イスタンブールとトルコ、「エーゲ海沿岸歴史の旅」雑観―073.254.1            

                 2007.4.10―12.30  木下秀人

  トルコに行きたいと思っていたところ、ギリシャ古代史専門の川島重成教授の旅行案内があって、早速参加した。教授のギリシャ旅行に昔家内が参加した縁で、案内は来ていたがトルコは初めてだった。総勢27人、見学の主体はヨハネ黙示録に出てくる七つの教会を含む古代ギリシャとローマの都市遺跡めぐりであった。事前の勉強会で教授から歴史的背景の説明があり、バスの中や現地で教授と現地のガイド、メフメット・アブラハム・ウザンさんの懇切な解説があって、いわゆる買物ツアーとは異なる充実した歴史研究が出来た。

 忘れないうちに記録と感想をしるす。 

@       ギリシャは都市国家で、地中海沿岸に発展し植民都市を各地に建設した。その後ペルシャ、アレクサンダーの侵攻があり、ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国、トルコ共和国と受け継がれた植民都市の繁栄を確認できた。

A       トルコの観光地では中国やインドで見られた物乞いや押し売りが殆ど見られなかった。国土は日本の2倍、人口は半分、気候は温和で農産物海産物が豊か。フォーブスの06年調査によれば、10億ドル以上の金持ちが26人と日本の27人と引けを取らない。立派な別荘を海辺に持つ金持ちがいて貧富の格差は大きいが、イスラムの福祉システムが効いているのではないか。

B       石造りの古代遺跡は殆どが土砂に埋まって近代に発掘されたが、なぜ埋まってしまったのか。なだらかな山の木が切りつくされ、牧畜で食い尽くされて土石流が頻発したからであろう。牧畜文化の負の側面である。

C       初期キリスト教の研究が進んで、イエスに従ってそれを宗教に纏めたのがパウロといわれるが、この地がそのパウロの活躍した舞台。かなり明らかになっている仏教と対比しどう理解すべきか。

D       第1次世界大戦にドイツについて敗れ、西欧によるオスマン帝国の分離解体に為すところない旧政府に対し、英・仏・伊・希の侵入軍との独立戦争を勝ち抜いたのがケマル・パシャ=アタチュルクであった。成立した近代トルコがまず支援を仰いだのはソ連だった。第2時大戦では中立、終戦間近に日本に宣戦、戦後は冷戦下米国側につき援助獲得、NATOに加盟、イスラエルも承認した。大多数国民はイスラムだがアラブ民族ではないからアラブ連盟加盟国ではない。しかもレバノンとともに世俗主義を国是とするイスラム世界の少数派。イスラム諸国会議機構には当初から加盟している。最近イスラム主義政党が政権を握り、軍は世俗主義支持でイスラム主義の大統領選任には介入指向あり、動向が注目される。

E       オスマン帝国は他宗教・他民族に寛容で、旧来の文化を担うギリシャ人ペルシャ人ユダヤ人がトルコ人の下で知識人として重く用いられた。ギリシャが独立しトルコと分離に伴い、ギリシャ人とトルコ人の交換が行われたが、ギリシャ人は外務省で翻訳方の主力だったし商工業を牛耳ってもいた。トルコ人は農牧畜業だったから、穴を埋めるのに時間がかかり経済発展に影響した。ギリシャ植民都市がビザンティンになりトルコになったが、共存していたのに偏狭な民族国家思想で分離された。

F       飲み水だけはペットボトルだったが、食べ物について味でも衛生面でもの問題はなかった。ホテルで正式な食事は取らなかったので、帰国後知ったオスマン流宮廷料理を味わうことはなかった。

G       どこに行っても国旗がたくさん掲げられて、若いナショナリズムを感じた。インドや中国や韓国ではこんなに多くはなかったと思う。

 

初日に風邪を引いた。熱はなく歩くのは平気だったが声がしゃがれ、目が出血で赤くなり視力に影響はなかったが見苦しく、親切な鈴木さんに目薬をもらったりした。風邪は帰国後に治り、白目の出血も数日後に吸収された。

 

 325日成田発13.50トルコ航空でイスタンブールに同日20.00着。時差6時間、偏西風に逆らうから実質12時間かかったことになる。機中食事2回、2回目は軽くしホテル夕食に備える。バスはトルコで作った三菱製品。電機街あり、本屋街あり、デパートはなくて、専門店が発達している由。ホテルはタクシム広場に面したマルマラホテル。

 

 26日、午前、イスタンブール市内見学。ローマ時代の競技場跡の公園にエジプトのオベリスクやギリシャのペルシャへの勝利記念という蛇のオベリスクがある。

トプカピ宮殿、海に面した高台にある。スルタンが集めた財宝の数々が昔の部屋に展示してあるが、多すぎて記憶に残らない。見所が多すぎハーレムは見なかった。

昼食は宮殿内のレストランで満員。輪袈裟をかけた坊さんと見えたのはボーイ長だった。

地下宮殿とて地下の貯水池、ブルーモスクを見る。大きさに感心。

午後、ボスフォラス海峡クルーズ。富江君、バルチック海の大型船を予想していたのに小さな船の貸切だったのに苦笑。気候は日本並みだが、風が冷たい。日本が作ったつり橋まで行って引き返す。山側に金持ちの別荘が建ち、格差は激しいという。

夕方、ギリシャ正教主教座教会を見る。1453年ビザンチンがオスマンに敗れて、アヤソフィアがモスクに改装され、ロシアが東方教会の保護者を称したが、イスタンブールにも教会は続いていた。小さな会堂だが誰かの寄付で立派な宿泊施設があった。

グランバザールでトルコ石のネックレスを買う。石の色が透明、川島教授の推奨による。クルーズで風が寒く、帽子を飛ばしおまけに風邪を引いた気配、持参の薬を飲む。

夕食は途中のレストラン。当地合弁のピルゼンビールを飲む。

 

 27日、国内航空線でエーゲ海地方最大・トルコ第3の都市イズミール着。三菱の真新しいバスで市内の古代アゴラ=市場・商店街跡を見る。岡のふもとに石柱などが立ち並び、アゴラ=商店街や列柱廊=ストア=集会場だったという。哲学のストア学派という名称はこれに発するという。まだ発掘整備中であった。

繁華街を抜け、きれいに整備された海浜を散歩、パン売りや水売りが屋台を担いで近づくが売り声も出さない。騎馬警官が二人で巡回していた。

昼食は閑散たる海浜のレストランですませ、古代リディアの都サルデスに行く。

サルデス=古代リディアの都、アルテミス神殿など。リディアは前7-6世紀アナトリア西部で栄え、ギリシャ人植民都市は税金を払って自治権を得ていたが、クロエソス王が546年ペルシャのキュロス王に敗れ首都サルデスも陥落、「ペルシャ人が来た時」が当時のギリシャ人の時代の分かれ目となったという。

フィラデルフィアには黙示録の7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオディキア)の一つがあり、小さな町の中に大きな柱のあとがあり、そばに小さな教会があった。

夕方、パムッカレ泊まり。小さなホテルは日本人ばかり、ここからバスで6時間かけてカッパドキヤ行きがコースという。ホテルのレストランは満員。ピルゼンビール。

 

 28日、午前、ヒエラポリス=ヘレニズム時代の墓地遺跡。緩やかな山麓に広大な墓石群。外れに神殿あり、その片隅に黙示録のラオディキア教会遺跡あり。

昼食は路傍の店で済ませ、午後、コロッサエ遺跡。新約のコロサイ人へのパウロ書簡に出てくるが、パウロはここには来なかった。広々した野原に小さな丘があり、その斜面に古代神殿・劇場・競技場・住居跡がある。アレクサンダーが泊まった跡あり。遺跡の中を羊たちが草を食みながら少年に連れられて通りすぎた。

この神殿・劇場・競技場がギリシャ古代都市の3点セットで、どの都市遺跡でも見られた。神殿の片隅がキリスト教会になっていたり、競技場がローマ時代に闘技場に変えられたりはしていたが。

夕方、クシャダス泊まり。ホテルは海に面した岡のふもとにあり。ホテルで夕食。

 

29日、午前、プリエネ=イオニア人が前1000年頃に築いた古代都市。町の外れの岡の斜面に古代アテネ神殿・劇場・競技場・アゴラ=商店街・住居がある。昔は海に面していたが川が運ぶ土砂で埋まり、今はかなたの海まで畑が続く。

ミレトス。イオニア人都市国家の中心で、古代哲学者ターレスなどギリシャ自然哲学発祥の地。ペルシャ戦争後の前5世紀前半にサルデスに代わる中心都市として建設された。プリエネ同様、都市計画による3セットあり。前334アレクサンダーが宿った所が残されているが、遊山ではない。陥落したこの町は徹底した破壊と大量殺人にあったはず(VD.ハンセン、古代ギリシャの戦い、2003東洋書林)。立ち直って繁栄したのはローマ時代の1-3世紀。当時海に突き出た半島の先にあったが、メンデレス川の土砂で埋まり港の機能が失われ衰退した。港の入口にあった獅子頭が土砂に埋まって辛うじて位置だけ確認できる。

昼食は途中の海に面したレストラン。いわしの揚げ物がうまかった。

午後、ディデュマ=古代信託のデルフォイと並ぶメッカ。アポロン神殿が立派。

夕方、クシャダス泊まり。ホテルで夕食。レストランで水を補給しようとしたがだめ。

 

 30日、午前、エフェソス=トルコの古代ローマ最大都市遺跡、哲学者ヘラクレイトスの生まれたところ、使徒パウロ小アジア伝道の拠点。25千人収容の大劇場・ケルスス図書館・ハドリアヌス神殿など。図書館は1万冊を蔵しアレクサンドリアと並び称されたが263年ゴート人により焼失。エジプトがパピルスの輸出を禁止したので羊皮紙の巻物が使われた。桜のような花木ありオリアンターとて、ユダが首をつった木という。

午後、飛行機でイスタンブールに戻り、なめし皮屋で最新デザインの服・コートを見る。10数万円で3人購入。ついでじゅうたん屋に寄り28万円でイスラム天国風景の飾りじゅうたんを購入。食堂近くのバザールで土産にお菓子を買う。

 

31日、予報通り少雨、昔の修道院で残ったビザンティンモザイク画で有名なカーリエ博物館を見る。小さな教会で、聖書外伝でキリスト死後のマリアを保護したヨハネなどという絵があり、さすがに初期キリスト教を伝えるビザンティンである。みやげ物店で解説や絵葉書、物入れなどを買う。昔は荒れていて今は整備したというが、崩れそうな木造の家に人が住んでいる気配あり、窓に花が飾ってあった。

アヤソフィア、アタチュルクによって考古学博物館となったという。さすがに大きい。入り口で並んだ中学生たちに「こんにちは」と声をかけられる。例によってニコニコして愛らしい。中はNHKで見たモザイク画、装飾体のアラビア文字やステインドグラスが色鮮やか。石を積み上げ漆喰で固めた壁はセメントのよう。ゆるい斜面で上って行く。イコンは十字軍による破壊のあとのものという。併設の考古学博物館に、ビザンティン陥落時に海峡封鎖に使って役立たなかった鎖があった。売店でトルコ音楽のCD、現代ものと宮廷ものを買う。

昼食、初日夕食をしたレストランで大きなサンドイッチ、とても食べきれず。

1730、トルコ航空でイスタンブールを離陸。

 

41日成田10時着。夕食と朝食は機内で済ませた。空港で解散、荷物を送っているうちに仲間と別れ、2時前に帰宅。

 

川島先生がギリシャ学者で、イスラムに詳しくなかった点はあるが、古代ギリシャの植民都市をまわり、パウロの時代のキリスト教の遺跡、トルコのイスラム遺跡をまわり、中国ともインドとも異なる現代トルコを体験できた。

EU加盟を拒否されたトルコでは、イスラム主義の政党が政権を握り、大統領にもイスラム主義者が就任した。アタチュルク以来の世俗主義を貫きたい軍部の抵抗は無視され、しかし軋轢を生むようなイスラム主義への傾斜は避けられている。

問題はクルド民族主義で、国内のテロの根源がイラク領内のクルド急進派にありと、イラク国境に軍を展開し国境を越えての攻撃を否定せず、埋蔵する石油利権がクルドに支配されるのを好まない米国との関係は微妙である。

クルド民族は、オスマン帝国崩壊後1920セーブル条約で独立前提の自治を約束されたが、1923ローザンヌ条約では踏みにじられ、1946マハーバード共和国を宣言した1年足らずで崩壊。イライラ戦争で蜂起したが米国の裏切りでつぶされ、しかし国際世論の支持を得て、難民が終結した北方地域に1992イラク・クルディスタン自治政府が発足した。イラク戦争後のイラクで大統領はクルド人となり、居住地域は憲法により連邦地域として認められ、その地域にない油田を擁するキルクークを含めるか否かが問題。しかもこの地域は今やイラクで最も治安が安定し開発が盛んな地域。クルド民族独立の悲願がかけられている。

クルド民族は,クルディスタンと称されるトルコ、シリア、イラク、イランにまたがる山岳地帯に3千万人が存在している。中核はイラクにあるが、他国の領域を侵さず、トルコにおけるテロも押さえて、無事悲願達成を迎えられるだろうか。今のところ状況は足踏みしているが、どうなるであろうか。イラクの米軍撤退、イランの核開発、アフガンの政情不安、パキスタンのブット暗殺後のムシャラク政権の行方など、中東にからむ問題は尽きない。

                           おわり

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