わが読書遍歴―学生時代―ドストエフスキーと丸山真男

      2005 3.16−27   木下秀人

 昭和26年大学に入って、駒場寮の部室は政治経済研究会を割り当てられた。希望調査で選んだ中に社会科学研究会もあったと記憶する。田舎育ちで米ソ対立くらいは知っていたが、その前年全学連のレッドパージ反対ストが駒場でもあり、駒場寮における部室には政治色があり、政経研はスト反対をリードしたグループとは意外であった。

この年の4月、朝鮮戦争をめぐってマッカーサーの解任があり、9月、サンフランシスコで講和条約の調印が行われたが、日本共産党は前年、ソ連に野坂平和路線を批判され、その対応をめぐって徳田主流派と宮本国際派が主導権争い、10月、社会党は講和条約の賛否で左派と右派に分裂という政治の季節であった。

残念ながら当時の小生には、その種の問題を判断する基準の持ち合わせがなかった。中学時代に教師から、「お前には大事な釘が一本抜けている」と面罵されたことがあった。直接思い当たる節はなかったが、小生には村から来た来客が、ご丁寧な挨拶を長々と繰り返すのを無駄と思う心性があった。もっと合理的なやり方がないのか。しかし高校時代の社会科で「自由と平等」というテーマは相互に矛盾するという事実を教師から指摘され感心する程度で、宗教や哲学は教科になかった。英語の学習で主語と述語を習い、幾何の証明で三段論法を使う程度であった。

 駒場の講義は必ずしも小生の問題意識に触れなかったが、先生の話し方が論理的なことと必ず学説史から説きだされることに「大学」を感じた。幾何と英語で多少論理になじみがあったが、当時の、古い日本は封建的と拒否する風潮のもと、世間知らずなのに世間の風になじみたがらない小生は、人付き合いが苦手なのはなぜか、という個人的問題を抱えていた。後に検見川寮で、1年上の野間口さんに書斎派とすぐ見破られたように、解決は本に頼るしかなかった。

その頃読んだ本で啓発されたのは、カレン・ホルネイの「精神分析の新しい道」、清水幾太郎の「社会心理学」、そしてそれに引用されていたエールリッヒ・フロムの「自由からの逃走」であった。文芸評論では、伊藤整の新聞小説「花ひらく」にひかれて「小説の方法」。これは面白かった。ある程度本は読んでいたので作者とその周辺状況による作品分析に共感できた。関心の赴くままの本探しで、福田恒存の「西欧作家論」でチェーホフを知り、吉田健一の「英国の文学」でフォースターを教えられた。小林秀雄は「無常ということ」でやっと感心した。

2007イスラム研究の余波で、井筒俊彦「ロシア的人間」にめぐり合った。並みいるドストエフスキー研究で感心したのは森有正の「ドストエフスキー覚書」だったが、井筒さんにはロシア語で読んでいる凄さがある。20カ国の言葉に通じていたというこの碩学に、もっと早く会っていればと惜しまれる。

検見川に移ってから、大学に近いYMCAの寮に申し込んだことがある。親戚で入っている人が、キリスト教とのかかわりの小論文が必要というので、森有正の「立ち去る者」という、原口統三の「二十歳のエチュード」に付した文章に惹かれ、森有正の「近代精神とキリスト教」などの感想を書いたが、「信者ではない」と書いたのでは不許可は当然だった。渡辺一夫がそうだったように、パスカルの「賭け」には同意できなかった。

 千葉の検見川寮の談話室に転がっていた雑誌で、竹山道雄の「大審問官」の紹介を読み、ドストエフスキーにのめりこんだ。カラマーゾフ、悪霊、地下室の手記。ドストエフスキーの評論では、シェストフや森有正の「覚書」に感心したが、小林秀雄はつまらなかった。

院生の韓国出身の鄭さんに丸山真男を教えられ、東洋政治思想史を受講できたのは幸運だった。その年度だけで入院だったから。「日本政治思想研究」はまだ出版されてない頃で、論文を読んだこともなく盛名を知らなかったが、この講義はわが赤門時代のみならずその後の読書生活の道しるべとなった。

東洋政治思想史といっても論語も仏教も知らないので、その後、吉川幸次郎に導かれて儒教に入門し、仏教については中村元の「東洋人の思惟方法」という名著にめぐりあうことができた。日本仏教や神道でも読むべきものは山のようにあり、その後の読書生活の支えとなった。

 

父親は高校2年の12月亡くなり、母親は卒業の年の2月に亡くなった。幸い育英会の奨学金と大学の授業料免除があり、アルバイトで卒業までこぎつけたが、孤軍奮闘にいささか疲れたので、就職することにした。昭和30年、55年体制の始まった年である。

就職試験で、「輸出で食わねばならない日本は、売れるものを作らねばならないからメーカーを選ぶ。政治安定のために、社会党の合同に賛成」としゃべった記憶がある。二ヶ月の集合教育で電線工場を経験、首切りで坊主頭になった総務部長や若い人と話すのが好きな工場長がおられた。トースカン作りの実習で、旋盤やフライス盤を体験した。

希望して工場に配属され、4年茨城にいた。休日に若い夫婦たちが硬式テニスに興じているのに感心した。コーラスグループに入って、混声でコンクールに出たり、男声合唱に参加して楽しかった。

作っている洗濯機はまだ攪拌式で三洋の噴流式が出始めた頃、冷蔵庫はまだ、テレビは放送開始したばかり、家庭電化時代が始まっていた。しかし工場はまだ数百台のロット生産で、下請け部品が間に合わなくてラインストップが頻発の状態だったが、トランスファーマシーンという、モーターのエンドブラケットのいくつかの工程を1台で自動的にこなす機械が最先端で、オートメーションという言葉に向かって手探りの設備増設が行われていた。作れば売れる時代だった。

工場の図書室にいわゆる経営関係の本が集められていて、ウヮークファクター分析やホーソン・エクスペリメントなどの米国の古典は翻訳で読んだ。まだドラッカーは訳されてなくて、原本もなかった。

 

大学は法学部だったが、法律の勉強には身が入らなかった。当時の法学部は官僚養成の解釈法学全盛で、アメリカ流の立法論を柱とする法社会学は少数派であった。2006「丸山真男回顧談」で丸山さんなどが法学部改革に取り組み実現しなかったことを知り、いささか慰められた。世間の現実が身についていなかった小生には、法システムの理解は興味の外であった。

経済の勉強は卒業後で、一ツ橋の先生方の統計研究、篠原美代平の成長循環論、高橋亀吉の綿密な経済史研究によって、日本経済の高度成長が明治以来であることを教えられた。 

社会思想では、竹内好の「日本イデオロギー」で共産党分裂の思想的問題点を知り、猪木正道の「共産主義の系譜」でマルクシズムや共産主義の歴史を教えられ、信ずるには問題がありすぎることを知った。臼井吉見の常識に親しみ、ロナルド・ドーアや加藤周一の比較文明論に感銘した。

駒場で中屋健一の米国史を受講し、「米西戦争の原因について」のレポートで、日比谷のCIE図書館に通ったのが、その後の米国研究の原点となった。マイヤーの「米国財閥史」、バーリとミーンズの近代格式会社と私有財産論やドラッカーの著作は、米国経済の現実と理想を教えてくれた。

思想史では朝永三十郎の「近世における我の自覚史」、シュヴェーグラーの哲学史、森有正を手がかりに、デカルト、パスカル、カントを読み、やがて西田幾多郎に惹かれるようになった。

 詩については、妹の教科書で見つけた三好達治の「いしのうへ」の叙情に衝撃を受け、戦後では鮎川信夫に感心した。島崎藤村や佐藤春夫は中学の教科書で習い、いくつかは記憶にとどめた。和歌は百人一首で覚えたが、高校で万葉集をガリ版で教えてくれた伊藤祐代先生がおり、検見川で相馬さんに別れ際にもらった斉藤茂吉集で特異な個性を知った。子規の「仰臥漫録」「病床六尺」などは父の蔵書で読み、萩原朔太郎の「郷愁の詩人与謝蕪村」で俳句に感じ芭蕉や蕪村に親しんだ。蕪村を通じて南画の世界にも目が開かれた。

 父が菊池寛や芥川などと同世代だったので、菊池寛の短編や随筆、久米正雄の「学生時代」は愛読した。改造社や春陽堂の文学全集の端本があって、明治大正の作家の大概は読むことができた。

 就職してからも本は読み続けた。田舎の工場の生産活動や本社の権力闘争を体験し、経済社会の実体を垣間見ることができた。工場生活4年で本社に転勤し社長室勤めとなり、転換社債発行で米国を初体験できた。会社は倉田会長駒井社長の日立グループ全盛時代だった。その間安保改定に絡む政治の季節があった。自民党一党支配下で日本経済は高度成長を実現し、明治以来の夢であった先進国の仲間入りを遂げ、有沢博己のいう二重構造を克服し、対米格差も解消した。その間1970年代に、ニクソンショックという戦後通貨制度の改定という、今日に至る金融自由化の原点というべき事件があった。続いて先進国のオイル価格決定に対する産油国の反乱というべきオイルショックがあった。それらの歴史的事件を、産業界の現場において体験観察できたのは有難いことであった。

 1972中央研究所に3年いて1975本社教育担当となり、1983日本サーボに転属しブラックマンデーにあった。1988東京証券代行に移ってバブルの絶頂からの金融市場の崩壊と再建を体験した。

199944年の会社生活を終えた。少し前から自宅でワープロを使って文章を作り始めていた。ワープロがパソコンに変わってインターネットに加入し、2002年にホームページを立ち上げ、毎年いくつかの論文を掲載するようになった。既に4年続いている。退屈しないで毎日が過ごせるのは有り難いことである。        おわり 

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