イスラムと近代社会―多民族・多宗教は共存しうるか

                      2007.1.7―18  木下秀人

目次

1 オスマン帝国の解体―多民族・多宗教社会は共存できるか

    オスマン帝国  英国の3枚舌外交  ホワイトアフリカの分割・植民地化

2 欧州大戦後の分割

    バルカン諸国  トルコ  イラン  エジプト  サウジアラビア  イラク

    シリア  レバノン  ヨルダン

3 イスラム社会と欧米社会

    イスラエル  イスラムとの和解 

 

1 オスマン帝国の解体―多民族社会にナショナリズム適用

1−1 オスマン帝国はイスラムの伝統に則り、多民族・多宗教共存の社会システムを維持したが、1683年のウィーン包囲の失敗以来、ナショナリズムで武装した西欧諸国の攻勢に押されっぱなしであった。大航海時代を経てオスマンから東西貿易の利権を奪い、宗教戦争を終結させ国民国家を形成した西欧諸国は、近代科学技術で軍備を充実させ、オスマンに対する反転攻勢を始めた。米国独立革命・フランス革命など啓蒙思想が巻き起こした新思想=ナショナリズムが、民族独立を鼓舞し、オスマン領内の西欧寄りに位置するセルビア、ギリシャで独立を目指す反乱が起き、ロシアの南下政策によるクリミア戦争の負担もあって、オスマン帝国は財政破綻に追い込まれた。さらにオスマン帝国領であったバルカンのナショナリズムが発火点となって欧州大戦が、近代科学が生み出した武器によって多数国民を殺傷して戦われた。ドイツと共に敗戦国となったオスマン帝国は滅亡し、帝国の版図は戦勝国によって住民の意思と無関係に多数の小国に分割され、オスマンを継ぐものとしては辛うじてトルコ民族を主とするトルコ共和国が残るだけとなった。

1−2 この時、英国が悪名高き3枚舌外交で、

@     1915、フセイン・マクマホン書簡で、オスマンからのアラブ独立を企図するメッカの太守のハシム家にシリア・パレスチナを含むアラブ王国を約束したのに、

A     1916、フランスとサイクス・ピコ協定でこれを反故にし、フランスはシリアとレバノン、英国はパレスチナ南部とヨルダンを支配、ロシアを含む3国がエルサレムを含むパレスチナ中部を共同管理することを約束し、

B     1917、バルフォア宣言でユダヤ人の資金拠出目当てでパレスチナにユダヤ人国家を作ることを、パレスチナ人を無視して承認した。

 戦後1920、連合国はサン・レモで、英国はイラク、パレスチナ、フランスはシリア、レバノンの委任統治を決定した。(山東半島のドイツ領に出撃した日本は、南洋群島の委任統治権を得た。)イスラム諸国の民意は無視され、植民地的分割が強行された。

英国は、@で約束したハシム家がサウド家に敗れサウジアラビアとなったので、ハシム家の処遇に困り、3男をシリア国王としたがフランスに追放され結局イラク国王とし、次男はヨルダン国王とした。シリアは1946フランスから独立した。レバノンは1920シリアから分離されてフランスの支配下に入り、194344キリスト教もイスラムも入り混じった複雑な人口構成を諸職に割り振る制度を発足させた。パレスチナは後述。

1−3 ホワイト―アフリカと称される北アフリカの諸国は、南欧に近く、イスラムの中心から遠くイスラムの伝統が弱いなどから、オスマン帝国が最初に失った地域だった。

@       アルジェリア 1830フランス軍が海賊行為への報復として上陸し、1847反抗者を制圧し領土とした。第2次戦後も独立を目指す民族主義者との闘争が続いたが、1962アルジェリア民主人民共和国として独立した。住民はアラブ系8割、ベルベル系2割。最近まで軍事政権とイスラム勢力が弾圧とテロで、混乱が続いた。

A チュニジア 1881フランス軍が占領、保護国とした。1955自治を認められ、1956イスラム共和国として独立した。

B リビヤ エジプトに隣接しイタリアの対岸であるリビヤは、トルコの最後の前哨地点で、19112土伊戦争によりイタリア植民地とされ、第2次大戦中にイタリア軍は英仏と原住民軍に放逐され1951サヌースィーという神秘主義教団の長を王として独立した。1969カダフィー大佐のクーデターで国王が追放され共和国となった。

C モロッコ ベルベル人が45割のイスラム王国でアラビア語。オスマン帝国に対し独立していたモロッコは、1901フランスの征服が始まり、1912に保護領となった。対岸のスペインも領土獲得に意欲的だった。1956両国はスルタンに対する保護権を放棄した。

 

2 欧州大戦後のバルカン諸国と中東イスラム諸国の問題と推移

2−1 バルカン諸国 1920世紀にオスマンから独立したが、民族や宗教が複雑に混在しているのに強行された小国への分割に、あらゆる住民を納得させる大義があるわけがない。例えばギリシャ。ウッドハウスの「近代ギリシャ史」は冒頭で、人種・国土・言語・宗教・文化のいずれでもギリシャを明確に定義できないことを記している。分割は摩擦を生み、混住地域の「民族浄化」で戦争が巻き起こった。

1次バルカン戦争1912.1013.5=ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ対オスマン帝国の戦い、オスマン帝国は敗北し独立を認め、多数のムスリム難民を受け入れた。

2次バルカン戦争13.613.8=マケドニアの領有をめぐってブルガリア対セルビア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、オスマン帝国が戦い、ブルガリアが敗北しマケドニアが分割されアルバニア独立が承認された。

バルカンを「火薬庫」にしたのは「国民国家」「民族独立」という非現実な概念による分割だった。第2次世界大戦後も、共産主義の重石が除かれた途端、ユーゴで紛争が発生、未だに「民族浄化」が叫ばれ問題は解決していない。近代西欧の主導する世界システムの失敗といわざるを得ない。

2−2 トルコ オスマン帝国の中核だったがアラブではない。1923トルコ共和国=世俗国家となってイスラム主義を捨てたから、中東になお残るイスラム国家の支持を得られない。皮肉なことにオスマンは、多民族多宗教社会で各宗教社会に自治を保持させたことが分裂を容易にした。さらに中央権力=スルタン・カリフの相続制が不明確だったこと、西欧列強が後押しする民族独立の内乱やクリミア戦争による財政破綻が加わり、「分解がもっと早く始まらなかったのが不思議なくらい=ヒッティ」だった。

近代化を当初フランスに頼ったが革命後北アフリカ諸国を奪われ、次いで英国に治外法権と自由貿易を押し付けられた結果は国内産業全滅と財政破綻、自力改革は保守勢力の反対で成功せず、ドイツと組んだ欧州大戦で敗戦国となった。領土の大幅削減と主権制限に加え、ギリシャの侵攻で存亡の危機に立ったが、ケマル・アタチュルクの軍事的政治的働きによって祖国解放戦争で連合軍を駆逐し、1922スルタン制を廃止し、1923共和・世俗主義による国民国家を樹立し、同年主権を回復した。

新生トルコは、イスラム主義を排し世俗主義による西欧化=近代化を選択した。アラビア文字をローマ字に変え近代化に励んだが順調には行かなかった。当初ソビエトロシアから資金援助を仰ぎ、第2次世界大戦は中立を守ったが最終段階で連合国側に立った。1949イスラエルをイスラム国で最初に承認し、1952NATOに加盟するなど米国寄りの姿勢を続けた。しかるにかつてオスマン時代に支配下にあったギリシャやブルガリアがECに加入を認められたのに、トルコの加盟はまだ見通しが立たない。別項「トルコと日本の近代化」参照。

2−3 イラン シーア派支配のイスラム国家=イラン・イスラム共和国。古代帝国を受け継ぐこの国の文化は、ペルシャ知識人・ペルシャ語とともに、素朴なアラブ・イスラムを世界システムへ発展させる中核となった。王朝は変遷したがペルシャ文化の伝統は維持され、オスマンのスンニ派に対し、1501サファヴィー朝がシーア派を国教と定めて以来のシーア派支配も変わらなかった。

カージャール朝17961925で近代に入ったが、ロシアや周辺国との戦争で財政破綻、多民族多言語社会で近代化への改革は実らず、石油利権がからみ、政治的安定には遠かった。1905立憲革命で憲法と議会を持つ立憲君主国となったが、欧州大戦では英露の侵攻に苦しみ、石油を睨んだ英国の支持で1925イラン・コサック出身の軍司令官がパフラヴィー朝を創設した。この王朝は第2次世界大戦後、英国に代って石油を支配する米国の支援を受け、上からの近代化を推進したが、1979ホメイニのイラン革命で断絶し、シーア派支配のイスラム主義国に戻った。

2−4 エジプト スンニ派主流のイスラム世俗国家=エジプト・アラブ共和国。コプトというキリスト教徒が10%いて融合している。古代エジプトの文化はペルシャのようにはイスラムに受け継がれなかった。しかしアフリカ大陸へのイスラム進出基地であり、ムハンマドの娘ファーティマに由来するシーア派のファーティマ朝9091171が、アッバース朝に対抗してカリフを名乗って以来、十字軍を撃退したアイユーブ朝11691250、奴隷軍人支配のマムルーク朝12501517でオスマンの支配下に入ったが、オスマン派遣の総督と現地のマムルークとの争いが絶えなかった。きっかけはナポレオンの侵攻で、混乱収拾に派遣されたアルバニア人の部隊長ムハンマド・アリーが1805総督となり、オスマンの弱体に乗じてスルタンを称し、反対するマムルーク層を虐殺して財産を没収、政権を安定させ、富国強兵教育振興の近代化に邁進し、スエズ運河を掘削した。しかし永年のウラマーによる知識独占で一般国民の水準が産業開発についていけなかった。

多額の投資で財政破綻し、スエズ運河を英国に売り渡し、英国の保護下で欧州大戦もオスマン朝崩壊も、第2次世界大戦も乗り切ったが、イスラエルとの中東戦争に敗北し、ナセルの民族主義革命1953で断絶した。1956大統領となったナセルは、スエズ運河国有化を果たし、中立外交で第三世界での地位確立を狙ったが、シリアとのアラブ連合は成就せず、イエメン内戦介入に失敗、1967第三次中東戦争で惨敗後死去。続くサダトは対米協調へ路線転換しイスラエルと平和条約を締結したが、イスラム急進派に暗殺された。1973エジプトとシリアがソ連の武器援助を得て始まった第4次中東戦争は、米国の武器援助がイスラエルを救い、アラブ側は「石油生産縮小」で対抗した(2004「中東問題の歴史的起源について」参照)。

1928バンナーという教師が「ムスリム同胞団」という福祉社会運動を創始した。今やエジプト最大の政治組織となりナセルに弾圧され、過激派を生み出して、イスラム諸国にも広がっている。

2−5 サウジアラビア サウド家とワッハーブ派のスンニ派イスラムが支配する王国=サウジアラビア王国。国民は石油収入の分配で生活している。

アラビア半島は、イスラム発祥の地でありメッカ、メディナの聖地を含む。しかしメディナで第4代正統カリフとなったアリーがウマイヤ朝に敗れて以来、イスラム世界の中心はアラビア半島を離れた。取り残された半島では、定住者と遊牧民の対立と協調、部族社会の旧習が現代まで維持された。聖地の管理は巡礼収入という利権を伴ったから、支配拡大をめぐって部族間で政治的軍事的対立が繰り返された。

覇権を狙った有力部族にメッカ、メディナを押さえムハンマドの血を引くシーア派のハシム家と、中部高原のリヤドを主とするスンニ派でベドゥインのサウド家と、同じくベドゥインのラシード家があった。部族の糾合には武力と利益と宗教と婚姻があった。サウド家は1744「ワッハーブ派」というコーランに書いてあることしか認めない原理主義教団と盟約を結び、ワッハーブ主義を保護する代わりに支配の宗教的正統性を認めさせ、「ジハード」という大義で他部族と戦い領域を広げた。

1915リヤドを訪れた旅行者は「多くの者が15回礼拝する。欠席者は20回の鞭打ちを受ける。数年前は数日間の欠席者は処刑された。人が現世よりも来世に生きている都市」と原理主義の厳しさを描いている。    

両家の抗争にはオスマントルコがからみ、17441818=第1次サウド朝はオスマン軍に敗れて聖地を失い、内紛もありラシード家にリヤドも奪われた。1902中興の英雄アブドゥルアジズが武略でリヤドを奪回した。

欧州大戦で英国はハシム家に勝利の暁にはシリア、パレスチナを含むアラブ王国を約束してオスマン帝国に反逆させた。アブドゥルアジズは英国に加担しオスマンの聖戦に応じたラシード家と戦った。イスラムは分裂させられた。

戦後英国は破れた約束の代わりに、ハシム家の三男をイラク国王に、次男をヨルダンの首長に推した。アブドゥルアジズはハシム家の軍を破り、ラシード家も降伏させて英国とイラン、その他との国境を画定し、ハシム家のフセインが、カリフ就任を宣言して非難されているのに乗じ、ターイフ、メッカ、ジェッダとハシム家を追い詰め、1926ハシム家の長男アリー(イラク亡命後死去)に代わって王位に就いた。ラシード家は支配下に入り、婚姻で絆を強めつつ1932現王国を建国した。世界恐慌時は巡礼収入が激減して苦境に立ったが、1938商業ベースでの石油生産が始まり、オイルマネーの国民への分配による政治システムがもたらされた。

なおワッハーブ派は、遊牧民の定着過程で「イフワーン」というジハード部隊を作った。初期には領土拡大に貢献したが、建国の戦いでの残虐行為が目にあまり、やがて中央権力に反乱するに及んで鎮圧粛清された。                

多額の石油収入は王室の浪費を招き、1953アブドゥルアジズの後を継いだサウドは冷戦・イラン石油国有化・エジプト革命・アラムコ労働者のストライキなどの荒波に対応できなかった。特に1955バグダッド条約機構に対抗してナセルと締結した相互防衛条約でエジプトから来た将兵が、革命思想を吹き込んで王族・ウラマーを心配させ、サウドがナセルの運河国有化を支持するに及んで、1964サウドは弟のファイサルに王位を譲らされた。ファイサルは10項目の改革プログラムを実施、電話やテレビがイスラムの伝統に反すると反対するイスラム原理主義がいたことに注意。1975ファイサルは暗殺され、ハーリド皇太子が王位に就いたが、病身だったのでファハド皇太子が実務を取り仕切った。1982即位したファハドは、ワッハーブ派に偏らない普遍的な立場を打ち出した。領土拡大が非ワッハーブ派のスンニ派住民を増加させたからである。現アブドゥッラー国王は2005就任。サウド家は有力部族との姻戚関係で王族は2万人を超え、後継者選びに波乱なしとしない。湾岸戦争で米国に基地を提供し、ビン・ラーディンなどイスラム過激派の怒りを招いた。ビン・ラーディンがアラビア出身で、豊富な資金が一族のアラビアの土地バブルでもたらされ、テロリストにアラビア出身者が多い。米国のイラク「民主化」政策が、宗派間の対立、テロ頻発で一向に実現しない背景に、民主化されては困る王制のイスラム国の存在を指摘する声がある。いつか来る石油の枯渇に備えて、石油に依存しない経済の実現が試みられてはいるが。

メッカ、メディナを擁するサウジアラビアはイスラム諸国の中で重要な地位を占める。オイルショックの時、米国にイスラエルとの関係改善を提示して無視されたまま今日に至り、ブッシュ政権はアフガンからイラクに手を広げ窮地に陥っている。サウジアラビアは中東・イスラム問題解決の鍵を握っている国の一つであることは間違いない。

2−6 イラク 古代メソポタミア文明の栄えたところ、シュメール、アッカド、アッシリア、バビロニアが支配。634ペルシャがアラブ・イスラムに敗れアラブ化した。アッバース朝ではバグダッドが首都でイスラム世界の中心だった。1258モンゴルに敗れて以後、バグダッドをめぐりオスマン朝とイランを支配するサファヴィー朝の争いが続いたが、1638オスマン朝の統治下に入った。                                

欧州大戦後1921オスマン帝国のバスラ、バグダッド、モースルを英国が委任統治、1922オスマン朝は滅亡した。英国は、欧州大戦中ハシム家と交わした不渡り手形の一部履行として、フセインの3男を王としてイラク王国が成立。1932独立、1956カセムの自由将校団クーデターで共和国、それも1963バース党のクーデターで倒れ、1979サダム・フセイン大統領の独裁政権。1984米国と国交回復、イランとの戦争に武器297億ドルを供与、1990クウェート侵攻で1991湾岸戦争となった。クウェートは1899英国の保護国だったのでイラクから切り離され1961独立させられた。         

2003.3米国主導のイラク戦争でイラク共和国は滅亡、年末サダム・フセインも拿捕された。米人ブレマーの暫定当局=CPAによる1年間の統治下で、200億ドルのイラク政府資産が米企業に浪費され消えたという英国のルポルタージュが06.11.19NHKで放映されている。2004.6暫定政権に主権移譲、イラク共和国が成立したが、多数派のシーア派に対するスンニ派のテロ、それに対する報復テロで治安は悪化するばかり、米国の超党派委員会が昨年末、米軍の早期撤退勧告を出したが、ブッシュは逆に2万人増派とイラク部隊との連携による治安平定後の撤退を選択した。他方ライス国務長官は中東各国歴訪で、パレスチナ・イスラエル和平に取り組む姿勢を示した。勧告はイラン、シリアとの接触を要請し、イラクのタリキ首相は不法テロリストの越境取締りを要請したという。どうなるか。

2−7 シリア シリア・アラブ共和国。人口1836万人面積18万平方キロ=日本の半分、アラブ人85%。イスラム教スンニ派70%、アラウィー派12%、キリスト教13%。

3大陸を結ぶ交通の要所で、636イスラム軍がビザンツ軍を破って支配者となり、661シリア総督ムアウィーアがウマイヤ朝を建て、ダマスカスは首都として繁栄した。749アッバース朝で都はバグダッドに移り、11世紀には十字軍の舞台、12世紀アイユーブ朝で繁栄、13世紀モンゴル、15世紀ティムール侵入、1516オスマン朝支配が二十世紀まで続いた。

 19世紀西欧のキリスト教の進出に伴い、列強の政策が宗派間の対立を招き、抗争が激化した。欧州大戦後、サイクス・ピコ協定によりマクマホン書簡は無視され、部分履行として1918ハシム家フセインの息子ファイサルを首班とするアラブ政府が樹立された。フランスの介入で戦うが敗れ、1920サンレモ会議でフランス委任統治のシリア国、レバノン国、英国委任統治のパレスチナ、ハシム家のトランス・ヨルダン王国に分割され、ファイサルは1921イラク国王にまわった。フランスの統治は反乱を抑えられず1946フランスから独立した。その後も歴史的シリアを目指す対立や、中東戦争敗北を期に政情不安が続き、1958エジプトとアラブ連合共和国を樹立するが、1961クーデターで離脱、1963バース党が政権掌握、1970クーデターでイスラエルとの闘争とアラブ諸国との連帯を説くアサド国防相が政権掌握、1971大統領、1974ゴラン高原一部奪還、1976レバノン内戦に介入、ムスリム同胞団武力鎮圧、2000アサド死去、次男に政権移譲、バース党支配が続く。パレスチナ過激派支援=テロ支援国家と名指され、イランとともに米国と外交関係がないが、は中東和平の鍵を握る国の一つである。

2−8 レバノン レバノン共和国、人口377万人、面積1万平方キロの小国。地中海に面し、古代フェニキア人はここからカルタゴなど植民地形成に成功した。アッシリアに飲み込まれローマに征服され、7世紀マロン派キリスト教徒、11世紀ドゥルーズ派イスラム教徒が住み着いた。

オスマン朝アラブ地域で最もキリスト教徒の比率が高く、19世紀植民地化でまとまりを持ったので、1920オスマン解体でシリアから分離され、レバノン山地とその周辺を併合しフランスの委任統治となった。上記2派の他、ギリシャ正教会、カトリック、プロテスタント、イスラムのスンニ派、シーア派などの宗教が固まって混在するので、1944-3独立時にマロン派=大統領、スンニ派=首相、シーア派国会議長という「国民協約」による宗派制度を作り、現在キリスト教徒優位だった議席をイスラムと同率に改めて維持されている。             

金融・観光で成長したが、パレスチナ紛争のあおりでPLOが流入して宗派バランスが崩れ1975-6内戦となり、隣国シリアが平和維持軍として進駐、1978イスラエル軍の侵攻で群雄割拠の乱世となった。1982イスラエル軍再び侵攻して多国籍軍が介入してPLO追放後に撤収、1990シリア軍が再侵入して駐留、一応安定したが「ヒズボラ」援助や爆弾テロ容認で批判絶えず、1996テロ報復でイスラエル軍の空襲・砲撃は国連部隊を襲った。2000イスラエル軍が南部から撤収すると後をヒズボラが占拠し攻撃基地とする。2005レバノン前首相暗殺、駐留シリア軍撤退、2006ヒズボラがイスラエル兵2名拉致、イスラエルの報復爆撃にヒズボラ応戦、イスラエルは攻撃を拡大侵攻、軍事力に勝るイスラエルだが、ヒズボラの市民社会に潜んでの手製ミサイル攻撃を止められず、8月停戦撤退した。

オスマン時代も宗派は多数あり平和共存してきたのに、国家独立・各宗派に票数分散=民主主義という西欧システムの導入で混乱がおき、特にイスラエルが隣国という不幸がこの国を騒乱・流血の巷とした。

2−9 ヨルダン ヨルダン・ハシミテ王国。住民は殆どアラブ人、スンニ派。人口561万人面積92千平方キロ=日本の4分の1の小国で80%は沙漠。旧石器時代から人類が住み着いてやがて農業を営み、西アジアに文明の交易の中心地として栄えた。旧約聖書に登場するし、ぺトラ遺跡のナバテア王国もあったがローマに併合され、やがてイスラムの支配下でイスラム化が進んだ。イスラムの首都がダマスカスからバグダッドに移り、イスラム世界の中心がシリア地方から離れると次第に衰えた。19世紀オスマン帝国は、ロシアから逃亡してきたチェルケス人をこの人口希薄地帯に住まわせ、活気付き始めた。

1919オスマン分割で英国の委任統治となり、1923ハシム家が迎えられトランス・ヨルダン王国が成立した。1946英国から独立した立憲君主制。1949国名を現在のものに改めた。国王は砂漠の反乱に加担したハシム家の次男から世襲が続く。英国がイラクとともにハシム家に落とした手形の一つ。長男は割り当てられたアラビアをサウド家の攻撃から守りきれず、イラクに亡命しそこで死んだ。イラクは1958クーデターで倒れたから、ムハンマドにつながる名門ハシム家に残った唯一の王国である。1950エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を加えたが、1967第三次中東戦争でイスラエルに奪われた。中東戦争によるイスラエルの占領で大量のパレスチナ人が流入し、国民の半数はパレスチナ難民とその子孫。

1990年代以降、王室の進める近代化への保守派の反対やイスラム主義の台頭が不安定要因となっている。イスラエルと隣接するので、イスラエル・パレスチナ問題の解決がこの国の安定の必須条件。1994イスラエルと和平条約。

 

3 イスラム世界と欧米社会

3−1 イスラエル 人口702万人、平均年齢26.9歳の若い国。面積2万平方キロ=日本の四国程度、1人当りGDP19700ドルはアラブ・イスラム諸国に比し格段に高い。米国の建国以来1998までの経済援助は800億ドル、1985以降毎年、経済援助12億ドル、軍事援助18億ドル、1999より経済援助は毎年1.2億ドル削減、内半額は軍事援助に増額。中東のシリコンバレーとも言われる先進国。ユダヤ教徒=76.8%、イスラム教徒=15.5%、キリスト教徒=1.7%、ドゥルーズ教徒=1.6%。ユダヤ人もアシュケナージというドイツ、東欧出身のエリート層と、セファルディムというイスラム教圏から建国後移って来た人々、ミズラヒムというモロッコ・山岳系・オリエント系ユダヤ人の区別がある。

この国の建国の経過やその後の周辺との軋轢、発足のきっかけを作った英国、関わった西欧ロシア、その後に武器援助で責任ある米国の関わりの詳細は省略する。05年「中東問題の歴史的起源について」参照。

3−2 イスラムとの和解 イスラエル・パレスチナ問題の解決こそ、昨年末米国のハミルトン・ベーカー委員会がイラク問題解決の前提として答申した。西欧キリスト教国の歴史の汚点=阻害し迫害してきたユダヤ人を、ドイツのホロコーストで同情が集まった戦後処理のどさくさに、平和に共存している先住パレスチナ人の土地に、人口の3分の1に満たないユダヤ人に国土の3分の2を与える「パレスチナ分割決議」を国連が採択した。そこから紛争が発生した。土着のユダヤ人はパレスチナ人やアラブ人と人種=民族は同じという。それをユダヤ教という宗教で区切るから問題が生じた。西欧民族主義の破綻であって、類似の問題がバルカン諸国でも今なお未解決である。

しかし「イスラエル」建国までの経過を見ると、初期には例えば1925ユダヤ・アラブ「平和の契約」が設立され、1931シオニスト会議で、ベングリオンが「二つ以上の民族の共存国家構想」を支持し、1946哲学者のマルチン・ブーバーが、「アラブ・ユダヤ和解強力連盟」を設立、アインシュタインが国連によるパレスチナ統治を提唱するなど、テロや虐殺が横行する中で、和解・共生の試みがあったことがわかる。それを妨げたのは1917英国のバルフォア宣言であり、1920首相チャーチルのユダヤ人国家支持表明だった。英国は対戦中に振り出した矛盾する手形を落とす=ハシム家をなだめるのに懸命だった。1947国連のパレスチナ分割・エルサレムの国際管理決議の翌年、イスラエルは勝手に建国決議。アラブ・イスラム側には反発以外に打つ手はなかった。米国の民主党政権がイスラエル支援に肩入れするのは、ユダヤ人が少数派だった時代に支援して以来、政治資金を国内のユダヤ団体に仰いでいるからである。

 イスラム諸国にも責任ありとすれば、かつて西欧に優越していた時代があり、西欧が忘れていたギリシャ古典を伝えて、それがルネッサンスとなり科学技術の発達につながったのに、その問題点を決定的な差が生ずるまで理解できなかったイスラム知識人の責めに帰すべきであろう。03年国連の委員会は、イスラム諸国の発展のためには識字率の向上が欠かせないと提言している。まず平和、そして次の次代を担う青少年の教育による知識水準の向上、時間はかかるがそれはアジア諸国の発展のパターンでもあった。中東イスラム諸国はどう取り組むだろうか。

 経済のグローバル化が進み、企業活動は国家の枠組みを超えて自由に展開する時代となった。戦後の反省からヨーロッパは国家を超えた共同体形成に進み、憲法は批准されていないが、ユーロという共通通貨の流通に成功、今やドルを上回る信任を得る時代となった。 西欧が作った民族国家は、アジア・アフリカの植民地に独立され、そこからの移民流入で多民族・多宗教体制をいかに運営するか、いかにイスラム移民と共存するかという課題に直面している。かつてその課題に答えていたイスラム諸国は、低開発国として貧困克服の段階にとどまって、知恵を貸す余裕はない。

 イスラムといっても、世俗国家あり、イスラム国家あり、共和国あり、王国あり、石油で潤う国あり。イスラムにも、シーア派、スンニ派あり。イスラエルとの関係を見ても、承認しているトルコ、エジプト、ヨルダンに対し、敵意を表明しているイラン、イラク、シリア、レバノンあり、承認していないが米国の基地を置くサウジアラビアあり、足並みをそろえるのは容易ではない。

戦後、米国の民主党政権はイスラエル支持で問題をこじらせたが、2年後の民主党政権はブッシュ政権というより、近代西欧が解決に失敗し21世紀に積み残した、イスラムとの共存という問題に直面することになる。       おわり