イスラム雑観

                2006.4.14−07.1.5  木下秀人

目次

1 イスラム教とユダヤ教、キリスト教

2 聖典コーラン

3 イスラム教徒の義務=六信・五行

4 ウラマーとカリフ―政権と教権

5 イスラム世界の拡大―多民族・多宗教・多言語社会

6 イスラム商人の活躍と限界―シルクロードと海洋

7 戦士・騎士団の宗教国家―常備軍団の功罪

8 神=絶対の捉え方―神話・呪術から哲学と神学へ

9 イスラムと近代化―イスラムシステムはマイナスばかりか

10       アジアのイスラム

11       教育と人口問題

12       脱石油とイスラム

 

1 イスラム教とユダヤ教、キリスト教

ユダヤ教のモーゼ、キリスト教のイエスなど「神」は多くの使徒=預言者を遣わして、人々に正しい道を歩ませようとしたが、旧約・新約聖書では啓典が正しく伝えられていないので、最後の使徒=預言者としてムハンマドが選ばれ、神の言葉がアラビア語で伝えられてコーランとなった。

@     ユダヤ教徒・キリスト教徒は、唯一神への帰依を共通にする同じ啓典の民として、税をはらうことによって宗教的自治を許された。

A     ユダヤ教徒は選民思想によってイスラム教徒を認めなかったが、イスラムから見ると「神との契約」とは自らを神と対等に見なすとんでもない考え方となる。

B     キリスト教のイエスを神と比する三位一体思想は、イスラムから見ると唯一神を冒涜するものだった。

 

2 聖典コーラン

ムハンマドに伝えられた「神の言葉」を集めたものがコーランで、アラビア語で発せられ受け止められたままが残された。

@ 他言語への翻訳や印刷は禁じられ解禁は二十世紀、学問の普及発展、改革を担う知識層の拡大、それを受け止める民衆の識字率向上の妨げとなった。

A アラビア語が理解のための唯一の言語だが、イスラムは多言語社会なので、それを習得する知識人は少数で社会的勢力とならなかった。

B 限られた少数者が解釈権を持ち、時代に合わせた解釈の柔軟性が失われ、イジュティハードの門は閉ざされたまま近代を迎えた。

C     現代でも123歳までにコーランを暗誦することが知識人の条件という重い負担が教育を圧迫している。記憶装置の外在化は可能なはず。

 

3 イスラム教徒の義務=六信五行

六信は、アッラー・天使・啓典・預言者・終末・天命。

五行は、

@       信仰告白 「神は唯一にして、ムハンマドはその使徒である」と受け入れること

A       礼拝 神に直接向き合い、神が主であることを賛美し、自己がその僕であることを表明すること。日に5回、夜明け前、正午過ぎ、午後、日没後、夜。ミナレットからアザーンによって告知される。

B       喜捨 神の道に自分の財を使うこと。相互扶助や贖罪が目的で、自由喜捨=サダカと「定めの喜捨」=ザカートがある。   

C       断食 イスラム暦9月=ラマダーン月に、日の出から日没まで一切の飲食を断つこと

D       巡礼 イスラム暦12月7−13日のメッカのカーバ神殿よその周辺への大巡礼。一生に1度余裕のある限り神への義務。

 

4 ウラマーとカリフ・スルタン――教権と政権

ムハンマドは神の啓示を受けた最後の預言者であり、ウンマ共同体の政治指導者だったが、後継者には政権のほかにはコーランの解釈権しか残らなかった。しかも、この分野はやがて学者=ウラマーの手にゆだねられるようになる。

政権は統治の正統性をイスラム法の遵守に求め、ウラマーがその保証・監視役を担った。ウンマ共同体の指導者=カリフは、支配領域の急速な拡大に伴う政治軍事面の指導を担うことになった。歴代のカリフの中には学識優れた人もいたが、激しい争奪戦に勝って専制権力を獲得すると、浪費と享楽生活におぼれる人が多く、国力の衰弱につながった。

聖典の解釈を担うウラマー=学者は、信者の支持とワクフに依存する個人=在家の人であって、キリスト教会のような組織や序列はなかった。ウラマーの聖典解釈はカリフをも拘束するはずだったが、ウラマーの現状維持=保守化に伴い解釈が硬直固定され、初期に見られたような、時代に合わせた柔軟な解釈がなくなり、それが西欧との差の拡大=イスラムの退潮につながった。ウラマーには寄進財産があり、それが生活を支えた。 

 近代民族主義によるバルカン諸民族の独立に対し、多民族国家オスマンは、イスラム主義による統一の維持を指向したが、オスマンはアラブでなくトルコ系であり、オスマン自体の財政破綻と第1次大戦での敗戦(ドイツ側で参戦)で、列強により分割された。

分割されたイスラム国に二つの問題が発生した。パレスチナでのイスラエル建国による大量の難民発生=パレスチナ紛争と、石油資源を求めての大国の干渉である。近代西欧システムへの適応もうまくいかず、多数が貧困に放置される中から過激派のテロ活動が発生した。

イスラム国家は、現在いずれも近代産業社会への転換に成功していないし、イスラムの理想とする安定した社会も実現していない。明確なプログラムが見えないまま、キリスト教資本主義国によってテロの温床として警戒されている。イスラムは、資本主義に勝る福祉国家を建設できるであろうか。

 

5 イスラム世界の拡大―多民族・多宗教・多言語社会

ムハンマドの死後100年という短期間に、アラビア半島から中近東、エジプトなどアフリカ北部、地中海を越えてイベリア半島まで制圧する大勢力となった。ペルシャが衰退期だったこと、征服地の被圧迫勢力が宗教に比較的寛容で他民族他宗教を認め、差別排斥しない平等思想のイスラムを支持したのが大きい。

初期にシリア、イラク、エジプトなどを征服し、ビザンツ軍を打ち破ったイスラムは、先進文明の遺産を行政システムもろとも継承した。アラビア半島のイスラム社会は、遅れた文明だったからである。従ってイスラム文明を担った知識人は、アラブ民族・イスラム教徒に限らず、それぞれの地域出身者が、キリスト教各派もユダヤ人の学者も差別なく優遇された。征服地の優秀な若者が軍人や行政官になり、宰相までなりえた。

アラビア語は,聖典コーランの言語として知識人には必須だったが、オスマン宮廷の言語はトルコ語で、公文書も多くはトルコ語でアラビア文字で書かれたが、唯一の公用語ではなかった。ペルシャ語は文学の言語として尊重され、3言語に通じていることが文人の最大の褒め言葉だった。アラブにアラビア語を使うのは当然だが、ギリシャ文字のギリシャ語も、アルメニア文字のアルメニア語も、その集団に対しては使用された。

ムスリム・トルコ系は西欧語が必要となっても学ぼうとしなかったから、ビザンツの伝統を引くギリシャ人が通訳を独占し、ギリシャ系正教徒の上層部が非ムスリムのエリート層を形成さえした。海軍もギリシャ人に依存した。

しかし多民族・多宗教・多言語を共存させたイスラム国家は、近代国民国家思想による「民族独立」の熱病に襲われ、それを後押しする西欧によってやがて分断・分割された。言語と宗教と民族が歴史的に複雑に入り組むバルカン地区で、分割独立後の争いが今も続いているのは、それが無理だったからであろう。

 

6 イスラム商人の活躍と限界―シルクロードと海洋

イスラムは商人の宗教でもあって、海と陸にまたがる地中海世界と東洋との貿易を独占し、その富がイスラムの繁栄を支えた。やがて西欧で3本マストの帆船による大航海時代が始まり、陸路によるシルクロード貿易の影が薄れた時、イスラム世界は大船の材料たる木材の枯渇に苦しみ、銭貨用の銅の採掘も枯渇したという。西欧にはノルウェーの森があり、大陸での銀・銅・金の大量供給があった。

さらに利子を禁ずる教えに従って、イスラムの金融はキリスト教徒・ユダヤ教徒の手に委ねられたまま現代に至る。オスマン帝国の近代化・産業化を担うべく1856設立された「オスマン銀行」は英国資本であり、やがて金融財政の中心=「発券銀行」すら外国の手に委ねてしまった。利子でなく投資利益の配分(損失負担がありうる)として「イスラム銀行」ができたのは最近のことに過ぎない。福沢諭吉や渋沢栄一はいなかった。

前近代において、オスマン朝はベネティアなどの都市国家に、通商上の特権=カピチュレイションを与え、これがフランス、英国、オランダなどに広がっていた。当初は銀や奢侈品を求めるオスマン側に主導権があったが、やがて彼我の力関係の逆転に伴い、西欧側がオスマンを半植民地状態に縛る既得権となり、オスマンとトルコの近代化=産業育成の障害となった。1923ローザンヌ条約まで撤廃されなかった。

なお、近代直前におけるイスラムと中国の接触として、明の鄭和(イスラム教徒)の大船団による航海14051433を記録する必要がある。これは、朝貢貿易の推奨であって、南海に張り巡らされたイスラム・ネットワークをたどったもの。財政事情から鄭和1代で終わり、関係書類も失われてしまったが、直ぐあとに続く西欧流の植民地化は目的ではなかった。西欧は武力による征服、植民地化と奴隷貿易による地域経済社会を根こそぎ破壊。しかも未だにその償いをしていない。

 

7 戦士、騎士団の宗教国家―常備軍団の功罪

@ マックス・ウェーバーのイスラム観

イスラムを「世界を征服する戦士、訓練をつんだ信仰の戦士、騎士団の宗教」といったのは「宗教社会学論集」で西欧が「近代化」したのに、東洋がなぜ近代化しなかったかを、宗教社会学の観点から追及したマックス・ウェーバーである。

確かに初期には、戦士たちの活躍がめざましい領土拡大をもたらし、史上空前の大帝国を短い期間に作り上げた。初期の戦士はアラブの部族員だったが、アラブ人が支配階層となるに従って、征服でえた奴隷を軍人に訓練した「マムルーク」や、オスマン帝国の場合、「イェニチェリ」という征服地からつれてきた子供を養成した軍団が、常備軍を持たない国の征服に貢献した。

やがてそのマムルークやイェニチェリが特権階層化し、征服地がなくなるにつれて減少する分け前の増加を求めて反乱を起こすようになり、それがオスマン帝国の衰退の1因となった。

なおウェーバーは、儒教は教養を備えた文人官僚の身分倫理、ヒンドゥー教の担い手はバラモンという文書的教養人のカースト、仏教は現世を拒否し放浪し瞑想する托鉢僧の宗教、古代ユダヤ教は市民的な賎民(差別された民衆という意味か)の宗教と概括した。それぞれ各論があるが、イスラム教とキリスト教のそれが、死によって中断されたのは惜しまれる。

A       ウッドハウスのトルコ軍事制度観

C.M.ウッドハウスの「近代ギリシャ史」みすず書房1997に面白い記述を見つけた。

「トルコの制度は、定着した生活様式には全く適していなかった。その取柄といえば、恒常的な戦争を遂行し、不断の拡大を維持するための機械としてよくできていたことであって、戦争状態のみが、行政と軍に配するために必要な奴隷を補給し、それを維持するために必要な戦利品と税収とを提供することができた。拡大の進行がいったん減速するや、この機械の働きは鈍化し始めた。――中央でも、また周辺部でも、征服の弾みが途切れてくるにつれて、この制度は分解し始めた。」という。

「トルコ」を「イスラム」に読み替えても妥当する面がある。オスマン帝国の隆盛は、最初のウィーン包囲で示され、次のウィーン包囲の失敗が西欧勢力への屈服の始まりとなった。征服による利益分配にあずかれなくなったイェニチェリ軍団は、不平集団=軍事近代化の反対勢力と化してしまった。

 

8 神=絶対のとらえ方―神話と呪術から哲学と科学へ

中国の孔子は、「未だ人につかえる(事)ことができないのに、どうして鬼につかえることが出来よう。未だ生をよく知らないのに、死を知っているはずがないではないか」といい、怪力乱神を語らなかった。古代の占いは儒教の政治哲学に代わった。孔子の哲学は、現世に立脚した人生哲学・政治哲学であった。

インドの釈迦は、死後の世界や神の存在などの哲学的・宗教的問題については、聞かれても答えず(無記という)、「悪いことをしないで、良いことを行う、それが諸仏の教えである」と説いた。

勿論、中国には呪術を担う道教が残ったし、インドには多くの神々を崇めるヒンドゥー教があり、仏教も密教という呪術祈祷を取り入れなくては発展しなかった。

ユダヤ教では神と人間は契約関係。ユダヤ人学者は、イスラム支配時代にはギリシャの哲学科学文献のアラビア語への翻訳を担い、西欧への橋渡し役を務めた。

キリスト教社会は、当初ローマ教会が神の代理人として君臨したが、宗教改革によって個人が直接神=聖書に相対する道が開かれ、啓蒙思想=理性の哲学で科学思想の発達とともに神話を克服する道が開けた。

しかしイスラムの神は命令する唯一絶対の神、人は神の僕に過ぎなかった。11−2世紀のイスラム世界でギリシャ哲学を踏まえて論議された自由意志論は、キリスト教世界に伝えられて宗教改革をもたらし、ルネッサンスの花を咲かせたが、肝心のイスラム世界では保守派に押しつぶされ、「イジュティハード」というコーランを時代に即して解釈する試みは途絶えて、現代までコーランの束縛から逃れることができなかった。イスラムにはギリシャ正教とともに宗教改革は起きなかった。

 

9 イスラムと近代化―イスラム・システムはマイナスばかりか

オスマン帝国は、西欧との落差を埋めるため何回も改革を試みたが、結局成功しなかった。山内昌之、「近代イスラムの挑戦」は、1803年フランス大使となったイスラムエリートが、西欧近代化の意味すらわからず、ただ相手を過小評価するばかりだったという。江戸時代の日本との差。エジプトのアリー朝は、フランスに範をとり、日本に先んじて近代化工業化に挑んだが、技術者も労働者も知識水準が低いため成功しなかった。明治日本でフランスから機械を輸入した富岡製糸所には、各地から選りすぐりの人材が集まり、高価な機械に代わる安価な機械がたちまち発明されて普及し、戦前日本の最大の輸出商品=生糸の生産性向上に貢献した。トルコは、大胆な世俗化でイスラムの制約を脱して、近代化に挑戦したが、未だにイスラムの桎梏を脱しえず、EU加盟も実現していない。

マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神」との関連を問題にしたが、「イスラムの倫理と資本主義の精神」とのマイナスの関連についての発言は残さなかった。プロテスタンティズムの資本主義的競争社会へのプラス効果に対し、「神にすべてを任せる」というイスラムの教義には、資本主義的競争についてマイナスの影響があるのではないか。イスラム世界は、資本主義社会=キリスト教社会と絶えず接していながら、遂にその本質について理解できないままに対応・改革を怠り、変化についていけず植民地主義の餌食となり、折角積み上げた多宗教・多民族共存のイスラム社会の解体を余儀なくされてしまった。混乱はまだ続いており、西欧近代システムが正解とは見えないのは米国の失敗によって明らかであろう。

貨幣は流通していたが金融市場はユダヤ・キリスト教徒任せ、商工業もキリスト教徒が主体で、家内工業的商品はあったが、関税自主権がないままの自由化で国産工業の育成ができず、過大な軍事費の負担で赤字累積、国家財政は破綻してしまった。主たる商品である農産物は、自給自足の枠内での取引か、国家統制の下での価格決定に委ねられ、生産性上昇による利益獲得に働くインセンティブに欠けていた。

加藤博「イスラム世界の経済史」によれば、@イスラム世界は流通・商人の経済、しかし近代世界は生産・企業家の世界で、適応できなかった。A分割相続規定の影響で、親の職業継続が困難。Bすべては神の所有、個人の権利としての所有権思想なし。C利子禁止を、キリスト教は自然法という外在法で解決、唯一神のイスラムはあくまでイスラム法の枠内で解釈するしかなかった。D独特な土地権利制度、国家は課税権、農民は売買用益権。イスラムは神が一切を所有するから、所有権思想は浸透し難かった。Eワクフによる所得と富の再分配、社会資本形成。Fすべては神の思し召しだから、道徳倫理から遊離する暴走はありえない。

イスラムの理想とするウンマ共同体は、相互扶助を基本とするゲマインシャフトで、社会主義に類似する側面を持つ。カラマーゾフの大審問官のいうように、ソ連型社会主義では自由を犠牲にして、安い生活費・医療・教育費の国家負担などの充実した社会福祉を享受しえたように、そしてその崩壊による資本主義経済化で、貧富の差の拡大と追いつかない格差に悩んでいるように、イスラム・システムは、資本主義経済システムと原理的に異なったシステムと考えるべきではないか。米国など資本主義国家においても、下積みの人たちがイスラムに改宗しているという。イスラムはテロで生きているのではない。

 

10 アジアのイスラム

インドのイスラム王朝では、ヒンドゥー知識人=バラモン階層が官僚として用いられた。イスラム政権なのにイスラム教徒が低い地位に置かれた理由は教育水準=識字率にあった。英国の植民地支配でも、軍人はシーク教徒、地主や商工業もシーク教徒だった。英国が分断統治の目的でそうしたこともあるが、独立に当ってのイスラムとヒンドゥーの激しい抗争の原因に識字率を背景とする経済的格差があったと思う。

シーク教は、ナーナク14691548により開教、ヒンドゥー教とイスラム神秘主義との融合。インド社会の近代化に寄与。長い髪とターバンを巻いた姿。

 仏教国タイでは、マレーシア寄りの南部にイスラム教徒が多く、最近仏教徒に対するテロ事件が多発している。NHKのドキュメンタリーによれば、仏教徒が教育でも資産でも優位にあることがイスラムの反感の1因であるという。

シンガポールでも、マレーシアでも、経済を牛耳るのは華僑・印僑でイスラムは下働きに甘んじざるを得ないのは、ひとえに教育の不足、識字率の低いのが原因。

儒教・道教の中国におけるイスラム、南宋の鄭和のころ、イスラムは南海・アラビア海に拠点を築いていたが、やがてインド人、中国人に代わられた。

 

11 教育と人口問題

イスラム諸国では、教育の中心がコーランにおかれている。ウラマーのところで子供たちが頭を振りながら勉強する映像はコーランの暗誦だった。123歳までに全30巻を終えるという。それがイスラム社会で知識人であるための最低の条件だとすると、稗田阿礼がそこらにいることになる。印刷が普及している時代に、幼い感受性にとってこの知的負担は軽くないであろう。インドで昔からヴェーダの暗誦がバラモンの必須条件で、日本の坊さんの経文の暗誦と同じだけれど、その量が違う。そしてその歴史的蓄積が二桁の掛け算が暗誦される土壌となり、ITソフト産業隆盛の基盤となっている。いまやIT産業に向かっての数学教育がカーストの垣根を超えて広がりつつあるという。

人口抑制も経済発展には重要。産児制限は神の意思に逆らうとするイスラム家族は多産で、それが豊かな社会へのブレーキになっていることは間違いない。ただイスラエルでは、ユダヤ家族を圧倒する増え方で、やがてイスラムが多数派になる日が近いという側面があるが。

 

12 脱石油とイスラム

 石油資源に依存するイスラム社会が多い。イラン、イラク、サウディアラビア、クウェートなど。学者は石油の富の分配で食っている経済の危うさを指摘する。しかし1966年、やっと石油資源を発掘したアラブ首長国連邦のドバイの対応は違った。

やがてなくなる石油資源に依存する危険を察知して、ラッシッド首長は脱石油、貿易立国を志した。息子のムハンマドがその志を継ぎ、21世紀に第二の香港・シンガポールのような中東の枠を超えた世界の先進国になるビジョンを掲げた。石油に頼らず貿易と投資で生きる。柱は貿易、観光、交通の3本とし、10年間、インフラ整備に石油の富を投資してきた。この地区には戦争が絶えなかったがインフラ整備を中止することなく、今や67の船着場を有するグローバル・ビジネス・センターに120ヵ国5500社が群がり、新規参入は2年待ち、最近6年は20%成長を続け、年間500万の観光客ではハワイと並び、国営エミレイツ航空は直行便57カ国84路線。遂に05年GDPで石油収入は6%を実現した。

ショッピング・モールに礼拝室はあるが、イスラム国の休日=木金をビジネスに合わせ金土に変更、1日5回の礼拝もビジネス優先。女子経営者も出て、大学生は半分女性。国の発展=経済成長がイスラムの規制の変化を容認させている。(NHKドキュメンタリー)

イラクの政情が安定せず、イランは核開発で国連を悩ませ、イスラエルとヒズボラがレバノンで交えた戦火は辛うじて収まったが、イスラム対イスラエル、イスラム過激派対米国、さらにイスラム宗派間の対立など、この地域に行方が未通し難い中で、安定勢力としてのトルコの役割は大きい。いち早く脱イスラム=世俗国家を目指したトルコは、西欧への労働者供給で稼ぎ、周辺国に対しほどほどの経済成長を示している。資源に乏しい農業国であるが、最近、バクー(アジェルバイジャン)・トビリシ(グルジア)・ジェイハン(地中海に面するトルコ)を結ぶ石油パイプラインが完成し、西側に向かって経済的関係を深めることになった。石油を産しないトルコが、石油の輸送に関わることになった。ドバイは広さでは奈良県、人口は120万の小国だが、オスマンの血を引く大国トルコが、ドバイの知恵に学んで人間開発と経済発展でイスラムの桎梏を脱し、中東の模範国となる日はいつであろうか。                          おわり