世界史の中のイスラム 

                   2006.4.14―8.11   木下秀人

目次

1 始めに

2 イスラムの歴史

    イスラム誕生  正統カリフの時代  ウマイヤ朝  アッバース朝

    オスマン朝―アラブ人でないイスラム国家  オスマン朝と西欧近代

    欧州大戦敗北でオスマン朝解体  第2次世界大戦とイスラム世界

 

1 始めに

2001年9月、ニューヨークの同時多発テロを契機に、ブッシュ大統領は北朝鮮・イラク・イランを悪の枢軸と非難し、国際テロには先制攻撃も許されると2003年3月イラク戦争を始めた。

学者いわく、米国にはアラビア語を話せる人が少ない、米国はイスラムという異文化を理解していない、とんでもないことになる恐れありと。しかしその声は無視され、異議ある国連を強引に押し切っての侵攻だった。米軍の圧倒的戦力でフセイン政権はたちまち崩壊したが、反米テロ・宗派間のテロは止まず、わが自衛隊には、小泉退陣と時期を合わせて撤退命令が出たが、新政権による治安確保に目途がついたわけではない。

「ムハンマドの信仰は著しく現実的であり、人のなしえない理念を説かず、煩瑣で複雑な神学を含まず、神秘的典礼はなく、僧職制度を持たない」という特徴を持ち、「コーランで一番感銘深いのは終末論の部分で、来世は、肉体的痛苦と物質的快楽を伴っていて、肉体の救済という意味を含んでいる」(アラブの歴史、ヒッティ)という。

この機会に、イスラムについて世界史の流れとの関連を中心に考えてみた。

 

2 イスラムの歴史

570頃 創始者ムハンマド、メッカに誕生、570632

日本では聖徳太子574622の時代。仏教の伝来は、土着の神と一時対立したが、神仏習合という妥協が成立、神道の仏教に対する反撃は、明治の廃仏毀釈まで起きなかった。

ローマ帝国は330コンスタンティノープルに首都を移していたが、395東西に分裂し、西ローマ帝国は476滅亡、東ローマ帝国=ビザンツ帝国が残った。それまでキリスト教会は、幾つかの大主教の教区にわかれ、「キリストは人か神か」「マリアはどうか」などの神学論争は公会議で議論され、幾つかの主張が異端と認定された。政権と教権は協調関係にあったが、ビザンツ帝国の下で圧倒的に優位な東方教会に対し、西ローマ帝国滅亡で孤立したローマ教会が復権を図った。異民族政権の王に対し、教権による「戴冠」という権威付与の儀式を整え、神の代理人として罪に対する「救済」を独占することによって政権に対する「教権」の優位、さらにローマ教会の他教区に対する優位をも主張し始めた。東西教会の分裂が始まった。

当時、アラビア半島西南部は、農村と都市を隊商でつなぐ部族社会で、部族単位の武装集団による襲撃と掠奪は殆ど血を流さず、不当な行為ではなかった。

610頃 ムハンマド神の啓示を受ける

614  公然と布教開始、迫害が始まる

622  ヒジュラ元年、メッカからメディナへ聖遷、ウンマの成立

630  メッカ征服、アラビア半島西南部を勢力下に収める

632  ムハンマド没

イスラム以前のアラビア沙漠の町メッカには、ユダヤ人やネストリウス派のキリスト教徒が住み、クライシュ族はカーバ神殿のアッラーを守護神としていた。遊牧民は部族社会を形成して、部族が砂漠的人間の存在の根源であり原理。一切の生活感情、モラルは部族的血縁関係によって規定される。その血のつながり、血統の優越性をムハンマドは無視し、部族的モラルの無価値を宣言し、代わって万人の平等と同胞性に基づく唯一の神への信仰を訴えた。イスラムがばらばらだった部族を統合する旗印となった。

この宗教改革は、部族中心主義を蹂躙し、アラビアの精華というべき騎士道をも崩壊させるものだった。砂漠的人間の世界観・人生観・倫理観に、無条件で180度の旋回を強要した。現世の無常、存在のはかなさを共通にしつつ、ムハンマドはセム的黙示録に従って「神の審判と悔い改め」を説いた。滅亡を免れるために、全知全能の唯一なる神への絶対的帰依を説いた。メッカでは血のつながりの桎梏を抜け切れなかったが、メディナに移って血でなく共通の信仰によって結ばれる共同体=ウンマ、現世肯定的現世建設的な政教一致の共同体が成立した。政治と宗教が一体となった新しい共同体が、部族に代わって主権を掌握した。法的秩序としてのイスラムに関わる啓示が下され、進路を阻む者は「神の敵」として戦う=「ジハード」も勧められた。遂にメッカ軍を打ち破ってカーバ神殿内外の偶像を破壊し、全アラビアがムハンマドのものになった。(イスラーム生誕、井筒俊彦)

 

632  正統カリフ時代―661まで4代、首都メディナ、話し合いによるカリフ選出、

初代 アブー・バクル573634、ムハンマドの妻アーイシャの父、ムハンマドの側近、助言者だった。半島各地の背教部族を鎮圧、ローマ帝国(ビザンツ)支配のシリアに侵攻。634

634  2代 ウマル・イブン・ハッターブ592644、ムハンマドの教友で側近、長女ハクサはムハンマドの妻。当初迫害者だったが、改宗しイスラムの布教を公然化させた。644

636  アラビア半島全域を支配、ピザンツ軍を破り、シリア支配を確立

637頃 ササン朝ペルシャ軍を破り、イラク征服始まる。

軍営都市ミスル建設=特定部族による地域支配

640  ディーワーン制度=官僚による軍事徴税のペルシャ統治機構受け入れ

644  3代 ウスマーン・イブン・アッファーン?−656、ムハンマドの教友で娘ルカイヤの婿、コーランを編纂。ウマイヤ家出身者を登用し教友に批判され、656年、軍の過激派に殺害され、問題が残った

656  4代 アリー、ムハンマドの従弟で娘ファーティマの婿、スンニ派では4代カリフ、シーア派では初代イマーム、秘教集団でアッラーの具現として崇拝される。早くから後継者と目され、ムハンマドが後事を託した説があるが、なれなかった。ウスマーンの同族重視の改革を求めたクーファの軍人がウスマーンを暗殺し、アリーを4代カリフに推戴したが、ウマイヤ家のムアーウィヤ=シリア軍は認めず自らカリフを称し、ムハンマドの未亡人アーイシャ=バスラ軍もアリーに敵対し、内戦となった。  

661  ハワーリジュ派は、「神がカリフを決定する」とて、両派に暗殺を試み、アリーが暗殺された。カリフが2代続けてテロに倒れた。アリー支持派は息子フセインを擁立して戦い、カルバラーで全滅した。シーア派が始まった。

 この時代にイスラムは支配領域を大拡張した。ムハンマドは部族支配を否定したはずだったが、部族単位の軍団が征服し、部族支配の軍営都市が成立し、アラブは征服地の行政システムを受け入れた。アラブに独自のシステムはなかった。

イスラムはその平等思想から、他宗教・他民族に人頭税は課したが自治を認め、迫害しなかったことが支配領域の急拡大に寄与した。イスラムの国際法が、西欧国際法の祖といわれるグロティウスと比較して無差別殺人や不必要な破壊侵略を禁じるなど人道面から見て大差があったという(真田芳憲、イスラーム法の精神、中央大学出版部2000)。

しかしムハメッドが保持した宗教的=教権、行政的=政権両面の力量は、後のカリフにはなく、権威と権力をめぐるイスラム内部の部族・分派の争いが始まった。カリフ4人のうち、自然死は初代だけだった。

 

661  「アラブ帝国」、ウマイヤ朝―749まで13代、クライシュ族の一派ウマイヤ家の王朝、当初ムハンマドに敵対していたがやがてイスラムに帰依した。シリア総督となったムアウィーアがシリアで勢力を蓄え、ムハンマドの娘婿ハシム家のアリーを倒してカリフ就任、首都をダマスクスとした。カリフたちは宗教に不熱心だったが、新たにイスラム教を受け入れた非アラブ系知識人が、キリスト教神学やギリシャ哲学によって、粗野なイスラムの言説を精緻な首尾一貫した表現に改め、政治的統一に精神面を寄与した。

694  5代アブドル・マリク、メッカの分派を制し、教国統一

711  ムスリム軍、イベリア半島征服開始、このスペイン政権が、後期ウマイヤ朝としてアッバース朝に滅ぼされ逃れたウマイヤ系の受け皿となり、やがて西欧にギリシャ文化を伝える窓となった。      

アラブ支配の多民族帝国という意味で、「アラブ帝国」という。次のアッバース朝になると、アラブ人に代わって被征服民の知識人が行政にかかわるようになり、「イスラム帝国」となる。

イスラム史上最初の地中海艦隊で、キプロス、ロードス島征服、東はパミール高原、西はアフリカ西岸部からイベリア半島に及ぶ大帝国となる。

初めての世襲体制、しかし一族の継承の争は消えず、またムハンマドの血を引くアリー系=シーア派は排除され、現代まで続くスンニ派との対立が始まる。

北方アラブと南方アラブの部族対立もあった。アラブの部族対立はイラク議会政治の混乱要因として今日も続いている。

 

749  「イスラム帝国」、アッバース朝―1258まで37代、ムハンマドの娘ファーティマと結婚しシーア派につながるアリーの父ターリブとは別の叔父アッバースの子孫。

イラン東部ホラサーンで、シーア派が、征服で奴隷とされ解放されたがアラブ族との差別に不満を持つ現地民を支持者として反乱、アブル・アッバースがクーファでカリフに奉戴され、ウマイヤ一族を虐殺し政権奪取、2代マンスールは革命に貢献した叔父など有力者を排除、シーア派をも弾圧した。

首都はクーファでなく交通の要所にバグダッドを建設した。

アラブ人の政権で最も長続きした政権で、当初はウマイヤ朝の世俗主義に対し、神聖国家を樹立したと歓迎され、それにこたえるカリフもあったが、やがてカリフ政権は、ペルシャの専制主義・享楽主義に染まり、「アラブ人が自己特有のものとして保存したのは、イスラムという宗教とアラビア語という言葉だけ」とヒッティは書いた。

中央集権的なカリフ制は、解体されてスルタン制となり、カリフはイスラム世界全部を統括しないものとなり、各地の政権にはスルタンの名が与えられた。

756  ウマイヤ家のアブドゥッラフマーン、イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝−1031を興す。キリスト教会に迫害されたユダヤ人が安住し、西欧12世紀ルネッサンスの元となるイスラム文化の花を咲かせる。

     フランク王国ピピン、初めての教会領を寄進、教会と王国の接近始まる

786  ハールーン・ラシード、5代カリフ就任―809、イスラム文化の最盛期 

800  チャールス大帝ローマ教会で戴冠、教権が王権を承認

827  7代カリフ・マームーン、ムータジラ派を公認

830  バグダッドに「知恵の館」設立、ギリシャ・シリア語文献の翻訳開始

833  異端審問=ミフナ開始、自由意志派による反対派ウラマー弾圧10代ムタワッキ      ルまで16年続く。    

     奴隷軍人の常備軍化進む

946  ブワイフ朝(―1062、カスピ海南西、シーア派の12イマーム派)がバグ

ダッド占領、イラクでイクター制導入

969    ファーティマ朝(―1171、シーア派のイスマーイール派)北アフリカでベルベル人の支持を得て909成立。969エジプトを征服し交易拠点アレクサンドリアに対し政治の中心=カイロ建設。シーア派のカリフ国として君臨

990  キエフ朝ロシア、ウラジミル大公、ギリシャ正教を国教とする

1037 哲学・医学者イブン・スイーナー没、アヴィセンナとして「医学規範」は現代に至るまでアラビアの基本的医学事典

1085 イベリアのトレド、カスティーリアに征服されたが、アルフォンソ6世はキリスト教・イスラム・ユダヤ教徒の共存を許したので、イスラム文化を西欧に伝えアラビア語・ギリシャ語文献のラテン語翻訳の中心地となり、ルネサンスの原動力となった。

1096 第1回十字軍−99、−1291=エルサレム王国滅亡まで7回。東方のアッバース朝・西方のノルマンとの戦いに敗れたビザンツ皇帝がローマ教会に援軍を求め、ローマ教会がエルサレムをムスリムから開放するために「巡礼」を呼びかけたのが発端。エルサレムのキリスト教徒が望んだ証拠はない。

1111 神学者ガザーリー没、イブン・スィーナーの弟子だったが、やがてそれを否定し、神秘思想に沈潜、保守的スンニ派確立に寄与、自由思想が封じられた。

12世紀 初頭、トレドの司教、アラビア語著作のラテン語訳開始=12世紀ルネサンス

1198 哲学者イブン・ルシュッド没、アヴェロエスとして、そのアリストテレス注釈はアルベルトゥス・マグナスに影響を与え、17世紀までパリ大学で常用された。

1250 エジプトでマムルーク朝=奴隷王朝、スンニ派成立(−1517)。アイユーブ朝(11691250、スンニ派、十字軍戦争の英雄サラーフッディーンーが建てたクルド系軍人国家)を倒して成立。アッバース家の血を引く傀儡カリフをカイロに擁し、三大聖地を支配下におき、スンニ派の枢要国。トルコ語を話す軍事集団とアラブ系の学者官僚の協力で成立。

1258 モンゴル軍バグダッド攻略、アッバース朝滅亡

この時代がイスラム文化の最盛期かもしれない。「アラビア語は、中世の数世紀間、文明世界のあらゆるところで、学術語、文化用語、進歩的思想の用語だった。9世紀から12世紀のあいだには哲学、医学、歴史学、宗教、天文学、地理学の書物が、他のどんな言葉よりも多く、アラビア語を使って書かれた」(ヒッティ、アラブの歴史)。

バグダッドの「知恵の館」で、ギリシャ、シリアなどの古典文献がアラビア語に翻訳され、イベリア半島のトレドでは、アラビア語の文献がラテン語に翻訳され、大量に西欧に流出した。コーランの解釈をめぐっても自由意志論争があった。しかし保守派ガザーリーが支配権を掌握し、哲学・医学でイスラム最高の知性といわれるイブン・スィーナー、政治学を除くアリストテレスの全著作の注解をしたイブン・ルシュッドなどの学問思想は西欧に伝えられ、キリスト教の教理と科学との関係に「自由意志論」という新たな問題を提起し、「12世紀ルネッサンス」の原動力となったが、イスラムでは受け継がれなかった。

トインビーを感心させたイブン・ハルドゥーン13321406の「歴史序説」によれば、イスラム圏の学者の大半はペルシャ人で、たとえアラビア人でもペルシャ語で教育された人で、ペルシャ人だけが学問の保持や体系的著作に従事した。沙漠で生まれ育ったアラブ人には学問も技術もなく、学問は都市文明のペルシャ人によって担われたという。アフリカのチュニス生まれで祖先はアラブ系のハルドゥーンの説である。小生はイスラムの学問を支えた人としてユダヤ人を加えたい。イブン・スウィーナーは中央アジアのブカラ生まれ、ガザーリーはイランのホラサーン生まれでいずれもペルシャ系。イブン・ルシュッドはイベリアのコルドバ生まれのアラブ系。

しかし唯一神思想がコーランに絶対化されているイスラム世界では、「自由意志論」は認められず、西欧で「神の意思の探求」として合理化し発展した近代科学は、神に対する冒涜としてイスラム世界では受け継がれなかった(村上陽一郎、西欧近代科学)。この時代に西欧ではパリ、ボローニャ、オクスフォードなど大学ができたが、イスラム世界では自由討論は封じられ、学問の発展は終わった。山本七平氏が「トルコ人によるイスラム征服=オスマン帝国の成立がイスラム没落の原因」(イスラムの読み方2005)、というのは誤り。

モンゴルの侵入、アッバース朝滅亡の社会的混乱は伝統的宗教構造を崩壊させ、カリフに代わる新たな権威や連帯の枠組みが求められた。かねてイスラムには「神秘主義」といって清貧や禁欲の修行を通じて神に至る道を求める流れ=スーフィズムがあった。その行者=スーフィーは、聖者として民衆の尊敬を受けていた。征服による富で贅沢な生活を営むことは神の意思に反するのではないかと敬虔なイスラムが感じるとき、現世の悦楽や報酬を否定し、神への無私無欲の愛と奉仕、瞑想や踊りなどを通じて神に近づき神の存在を体験しようという改革運動が起こった。難しい教理を離れ具体的でわかりやすいこの運動は、社会的混乱の中で急速に信者を集め、教団として組織化されていった。

十字軍をどう評価するか。ヴォールテールがいうごとく「狂信と愚行の暴発現象」だったとしても、西欧はイスラムやビザンツ帝国から貴重な文化資源をえてこれを吸収し、ルネッサンスを開花させえた。しかし暴虐な侵略軍を撃退したイスラム世界には西欧に対する優越感こそあれ学ぶ契機などなかった。

 

1299 オスマン1世アナトリア西北部でオスマン朝(−1922スンニ派)を創始、初めての非アラブ、トルコ人によるイスラム政権の始まり 

1347 インドのデカン高原で最初のイスラム王国バフマニー朝成立

1370 ティムール朝(チャガタイ族スンニ派)首都サマルカンド(−1507)

1405 永楽帝、鄭和を南海遠征に派遣、1433まで7

1453 オスマン朝メフメト2世、コンスタンティノープル攻略、ビザンツ帝国滅亡

     ギリシャ正教は、イスラム政権に従属を余儀なくされるが、1472 ロシア、イワン3世、ビザンツ皇帝の妹を妃とし、ビザンツ帝国の後継者を称す

1492 グラナダ陥落、イベリア半島のイスラム政権滅亡=レコンキスタ。英雄エル・シッドは傭兵で、レコンキスタは内戦、聖戦にあらずという説あり。苛烈な異端審問が始まり、10年で30万人のイスラム・ユダヤ人が国外に逃れた。

     コロンブス、アメリカ発見、既に大航海時代 

1501 サファヴィー朝(−1736、シーア派)イラン、神秘主義教団で建国、首都タプリーズ―イスファハーン。4代カリフ=アリー=初代イマームの次男フセイン=3代イマームはササン朝ペルシャ最後のヤズデギルド3世の娘婿で4代イマームを生んだ。イランは異民族支配から脱し、古代からの連続性を確保した。15871629アッバース1世時代がシルクロードの東西貿易でイラン文化の最盛期、イスファハーンは世界の半分といわれた。1722アフガン勢力に侵され1736トルコ系遊牧民によって滅亡。

1517 オスマン朝セリム1世、マムルーク朝軍を破りエジプトを併合、マムルーク朝滅亡。アイユーブ朝11691250以来、東方イスラムの中心だったカイロは地方都市になった。マムルークは皆殺しにされ、カリフはコンスタンティノープルに連れ帰られ、1543死去した。スルタン=カリフはイスラムの最高権力者となり、ビザンツ皇帝の後継者となった。アラブのカリフ政権とイスラム教徒王朝の歴史は終わり、イスラム勢力の中心が西に移り、オスマン朝カリフ政権=帝国の時代が始まった。

ローマ教会でルターの宗教改革始まる。オスマンではプロテスタントは差別されずハンガリーでは今日まで存続しえたが、オーストリア領のボヘミアでは、フスの母国なのに消滅した。

1526 ムガール朝(−1858スンニ派)ティムールの子孫、北インドに樹立

1529 オスマン朝軍第1次ウィーン包囲

1571 レパントの海戦、オスマン艦隊ベネティア・スペイン艦隊に敗北

1648 ウエストファリア条約、30年戦争終結、領域主権国家=近代国家体制の原点

1683 オスマン朝軍第2次ウィーン包囲で大敗、イスラムの劣勢が明らかとなったが、西欧側では「オスマンの脅威・衝撃」として、中世封建体制からの脱却=絶対王政・領域国家体制への促進剤となった。この事実は、「ドイツに対するトルコの敗北」として1689=元禄2年、オランダ風説書で江戸幕府に伝えられた。

アッバース朝後のイスラム世界には、セルジュク・トルコに代わってオスマン・トルコが台頭、インドやユーラシア草原にも非アラブのイスラム国家が成立した。オスマン・トルコは、ビザンツ帝国を滅亡させキリスト教世界に圧倒的優位を誇示したが、西欧では、イベリア半島のイスラム国家はキリスト教軍に敗退したし、オスマン軍の2度にわたるウィーン攻略は結局敗退に終わった。イスラム世界に衰亡が始まっていた。

西欧がイスラムから受け継いだ学術でルネッサンスを開花させたのに対し、イスラムはその後の西欧の軍事的経済的発展に学ぶことがなかった。過去の優越意識が邪魔だったし、呪術からの脱却ができていなかった。重要な国事は天文学=占星術で日時を決めたという(新井政美、トルコ近現代史)。イスラム世界に「平等」はあったが「自由」はなく、思想・科学の発展は抑えられ、旧来の体制を変革する契機は生まれなかった。

同時代の日本が、海外事情の研究を怠らず、鎖国時代でもオランダ語を通じて西欧技術の研鑽に励んだのと対照的である。

印刷術はイスラム経由で西欧に伝えられ、15世紀半ばにグーテンベルクの聖書印刷となり、学術の向上に役立ったが、アラビア文字の印刷は18世紀までなく、コーランの印刷は19世紀までなかった。書物の普及に伴う知識層の拡大、識字率の向上による知識水準の格差が、西欧とイスラム世界の格差拡大の原因となった。

ウエストファリア条約による宗教に名を借りた30年戦争の終結は、民族・宗教で独立する領域国家体制の確立であって、多民族・多宗教との共存を許容するイスラム体制と原理を異にするものであった。大航海時代の到来、イスラム船団に競合する力はなかった。覇権国は交代したが、植民地で富を収奪し、軍事力を強化した西欧の反撃がイスラム世界に襲いかかった。

 

1684 オーストリア、ローマ教皇主導で神聖同盟を結成、同盟各国軍がオスマン軍と交戦、オスマン軍後退

1699 カルロヴィッツ条約、中欧でのオスマンの後退、オーストリアの覇権確立

1718 メフメト3世(在位1703−30)、イブラヒム・パシャを大宰相任命、チューリップ時代(−30)始まる。フランスに使節派遣、西欧文明摂取の始まり

1727 イスタンブルにアラビア文字の活版印刷所創設、宗教書は不可。アラブ圏では1821=カイロが最初。コーラン印刷は1833=カイロが最初

1757 プラッシーの戦い、英軍、ベンガル太守軍を破る

1768 ロシア(エカテリーナ2世、1762−96)が露土戦争=1次(−74)を仕掛け、オスマン領侵略

1787 オスマン朝、ロシアに宣戦=露土戦争=2次(−1791)

1789 セリム3世(在位1789−1807)、軍事・行政のニザーム改革始まる

1793 オスマン朝、ロンドンに公館開設、ウィーン94、ベルリン95、パリ96

1798 ナポレオンの仏軍エジプト占領(−1801)

1804  セルビアでキリスト教徒蜂起(−1813)、クレフティス=匪賊という伝統的反抗形態に民族主義=ナショナリズムが火をつけた。墺・露の支援を求めたが1813鎮圧され、1815自治侯国成立

1805 ムハンマド・アリー、エジプト総督、アリー朝成立(−1953スンニ派)

     商人の子アリーは、仏軍侵入に対抗して派遣されたアルバニア兵部隊長。仏軍撤退後、総督に推されると、旧支配層のマムルークをシタデルの虐殺で殲滅、オスマン支配から殆ど独立(子の継承に承認は必要)し、大胆な富国強兵策で近代化を図った。王朝は1953まで続く

1807 オスマン朝、西欧式の新軍団編成を発表、イェニチェリと保守派の反乱でセリム3世退位、改革派の反撃中セリムは暗殺、改革派アレムダール大宰相は全土のアーヤーンの同意を得て中央集権化に道をつけたが反対派との戦闘で爆死

1808 マフムート2世(在位―39)、混乱中セリム後のスルタン=兄を殺させ、王家唯一の男子として23歳で就任、敵に囲まれ慎重に改革推進

1815 セルビアで第2次蜂起、自治侯国成立、議会開設許可。バルカンのナショナリズムに火がついた。

1821 各地でギリシャ人挙兵、独立戦争始まる。

1822 ムハンマド・アリー、エジプトで徴兵制施行、富国強兵を目指すが農民負担大

1826 オスマン朝、抵抗するイェニチェリ軍団撃滅、神秘主義ベクターシー教団閉鎖、ウラマーのワクフを政府管理下に接収

1828 ギリシャ独立戦争中ロシア、オスマンに宣戦=3次(−29)

1832 ギリシャ王国成立、英・仏・露干渉=ロンドン条約。イスタンブル総主教処刑、ギリシャ人主体の通訳官に替わりムスリム・トルコ系の養成開始。オスマンの支配層の重要な部分トルコ語と西欧語との架橋という役割を担っていたビザンツ=ギリシャ正教徒がオスマン支配層から離脱。対外体制が手薄になった

1839 オスマン朝、タンジマート改革(ギュルハーネ勅令)始まる(−76)。非ムスリム諸民族のイスラムからの離脱を防ぐため、「ムスリム優位下の共存」から「すべての宗派・言語・民族の平等な共存」を鮮明にし、イスラムを機軸とする統合をめざしたが、バルカンのキリスト教民族は続々と独立し、残ったのはトルコ・アラビアのムスリムと、ムスリムが優位のアナトリアのアルメニア人などであった。

1853 オスマン朝・ロシアとクリミア戦争=4次(−1856)、英仏介入1856パリで講和。戦費は外債(税収が担保)依存で治外法権と自由貿易を押し付けられ、英国綿製品流入に国内綿業輸出壊滅、貿易赤字と財政破綻で列強への経済的従属深まる

1856 タンジマート改革「改革の勅令」で第2段階に入る。「新オスマン人」ナームク・ケマルなどが出て、立憲制による多民族・多宗教体制で祖国愛を共有できる=愛国主義によるナショナリズムを説いた。それは民族主義による国家独立を目指すバルカン諸国から見れば、時代の風潮に反する古い思想であった。新オスマン人は、民衆の政治参加を実現できなかった。

1857 インド大反乱(−1858)、ムガール朝滅亡、英国インドの直接統治

1859 エジプト、スエズ運河着工、1869開通。600万ポンドの予定が1800万ポンドに膨らみ、政府の対外債務を増やした。当初妨害に動いた英国は、1875株式40%を400万ポンドで買い入れ、その後の支配の足場を築いた。

1870 イスタンブルに洋式学校、1933大学に改組)

1876 オスマン朝、列強介入の下、憲法制定=アジアで初めて。日本の自由民権運動のような広い支持基盤なき少数エリートの運動、スルタンを抑えられず、翌年議会解散、憲法凍結、タンジマート改革終わる。しかし西欧モデルの学校が各地にできた

1881 オスマン朝、財政破綻で英仏の債務管理局による財政管理始まる

1890 オスマン朝木造軍艦、エルトゥールル号、和歌山沖で遭難

1899 オスマン朝クウェート、英保護下に入る

1908 オスマン朝からブルガリア独立、オーストリア・ハンガリー、ボスニア、ヘルツェゴビア併合、

イランで石油採掘開始

イスラム世界は変らなかった。変れなかった。西欧は軍事力にものをいわせ容赦なく世界各地で植民地化を推進した。イスラム世界が西欧に押されるばかりの時代が始まった。「オリエンタリズム」といって、西欧の偏見批判の説があるが、むしろ西欧近代の変化に、その材料を提供したにもかかわらず、自らはそれを消化吸収できなかったイスラムの側の問題、西欧文化の理解の前提たる言語の翻訳をギリシャ人に委ね、自ら習得しようとしなかった怠慢こそ、議論されねばならない。

問題はイスラム思想にあった。イジュティハードによってイスラム思想を時代に合うように改革しなければならない。改革ののろしがやっと19世紀の末に上がった。小杉泰、「現代イスラム世界論」によれば、インドでムガール帝国解体を見聞したイラン生まれ英領インドで教育を受けたアフガーニー183897が、「物質主義者への反論」を執筆し反英運動でエジプトを追放されパリにのがれ、弟子アブドゥー18491905と「固き絆」1884というアラビア語の雑誌を発刊、堕落した伝統的イスラム体制を批判し、汎イスラム主義による抵抗を鼓舞、近代思想によるイスラムの再解釈を唱導した。雑誌はイスラム世界に衝撃を与え、英国は禁書とした。ウラマーとして教育されたエジプト人のアブドゥーは、エジプトに戻って、欧化主義にも反西洋主義にも組しない中庸主義を雑誌「マナール」18981940によって説いた。「マナール」はモロッコからジャワ島まで広範に流布した。レバノン生まれでカイロに移住したリダー18651935はこの「マナール」に「改革派と伝統派の対話」という連載をし、現代におけるイスラムのあり方を説き続け、掲載された2592の「ファトワー」=コーランの解釈は、一般信徒=近代知識人や職業人がイスラムについて語る道を開いた。11世紀に閉ざされたコーランの合理的解釈の門が、20世紀にやっと開かれ始めた。

 

1908 オスマン朝、立憲制再開、「統一と進歩委員会」=軍関係学生・知識人で結成、地方に支持者を増やし蜂起、スルタン鎮圧断念。委員会、選挙で第一党となるが、世俗主義に、イスラム保守派の抵抗やまず

1914 第1次世界大戦、イランは中立、オスマン朝はドイツ側で参戦

1915 英国、戦後のアラブ地域の独立を約束=フセイン・マクマホン書簡

1916 英・露・仏、サイクス・ピコ協定で戦後の中東分割を密約

1919 パリ講和会議

1917 英外相バルフォア、パレスチナにユダヤ人の国家建設を支持宣言    

1920 主要連合国サン・レモ会議、英=イラク、パレスチナ、仏=シリア、レバノンの委任統治を決定

1922 オスマン朝滅亡、トルコ、スルタン制廃止、1923共和制宣言

1925 イラン、レザー・ハーン即位バフラヴィー朝成立(―1979)、カージャール朝(1796−)滅亡

1928 エジプトでバンナー、ムスリム同胞団結成、イスラムの原点への回帰による政治社会改革を希求し、慈善福祉も行う大衆社会運動。やがてアラブの統一と団結を唱えるエジプト最大の政治組織となり国際的に広がって現在に至る

     トルコ、文字改革=アラビア文字に代えてローマ文字を採用

1936 ナチ政権を逃れパレスチナにユダヤ人移民殺到、パレスチナ人反乱で英軍、スエズ運河地帯を除くエジプト(パレスチナを含む)から撤退  

1938 サウジアラビアとクウェートで油田発見 

1939 第2次世界大戦始まる、中東・北アフリカで戦争始まる。

1943 レバノン議会フランスからの独立を決議 

1947 インドとパキスタン、英連邦の自治領として独立

     国連総会、パレスチナ分割、エルサレムの国際管理地域化を決議

1948 イスラエル独立宣言、翌日、第1次中東戦争(−1949)、エルサレムは大量のパレスチナ難民が住む東側とイスラエルが占領する豊かな西側に分断

1949 トルコ、イスラエル承認

1951 イラン、モサデク政権、石油国有化法を可決

1952 エジプト、ナセルと自由将校団クーデター、ナセルはアラブ民族主義社会主義を主張、下部で支えたバンナー亡きムスリム同胞団はナセルに弾圧される

1953 共和国宣言=アリー朝(1805−)滅亡

     イランで反革命、王制の復活、1963ホメイニ追放

1956 エジプト、スエズ運河国有化断行、英国介入で第2次中東戦争、英国敗退

1964 パレスチナ開放機構=PLO設立

1967 第3次中東戦争、イスラエルが領土拡張目的で侵入、ヨルダン川西岸地区・ガザ・ゴラン高原・シナイ半島を占領。

国連はイスラエルに撤退の安保理決議、しかしイスラエルは無視。

1973 第4次中東戦争、ソ連援助を得たアラブがイスラエル攻撃、イスラエル不敗神話を打破。イスラエル、米国の援助で反撃し和平。イスラエル、安保理「決議337」は再度無視

アラビア、イスラム無視=イスラエル支援の米国に対し、石油生産縮小=オイル・ショックで対抗

1979 ホメイニ、パリから帰国、イラン・イスラム革命で共和制へ。

     イラク、サダム・フセイン大統領に就任

     テヘランで米大使館人質事件、米とイラン、国交断絶

第一次大戦でオスマン朝は解体され、広大な領域を失った帝国は、イスラム色を排し世俗主義のトルコ共和国として誕生した。近代化への改革の始まりは日本よりはるかに早かったが、トルコには日本にない困難な条件があった。言語学者でトルコ語も方言まで話す小島剛一、「トルコのもう一つの顔」によれば、原因はこの国が農業国として豊かなことにあるというが、小生は、@ イスラムの宗教倫理が、教育の普及を妨げるなど資本主義的競争社会の発展にマイナスに働いていること、A 宗教の過度の支配で自由思想が圧迫され、近代西欧の発展に対応する知識層を自前で確保できなかったこと、(近代日本はお雇い外国人で近代システムの早期導入を図ったが、要所に日本人の先覚者がいた。オスマンはギリシャ人に対外交渉を委ね、ギリシャ独立で急遽自前翻訳官養成に走った。都市の商工業者もギリシャ・アルネニアのキリスト教徒だった。世界状況理解の甘さ)B 西欧植民地主義の手っ取り早い餌食とされたこと、C イスラム・システムがナショナリズムによる高揚と無縁、などによると睨んでいる。

英国のご都合主義外交によるユダヤ人のパレスチナへの入植容認=イスラエルの成立=パレスチナ難民の発生が、パレスチナ紛争を巻き起こし、石油資源も絡んで米国の介入を招き、未だに解決のめどが立っていない。ジハードというテロは、原理上否定されていない。イスラム諸国民は総じて貧しいし、欧米に住むイスラムが偏見による差別を免れえず、貧しさから脱却できないとすれば、テロの根絶は難しい。

イスラムが貧しい所以は、教育や識字率の問題と国連が指摘しているが、そして山本七平氏は殆ど農地のないアラビア半島で育ったイスラムには勤労思想がないというが、小生には、まず貧しさからの脱却が必要であり、それには近代システムとイスラム思想との整合性を目指した改革が必要であって、そのためにも経済成長による民心の収攬が不可欠と思われる。                       おわり