経験や具体的行動の実態に即して作られたものではなく、物理学的に解釈された客観世界からかくあるべきと推論されたものに過ぎないとゲシュタルト心理学によって批判された。

 ゲシュタルト主義者達は、心理現象はゲシュタルト=内的分節を持った有機的全体であって、単なる要素の総和ではないことを明らかにした。刺激と感覚が必ず対応するという「恒常仮定」は否定された。行動についても、動物はそれぞれ構造的に異なった固有の「行動環境」を持っており、これを客観世界の刺激・反応関係で論ずるわけには行かないことがわかった。われわれは生きている生活世界へ立ち戻り、そこから客観的世界の意味を考え直す必要がある。その企てを本格的に試みたのがフッサールの現象学であった。

 フッサールは、ガリレイに始まる数学的自然科学の体系は、生活経験の世界の上にかぶせられた「理念の衣」であって、一つの方法に過ぎないのに、それが唯一の「真に客観的世界」と考えられ、もっとも根源的な直接経験の世界=生活世界を覆い隠してしまった点に問題を指摘した。

 フッサールの「超越論的現象学」は、客観的世界についての先入見を自覚的に反省させること、われわれ自身の意識を徹底した自己省察=[現象学的還元]によって解明することを目指した。それは一切の仮定・先入観を排し,純粋な直接的体験によってのみ自らを語ることであった。かくして「事象そのものへ」が、現代哲学・現代諸科学の方法論的態度のキイワードとなった。

A       生活世界の物理的構造と有機的構造

 こうして「客観的世界」の想定を打ち破って現れた「生活世界」において見えてくるのは、知覚され、働きかけられ、生きている、物理的過程に還元され得ないゲシュタルト=有機的全体の世界であって、それを捉える主体は、認識主観や純粋意識ではなくて、身体もろとも世界に投込まれた存在=「世界内存在」(ハイデガー)なのであった。

 この人間存在を規定する言葉は、サルトルやメルロ=ポンティに受け継がれた。それは「物理的構造」としては外的条件との平衡状態であるに過ぎないが、「有機的構造」においては外的条件のみならず自らの作り出す諸条件も加わった平衡状態において実現される。生物は自分の固有環境を自分で作り上げる。その行動は決して与えられた外的条件だけの関数ではない。

 生物の行動には高次の構造と低次の構造がある。下等な生物では本能的行動が支配的である。高等な動物では環境変化に対応する「学習」による行動が可能になる。その時、引金となる信号は条件刺激そのものでなく,それに意味を与えている場の全体構造に支配され、この構造の統合化が「目的」に対する「手段」という論理的な関係を示すようになる。「シンボル的形態」といわれる人間行動まであと一歩である。

B       シグナル行動とシンボル行動―チンパンジーの行動研究

 ゲシュタルト心理学者のケーラーは、チンパンジーが棒を使って餌を取り寄せるには、棒と餌が近くにあることが必要であり、箱を踏み台にして餌をとるのに、箱に他のチンパンジーが坐っているとできないことを見つけた。「餌の手前にある棒」と「全く離れた場所にある棒」、「踏み台としての箱」と「腰掛としての箱」はそれぞれ違った意味を持った二つの対象なのであって、その2つを常に道具として使うためには、二つの場を関係付け統合する高次の構造化能力が必要である。

 動物は現に生きている直接的な状況から身を離すことができない。動物にとって対象はその時々の状況と場の構成に依存する機能値を持っているだけ。しかし「物」は多様な状況のもとに現れながら,それだけに限られない多様な機能を保有している。その運動空間と視覚空間とを結びつけ、様々な関係を構造化させる=行動のシンボル的形態が人間的行為なのである。

 記号論では,シグナル=信号とシンボル=象徴とを区別し、これを一括してサイン=記号という。シグナルは物理的存在の世界の一部であり、シンボルは人間的な意味の世界の一部である。シグナルは物理的実体的存在であるが,シンボルは機能的価値しか持たない。

 言語記号は、人間の持つ高度なシンボル体系であるが、シンボルは言語に限られないし、シンボル行動はシグナル行動を土台にして可能になるが、それに還元されるわけには行かない。

 チンパンジーは、シンボル化の能力が欠けているため同じ対象でも違った配置や連関におかれている場合には、同じ対象を道具として扱うことができない。一般に,動物の行動においては,反応を生起させるサインは常にシグナルに止まり、シンボルとはならない。椅子を飛び越えるよう訓練された犬は,椅子の替わりに箱を置かれると動かなくなってしまう。

 人間が楽器を弾く能力にとって、音符という視覚的刺激と部分的運動とを条件反射で連結させることが本質ではない。個々の運動は楽譜に対応する運動的全体の通過点に過ぎない。上手な人が初見でうまく演奏できるのは、視覚的刺激と運動との間に作られる音楽的本質とでもいうべき原理によって、新しい相関関係ができるからである。楽譜の書記形態、演奏者の動作の流れ,メロディーの調子は、同じ構造の下にあって、この「構造の構造」こそが音楽と呼ばれるシンボル体系なのである。

 チンパンジーに欠けていたのはこのシンボル化の能力である。そしてこのシンボルを介しての行動はある種の自己解釈を伴うから、様々な変化が生み出され、状況に迫られなくともあらかじめ準備するとか、道具を作る道具を作ったりできることになる。

 メルロ=ポンティは物理的・生物的自然を変様し,新たな構造を実現するこの人間的活動を,ヘーゲル,マルクスにならって「労働」と呼んだ。「労働」とは、直接的環境の向こう側に、各自が思い描く一つの「物の世界」を認めようとすること。人間はこのシンボル的行動によって、直接的自然的環境を乗り越え、いわば「世界」に向かって開かれることになる。人間存在の基本構造が「世界内存在」とは、この意味にほかならない。

C       世界内存在―フッサールの場合

 フッサールは、われわれが日常暗黙の内に前提している「世界はわれわれの経験とかかわりなく,それ自体の超越的存在を持続し,すべての事物は世界内部に存在し,出来事はこの世界で生起する」という素朴な想定を「自然的態度」と名づけ、一種の思考習慣に過ぎず哲学的反省を経ていないと主張した。

 心理学主義は、この先入見に立っていたため、意識を「世界内部的」な経験的事実に還元して,自然の精神物理的連関のうちに位置付け、その結果,論理法則をも蓋然的な生理・心理機構に基礎付けざるを得なくなり、真偽の絶対的区別を見失ってしまった。

 フッサールは,こうした実証主義の立場では普遍的な学問的認識は不可能であるとして、自然的な世界内部的立場を超越した「超越論的態度」に立って,自然的態度に徹底した反省を加える=現象学的還元という方法的操作の必要を提唱した。それによってわれわれは一切の先入見を抜きにして意識体験をありのままに見ることができる。超越的存在は還元の後に残る「現象学的剰余」としての「超越論的意識」に「世界意味」「世界現象」として内在化され、単なる体験の領域が反省の対象となり,私と世界の関係が顕在化されてくる。こうした反省によって世界の本質的構造連関を問うのが現象学であった。しかしその「超越論的観念論には,主観的観念論と同一視される危険があった。

 フッサールは「イデーン」第2巻で、われわれが直接的経験において生きている、存在し、真であり、客体的であると信じている世界は、すでに歴史的に沈積した認識作業の成果であり、生活世界の上に構築された主観的形成物にほかならないと主張した。自然主義的態度とは,そうして形成された一種の習慣的態度なのであリ、現象学的還元とはこの習慣を停止し,客体的世界の根底に再び生活世界を発見することにほかならない。現象学の課題とは,自然的態度で生きられるままの世界を現象学的還元によって記述することなのであった。

 世界とは、経験の地平的構造で考えると、外延的空間・内包的性質・時間といった複雑な地平をすべて総括する「全体的地平」なのであり、すべての存在者は世界の中にあり、すべての経験は世界の中で行われ、したがって世界とは存在者全体のことではなく、こうした経験の根本構造にほかならない。それは様々な可能性の地平であり、個々の行為に道筋を示し,あらゆる目標設定を導いてくれる、それが生活世界なのであった。

D 世界内存在―ハイデガーの場合

 こうして、ハイデガーの「世界内存在」という概念は、フッサールの後期思想の自然的態度やその世界定立の考え方を下敷きにしたものであって、ハイデガーもそれを「存在と時間」の中ではっきり認めている。

 ハイデガーのこの本が、通常「実存哲学」の古典と見なされているのは、本人の意思に反することであって、本人はこれを「現象学的存在論」と主張した。ハイデガーは、人間を「自己自身の存在と係わり合いながら、存在とは何かと問いうる特殊な存在者であり、人間とは存在が顕わになる現場である」としてDasein=現存在と呼んだ。この人間的現存在に即して存在の意味を問うためには、この現存在の実存=日常性が分析され、反省=現象学的還元がなされねばならない。しかしハイデガーにとっては、上巻は存在論への通路であって、予定されていた「存在一般の意味」を問うはずの下巻で完結するはずだった。しかし上巻のみで終わったので「存在と時間」は「実存の分析論」に終始することになり、誤解を生んでしまった。

 この本には、キルケゴールに由来する近代の理性主義を真っ向から否定し本来的実存を実現しようとする思想と、フッサールに由来する理性を復権して厳密学としての哲学を実現しようとする思想とが、存在が存在の意味を問うために自らを開示する場としての現存在を浄化するという奇妙な形で結びついている。そこにハイデガーの独自性があった。

 ハイデガーの存在探求は、われわれが生きている「日常性」=フッサールの「自然的態度」の分析から始まる。フッサールの「世界定立」を「世界内存在」と捉えなおし、フッサールが「われわれは世界を定立しつつ,その事実的世界につながれている」と逆説的に把握した事態を、ハイデガーは「世界内存在」を分析しつつ、われわれには、そこに理由もなく投げ出されている被投性と、自らの責任でそこで存在する企投性とが分かちがたく存在することを指摘した。

 日常ではわれわれは、自己の存在をいわば物のあり方から理解し、その存在を己の存在として自由と責任において企投することをせず、自己喪失の状態(「ひと」Das Man)にある。フッサールは、充足した自然的態度の中でなぜ現象学的還元が必要かを問題としたが,ハイデガーは、「ひと」が目をそらし気晴らしに自分を忘れさせている「死の可能性」によって、かけがえのない自分に目覚め本来的実存を回復することを期待した。

 実存とは「超越」=超え出ること、それによって世界へと超出し,われわれの有限性を深く自覚し、それを意識的に引き受けること。それは「時間」を生きる生き方の問題であり、受動的に生きるのでなく、自分で時間を捉え展開しつつ生きることこそ本来的で根源的な生き方なのである。

 かくて人間の現存在とは時間性にほかならず、根源的な時間性の回復が存在の意味の理解につながる。しかしその部分は未刊に終わった。

 ハイデガーは、「世界内存在」における「内存在」=われわれの世界との根源的関係を問題とし、それが「心境」=気分と、「了解作用」=自己の可能性の投企と、「語ること」=可能性という分節によって、等根源的に構成されていることを明らかにした。われわれは常に何らかの気分に置かれていることによって「被投性」=世界への受動的関係が開示され、了解作用によってわれわれの「企投」=世界への能動的関係が開示され,語ることによってそれらの関係が意味の体系=シンボルの体系に分節され,同時にその相互主観的構造が開示されるのであろう。

 ハイデガーの「世界内存在」という概念は、フランスの実存主義者に受け継がれたが,サルトルは、「人間が自己自身に向かって世界を超出する」といういい方でこれを誤解し、「存在を世界という形に構成する」意識の能動性を強調した。メルロ=ポンティは、むしろ受動的帰属性に力点を置いた。世界はわれわれによって打ち立てられたものといっても良いが、「世界内存在」にある種の受動性が付きまとうことも事実である。

 この受動性、経験の全体的地平としての世界は,各自に世界として与えられたものであり、しかしその意味を展開していくと単に各自の世界に止まらず、彼が世界の内で共存している他人への指示をも含んでいる。道具連関にせよ、社会構造にせよ、言語というシンボル体系にせよ、すべて既成のものとして与えられるが、それを構成する他の主観への指示を含んでいる。世界はできあがった共同的な世界としてわれわれに受動的に与えられる。

 さらにこの受動性という、人間におけるシンボル体系の高次構造には、低次構造によって足場を与えられ統合しているという弁証法的関係がある。例えば身体条件が人間の情動に影響するが如くである。意識という高次構造は、絶えず身体などの低次の構造に逆らって世界へ超越するので、超越運動が挫折すると古い意味層が自律的に動き始める。これが世界内存在に付きまとう受動性であり、このような世界の未完結性,不透明性は絶えず付きまとう過去の位相の抵抗からくるともいえよう。

 かくして「世界内存在」を基礎構造とする人間存在は、「世界」をシンボル体系として作りだし、この世界の中で対象を覚知し,それと実践的に係わり合いながら自己を表現し解釈し了解している。しかし人間は自己にとって完全に透明な純粋意識であったり、世界を隈なく認識しうる絶対的主観ではあり得ない。意識を意識たらしめるシンボル操作は生物的なシグナル行動を前提とし、足場として成り立っており、本能や無意識といった構造に支えられ,その統合の上に成り立っているからである。人間的意識は自己にとって半透明でしかありえない。

E 情動という現象―サルトル

 心理学では、感情や熱情と区別して、エモーションに情動という訳語を与えている。それはハイデガーの気分とも異なる。

 情動という現象が,「身体的現れ」と「心的状態」との2系列で考察されることは古くから知られていた。情動はこの二つの側面から説明された。W.ジェイムズは刺激による身体変化が意識に投影され,恐れ・怒りといった意識状態を生み、悲しいから泣くのでなく,泣くから悲しくなる(=ジェイムズ・ランゲ説=末梢起源説)とも主張した。これを批判してジャネは、情動を「不適応な行為」「挫折した行為」と見た。やらねばならない行動が困難で適応した上位行動がとれないとき、心的エネルギーがより低位の行為によって消費されて情動になるという。しかしそれでは様々な挫折行為の理由が説明できない。

 現象学は,情動現象が心的か身体的かの区別をしない。意識の全体的活動である情動を「世界へのかかわり方」として捉え、それがなにを目指すかを問おうとする。診てもらいに来た患者が起こしたヒステリー発作は、「質問されるのを避ける」という「意味」を持った行動なのであり、質問されるという辛い状況を変えられないので、自分の意識を抹殺することでそれを回避する。これに対し情動を「世界内存在」の変様と捉えたのが若きサルトルであった。

 世界は様々な可能性の地平であり、われわれの行為に道筋を示してくれ,目標設定を導いてくれる。しかしあちこちに落とし穴やわながあって気難しい。われわれはこの世界を何とか変えようとする。しかし客観的条件は変えられないので自分自身のあり方を変えて、変更を模倣しようとする。そのとき変更を蒙る代理物が身体なのである。躍り上がって喜ぶとき、躍り上がりは喜ぶ原因の所有を模倣している。

 情動は,自分の身体を呪術の手段として使用しながら、魔術的な世界を形成することにほかならない。したがって情動は、生理的状態や心的状態の一時的な混乱ではなく、世界に対する合理的なかかわり方から魔術的なかかわり方への急激な移行、世界にかかわる意識の自発的な退行であり,われわれが自己の「世界内存在」を引き受ける一つのやり方なのである。

 

4 心と身体の問題

@       幻影肢―心と絡み合った身体

 「物理的なもの」「生命的なもの」「心的なもの」とは、実体的に異なったものではなく、高次の秩序の出現による低次の秩序の自律性と意味の変容であろう。心的なもの=精神とはそうした高次の統一形式であり、行動の高次の構造であった。それを実現した人間は、生命活動すら新しい全体に再組織化されて、生物的行動としては姿を消してしまう。身体とは、世界を出現させるような行動の統合化が行われる場所であり、世界内存在の主体なのであった。それでは「自己の身体」を持つとはいかなる意味であるか。

 身体を客体として扱うことの不都合さは、神経生理学における「幻影肢」現象によって明らかである。メルロ=ポンティは、手足を切断された人が、にもかかわらず手足の生々しい感覚を持ちつづける現象をその例証として取り上げた。生理学は、切断部から大脳に至る神経の求心経路が残っているからというが、麻酔によって知覚を消滅させても幻影肢はなくならないし、切断はないのに大脳の損傷によって現れることもある。また切断直後には巨大だが,患者が事実を容認するにしたがって次第に消える事実もある。生理的事実と心的事実が絡み合ったところに、発生の共通の地盤がありうるのであろうか。

 身体を持つとは,一定の環境にあって企投と融合によってかかわりを維持することであり、「世界内存在」とは、身体を媒介として生きるわれわれの活動の可能範囲を規定するものであった。

 しかし「世界」は,客観的刺激からもわれわれの意識からも相対的に独立し,ある種の持続性・恒常性を持っている。「世界内存在」は、客観的過程からも主体的認識からも区別されるものでなければならない。

A       疾病失認―心身の区別と統一

 「幻影肢」と対照的な現象として「疾病失認」がある。現実に手足が麻痺しているのに意識がそれを否認する現象である。メルロ=ポンティはこの2つについての生理学的・心理学的説明の不十分なところを、「世界内存在」の見地から考えようとした。

  幻影肢  切断された手足 意識では存在する 現状肯定によって解消

                        脳に向かう神経回路切断でも解消   

  疾病失認 麻痺した手足  意識では麻痺なし 現状肯定によって解消

切断や麻痺という現実を認めようとしないのは「われ」であり、欠陥の受入れ拒否は、「われ」が、慣れ親しんだ世界への自然な運動を妨げる事実を、「暗黙の内に拒否」しているからと解釈できる。メルロ=ポンティはこれを「習慣的身体」と「現勢的身体」という二つの意識層によって説明する。「習慣的身体」はわれわれの人格的実存の底に「前人称的で一般的な有機体としての先天的コンプレクス」といった形で潜んでおり、これがわれわれを世界の内に存在させている生物学的状況なのである。通常は「習慣的身体」行動で問題ないが、手足切断のような客観的条件の激変=情動性ショックが、意識過程に統合されず「古い現在」として無意識の内に行動を支配する。「現勢的身体」との間にギャップが生じる。それを埋めようとするのが幻影肢であり疾病失認ではないか。

 幻影肢が,脳に向かう神経回路切断によって消失する事実は、感覚運動回路の刺激に対する反応という恒常的関係が、われわれの意識において相対的に自立した関係にあることを意味する。われわれの反射作用を統合し意味付けている「世界内存在」は、逆にそれら反射作用に基礎付けられてもいる。

 純粋な反射作用は、統合度の低い生物だけでなく、最高度に統合され「世界」を持つ人間においても見られる。人間が環境=世界を意識しうるためには、人間と刺激の間にある距離がなければならない。神経の末端における反応は、実存の中枢部でなく末梢部分で営まれねばならない。末端部分への中枢支配を放棄することによって諸器官が安定し、既成回路を通じて世界参加が自発的になされることによって、「心的・実践的空間の余裕」を獲得できる。この空間が人間を環境支配から離脱させ,それを対象として見ることを可能にする。「習慣的身体」は、統合された実存の維持に必要であり、「生理的なもの」は「心理的なもの」とともに世界に向かう実存の運動に統合される。心的現象はある時は身体的に現れ、ある時は人格的に現れる往還運動として存在する。

 こうしてメルロ=ポンティは、心と身体という概念は相対的なものであり、「身体」とはすでに辿られた過程や形成された能力の全体、高次の統合化・構造化が行わるべき地盤であり、「心」とはそこに確立さるべき意味のこととなる。統合化がうまくいかない場合は、身体は意味のない運動をし、思考は充実した身体表現を見出せない。

 この二元性は、デカルト流の実体的なものではなく、あくまで相対化して捉えられるべきで、そうして初めてわれわれは心身の区別と統一を正しく理解できる。

B       精神盲―運動障害とシンボル機能

 ここで「精神盲」とは、脳に損傷を受け、視力はあるが視覚刺激を認知できない患者で、習慣的運動は目をつぶってもできるが、習慣でない指示する運動はできない。彼は身体空間を、習慣的行動の素地としては意識しているが、客観的環境としては意識し得ない。目を閉じると指示された=非習慣的=「抽象的運動」ができない。身体にさわられても、その場所を指示できない。「抽象的運動」のためには,世界を改めて構成する必要があるが、その空間構成ができない。

 患者には新しい世界を構成することは困難であるが、健常者にとって世界は、自らの「企投」によって新しい行動を容易に導くことができる空間である。患者は目の前のドアをノックはできるが、手の届かないところにあるドアに向かってノックの真似を行うことはできない。視覚と触覚よりもっと深いところにある統合機能がおかされている。「精神盲」と「触覚の不完全」と「運動障害」とは、根本的な一つの障害の三つの現われなのである。

 この障害を,理由ないし知的な条件にさかのぼって説明するもう一つの立場がある。カッシーラーによるシンボル機能に着目したものである。人間は分解不可能な「意識」であって、指示作用とは対象が身体と距離を置いて保持され客観化されること。指示されたものは、個別存在であり、私に現れたものであり、指示者に現れたものでもあって、それを運動として構成するには、そこに客観化の能力ないしシンボル機能が要求される。

 このシンボル機能は、多様な感性的所与を相互に表出し合うものとして捉え、高次の構造を構成する機能であって、この能力が意識そのものなのである。運動は客観化の働きを伴った意識的運動か、生理的興奮に規定された反射的運動のどちらかになる。

 シンボル機能は視覚を土台にして成り立っているが,視覚がその機能の原因ではなく,「知性」さえもシンボル機能の根底とはいえない。患者の思考には欠陥があるので、世界が彼にどのような意味をも暗示せず、彼の目論む意味作用は与えられた世界では受け入れられない。損なわれているのは知性ではなく、むしろその実存的基盤である。彼の障害は「表象機能」や「シンボル機能」といった抽象的なものでなく、諸々の環境的・精神的状況を投射し、感官と知性の統一、感受性と運動性の統一を成し遂げるために必要ななにものかが弛緩しているところにある。

 「意識」とは一つの投射活動であって、諸々の対象に働きかけ行為の痕跡を残すが、視覚機能の欠損=視覚表象の欠落は、その上に積み上げられるべき高次の活動能力を解体してしまった。それが運動や知性の障害として現れた「精神盲」の実態であるとカッシーラーはいう。

 メルロ=ポンティは,身体の運動性とは,根源的な志向性であり、意識とは「我思う」ではなく、「我なし能う」であるという。視覚も運動も「世界」の構成に向かう運動、われわれが世界内部の対象と関係する仕方であり、「世界内存在の運動」なのである。

C       行動を支配する無意識の発見―フロイト

 フロイトは,人間の高級な行動をも本能,特に性的本能によって説明しようとした。精神を身体的なものに還元しようとした。しかし臨床経験を重ねるにつれて身体と精神の概念に修正が加えられ、「本能」が有機体の環境適応行動の仕組みとすると,「性的本能」などは人間にはないことを明らかにした。

 幼児が正常な性行動を獲得する過程は、本能的ではないし、原初的な両親との関係も本能的というより精神的つながりである。両親を愛するのは両親に愛され彼らの子であることを知っているからである。愛も本能ではなく,他人を他人として認め、すべてを求め尽くそうとしない成人の愛が、相手との絶対的同化を求める幼児の愛の上にようやく獲得されることがわかってきた。この他人との原初的かかわりが病的に生き残ったものが、成人の性生活におけるサディズムやマゾヒズムという相手との絶対的直接的な関係を求める異常態であるという。

 フロイトが人間存在の基盤と考えた「性」とは、他人との乖離に反発し,それを埋め,すべてを自分に取りこもうとする欲求であった。生理的なものも本能も、絶対的所有という中心的欲求によって貫かれた。この欲求はどこにあるのか、身体のうちにある「意識」という作用をつかさどる場所ではないか。

 フロイトは、この「意識」の背後にあって行動を支配する「無意識」を問題とした。人間の行動を支配するものはなにか。意識=精神的中枢と無意識=反射的末梢部分に簡単に分けることはできない。行為には「意味付け」が伴う。性行動=生理的事実を含む一切の人間的行為には「意味」がある。人間の意識しない行為に意味を与え,一見無意味な行為の背後にあって原因となっているものは何か。フロイトは人間的行為に隠された論理=「無意識」の存在を明らかにした。

 「無意識」の概念が暫定的であることは本人も認めていた。何が意識の明るみに出されてよいかを決め、抵抗の感じられる思考や状況を避けるのが「無意識」である以上、避けているものは知られているが承認されていないもの。無意識とは表向きの行動や認識の背後にある奇妙な意識を指す概念であった。

 身体の精神的機能ともいえるし,肉体化された精神ともいえ,現代哲学が「実存」という概念で現わそうとしているものに、フロイトは次第に接近していった。性的なものの内に他人への関わりかたの問題を見ようとした。

 メルロ=ポンティは、脳障害による「精神盲」者の、自発性に欠けるができなくはないという性的障害について、性的表象の欠如によっても本能の自動運動によっても説明できない,むしろその中間に「実存」の運動とでもいうものがあって、運動的・知覚的・知的可能性と並んで、性的可能性がそこで作られるのではないかと考えた。エロス、リビドーといった性的志向性が、世界を生気付け刺激に性的意味を与え,主体に身体の性的使い方を教えたりする。性は決して末梢の反射的自動装置ではなく、実存の運動に従う一つの志向性なのではないか。

 フロイトの解釈がどうであれ、彼の精神分析学が到達したところは、人間を性的下部構造で説明することではなく、性の中にさまざまな関係や態度を見出すことによって、性を人間存在の全体の内に統合しようとすることだった。

 性生活は人間実存の流れの重要な一部であり、人格といった人間実存の高次の秩序はそれら生物学的活動の上に実現される。だから実存を性に還元するのも,性を実存に還元するのも単純すぎて間違いなのである。     (上)おわり

 

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