イスラムの思想と社会―比較分析試論(上)   

2005.3.29−06−1.8 木下秀人

 大分前に、堀米庸三編「西欧精神の探求」昭和51年で、アラビアの科学はヨーロッパに受け継がれて近代科学となったが、当のイスラム世界がヨーロッパ流の近代世界のような発展しなかったのはなぜか、という問題提起が編者によってなされた。

伊東俊太郎氏の挙げた答えは、

(1)外在的要因、それまで独占的にやっていた東西の中継ぎ貿易が富を蓄積させ、多数学者に自由研究をさせる余力となっていたが、アフリカを回る新しい航路がヨーロッパ人によって開拓され、イスラムの経済的優位が破られた、

(2)内在的要因、アル・ガザーリー10581111によるイスラム正統神学の復活(=保守派への改革)によって、それまでギリシャの合理思想を受け入れ発展させていたアヴェロエス=(イブン・スウィーナー980-1037、中央アジアのブカラ出身のイスラム世界を代表する哲学・医学者)やアヴィセンナ=(イブン・ルシッド11261198というスペイン、アンダルシア出身のイスラム哲学者、中世最大のアリストテレス注釈者)などの、西欧にも大きな影響を与えた自由な思想・科学研究が頓挫させられ、科学の開花がしぼんで神学中心に戻ってしまった、の2点であった。

 その後イスラム関連の書物を読む時はこの点に留意した。中世西欧を政治的にも知識・技術水準でも凌駕したイスラムが、なぜ停滞してしまったのか。2度のウィーン包囲で神聖ローマ帝国を揺さぶったオスマン帝国は、なぜ近代世界に生き残れなかったのか。現代ブッシュのイラク侵攻とその後の民主化の混乱は、イスラム理解の不足が原因といわれた。

以下はいささか僭越ながら一介の本読みが、イスラムとは何かを探り、その思想と社会の変遷の歴史によって問題を解こうとした報告である。

井筒俊彦氏の「イスラム思想史」「イスラーム文化」「イスラーム生誕」「意味の深みへ」などの著書により、

(1)イスラム思想はユダヤ教・キリスト教と同根であるが違うこと、

(2)一神教の純化というべきその思想は、仏教が到達し、現代西欧が近代自我思想の反省からようやく追いついたともいうべき深い境地に当時到達していたこと、

(3)純化された高度の宗教の理解しにくさに伴う問題の幾つかは仏教やキリスト教との比較によって理解できるのではないか、などが理解された。

イスラム史とイスラム社会論は適当な教科書がなくて、

鈴木董氏などによる講談社現代新書の「イスラームの世界史」3冊、

ヒッティ「アラブの歴史」講談社学術文庫上下を手がかりとし、雑書を渉猟した。

現状分析についてはマリーズ・リズン「イスラーム」に啓発された。

山内昌之「近代イスラームの挑戦」は西欧との対応について日本とイスラムを比較して秀逸、その手法はこの論文で真似させてもらった。

小島順一「トルコのもう一つの顔」は言語学者の現代トルコの言語事情を通じてトルコの実情を描いて目を開かされた。イスラムや中世思想は初歩からの学習で時間がかかったが、ようやく小生なりの結論に達したので略説することにした。

 

1 イスラム教のドグマとその歴史社会的意味

 あらゆる宗教にドグマ=独断や教条主義がある。キリスト教の処女降誕や三位一体、

ユダヤ教の唯一神エホバとモーゼの受戒や選民思想。ヒンズー教の神話・呪術を否定し、ドグマから自由なはずの仏教もやがて阿弥陀仏・弥勒佛・大日如来などを創造し、ヒンズー教に対抗するために、ヒンズー教の神々や呪術を受け入れざるを得なかった。世俗への妥協に厳しい道元の「曹洞宗」といえども、加持祈祷を受け入れなければ民衆の支持をえることはできなかった。

だからイスラムにドグマ=「唯一の神アラー」があるのは当然、問題はそれが歴史的にいかなる機能を果たしてきたかである。気がついた点を論評する。

 

1−1 アラビア語と印刷の遅れと識字率

マホメットが神の啓示を受け、それが「アラビア語」で書きとめられてコーランとなった。翻訳されたものはコーランではない。しかしイスラム世界は急速に多言語・多民族化した。進出した世界は先進文化地帯であったが、アラビア語を母語としない多数の人々がイスラム化した。そこに低い識字率という問題が起きた。

「ベルリッツの世界言葉百科」1983新潮選書によると、アラビア語は書くのも読むのも難しい。4種類を使い分け、ローマ字よりはるかに大きな紙面を必要とする。しかし聖典はこの文字で書かれ、それをそのまま読まねばならないから、読みやすく書きやすい文字への改革は近代までなかった。アラビア数字といわれる数字ですら、アラビア語の表示は簡単ではあるが1以外はいわゆるアラビア数字ではない。

近代トルコは、抵抗を排しローマ字化を導入し、効率のよさから結局受け入れられた。アラブ圏でないイスラム教国では、インドネシアやマレーシアではローマ字、旧ロシア圏ではロシア文字が使われている。文字改革は教育改革の前提であるかもしれない。

多民族問題は宗教や民族を差別しないことで解決したが、多言語問題はイスラム教がアラビア語を話さない多くの民族に受け入れられたにもかかわらず放置された。コーランの解釈を担った「ウラマー」達はアラビア語のコーランを写本で読んだ。しかし例えばエジプトは、7世紀アラブ・イスラムの侵入後アラビア語化されたが、13世紀以来イスラム世界を支配したトルコ族オスマン帝国の日常語は、アラビア文字で記述されたけれどもトルコ語であった。知識人は、自国語以外に必要に応じアラビア語のほか、ペルシャ語ギリシャ語ヘブライ語ラテン語などに通じていたが、必須であるコーランの学習が容易でなく、その数は少数に限られた。

なおアラビア語とその思考について、牧野信也「アラブ的思考様式」は、具体的物質的で抽象的でない、極端にしか見ない・考えない、近親への信頼と敵意、高い知能・弱い抽象能力などを挙げ、個物の重視として他の言語で見られる合成語がないと指摘している。例えば馬について、雄馬雌馬純血馬競走馬背高背低馬など種類性質のそれぞれが別の言葉で表され、その中心となる馬という合成語はないというのは面白い。井筒俊彦「イスラーム生誕」は、ベドゥインの極度の感覚重視と抽象的思考拒否を「彼らが見る世界は個々の印象の雑然たる集塊でそこには論理的連関性がない」「感覚の世界を論理的に統一して把握することすらできない」「だから彼らは徹底した現実主義者」という。

紙や印刷術は早く中国から伝わって、グーテンベルクによる聖書印刷は15世紀だったが、その技術を中継したはずのイスラム世界での印刷は、はるかに遅れ19世紀であった(蒲生礼一、イスラーム、昭和33年岩波新書)。文字の難しさ以外に宗教上の規制があったであろう。漢字をカナにしてしまい、早く木版技術を取り入れた日本と比べれば差が明らかである。アラブ世界の民衆は、ほとんど文字に触れる機会がないまま近代を迎えた。

キリスト教の聖書は、ルター以後各国語に翻訳され印刷されて民衆の手に渡り、識字率向上に役立った。教会や僧院が学校の役割を果たした。しかしイスラム世界の民衆は、文字と無縁の世界に放置された。現在イスラム圏の識字率が低い所以である。神の言葉を伝えるコーランは、アラビア語のままで読まれなければならないというイスラム教独特の聖典観、それを民衆教化の障害と認識し打ち破るためには、宗教改革に匹敵するエネルギーが必要かもしれない。

 

1−2 唯一神のドグマと意思の自由

キリスト教はユダヤ教とともに、天にいます唯一の神を信仰する。しかしキリスト教では三位一体といって父なる神と子なるキリストと聖霊が一体であるというドグマが重要な教義となっており、さらに神の代理人としての教会組織がある。ユダヤ教には唯一の神がイスラエルの民=ユダヤ民族を選んで契約を結び、預言者モーゼに神の教えを啓示したというドグマがあり、人と人の関係のみならず、神と人の関係をも法的に解釈規定した厳密な律法―タルムードがあり、それを解釈するモーゼに連なるラビという聖職者がいる。

これに対しマホメットは、モーゼより古いアブラハム=イブラーヒムの教の復活であるとユダヤ教への優位を主張し、コーランは「天上に保管された啓典の母体のアラビア版」であるから、アラビア語で理解されねばならぬこと、さらに神は唯一であるから、イエスを神の子とするキリスト教を否定し、ユダヤ教徒が自分たちの師を「ラビ=わが主」と呼ぶことを非難し、イスラムの優越を主張した。

問題は人間に「意志の自由」があるか。神が絶対で人間を支配すれば「宿命論」となるが、それでは人間に選択とそれに伴う責任がなくなってしまう。コーランには人間の選択の背後に神の配慮を認め、選択の結果の責任を負わせる記述があるが、どちらが正しいのか。イスラム地域の拡大につれて増大する新改宗者の知識分子のうちには、厳格な一神教の教義に対し懐疑的な風潮があった。コーランはアッバース朝で現在の姿に編集されたが、マホメット亡き後、その解釈を決定し権威付けるのは誰か。

アッバース朝7代のカリフ、マームーン813833。王朝の盛期は過ぎていたが、カリフ=神の代理・イスラム世界の君臨者として、王朝建設の功労者だったが排斥されていた少数派のシーア派やムウタジラ派と結び、主流派を権力で審問弾圧=ミフナした。しかしイブン・ハンバルなどの「コーランや預言者のスンナ=慣行には、カリフといえども従属すべきである」という保守正統派の解釈を打ち崩せなかった。

ムウタジラ派は、極端な宿命論を否定し人間の自由と責任を論じた学派であり、マームーンはバグダッドに知恵の館を建て学問を奨励し、王権によってその思想普及をはかったいわば開明君主だったはずだが、その思想はイスラムの主流を覆しえなかった。自由意志論派が保守派を弾圧しようとして敗れたのは、西欧の歴史に逆行する流れであるが、既にカリフ権は、地方勢力によって形式化弱体化されつつある実体を示すものだった。

 

1−3 教会という王権チェック組織の欠如―部族社会の残存

アラーは、世界を創造し人間を支配する「唯一の神」で、信者は「ウンマ」という「信仰共同体」を形成するが、キリスト教やユダヤ教のように「教会」や「聖職者」を介することなく、個人は直接神に対する。その関係は内村鑑三の無教会主義に似ているが、聖典はアラビア語で、範囲が多岐にわたり民衆には解釈できにくい構造なので、聖典解釈は専門的訓練を受けた学者=「ウラマー」達に委ねられる。しかし「ウラマー」はあくまでも個人であって、キリスト教会のように組織化されていない。まして王権に対立する公的組織を形成することはなかった。王権=宮廷は近代に至るまで支配家族の恣意專制に委ねられたままであった。

王権に異を唱えるウラマーは、イランのホメイニのように亡命するか、殉教抹殺の運命を甘受するしかなかった。この公的組織原理によるチェック機能の欠如が、民衆が唯一頼れるものとして部族社会が今なお残存する理由となっている。

 

1−4 宗教国家=聖法と行政の未分離

マホメットは預言者であるとともに、「信仰共同体」の指導者であって、その死後、後継者は「カリフ」=代理人と称した。やがて宗教的指導権や聖法の解釈権は「ウラマー」という学者たちの手に委ねられ、「カリフ」の権限は解釈された法の適用=政治行政という分業が成立した。聖法解釈=司法と、行政は分れはしたが、司法が聖法の解釈権独占を背景に、行政に対し優越的地位を占めている点にイスラム国家の西欧近代国家との大きな違いがある。  

ホメイニによる王制打倒=イスラム革命に成功したイランで、王制時代許されていた「近代的自由」が、イスラム法によって制限されるという「イスラム革命の矛盾」がそこにある。昨年就任したアブカドネジャド大統領は、まじめな生活態度が評価され当選はいいが、頑固なイスラム主義者のようで、核武装反イスラエル発言は困ったものだ。

イスラム圏にも、トルコのように、早く世俗主義で政冶と宗教の分離に成功した国もあるが、経済成長の点でいまひとつ説得力がない。小島剛一氏によれば、トルコは「食料輸出国で綿花を産し牧畜も盛ん、工業発展がなくても最低限の衣食の保障はある」から危機感がない。宗教や教育、歴史的風土の違いがあるから日本と同じような道はありえないという。アラビアやイラン・イラクなど中東産油国は、オイルという資源の配分で食っていける豊かな国、貧しい国ではない。資源を睨んで、米国よりの政権樹立を目指して米国が進める「民主化」が、イスラム原理主義を押さえて宗教改革に成功するであろうか。 

 

1−5 正統と分派

「ウラマー」はイスラム思想と法規範の体系化に努め、新しいイスラム共同体の理想像=「シャリーア」を描き出した。このとき法源と解釈という純粋に思想的な違いだけでなく、支配権争奪という政治的要因も含めて幾つかの学派が生まれた。「スンニ派」は長く政権を担ってきた正統派多数派であり、「シーア派」はマホメット没後の主導権争いに敗れたが、マホメットの血を受け継ぐと主張する分派で、独自の教義を展開しイランやイラクに支持者が多い。「ムアタジラ派」の自由意志論は保守派に消しさられたが、近代になってイスラムの昔に返ろうという原理主義の主張が勢力を増してきた。かつて「ハワーリジュ派」が唱えた主張、「正しい道から外れたリーダーは糾弾さるべきで、出自に拘わらず宗教倫理的に問題なければ選ばれうる」また「大罪を犯したものに対しては武装闘争=ジハードを認める」は、テロリスト容認の思想的根拠を提供しており、昨年エジプトの選挙で議席を伸ばした「ムスリム同胞団」の主張との類似性が注目される。

 

2 イスラム世界の発展小史―共存する多民族多宗教多言語社会

2−1 マホメットの覚醒と伝道(610632

 日本では、聖徳太子574622に匹敵。

 西欧では、395教会は東西に分裂、教権は教義の整備、政権はまだ不安定。法王グレゴリウス1590604、ペルシャのエジプト遠征616、フランク王国の宮宰ピピン死去639

 

 マホメットはメッカに生まれ、40歳の610年頃アラーの啓示を受け、自らを「神の使徒」=預言者と自覚した。宣教するが迫害され622年共鳴者のいるメディナに移住し(イスラム暦元年)、支持者を結集(イスラム共同体=ウンマ)しメッカの敵対勢力との聖戦=ジハードに勝利した。カーバ神殿に祭られていた各部族の偶像をも破壊した。大勝したマホメットにアラブ各地の有力者は信服するようになった。マホメットはその後もメディナにとどまり、信徒を引き連れてメッカへの「別離の巡礼」後にメッカで632年死去した。

マホメットは後継者を指名しなかったので、話し合いでカリフが選ばれ4代続いた。正統カリフ時代という。

 

2−2 正統カリフ時代(610661

 日本では、飛鳥時代、610=推古天皇18年、645=大化の改新、661=斉明天皇7年、翌年天智即位。

 西欧では、西ゴート・トレドの公会議633、ローマ・ラテラノ公会議649

 

 マホメットは神と交信できる預言者で、同時に政治指導者であったが、預言者でない後継者に残された教権はコーランの解釈権で、これはやがて学者=ウラマーの手に委ねられることになった。支配領域=ウンマが急拡大したので、政治的軍事的指導の重要性が急増した。

 初代、クライシュ族タイム家のアブー・バクル632634 

マホメットの妻アーイシャの父親、マホメットより3歳若く、家族近親以外の最初の入信者であった。半島各地の反対派を制圧し、アラビア全域で覇を唱えたが、隣接しローマが支配するシリアの征服を準備中に病死した。

2代、クライシュ族アディー家のウマル1634644

マホメットの妻ハフサの父親、当初は迫害者だったこの人の改宗が、イスラム布教の転機となった。アブー・バクルの就任を助けた長老の一人で10年在位、ビザンツ帝国軍を打ち破りシリア、イラク、エジプトを征服し、軍営都市制度のを基礎を築き、カリフ位の権威を確立、国庫の創設、戦士の俸給制度など行政制度を整備し、暦法をさだめ、家族法刑法など法制度を整備した。シーア派からはアブー・バクルとともに簒奪者として忌避されるが、スンニ派での評価は高い。

シリアやエジプトには、ユダヤ教徒や単性論派キリスト教徒(キリストに神と人とを認める教義に対し、人は神に吸集されていると主張)がいたが、彼らの信仰の保持は容認され、生命財産の安全を保障し、異教徒の排除迫害はしなかった。それ以前の支配者と違うこの点が住民に評価され、イスラム受け入れにつながった。税金は従前どおり徴収した。

ペルシャ帝国軍も、イスラムの侵攻に敗れ、砂漠から発したアラブ・イスラムは、肥沃な三日月地帯=メソポタミア、ペルシャとエジプトという世界の文明発祥地であり現に高度文明を享受している地域を支配することになった。アラビア人が教えるものは殆どなく、ギリシャ、ビザンチン、ペルシャ、エジプト、アッシリア、バビロニアなどの文化が学び継承すべきものとしてあった。彼らはこの知的美術的遺産をよく吸収し同化し再生した。それがローマ以外受け継ぐべき文化遺産を持たない西欧に対するアラブ・イスラムの優位となった。

ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、ネストリウス派や単性論派キリスト教徒が住民となり、民族も言語も多岐にわたった。アラブ・イスラムは、アラビア語が必ずしも通じない多民族多宗教多言語世界を支配することになった。

これらの豊かで広大な先進地域を、アラビアの南端に起こったイスラム軍が、わずか20年で征服できた理由はなぜか。ヒッティは、貧しく沙漠生活で耐久力のあるアラビア兵士がイスラム信仰に鼓舞され、略奪の富に誘引されたこと、らくだや馬による敏速な行動力などを原因に挙げている。

ウマルは644年ペルシャ人キリスト教徒の奴隷に斬られて死去し、6人の長老がウスマーンを3代カリフに選出した。

3代、ウマイヤ家のウスマーン644656

マホメットの教友で娘ルカイヤの婿、その時70歳、マホメットと同世代の老人であったが13年間在位、それまで聖典として口承で伝えられていたコーランを集成し、正典として配布した。豊かな富を伴う役職はカリフの一族に配分され、配分をめぐる不満が反乱を呼び起こし、初代カリフの子によってメディナで殺害された。

4代、ハシム家のアリー656661

マホメットのいとこで娘ファーティマの婿、従ってマホメットの血縁。しかしその選出にマホメットの未亡人アーイシャが異議を唱え、ウマイヤ家も反対だった。シリア駐屯軍のムアーウィアとの内戦を回避しようとして、マホメットの血を継ぐ息子ハサンが継ぐべきカリフ位を、ウマイヤ家のムアーウィアに譲ったが、それを不正として反対する身内=ハワーリジュ派に暗殺された。

これが、イスラム政権の内戦による権力争奪の始まりで、長老の話し合いによるカリフ選出=正統カリフ時代は終わった。4人のカリフのうち天寿を全うしたのは初代だけだった。テロと陰謀・内乱の頻発する世界が始まった。

ナジャフにあるアリーの墓所は、シーア派の聖地である。このときハワーリジュ派が唱えた「正しい道から外れたリーダーは糾弾さるべきである」「宗教的倫理的に問題がないなら、出自に拘わらずリーダー足りうる」とのメッセージは、テロをジハードとして認める教義として現代にまで影響を残している。

 

2−2 ウマイヤ朝=スンニ派661750

 日本では、645大化の改新、663白村江で新羅唐の水軍に大敗、749東大寺大仏完成。飛鳥から奈良時代中ごろまで。

 西欧では、イスラムのイベリア進出。680コンスタンチノープル公会議、711イスラム・西ゴートを滅ぼす、756ピピン教皇領寄進、コルドバに後ウマイヤ朝興る。

 

こうして、シリアのダマスクスを首都とし、シリア総督だった「ムアーウィア」を初代カリフ661-680とする初めての世襲王朝「ウマイヤ朝」が成立した。

ウマイヤ朝は、アラブの大征服直後の政権だったから、西はイベリア半島、東は西北インドに及ぶ広大な版図を支配した。アラブ・ムスリムの異民族統治は、部族ごとに分散されたアラブ兵が治安維持に当り、被征服民は税の負担によって一定の自治と信教の自由を与えられたが、改宗してもアラブと同じ権利は与えられなかったので、被征服民のイスラム化は殆ど進まなかった。

ムアーウィアは20年後に死ぬとき、その息子ヤズィードを後継者680-3に指名した。ところが暗殺されたアリーの息子フセインとの間で後継争いが起こり、マホメットの血を引くフセイン一族はカルバラーで680年敗戦、一族全員殺された。この「カルバラーの虐殺」は「アシュラーの受難劇」としてシーア派に伝承されている。

王朝は、シーア派やハワーリジュ派の反乱、部族・地域間の抗争などの不安定要因を抱え、やがてホラサーンで決起しシーア派に支援されたアッバース家によって滅ぼされ、殆どの支配階層は根絶やしにされた。カルバラーの虐殺のお返しであるが、一部はイベリア半島に逃れ、コルドバを首都とする後ウマイヤ朝7561031となった。イスラム分裂の始まりである。                        

このウマイヤ朝を政権の簒奪者とし、アリーとその子孫を「イマーム」として信仰する政治勢力が「シーア派」で、ウマイヤ朝は「スンニ派」が多数派だが、両派の争いは現在に至るまで絶えない。

2代ヤズィード680683は反対派打倒のためメッカに軍を進め、敵が逃げ込んだカーバ神殿を破壊したが、本人は途中で病死した。後継をめぐる戦いは、結局ヤズィードの病弱な息子が3代カリフ、ムアーウィア2683-4を継承することで決着し、その後のカリフもウマイヤ家のマルワーン684-5が引き継いだ。こうしてカリフは、マホメットの血筋と無縁のウマイヤ家の世襲=ウマイヤ王朝が定着した。

武力で相手を倒して就任したカリフは、もはや宗教指導者でない単なる権力者となり、聖典の解釈や宗教生活指導は学者=「ウラマー」の手に委ねられた。

カリフの支配は、内部に対しても武力行使を辞さない体制であった。宮廷にはアラブ人と限らず、現地旧支配体制の知識人も登用されたから、アラブ・ムスリムだけが支配者集団ではなくなった。アラブ的な族長支配下の民主制は、世襲カリフによる君主専制に後退し、その專制的支配が近代まで継続した。

ウマイヤ朝14代の60年間に、イスラム世界は中央アジアからイベリア半島まで広がり、東西交通通商の中心として首都ダマスクスは繁栄した。

マホメット死後わずか30余年で広大な旧世界に版図を広げたイスラム世界は、アラーの前に万民平等という、多民族多宗教多言語の社会集団を平和的に統御する独特のシステムを提示した。それが単純な暴力的支配や宗教的迫害圧制に苦しむ人々をひきつける原動力となった。

 ウマイヤ朝の60年間は、イスラム法に基づく統治制度が整備される期間でもあった。預言者は、この世の終わりが来る、その時最後の審判があることを告げていたが、最後の時はこなかった。そこで、この世で神の意思に従って正しく生きる道が求められた。マホメットが伝えた神の啓示は、ウスマーン時代にまとめられて「コーラン」が完成し、それを解釈するための断片的情報が「ハディース」として整理され、こうして伝えられたマホメットの言行を「スンナ」といった。ハディースが集められ、スンナが増え、イスラムの守るべき規範が確定していった。スンニ派、シーア派などのイスラム法学の主流思想は、ウマイヤ朝におけるカリフ継承の争いの間に形成された。

豊かな文明都市の支配は、宮廷が旧文明の奢侈悪徳に染まる期間でもあった。マホメットの系譜を重んじるシーア派からは、簒奪者ウマイヤ朝の支配体制は打倒すべき悪と見えた。アリーの子孫を立てての反ウマイヤの武装蜂起が頻発した。

 

2−3 アッバース朝=シーア派―スンニ派750945

日本では、奈良時代から平安時代へ。756聖武天皇没、788最澄比叡山を草創、794平安京移転、816空海高野山を開く、894遣唐使廃止、905古今和歌集、935940平将門の乱

西欧では、75888チャールス大帝、8001000ノルマン・コンケスト、84379コンスタンチノープル公会議、926イスラム・コルドバ最盛期、962オットー神聖ローマ帝国

 

アッバース家は、マホメットの叔父アッバースの系譜で、シーア派の初代イマーム=アリーの子孫ではなかったが、マホメットの血筋という流れを利用してシーア派の支援を受け、750年ウマイヤ朝を打倒し、初代カリフにアブー・アッバース749754が就任した。

アブーはアラブ女性の子で、兄にベルベル女奴隷の子マンスールがいて、マンスールはアブーを殺し、2代カリフ754775となった。

マンスールは、ササン朝から栄え、東西交易でも軍事面でも要衝に当るバグダッドに「平安の都」を建設し、政権発足時に支援を仰いだ血縁重視のシーア派を弾圧してスンニ派に転向した。地方政治の中央集権化を進め、情報収集のため駅逓網を強化、支配階級を身内で固め、官僚にはウマイヤ朝で排斥されていた非アラブ系のイスラム教徒を登用した。

アッバース朝を支えたのは、アラブ・イスラムではなく、イランや中央アジアの非アラブ勢力であった。政権争奪時の主力軍は地方に入植したアラブ軍だったが、アラブの支配階級化によって「マムルーク」=イラン系トルコ系の奴隷軍人が常備軍として活躍するようになった。この常備軍は西欧には近代までなく、イスラムの軍事的優位の一因となったが、アラブ・イスラム集団の優越は、多民族・多文化の融和と、地方権力拡大=中央権力拡散の中に消失した。やがて地方に割拠した軍団が勢力を蓄え、後年、政権弱体化―崩壊の原因となった。

アッバース朝のカリフは、マホメットの血を引く「神の代理人」を称し、武力によって政権を維持したが、カリフの承継をめぐる内戦は避けられなかった。ウマイヤ朝もアッバース朝も地方から出た政権だった。

アッバース朝の最盛期は、5代ハールーン786809の辺りにあるらしい。千夜一夜物語で全盛期のカリフといわれるハールーン時代は、実は衰退の兆しが出ており、3回のビザンツ遠征は成果を挙げカリフの威信を高めたが、国内は各地に反乱が起き、地方分権化が始まっていたという。

世界帝国としてのイスラムはここで分裂し、イスラムは残るが権力は各地に分散し、小国乱立時代となる。カリフのかつての権威は失われたが、それはイスラム文化の衰退ではなかった。

例えば7代カリフ=マームーン813833は、新しい都バクダッドに「知恵の館」という学問所を作り、ギリシャ語の書物の組織的翻訳を行った。ムスリムの間でもイスラム法の整備が進み、統治は法や法学者を無視してはできなくなった。

しかしそのマームーンも、ハールーンの息子6代アミーン809813から武力によってカリフ位を奪った。しかもこの内乱で敗れたアミーンの政府軍は壊滅し、マールーン率いるイラン系トルコ系の奴隷軍が政府軍の主力となった。この先例で中央の統制が緩み、各地の有力者が勝手に独立して王朝を唱えるようになった。先にマームーンが「意思の自由」を認めるハワーリジュ派を支援して審問までしたが保守派に敗れたことを記したが、マームーン自身がカリフ権を尊重しなかった報いかもしれない。

10世紀には内政混乱でカリフ権力も衰え、地方軍人がカリフの実権を掌握(=アミーン)するようになった。傀儡となったカリフは945年、カスピ海南西シーア派のブワイフ朝にバグダッドの支配を奪われ、アッバース朝は実質的に滅亡した。

歴史年表を見ると、756年ウマイヤ朝設立以後、広大な支配を誇った各地に、続々と地方政権が独立していることがわかる。宗派はスンニ派ありシーア派あり一定しない。

形骸化したカリフの系譜は、1258年、バグダッドに侵攻したモンゴル軍によって37代カリフが殺害され、王朝はバグダッドを追われ、その後は、エジプトのマムルーク朝によってカイロに細々と住居を与えられた。イスラムは小国乱立時代となった。

イスラムは、小国乱立時代でも西欧に優位を保っていた。しかしイベリア半島における西欧の反撃=レコンキスタの成功、続く十字軍は不成功に終わったが、この二つの事件によって西欧に、イスラムが護ってきたギリシャなどの古典が伝えられ、やがてルネッサンスの花を咲かせることとなった。

                   (上)おわり     

 

 

表紙に戻る