杉山二郎先生と行く インド仏教美術探訪の旅 07.11.8−12、20 

     木下秀人

 杉山二郎先生は仏教思想・美術史の大家、家内が学校時代の友人の勧めで荻窪の講座に通っていて、小生は昨年、佐渡島への旅行の末席に連なった。若い頃から啓蒙活動に熱心で各地に人脈を蓄え人気ある学者。1928年生まれだから80歳になるが、お元気で足早、小柄の痩身をサハリスタイルとソフト帽で決めて、坂の上り下りも苦にせず、誰にもさんづけで呼びかけ笑顔を絶やさず、言葉もよどみなく、折節に歴史を語ってうまない。

 北千住の教室からインド旅行の話が出て、10人くらいの予定が瞬く間に増えて、結局23人参加、成田からムンバイ、オーランガバードに飛び、エローラ、アジャンタ、サンチー、アグラ、デリーをめぐる1週間の旅となった。

 

118() デリー経由ムンバイへ 

成田空港10時集合、東小金井―お茶の水−錦糸町―船橋―京成舟橋―成田参道―空港第2ビルに9時半到着=1500円。荷物を受け取り、窓口で旅券なども自分で受け取って、添乗するBS観光水野氏に会う。氏はインド旅行の専門家でわれら夫婦は2年前佛跡めぐりで世話になり、この旅行話で幹事の山名氏に家内が専門旅行社として推薦した。

纏め役だった山名夫妻は事情あって来られなかったが、現地合流1名を含めて総勢23名の大人数は予想を上回るもので、杉山人気を裏付けるものだった。

成田1200発、デリー立寄り1時間半を経て、ムンバイ21.15着は日本時間では24.45、隣の席の山田さんは山名さんに代わる杉山先生の面倒見役と富江君から聞いている人で少しインドやイスラムの話をした。空港で荷物が行方不明で2時間空費、コヒノール・コンチネンタルホテル着は現地時間の12時半、しかも部屋へのトランク誤配達があり、就眠はさらに遅れた。翌日は4時起床5時半出発の強行日程で、ゆっくり寝る時間はなかった。

 

119日(金)オーランガバードで、エローラ、ピタルコット

4.45ホテルで朝食は日本時間8.15だが胃腸はどう対応したか、とにかく5.30ホテル発、ムンバイ空港発7.158.00オーランガバード空港着。ムンバイまでのインド航空=国営に比し国内航空=民営は機体もスチュアデスもきれい、食事もスマートで、差は歴然であった。隣席の東後さんから奈良の吉祥会が杉山先生若き日に奈良博勤務時代に、浄瑠璃寺の仏像は池に写して見るべき事を発見し、それが縁で「吉祥会」が発足し秋の月見の会は50年続いているという。

小さい空港は庭園のように整備されていた。ひとまずタージレジデンシーホテルに荷物を置きに走る。土地が広いから家の敷地が広く家が隣接せず間に樹木があって日本のような街には遠い。現地ガイド=ジマール氏はデリー大学卒、日本語ぺらぺらで若い、オーランガバード専門のカン氏はやや年配、日本語で@この町はムガール帝国6代目のアウラングゼーブ16581707(アグラのタージマハールを作った王の子で、王を幽閉した人物)が治世の後期に作った町、A現在人口150万、マハーラシュトラ州の州都。Bインドの70%はヒンドゥー教徒、30%イスラム、1.5%新仏教でその大学が近くにあった。ヒンドゥーは赤、イスラムは緑、新仏教は青、シークは黄色という。C農業、金持ちは井戸を掘って灌漑できるが、貧乏人は雨頼り。ここデカン高原は雨季と乾季があり今は乾季、川辺の葦のように見えるサトウキビ、白いワタがのぞいている綿、実の房が枯れて見えるトウキビなどが主作物という。1昨年ビハール州で見たような広い麦畑はなく、働いている農民を良く見かける。草地で放牧されている肥った牛を見かける。古い城跡のような山が時々見える。山というか丘というか、木がまばらにあるが乾季だから土が露出している。

1持間ほどでエローラ洞窟着。大地からせり出した巨大な岩塊に、槌とのみだけで仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の34個の石窟寺院が彫り出され並んでいる。仏教関係の幾つかを見る。エローラという名だがエロチックな造形はなく、仁王に相当する左右の守護神に陰部を刻んだ豊満なヤクシー女神が立っているが、それは艶めかしい生命の力で悪魔を追い払っている=裸女は果樹と共に豊穣の象徴、またヒンドゥー彫刻の愛欲の姿は神に通じる歓喜の象徴というのが杉山先生の解説。インドではヤクシャ=男神、ヤクシー=女神が守護神だったが、西域でヤクシャのみとなり、ペルシャの鎧や武器をつけて四天王となったという。

この洞窟は仏教が57世紀、ヒンドゥーは610世紀、ジャイナ教は912世紀に作られ、各宗教共存、仏教は大乗仏教で住居と講堂を備えている。明日見るアジャンタはここより600年古いという。大乗仏教は西アジア・ギリシャ・ローマの影響を受けてでき、仏像にガンダーラの影響も認められる。また釈迦は民衆語であるパーリ語で教えを説いたが、大乗になって支配階級の言語である印欧語=サンスクリットが用いられるようになり、民衆から離れる1因となったのではないかという。

釈迦が説いたのは実践倫理、80歳でなくなったというが4進法で80は数が多いこと。アショカ王が釈迦の遺骨を集め、8万4千に分けて舎利塔を建てたというのも同じ。

例によって物売りがいる。

続いてエローラの北西にあり、あまり観光客は行かないというピタルコット石窟寺院に向かう。のどかな田園、小さな村落を幾つか過ぎ、道はやがて深い渓谷に至る。居るのはわれらだけ、渓谷を数十メートル降りるコンクリートの階段があり、手すりに沿ってゆっくり下る。川には少し水が流れ洞窟が見える。13窟あり、若き杉山先生がここで蜂に襲われたというが、岩の上にスズメバチの巣がいくつも見えサルもいる。デカン高原の洞窟に今でも盗賊団が住んで居てそこから国会議員になった女性で居た話を実感する。

明日がヒンドゥーの「デーワリー祭」に当るとて帰りの道中は真っ暗で、村落に電飾が飾られ、人が集まり花火の音が聞こえた。飛行機が着陸する時小さな明かりが幾つか所々に見え、道路を照らすのでも誘導灯でもなさそうだったが、村落のあちこちの電柱に光る裸電灯がそれとわかる。区画の大きなオーランガバードの町には、繁華街といったものは見当たらないが、ホテルの夕食は庭で、町で上げる少し大型のものにホテルの素朴な花火を添え、ヒンドゥーの夜を味わった。

 

1110日(土)アジャンタ

朝食後バスで2時間15分、河がえぐった巨大な峡谷に数十メートル下りる。観光基地として大きなホテルらしきもの建設中。近くに古いホテルがあり、そこが手洗い休憩の場所であり、戻って昼食の場所となった。それ以外は施設らしきものなく、しばらく進んで電気自動車に乗り換える所あり、そこに売店が並んでいる。杉山先生が昔来た時は何もなくて空港からタクシーで来たが、殆ど誰も居なかった由。今はバスが群れ、インド人外国人を電機自動車が数分で終点まで運んでいる。そこからが上り坂で、足弱な人のために4人がかりの駕籠があり、年配者が乗る。後で聞くと上がったり下がったりで景色を見るどころでなかった由。階段は整備されていて狭いところもあるが、手すりがあったりして危険はない。今は道が各石窟を結んでいるが、昔はそれぞれ川から上らねばならなかった。石窟があるのは両側が迫った深い峡谷の湾曲部で、道から数十メートル下のワゴラ川に水が流れているのが見える。1819年虎狩をしていた英国人が、逃げ込んだ虎を追って発見したという。今見ると、虎がすんでいるような密林はなく、潅木がまばらに生えて地面を覆っているだけ。野生のサルがなれて観光客の菓子を食べる。

アジャンタの洞窟は、エローラより600年早く、紀元前200年から紀元後650年(岩波仏教辞典には、紀元前1世紀−9世紀とあるが、歴史記述に乏しいこの国では確定しがたい)にわたって彫られ描かれたらしい。30窟のうち5窟が仏像を祀った講堂、残りは僧房、未完成もある。始めはアショカ王の時代と重なる。なお、敦煌の始まりが366年、中国大同の石窟が5世紀、奈良の大仏は7479年である。

杉山先生、観光客にインド人の姿が多いのに感心する。数年後に来れば、インドの経済発展の恩恵を受け、立派な施設が出来上がり今よりも更に賑わっていることだろう。

帰り、ホテル近くのみやげ物店で買い物、アジャンタとエローラの解説写真集と絵葉書、白檀の仏像、綿織物など。

 

1112日(日)ブサバルからボパールへ寝台列車、サンチー

午前1時起床、2時バスに乗りブサバル駅に向かって出発。625分ブサバル駅で寝台車に乗る。トランクは席の下に入れ、寝ているインド人を追い出した後に乗務員枕とシーツを持参、向かい合わせ上下4人、通路に沿って2段計6人の寝台で眠りを補う。駅に改札口がなく無賃乗車は不可能ではないという。朝食はホテルの弁当だがバナナ、パンと野菜サラダ。1415分ボパール駅。ボパール駅では混雑するのでその前の駅で降りるべきなのを発車寸前に知り、数人は動き出した列車からあわてて降りる。幸い誰も怪我せず、荷物も忘れずすんだ。デリーからの迎えのバスが遅れて間に合わず、急調達のバスで1時間半、サンチー近くのホテルに到着。ここは昔の小さい宿を増築したという。バスはなくシャワー、林の中のロッジという感じ。一休みしてサンチーのストゥーパ見学。

サンチーのストゥーパ、インドの初めて統一したマウリア朝3代のアショカ王前268232は、即位8年後のカリンガ征服で生じた悲惨な結果を悔やみ、仏教に帰依し、武力による征服から法による征服へと政策を転換した。すべての宗教を保護したが、とりわけ仏教には、仏舎利を分配し84千塔を建立したと伝えられる。法勅を刻んだ石柱が各地に立てられ、その柱頭の獅子がインドの国章となっている。このストゥーパはアショカ王が前21世紀に建てたもの。仏伝や本生譚を刻んだ塔門と付随する立派な欄楯が四方にあり、半球形に積み上げた塔の中には何も入っていないという。頂上に3個の円盤=傘蓋が串刺し状にある。日本の仏塔の上の伏鉢・宝珠・相輪にあたる。以後このストゥーパは信者の寄進によって守られ、遠方から巡礼にきた信者は、欄楯に描かれた仏伝や本生譚の絵解きによって釈迦の有難い生涯を教えられたのではないかという。

しかしこのストゥーパは、1203年イスラム軍によるヴィクラマシラー寺院やナーランダー寺院の破壊以後の仏教衰滅により支持者を失い、人々の記憶から失われ、塔柱や欄楯は倒れ樹木に覆われ埋もれていたのを、英国人が発掘再建した。われら以外に人少なく丁度夕暮れ時で、沈む夕日を眺める。

仏教がインドから消えた原因については、@ 土着宗教であるヒンドゥーが釈迦をヴィシュヌ神の9番目の化身とするなど仏教を吸収する教義を整え、仏教側も密教化でヒンドゥー思想を取り入れた、A 出家中心の教団組織が信者の支えを失って崩壊した、B 新たにインドに進出したイスラム教は仏教と同様に平等思想で、ヒンドゥーへの対抗思想という仏教の社会的役割を代替した、などの説がある。

長く失われていた仏教がインドで復活するのは、インド独立後の制憲議会において憲法起草者だった不可触民出身のアンベードカル18911956が、19561014日マハーラシュトラ州ナグプールで30万の支持者と共に仏教に改宗してからである。彼の死後も「新仏教」は信者を増やし今や1.5%というが、例えば北部ビハール州の釈迦がらみの仏教遺跡にはヒンズー教徒の支配が多い。2年前行った時、インドの仏教徒の姿は見られず、お布施が強要され、ヒンドゥーの利権となっているのに驚いた。アンベードカルは不可触民のカースト=マハールの出身で、大人数の仏教改宗もカースト民の地位向上運動の一環で、本人が間もなく亡くなったこともあり、カーストを越えて広がるには至らず、仏教勢力はまだ少数派にとどまっているようだ。

 

1113日(月)ボパールから特急列車でアグラへ

ホテル近くの考古博物館でストゥーパ発掘、再建の写真、掘り出した遺物を見る。ボパールに近く、王様がこしらえたという諏訪湖の23倍はありそうな湖に出る。川が水を注いでいるわけでもない乾期に水をたたえていられるのは底が岩盤であるかららしい。

ボパールで現地参加の山形氏のJICAの事務所に立ち寄り母性と赤ちゃんの健康増進に関わっている話を聞き、藩王の別邸だったという崖上のレストランで中食、藩王が英国人との狩りで獲った大きな虎の剥製があった。

1240分ボパール発の特急列車に乗る。日本の新幹線並の32席だが、進行方向へ揃えないで中央で向き合う方式。高額料金なのか寝台車のように無賃乗車がなくて清潔、快速。車窓から見るデカン高原は荒地もあるが、見渡す限り潅木の生えた緩やかな平地、広く区画され農業機械が動く農地も連なり豊かさを感じる。2025分アグラ着、2年前泊まったホテル、ただし持ち主がタバコ会社に替わったホテルに入る。あの時はバスでずいぶん遅く21時頃着いたのを思い出す。

これからはあの時見てまわった場所の再見となる。

 

1114日(火)タージマハール、アグラ城、マトゥーラ、デリー

タージマハール、イスラムだから人物像はなく模様はすべて幾何学模様と植物模様。アラビア語で大きく美しく描いたコーランの飾り文字が読めないのは残念。大理石に色材を埋め込む手法はモスクに共通。帰りに手洗いに行った一人が行方不明となったが、知り合いの旅行業者からBSマークをつけた人をバス近くで見たとの電話あり無事解決。

アグラ城、前回は2月で修理中のところもあったが、すっかり修理は終わり庭に花が咲いている。天気のよさは同じ。ムガール帝国時代15261858にインドは繁栄したというが、杉山先生によれば、各地に割拠していた藩王をイスラムが纏めたのであって、藩王が割拠する体制は変わらないという。この近代西欧特に英国との対決を求められた時代に、英国の分割統治主義にもてあそばれ、各地藩王もムガール政府も、なすところなく植民地化されてしまった。藩をまとめるイスラムの統治は現地システム主義だったから、ヒンドゥー知識人が重用され、イスラムの不満を利用した英国により対立が加速され、独立に際してのパキスタン=イスラムの分離という悲劇の原因となった。

マトゥーラ、デリーへの途上、マトゥーラの博物館を見る。マトゥーラはイラン系クシャーナ朝3代のカニシカ王(12952説あり)の冬の宮殿があった町という。イラン系だからインドへの途中のガンダーラとの交流もありえた。仏像の成立に関し、ガンダーラがギリシャ・ローマの影響を受けているなら、マトゥーラの仏像にはインド伝統文化の色が濃いという。材質も顔立ちも毛髪の処理も衣類の描き方も異なり、美術史の論題らしい。杉山先生は、実践倫理を平易な民衆の言葉で説いた釈迦の死後、仏足跡や転法輪で抽象的に表現されていた釈迦の存在や思想が、やがてギリシャ・ローマ=人物像やペルシャ=ペルセポリスの石柱の影響、更に多神教のヒンドゥー思想の影響を受けて次第に造形化されたがそれはヒンドゥー化であり、教えは結集され深められて「教団」となり、上流階級=征服民族のことば=アーリア系のサンスクリットで説かれるようになり、結局インドでは仏教は民衆から離れてヒンドゥー世界に埋もれてしまったということらしい。インドから南伝・北伝した仏教はそれぞれの国で受け継がれ発展しているから、インドで仏教が失われた原因にヒンドゥーの影響を第1に挙げないわけにはいかない。

 

1115日(水) 戦死者記念門、国立博物館、クトゥブミナール、帰国

インド門、陸軍の新入兵が儀礼行進の練習をしていた。女兵士もいた。 

国立博物館、仏教関係に絞って足早に見てまわる。スタイン18621943発掘にからむ敦煌壁画の断片があり、持ち去られた原画の行方が案ぜられる。ここにこそ立派な仏像のカタログがあるとの期待は裏切られ、とてもそれと見えない小さな狭い部屋に、ピンと来ない印刷物ばかり、それもわれら集団の買い物で2人の従業員は大混乱。欲しいものはなく、あっても売り切れ、満足な買い物は出来ず、国営事業の非効率をインドで改めて認識する始末となった。

クトゥブミナール、インド最古の大モスクの塔、デリー・スルタン5王朝12061526の最初、奴隷王朝120690初代のアイバクが11938ヒンズーやジャイナの古材を使って建て始め、次のハルジー朝129013202代の1316に一応完成した。2本目の塔は未完成で終わった。5王朝はこの後、トゥグルク朝13201413、ザイイド朝141461、ローディー朝14511526と続き、始め4王朝はトルコ系、最後のローディー朝はアフガン系で、王はバードシャーと称した。この後はチムールの血を引くと称するムガール朝15261868に引き継がれ、やがて英国の植民地となる。

 昼食後、買い物、インド紅茶専門店で紅茶、杉山先生は昔どこかで、こんなおいしいお茶があったかと驚いたというが、そんなお茶はどれか判らない。インドのミルクは愛されている牛から頂くのだから、それが違うのではと小生がいう。中国茶でも色と味が日本茶と違っているが、紅茶にも同様の難しさがある。帰国して調べたが納得できる説明は見つからなかった。

2135分デリー発というのに、空港に18時に着き買い物をトランクに入れ、厳重でスローな出国検査を経て出国ロビーで1時間、ほぼ予定通り離陸して夕食は機内食。ウィスキーのオンザロックを頼むとたっぷり注いでくれ、氷と別のカップにもウィスキーを注いでくれた。

 

1115日(木)帰国、インド、中国、トルコ=国柄についての感想

帰りはデリーに寄らず偏西風にも乗り、予定通り日本時間158時に成田着。短い旅行だったが、早朝出発などかなりきつい日程が初期にあり、後半はやや疲れた。デリーへのバスの冷房が効きすぎて眠っている間に風邪を引き、最終日には下痢が始まってしまった。しかし高年齢者が多かったのに事故も大病もなく無事帰国できた。広いインドで中央を占めるデカン高原の仏教遺跡=エローラ、アジャンタ、サンチー、マトゥーラを周遊し、インド北部のビハール州と違った風土を体験できた。

途中どこかで杉山先生が富永仲基の「出定後語」に言及した。江戸時代に若死にした学者の比較文明論で、インドの佛教、中国の儒教、日本の神仏について、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」と抽象した。ヒンズーの多彩な神像は幻。先生はインドの精密な数学・論理学が、近代科学に発展しなかった理由に現実によって実証することの欠如を指摘した。(02年「朝鮮と日本―開国から併合まで」で、中国・朝鮮の知識人の実学への蔑視を指摘したことがある)。儒教の合理主義は文でわかりやすいが、日本の絞は分かりにくい。

現代仏教名著全集、隆文館の京土慈光氏は、論語の秦伯篇「直にして礼無きは絞」の引用と指摘し、「正直で礼にとらわれぬこと、直情径行を尊ぶ性質をいう」と注しているがピンと来ない。論語の解説を見ると、宮崎市定氏は「せまし」と訓じ「酷薄になる」と解説する、金谷治氏は「窮屈」と訳す、漢和辞典には「絞められて窮屈なさま」とある。褒めているのかけなしているのか、これもわかりにくい。杉山先生は「絞りきってエキスを出すこと」と解説した。外来文化・思想をそのまま適用せず、肌に合って使えるものを抽出し加工して採用する。漢字からかな文字を作り、科挙は敬遠し、仏教・道教は神道と習合させてしまった。パンがあればアンパンを作り、牛肉はすき焼き、豚肉からカツどんを作ってしまう応用の巧みさ。妥当な説というべきである。大先生方の説の分かりにくさは、その多様な受け入れ方の特徴を、簡潔に漢字一字で表現する無理に起因するというべきであろう。

この旅行で気になっていたのは、中国・インドの観光地には物売り・乞食が多く見られるのに、トルコには殆どいなかったこと。ギリシャにもいなかったという。ある人は貧しいからだといい、ある人はインドにはそれを許す余裕があるからという説を紹介した。日本がまだバブルから回復のめどが立っていない頃、失業者は働かせたらよいといった学者がいた。働かせるには賃金も払わねばならないし、働き方、働かせ方にも問題がある。インドの寝台車の窓の汚れが、大の男が拭いてもきれいにならないのに、日本の中年女子清掃部隊は短い時間で効率よい仕事をするのを思い出した。帰ってから朝日新聞「政教分離の国で―トルコから」という連載に、イスラムに基づく福祉が広く行われていることが紹介されている。近代トルコ見聞録2000長場紘に建国直後や最近、乞食の記事がある。現政権下での経済事情の好転も考慮するべきであろう。

トルコで祝日でもないのにあちこちに国旗が掲げられていたのを思い出した。これはインドでも中国でも見られない現象だった。第1次大戦後の西欧による分割消滅の危機を乗り越え建国し、国内に石油のような資源はなく、商工業を担っていたギリシャ・ユダヤ・アルメニア人は居なくなる、しかもイスラムによる旧勢力が排除できないという条件下での立国には、世俗国家を原則とする以上、愛国=ナショナリズムという新しい国柄が要請され、国旗はその象徴だったのではないか。また、中国で見かけたのはどこへ行っても進行中の道路工事であった。中国は社会主義だから土地は国有で簡単に接収できる。所有権を尊重し同意を得て改革しなければならないインドとでは、スピードの差が出るのはやむをえない。しかしそこにひずみがたまるとすれば、いつか爆発する危険性がある。社会主義の強権とスピード、手間と時間のかかる民主制という体制の違い。それにイスラムで世俗主義のトルコが加わる。いまや世界の発展を支えようという三つの国、それにかつてインドであったイスラムの隣国パキスタンの政情不安も含めて、今後が注目される。

                                以上

                              

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